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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

将軍解説駄文

2024年03月14日 15時20分05秒 | 滅び行く糞チョン、ゴ...
将軍解説駄文

ネットフィリックスの将軍は、リメイクなどではなく、真田広之が根底からストーリーや映像の解釈を変えた、ほぼ新作と言ってよく、前作を知らない人より知っている人の方が衝撃を受けるだろう。それほど主演でありプロデューサーの真田広之の心血を注いだ、渾身の一作であろう。
長年温めていたのだろう、それら構想は、これまで知っていた筈のサムライやカタナバトルが散りばめた、ステレオタイプの時代劇ではなく、陰影広がる静かな落ち着きある景色の中、静かに物事は始まり、徐々に早くなり、ある一点を過ぎると視線で追う限界速度で目に映る全てが動き出すのである。
この映画は、日本の家屋の佇まいを精緻に、余す事無く表現している。筆者は、これを「紅葉の魔法」と呼んでいる。
元来、明かりが貴重な昔の時代である。夕暮れを少し超えた頃合いの屋敷の中は薄暗く奥に居る者の顔など分からない。だからこそ上席に座る者の背後に見える赤と黒と空の光が一層際立つ。
そう…、あれは京都、瑠璃光院の広間に似ている。元々家康は、好敵手だった武田信玄の家臣を配下に付けた時に、自ら憧れていた赤い甲冑:あかぞなえ、で配下に纏わせた。
いざ戦となれば、家臣は一同、赤に染まる、それは今饗応が行われている広間を染めている光のようでもあり、戦が終わった後の様でもある。
ただ、あかぞなえの紅は、将軍の采配で血の色を増すが、紅葉の色は将軍の力では変わらない。
紅葉の赤を変えるのは、あくまで天:神の成せる技、広間に介する武:もののふ、どもは主である将軍の気色を薄々ではあるが気づいている。

戦:近々に有らんや!

宴というのに、広間は静寂に満ちている。これは戦の前に催される「前祝い」であり戦に臨む決意と主への忠義を固める儀式でもある。将兵一堂に会するのは、恐らくこれが最期で、出会えるのは闘いが終わって、生き延びていたら…の話となる。
そんな中、会話は声を潜めて行う、この場での私語は、兵卒には許されない、意味深な話が途切れ途切れに聞こえる。兵卒もそうだが、視聴者も思わず聞き耳を立てる、そうして視聴者は何時の間にか、出演者と同じ空間に引っ張り込まれるのである。
そうそう、これはテレビ番組ではあるが、気分は映画だと思った方が良いだろう。ならば次にする事は分かるだろう。灯火を落とすか、明るさを暗めにした方が良い。
あくまで、御意見にしか過ぎない。


これを読んでいる皆が、将軍の画面の暗さを多少疎ましく思うかも知れないが、昔の我々の生活は、光乏しき生活だったのである。それは映画ですら初期のリュミエール兄弟の時もライトは暗かった。人々は、それを当たり前と思うようになり、やたらと明る過ぎる夜のシーンを見せるようになった。だが、所詮それは嘘である。
元来、娯楽作品と言うもので史実:ドキュメンタリーなんぞ少ないのが当然で、嘘の1つや2つは、当たり前となり元々嘘を土台として、嘘の話を重ねて行った。
だが、それを嘘だと糾弾はしない。そんな者は飽きる、そして廃れるだけだ…、それにNOと言ったのが日本の三巨匠たちである。
黒澤明、溝口健二、小津安二郎である
特に黒澤明のリアリズムは徹底していた。また主に自然を背景とした壮大なパノラマを見せる点では抜きん出ていただろう。これら日本映画、特にクロサワ映画に惹かれたのがジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグなどである。
より現実的な撮り方で、より史実に近いお話を、より美しく、今の技術で魅せられる限界を探って出来上がった「最新作のとっても綺麗で、史実に近い」嘘話である。
それを主演もして、プロデューサーもして、演出もして、画角もして、ふぃるむちぇっくもして、プレス対応もして…、お前ら!真田広之を過労死で殺す気か!
ただ、それをやれるのが、今の時代、たった一人、真田広之なのである。
将軍は、単なる作品ではない。真田広之の渾身の一作であり逸作であり、自らの血肉を削り込んだ命である。
どうせ「次回作が待たれます」と言うんだろう?じゃぁ些末なリベラルとかポリコレとか遠ざけて、せめて心の世界は伸び伸びさせてあげないと、マジ、彼死にますよ!



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