土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

頼朝マジック 征夷大将軍のミステリー (前編)

2013-09-07 11:20:20 | 歴史のミステリー

こんにちは。
ひねくれ歴史のツアーコンダクター、土佐のくじらです。(^^)

さて、戦の天才、源義経の超人的な働きにより、平家は滅ぼされ、何やカンやで鎌倉時代に至りました。

源平合戦の大ヒーロー、坂本龍馬と人気を二分する人気者の源義経を、時系列的には書かなければならないのですが、義経の活躍と悲劇と数多い謎は、実はここを通らないと解けないのですね。
ですから、後日に記事にさせてください。
義経ファンの方、本当にごめんなさいね。m(_)m

1192年に源頼朝は、征夷大将軍に任命されます。
この有名な、「いい国つくろう、鎌倉幕府」の語呂で有名な年号ですが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、実質的な成立はそれより前の1185年と、ここ最近では言われているようです。
まぁ、どっちでも良いですけどね。(笑)

征夷大将軍は官職です。
ですから、征夷大将軍を任命する権限と、解任する権限は京の朝廷にあります。
その他将軍職には、征東大将軍とか、征西大将軍とか、本当は色々あるのですが、これもややこしいので割愛しますね(笑)。

征夷大将軍の役割とは、読んで字のごとく、

夷敵(朝敵)を征する将軍の長・・・です。
朝廷(天皇)のために戦う軍人の長=武士の統領ですね。

武士の長、しかも朝廷のお墨付きとあらば、これは”天皇の意”ですので、”武士”は、絶対に征夷大将軍には逆らえません。

しかしそれだけなら、今で言うところの、自衛隊の幕僚長クラスにあたる訳ですよね。
初代征夷大将軍である、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、そういう立場の人生でした。

そして頼朝は幕府・・・というのを、鎌倉に築きます。
幕府というのは要するに、武士を統治するため・・・だけの組織です。
(実際は当時、幕府という名前はありませんでしたが、ややこしいので(笑)鎌倉幕府というネーミングで書いて参ります。)

幕府はあくまで、武士の組織ですので、征夷大将軍は朝廷の政治には口出しできません。
あくまで武士に対してのみ、絶対権力者なのです。

防衛大臣や自衛隊幕僚長の命令には、自衛隊員は従いますが、他の組織に属する、たとえば財務官僚などが命令に従う必要はありませんよね。
これと同じ理屈です。

征夷大将軍は、朝廷の政治には口出ししませんから、朝廷の政治を取り仕切った、かつての平家を知る当時の公家たちはきっと、

「おお、鎌倉殿(源頼朝)は、まこと欲がないのう。おーほほほほほほ。」と思ったに違いありません。(笑)

その朝廷の、防衛大臣か幕僚長でしかないはずの征夷大将軍が、なぜその後の日本で、実質上の国王のごとき立場に立てたのでしょうか?
とても不思議に思いませんか?

おおっとこれは、ミステリーですね。(笑)
これは、当時の職業区分を知らないと、絶対に理解不可能です。

何度か記事に書きましたが、古来の日本人は全員農民でした。
そして農民が、実際に武具を手に取り、護衛をしたり戦に出た姿が、【武士】だったのですね。

現代を生きる我々は、つい、武士・・・という身分史観で考えがちなんですが、その考え方は、後の豊臣秀吉以降の職業観、身分観なのです。

話は戻りますが征夷大将軍は、戦における権限の全てを、天皇より委譲されていますので、
”戦に備える”という名目であれば・・・、あくまで、「その分野に関して」であれば、天皇の名の下に、何でもできる立場・・・である訳です。

要は、
攘夷の元、朝敵に対して戦をする権限
と、
どの武士を取り立て、誰をどこに配置するかと言う権限
が、征夷大将軍にはあるわけですね。

(朝敵を決定する権限も、①に付随して実質的には存在します。)

征夷大将軍の実質上の権限は、実はこの2つだけなのですね。
今の内閣総理大臣が、選挙をする解散権と、大臣任命権があるのと同じ・・・とも言えますね。

しかし権限は、武士に限定されるのが、征夷大将軍です。
あくまで防衛大臣や幕僚長権限が、自衛隊内に限定されるのと同じです。

しかしこの、たった2つの権限を、巧みに全国統治の原理へと導き、実質的に武士が、日本国内を仕切る仕組みを始めたのが、源頼朝なのです。

                                                    (続く)


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