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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

小説ネタなんですが…。柳沢慎吾主演で「一人相撲(ひとりすもう)」って時代小説をドラマ化したいです。

2021年04月23日 15時45分00秒 | 歴史の謎

江戸時代は、実に変わった商売があり、とびきり変な商売に「孝行息子」と言うのがありました。これは今で言う着ぐるみを着て歳をとった親の人形を背負って町中を歩いて「へーい!孝行息子で御座います!へーい!孝行息子で御座います!」と言っていると、幾らか貰えるのだそうです。
こんな中、「一人相撲(ひとりすもう)」は、当時ラジオもTVもカセット、ビデオが無い時代、形態模写は、唯一盛り上がれる動画だったのです。
時代劇では一回だけ話には出たのですが、江戸っ子の最大の楽しみは「勧進能」と「勧進相撲」で、両国の日除け地に舞台や土俵を設えて行いました。
勧進と冠が付くから、商人なら沢山寄進をしたり、士分では、位の高お武家が「砂かぶり」の場所を陣取れました。しかし多くの人は近くの家の天井や橋の上からの見物でした。
だから腕が良い「一人相撲(ひとりすもう)」は、夜昼無くお呼ばれが多く、また相撲の巡業興行にも付いて行ったり、東北など巡業が無さそうな所へ行ったりしていたそうです。
柳沢慎吾氏は、高校野球や警視庁24時なんかの一人芝居が持ちネタですが、実にあのテイストこそが「一人相撲(ひとりすもう)」の其れなのです。
江戸時代の相撲は熊本が本家で、そこで「初場所」が行われ、その後長崎で「長崎場所」が行われ、江戸へと向かいます。長崎では、7つの種類の鍋が出されて、其れを食べるのが力士の楽しみでもあったそうです。中でも一番人気だったのが鶏の出汁が基本の「しゃんこ鍋」で「ちゃんこ鍋」の語源の一つと言われています。
大名行列ではないですが、力士たちは、江戸への長い旅を歩いたのですが、大抵は大名の城や屋敷で歓迎を受けて相撲を力士同志でやったり力自慢の強度の人と取ったりしていたそうです。
柳沢慎吾は、あのまんまの役です。最初、恵まれない環境で生まれた彼は、それでも持ち前の形態模写の才能で、人を喜ばせることに生き甲斐を見出し、その後、独自の工夫で、「一人相撲(ひとりすもう)」の名人と呼ばれるようになりましたが、最期は巡業に付いていく途中で流行病で死ぬのですが、兎に角、当時の芸道の花形で、楽しい思い出を連れての死でした。
話の中では、柳沢慎吾氏が「はい!何年の、どの取り組みと参りましょうか?」と縁石のどまんなかで訪ねます。「宝永2年の雷電為右衛門と‎市野上浅右エ門の一番はどうだ!」「ヘイ!頂きました」と土俵入りから形態模写が始まり、「年号が変わっても負け無しの雷電為右衛門は、六尺三寸の巨体をのっしのっしと歩いてまいります。こんな風で御座います。」と言って、真似をすると「そうじゃそうじゃ!砂かぶりで見ていたから分かる、雷電為右衛門は、たしかにそうやった」と宴席の首座を座る大商人が手を叩いて笑うのです。
こんな感じで、昔の人が今も有る相撲をどう楽しみ、どの様な感慨で居たのか?を描けたらと思いますが、ちょっと書く量が多いので、二の足を踏んでいます。
取り敢えず、余計な話でした。