土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

もしも、源義経が生きていたら。

2013-09-13 03:20:10 | 歴史のミステリー

土佐のくじらです。

「歴史にIF(もしも)はない。」と言われます。
しかし、源義経や坂本龍馬、西郷隆盛などの超偉人に対しては、どうしても「ああ、生き残っていてくれたらなぁ。」と思わせるきらめきがあります。

今回はその日本人の願望に、義経と当時の隠された時代背景を基に、その歴史のタブーに挑戦してみたいと思います。

まず私見を述べるならば、義経を失ったことで、その後の日本は相当スケールダウンしたはずです。
その最も罪の重い歴史上の役者は、先にも書いた奥州藤原氏、4代国主藤原泰衡です。

この御仁が今、ご当地ではどのような評価をなさっているかは存じませんが、「生まれてきて欲しくなかった。」とすら思います。
まぁ、3代国主の秀衝(ひでひら)は、奥州藤原氏を絶頂に導く名君でしたし、その遺訓「義経を大将軍に、頼朝と対峙せよ。」は深い政治的洞察がありましたが、如何せん後継者を間違えたと思います。

当時の奥州藤原氏は、絶対に大陸との交易をしていたはずです。
当時東北地方では、余りコメが算出できませんでしたので、同時期の西国のような、農産物による繁栄であれだけの国力を築くのは不可能です。

私事で恐縮ですが、新婚旅行先が岩手県平泉でしたので、その仏閣等の、奥州藤原氏の歴史的遺産のスケールの大きさを間近で見ました。
とても素晴らしく、近畿の神社仏閣等の歴史的遺産よりも、何もかもが大きく、贅を尽くした造りとなっています。

西国の経済基盤であるコメが余り取れないことから、太古の縄文式海洋文明が、まだ当時は色濃く残っていたと考えられます。
また、奥州では金が産出されていましたが、当時西国では、金が流通していた節がありませんから、奥州独自の経済圏があったはずであり、それは大陸の沿海州・朝鮮半島・北宋(後の金帝国)などではなかったかと推測いたします。

ひっとしたら、沿海州あたりに、奥州藤原氏の領地があったかも知れません。
文献が全く存在いたしませんので、想像する以外、方法はございませんが・・・。

泰衡が父秀衝の遺言通り、義経を大将軍に頼朝と対峙していれば、頼朝は絶対に奥州を攻めることはできませんから、奥州側が動かない限り、にらみ合いが続きます。
頼朝義経兄弟の仲は、実はただの見識の違いに過ぎないし、時代を超える見識を持つ者が仲介すれば、和解する可能性が高いものです。
頼朝の妻、北条政子などは、義経には一目置いていた様子もあり、歴史的仲介役になったやも知れません。


また頼朝と義経は、10歳以上年齢が違いますので、にらみ合っている間に、頼朝の方が先に亡くなる可能性もあります。

さすれば、違った形での武士社会の到来の可能性もありますよね。
結局、後継者に恵まれなかった頼朝でしたし、実は頼朝には、幕府内の権力維持のための、根本的に欠落している部分を克服できてはいなかったので、何が起こっても不思議ではない状況もありました。

まぁ、奥州は大陸との経済的パイプを確保したまま、存続できた可能性が高いのです。

そしてその後、モンゴル帝国の万里の長城越えによる、金帝国の滅亡劇が大陸では起こりますが、奥州藤原氏が存続できていれば、沿海州を守る名目で、大陸に武士団を送ることができます。
さすれば、朝鮮半島以前で、モンゴルの侵入を防ぎえたはずなのですね。

金の滅亡も、ひょっとしたら防げたかも知れません。
ということは、元寇が起こっていない可能性が出てくるのです。

義経は九州の平家の残党を擁護しておりましたので、奥州と鎌倉勢力が対峙していれば、鎌倉幕府残党狩りもできず、南宋とつながりの深い九州の平家と、南宋による対モンゴル戦略も可能です。

モンゴルを日本を機軸に、東と南から包囲できたのです。

まぁ、歴史にIFはありません。
藤原泰衡の近視眼的なおろかな判断によって、全ては歴史のかなたに夢と消えました。
そしてその後の日本は、元寇に対してキツイ対応を迫られる結果となったのです。

歴史を真に教訓とするならば、二度と藤原泰衡のような、愚かな判断をしてはなりません。
本当に大切な国家の宝を、一時期の和平のためとか、そういう刹那な基準で、売り渡すようなことはしてはならないのです。

                                                   (続く)




最新の画像もっと見る

コメントを投稿