土佐のくじらです。
平清盛を統領にした平家は、わずか20年余りで、ほぼ全国を傘下に収めました。
その平家の政治パワーの根源は、当時の中国(宋)との貿易による富の力であることは、これまで述べてきた通りです。
当時の土地本位制度、つまり、農作物による物々交換経済と、銭を使った流通経済では、得られる富は桁違いに大きかったのです。
その貿易のため、清盛は福原の港(今の神戸港の原型)などの港や、屋島や厳島神社などの中継点の整備や、瀬戸内海の海賊を味方につける施策など、瀬戸内海の制海権も確固たるものにしております。
制海権を現代に訳するならば、マスコミに当たると私は考えます。
制海権は海の流通や、軍船を自由に運ぶものです。
船での移動は、大量の軍隊と武器を、陸路より大量に、しかも圧倒的に早く目的地まで届けることが出来ます。
スピードもさることながら、陸路ならば、敵をなぎ倒して行かなければなりませんが、海路ならばそれもありません。
陸路は現代的に言えば、口コミや地道な政治活動でしょう。
海路はそれよりも早く、圧倒的な部数や視聴数で現地に届く性格上、現代的に言えばマスコミに相当すると考えます。
後発の清盛には、伝統的な貴族が持つ、広大な所領は余りありません。
瀬戸内の支配を基板に、現代的に言えば、マスコミを懐柔させ、それで得られる富により政権基盤を確立したのです。
当時の日本においては、こういう支配体型は初めてのことであり、そのインパクトも大きかったのです。
ではなぜ、平家は清盛の晩年から衰退し、滅ぶに至ったのでしょうか?
それは一つには、貿易相手国である、宋の衰退ともリンクしていると思います。
宋の国力は衰え、満州の女真族(にょしんぞく)に、北方の領土を奪われ、金王朝をつくられてしまいます。
日本と同じ農耕民族でもある宋も、日本と同様に寒冷化は押し寄せていたのでしょう。
農作物の余り取れない北方では、従来の地元民族(女真族=満州人)が勢力をを盛り返しました。
そして、宋のつながりの深かった平家も、宋の衰退に伴う形で、パワーの源泉である貿易の富も、少なくなってきたと思います。
そして一番の原因は、
平家が、貴族になろうとしかから ・・・ではないかと、私は考えています。
当時の日本では、政治は貴族しか参画できませんでしたから、平清盛は貴族になろうと努力し、
当時、最も貴族らしいのが平家・・・と、皇家から言われるくらいにまでなりました。
農民出身者の集まりであった幕末の新撰組が、頑張って武士らしくあろうと努力したように。
また、徴兵制度のもと、一般市民で構成された明治以降の日本軍が、武士(もののふ)の心を重視したように、
平家も貴族たらんと努力した結果、貴族の模範となるくらい貴族化してしまいました。
それによって平家は・・・戦にとても弱くなってしまったのです。
特に、後の木曾義仲や源義経のような、ゲリラ戦や騎馬戦など、縦横無尽な戦いを仕掛けてられる戦には、とても弱かったのです。
当時の戦は、武士通しの1対1の対戦形式でした。
それが、古来から当時までの、戦のしきたりでした。
ですから、知名度と銭の力を駆使して、強い武将を集める古来の戦であれば、平家は無敵でした。
しかし、古来からのしきたりを無視するようなタイプの戦では、とても弱かったのです。
木曾義仲は、それ自体知らなかった可能性がありますし、
義経も知らなかったか、あるいは無視した可能性があります。
私は平家が滅んでくれて、本当に良かったと思っております。
なぜなら、先に書いたように、
寒冷化したことで農作物の収穫が減り、争い事が増えていたのは、日本国内だけではなかったからです。
当時、アジア大陸においては、後に世界から【蒼き狼】と恐れられる人物が産声をあげておりました。
モンゴルのチンギスハーン(ジンギスカン)です。
最も騎馬民族らしい、縦横無尽な戦いをする、この世界王者の出誕を前に、最も貴族らしい貴族と化した平家が滅んでくれたのは、やはり日本が神様に愛された国であるからだと、私は考えざるをえません。
とにもかくにも、貴族化した平家では、後に訪れる元寇に、太刀打ちなどできかったに相違ないからです。
(続く)
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