土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
前回の記事でも書きましたけれども、日本は草食獣的な発想をする民族です。
それは、日本人が、侵略を発想しない民族であるということです。
草食獣は、他の生き物を殺めることに興味がありません。
理由は簡単です。
なぜならばそれは、彼らにとって、エサではないからです。(笑)
つまり、日本は基本的に豊かな国なので、他国を侵略する意味、そのものを発想しないのです。
草食獣が、他の動物たちと戦ったところで、怪我をしたり、はたまた命を落とすなどの、
リスクだけがあって、それによって得られる利益が、全くないから侵略をしないのです。
大富豪は、スラム街に行って、強盗しないのです。
なぜならば、スラム街に強盗に行っても、欲しいものなどないからです。
欲しいものなどないのに、犯罪を犯すリスクを背負うはずありません。。
一方、肉食獣は違います。
彼らは、他の生き物の命を奪わない限り、命をつなぐことができません。
ですから、怪我をしたり、命に危険があったとしても、他の命を奪う行動を取らざるを得ません。
しかし逆の意味で、肉食獣にとって、狩りは命をつなぐための行為だからからこそ、
その狩りで怪我をしたり、命の危険があってはならないのですね。
猟師さんは、十分に怪我に注意しながら猟をします。
漁師さんも、海が荒れていれば、出航を控えます。
海に行けば魚はいるので、命の危険を冒したり、船が壊れるリスクを考えれば、
「天候が回復した後、また漁に出れば良い。」と判断しますよね。
これと同じで肉食獣も、(猟師さん、漁師さん、ごめんなさい。)
命をつなぐ行為であるだけに、自分が怪我をしないよう、工夫をめぐらすのです。
特に肉食獣の狩りの対象である草食獣は、とても体が大きく、また身体能力も、肉食獣より優れているのが普通です。
ですから肉食獣は、狩りの対象を選びます。
小さな子供など、絶対に自分たちが怪我をせず、命の危険がない対象を選択します。
また、相手が大きな場合は、群れで一頭を狙うなど、できうる限り、リスクを少なくしようとします。
こういった、肉食獣的な発想をするのが、侵略国家です。
つまり侵略国家は、自分たちより強い相手とは戦わないし、相手が大物ならば、弱くしてから戦うのです。
国家の威信や、国家の存亡云々とか、世界の正義とか、いろいろ後付の口実はいくらでも付けられます。
ですから、彼らの言動や歴史文書に惑わされることなく、きちんとした観察と分析が必要です。
必ず、自分たちより弱い相手を選択し、相手が強い場合は、弱くしてから軍事行動を起こし、
戦っている最中は、無慈悲で徹底的に痛めつけるのが侵略国家です。
なぜならば、そうでないと、自分たちが危ないからです。
侵略国家は、より豊かになるために軍事行動を起こすのであり、損をするのなら行動は選択しないのです。
ですから、侵略的意図を持つ相手から、自国を守るのは案外簡単です。
相手より、強ければ良いからです。
これで解決です。(笑)
それ以外の解決方法などありません。
彼らは、軍事行動のリスクより、得られると推測される利益が多い時にのみ行動を起こします。
それ以外の、行動基準はないのが侵略国家なのです。
集団的自衛権行使容認の閣議決定以降、よく耳にする言葉で、
「そんなことをすれば、中国を刺激するだけだ。」というのがありますね。
それは草食獣、つまり、
防衛でしか軍事を理解しない、日本人独特の感性から来る言葉です。
また、日本人独特の感性を意識した言葉です。
日本人は、国防以外で軍事力を使うことが理解できない、根っからの草食系民族なのです。
ですから、「相手の防衛意識を刺激しなければ、戦争にはならない。」とか、
「戦争したくなければ、相手を追い詰めないことだ。」という発想をします。
「集団的自衛権行使容認すれば、中国を刺激するだけだ。」
日本人は国防で軍事のスイッチが入りますから、「相手を刺激しないように。」と配慮してしまうのです。
しかしそれは、逆の結果をもたらします。
なぜならば、相手=中華人民共和国は、チャキチャキの侵略国家=肉食獣国家だからです。
国家成立の2年後には、チベットを併合しました。
そして内モンゴル、満州、ウィグルなど、次々と国家を飲み込み続けたのが中華人民共和国です。
中国に併合されたくなければ、中国より強ければそれで終わりです。
それ以外の選択肢はありません。
ですからそれは、ただ単純に、日本国民の選択の問題です。
くれぐれも肉食獣国家に、余分なえさを与えるような判断をしてはなりません。
土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
ぶしつけながら、皆様に質問です。
この質問は、日本の歴史を見ていく上で、私はいつも使わせていただいております。
侵略国家を理解するのに、大変に役立つ知識だからです。
動物社会で、一番強い生き物は何だと思いますか?
条件は、オスの固体で、一対一の勝負です。
ライオンでしょうか?
以外ですけれども、ライオンはベスト5には入っていません。
実は、カバだと言われています。
カバの住む地域では、「カバは見てはいけない。」と言われているそうです。
気が強く攻撃的で、強力なアゴとキバを持ち、
しかも、これも意外ですけれども、とても足が早いのです。
見つかれば、巨体で突進してくるので、姿が見えた段階で、もう相当危ない状況なのですね。
つまりカバは、「見れる距離にいたら、命が危ない。」くらい危険な動物だということです。
ですからもはや、カバに喧嘩を挑む動物は、自然社会では存在いたしません。
僅差で第2位にはゾウ、そして3位でサイが入るようです。
しかしカバ、ゾウ、サイの強さは、僅差でございますので、もはやどれが1位でも構いません。
東西の横綱と張り出し横綱の違い・・・とでも申しましょうか。
第4位以降は難しいのですが、キリンと大型のバッファローがその座に着くようですね。
それ以降、シロクマやライオンなどの、大型の肉食獣が入ります。
とても以外ですけれども、強い動物ランキングの上位は、すべて草食獣なのですね。
草食獣というのは、総じて体が大きいです。
体当たりされただけで、相手には相当のダメージがあります。
そして殺傷能力は余りありませんが、強力な歯とアゴを持ちますので、噛み付かれたら大怪我をします。
そして足が速いです。
つまり脚力が強いので、敵を蹴り倒すことができるわけです。
そしてここが重要なのですが、草食獣は怪我を余り恐れません。
恐らく彼らも、死ぬことには恐怖を覚えているはずです。
しかし怪我をしても飢えることはありません。
ですから死ぬことは恐れても、怪我をすることは、草食獣にとっては想定内なのです。
なぜならば、餌である草は、足元に生えているからです。
命さえあれば、彼らは食べることに困ることはありません。
実は、肉食獣というのは、身体能力的に言うと、草食獣より弱いのです。
なぜならば、彼らは総じて、草食獣より体格が小さいからです。
そしてここがとても重要なのですが、肉食獣は怪我を恐れます。
肉食獣が怪我をすれば、それはすなわち、餓死することを意味しているからです。
これが彼ら肉食獣を、用心深くするのですね。
健康体であっても、体が大きく、強い草食獣をしとめるのは大変です。
ましてや、怪我をした状態であれば、難しい狩りなどが、成功するはずもありません。
つまり肉食獣にとって、怪我=餓死なのです。
ですから肉食獣は、絶対に怪我をせず、確実に獲物にありつける戦略の元、狩りをしているのですね。
大抵の場合草食獣は、群れをなして生活をしております。
単体でも強い草食獣が、大勢の群れで生活しているのですから、
なおのこと、狩りは肉食獣にとっては大変です。
ですから肉食獣たちは、まず草食獣の群れの分断を図ります。
必ずこれを行います。
分断できなければ、狩りをやめます。
そして草食獣を逃げ惑わせ、老いたものや病気のもの、そして子供など、
逃げ切れなかった弱い固体を狙うのですね。
肉食獣にとって、狩りはビジネスです。
ですから、怪我をするリスクが少なく、できるだけ多くの利益が出るように、戦略の元行っているのです。
決して彼らは、自分たちより強い固体は狙わないのです。
怪我でもしたら、それ以降狩りができなくなり、餓死してしまうからです。
ですから草食獣が、肉食獣の群れ分断の仕掛けに惑わず、じっと徒党を組み、
敵の出方を伺っていれば、肉食獣は手出しができないのですね。
草食獣は逃げてしまえば、強力なアゴの力も使えません。
強力な足も、逃げるのに使ってしまえば、蹴り倒すことには使えないのです。
逃げている間は、巨体で体当たりもできません。
つまり、とにかくまずは、草食獣を逃げ惑わせることが、彼ら肉食獣の仕掛けなのです。
草食獣は強いです。
しかし彼らが戦うのは、群れの中での順位を決める以外は、防衛のみでしか戦いません。
なぜならば肉食獣のように、生きながらえるのに、他の命を奪う必要性がないからです。
餌である草は、いつも足元に生えているし、食べてもまた生えてくるからです。
日本は、古来より実り豊かな国でした。
今も世界の経済大国ですが、昔から食べ物が豊富な国で、国民も生産を重視する国民性でした。
いつも周辺諸国より、豊かな歴史であったのが日本です。
日本は今もそうですが、他国を侵略すると、相対的に貧しくなる歴史なのです。
日本の欲しいものなど、近隣諸国にはないのです。
つまり日本の歴史は、草食獣の歴史です。
しかし日本は、かつての戦いにおいて、戦勝国であるアメリカなどの連合国から、
「お前らは、肉食獣だった。」と吹き込まれているのです。
日本人に、肉食獣的な軍事の戦略性があったなら、まったく違う歴史を歩んでいます。
日本人は、肉食獣的な軍事の戦略性が、極端に弱いのです。
日本人は、動物社会に学ぶべきかもしれません。
侵略国家=肉食獣国家は、自分の弱いところを隠します。
そして強い振りをして、自分の強みの部分だけで、勝ちを狙いに来ます。
しかし、肉食獣的な侵略国家たちも、草食獣的な日本を、完全には理解はしていないようです。
草食獣は、防衛でしか戦わないのですから、親日的に友好的に侵略の戦略をめぐらされたら、
あっという間に内部から瓦解します。
そこが日本の、本当の弱点です。
つまり侵略的な意図、侵略者の考えること、これそのものが、日本人にはわからないということです。
それは、日本人が侵略ということそのものを考えない、草食獣的な発想をしているからです。
ここから、日本の幕末以来の、苦労の原因があったのです。
私が中国共産党幹部ならば、その日中友好戦法を使います。
しかし現時点で、恫喝や威嚇を絡めてくるのは、中国らが日本を、決して理解はできていない証拠だと思います。
草食獣は、防衛のためにしか戦わないのです。
自分たちの侵略のために、つまり他の生き物の命を奪うために戦うことが、草食獣には理解できないはずですよね。
なぜなら、いくら他の生き物たちを殺めても、それは自分たちのエサではないからです。
日本の歴史は、草食獣の歴史です。
日本にとって、侵略など無意味です。
海外を軍事攻略してかなえたい願いなど、日本にはないのです。
大富豪がスラム街に、強盗に行ったとしても、取ってくるものなどなにもないのです。
それは、過去の歴史の中でもそうだし、今現在もそうです。
歴史をつぶさに学べば、答えはおのずとそうなります。
戦前日本を孤立化させ、ABCD包囲網で資源を絶ち、弱らせてから日本に戦いを挑んだ列強諸国こそ、筋金入りの侵略国家です。
彼らは植民地大国であり、侵略で領土拡張をしてきた国々です。
侵略ビジネスの真髄を知っていたのは彼らであり、彼らの理論で、戦前日本を裁いたのです。
日本はそろそろ、歴史に目覚めましょう。
日本は良い国です。
今もそうですが、歴史の中の過去もそうでした。
今後も、そうあり続けましょう。
そのためには、歴史の目を開くことです。
日本の歴史の、真実の姿を見ることです。
土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
私の祖父は、先の大戦で中国に赴きました。
しかし、祖父はとても善人でした。
孫の私の目から見ても・・・というだけではありません。
飛び切りの、善人だったのです。
そのような、飛び切りの善人であった祖父が、
巷で言われているような、血に飢えた日本軍であったとは、
私は幼心に、とても信じられませんでした。
戦後の日本人は、戦勝国であるアメリカなどの国々から、
一方的に歴史観や、日本人観を押し付けられています。
「それで、日本が縮こまることによって、世界が平和になるなら・・・。」
という、日本人の美徳である我慢する気持ちが、少なくとも、戦後直後の日本人にはあったと思います。
しかし残念ながら世の中は、そのような日本的美意識の、通用しない時代に入ったのです。
戦国時代の覇者織田信長は、天下布武を唱えました。
天下布武というのは、武力で天下を平らげる・・・という意味です。
これだけ聞くと、物々しい感じがしない訳ではありません。
しかし信長の目的は、天下統一による平和だったのです。
その平和理念の具体化が天下統一であり、その方法論が、武力だったのです。
これが、天下布武の意味です。
「いつまでも、戦国時代などやってられない。」織田信長は、こう考えたのだと思います。
実は戦国時代において、天下統一を旗印に掲げたのは、織田信長が最初です。
武田信玄や上杉謙信など、有名な優れた武将を排出した戦国時代ですが、
以外ではありますけれども、天下統一を理念に掲げた武将は、織田信長以外にいませんでした。
皆、領国経営的な、戦いを続けていたし、
天下統一など不可能だし、誰も望んでいないと思っていたのです。
その天下統一の理念、天下統一によってもたらされる、平和実現の理念こそが天下布武であり、
その天下布武の理念が、形は違えどその後の、豊臣秀吉や徳川家康に受け継がれたのです。
織田信長の天下布武は、原理主義的天下布武と言って良いでしょう。
豊臣秀吉の天下布武は、現実主義的天下布武。
徳川家康の天下布武は、統治主義的天下布武だと私は考えます。
信長型は、失敗すれば、周囲は敵だらけになる欠点がありました。
豊臣秀吉はそれを、今で言う、連立政権のような、現実的手法によって天下統一を果たしましたが、
それは秀吉のような、政治カリスマがいなくなれば、一気に崩壊する欠点がありました。
絶対王者の統治ではないからです。
そして徳川家康の、統治主義的天下布武は、「二度と戦国時代に戻さない。」という、
強い決意のもとに、江戸幕府を運営し、その結果、日本は250年以上に及ぶ、
長期の太平の世の中を体験しました。
ただその250年に及ぶ平和は、当時の日本人一人一人の、
忍耐の積み重ねによってもたらされたものでもありました。
「決して戦国時代に戻さない。」という理念を実現するには、
大名のみならず、一庶民に至るまで、忍耐と我慢が必要だったのです。
しかしその、日本というコップの中の平和は、幕末の黒船によって、一瞬にして瓦解しました。
つまり、「これ以上、一人一人が我慢していれば、国家が占領されてしまう。」ということで、
倒幕そして、明治維新が起こったのです。
今日本は、戦前のあり方を敗戦によって非難され、縮こまって、
江戸時代の庶民のように、「我々さえ耐え忍べば、世界は平和になる。」と、
思い込まされてきたのです。
それで本当に、世界が平和になるならば、その我慢も甲斐があるでしょう。
しかし時は流れ、東アジア情勢は、また緊迫を始めました。
中国の台頭と、アメリカの没落です。
中国の軍事予算は、はるか昔に日本の国防費を越えました。
日本に向け、200発以上の核弾頭を積んだミサイルもあります。
そしてアメリカは、世界の警察への意欲を失いつつあり、
自国経済に没頭したい本音が、だんだんと明らかになってきました。
「日本が、我慢さえすれば平和になる。」という時代は、もうとっくの昔に終わっているのです。
日本が言うべき事を言い、やるべきことをやらなければ、平和は実現できない時代に、
世界はもう、とっくの昔になっているのです。
「日本は軍隊がないから、何も言えない。」ならば、自衛隊を強くすれば良いことです。
「日本は、憲法9条があるから、何もできない。」というならば、
憲法を改正したり、無効化すればよい事です。
国防は、そして国防が成功して実現した結果訪れる平和は、
ひとえに、自国国民の判断によるものです。
他国の問題ではないのです。
中国が横暴だから、平和が危ういのではないのです。
アメリカがだらしないから、日本の平和が危ないのではないのです。
日本は民主主義国家ですから、日本の命運は、日本国民一人一人の見識の問題なのです。
日本が我慢していれば、それで世の中がうまくいく時代は、もうとっくに終わりました。
日本は世界に目を向け、世界の平和に責任を持ち、世界に言うべき事は言い、
そして、やるべきことはやりましょう。
そうでなければ、もう日本の平和が守れないのです。
それを阻むものがあるならば、改革し改善する勇気を持ちましょう。
その歴史の鬨(とき)が、今なのです。
土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
本日8月6日は、広島に原爆が落とされた日です。
広島の原爆慰霊碑には、
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから。」という碑文が刻まれています。
私は、この言葉が大嫌いです。
この碑文には、 日本が過ちを犯したから、原爆を落とされた・・・
というニュアンスが込められています。
とんでもないことです。
原爆を落としたことが過ちなのです。
広島で死んだ方々は、一般市民なのです。
非戦闘員の虐殺は、国際法違反です。
広島の原爆は、アメリカによる、国際法違反の碑文でなければいけないのです。
今中国領である新疆ウィグル自治区では、中国の核実験による被害が出ています。
その数は、70万人以上と言われています。
世界最大の被爆国は日本ではありません。
中国です。
中国の新疆ウィグル自治区住民こそ、世界最大の核兵器による被害者たちです。
ウィグル人が、何か過ちを犯しましたか?
ただ単にウィグルという地が、中国政府による核実験場にされただけですよね。(怒)
ということは、中国政府は、
「ウィグル人は、核被害によって、死んでも構わない。」と思っているということです。
広島・長崎の原爆投下も同じ構造です。
広島・長崎に落とされた原爆は、タイプの違うものです。
広島はウラン型、長崎はプルトニウム型です。
何が言いたいかと申しますと、これらの2つの事例は実験だ・・・と言うことです。
つまり、
タイプの違う兵器の貴重なサンプリングとして、2つの都市への投下が必要だったということです。
要するに、これは戦況とか、そういうことに関わりなく、
当時のアメリカ軍の事情として、広島・長崎への原爆投下は行われているということです。
日本の降伏を促すためであったら、東京の近くの外洋で落とせば良いことです。
終戦間近のアメリカ軍は、日本の制空権を完全に掌握していましたから、それは十分可能でした。
しぶとい日本を観念させる目的や、
日本が独裁主義で、日本人を開放する目的ならば、絶対にその方が良かったはずです。
つまりアメリカ側からすれば、原爆投下でどれほどの効果が出るか、つまり、
どれほどの放射能汚染があるかや、どれほどの人的被害が出るかを知る必要があったのです。
ではアメリカはなぜ、人のいない外洋で行わなかったか。
それは、アメリカ国内において、人のいないところでの原爆実験は終わっていたからです。
つまり、既にサンプルがあったのです。
人のいるところでのサンプルが欲しかったので、広島・長崎に落としたのです。
アメリカ国内で、人のいるところでのサンプル採取は不可能です。
だから、戦時中の敵国である日本に落としたのです。
広島、そして長崎の方々は、怒らなければならないです。
広島、そして長崎の原爆投下は、白人以外の民族を、原爆投下実験に使った、歴史的証明なのです。
過ちは犯しませんから・・・と、自己を卑下し、自己をないがしろにする必要はありません。
そうではなくて、 決して、過ちは起こさせませんから・・・ と、
世界平和のために、決起する市民であって欲しいと願います。
でなければ、ウィグル住民の核実験被害なども、
世界のニュースでは取り扱われることはないのです。
原爆投下、そして全国の主要都市に空襲をした航空機B29は、爆撃機です。
爆撃機というのは、軍事施設を爆撃するためのものなのですよ。
非戦闘員である、一般市民を爆撃したら、国際法違反なのです。
つまりB29は、国際法違反の航空機なのですよ。
航空機B29の歴史は、 アメリカの国際法違反の歴史であり、
人種差別の歴史であり、市民虐殺の歴史そのものなのです。
アメリカは、これら国際法における重罪を犯しています。
ここらの重罪を、覆い隠し合理化するために、
南京大虐殺をはじめ、戦前日本悪人説が、どうしてもどうしても必要だったのです。
戦後直後の日本人は、そのアメリカの罪を認識していました。
認識してはいたけれども、受け入れました。
受け入れざるを得なかった・・・というのが正確でしょう。
当時の事情は、察するに余るものがあります。
しかし日本国民の皆様、これ以上、毒水を受け入れるのはやめましょう。
歴史をしっかりと見つめましょう。
でなければ、日本人性悪説の元、
子々孫々と、その過去の歴史とやらに、振り回される日々となります。
そしてそれは、過去行われた人類への罪、そして、
今も現実に行われている、人類への罪を覆い隠すことにもなるのです。
そしてそれは同時にその罪は、未来永劫、人類に行われ続けることになるでしょう。
日本人が腹をくくれば、世界は変わります。
つまり、 日本に、自虐史観をやめれば、戦争につながる・・・という怖れがある限り、
世界から、人類への罪が消えることはありません。
日本が、小さな怖れを克服する勇気があれば、世界は変わるのです。
今を生きる日本人が、真実の歴史を、本当の意味で受け入れることです。
日々の生きやすさや、小さな国内の事情や、国内の法律の問題や、
そういった、小さな小さな原理に基づく判断ではなく、
きちんと、人類にとっての正義や、大きな平和への原理に向けた判断に基づき、
日本人は歴史に目覚めるべきなのです。
土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
日本にとって、夏という季節は、とても複雑な心境になる季節です。
特に8月は、現代でも日本人は、総懺悔の月でありましょうね。
力及ばずで、とても残念なことではありますが。
8月がくれば、とたんにかつての戦争に関するネガティブな意見や、
その見解を基にしたテレビ放映などが、毎日特集されるます。
私は戦争は大嫌いです。
世界から戦争をなくしたいと、本気で願っています。
しかしそのためには、日本人は目覚めなければならないのです。
世界が、日本をお手本にしない限り、それは無理だからです。
なのになぜ、日本人は目覚めないのですか?
昭和20年の8月に原爆を落とされ、8月に終戦しましたけれども、
それでなぜ、日本人は反省を迫られるのですか?
なぜ原爆を落とされたのが、日本人の過ちなのですか?
明らかに、広島・長崎への原爆投下や、東京などの大都市空襲は、
非武装の市民の大量虐殺であり、明らかなアメリカの国際法違反です。
なのになぜ、それが日本人の過ちなのですか?
日本国民の皆様、日本人の深層心理には、
「戦争すれば、つらい生活が待っている。」というイメージが、心に焼きついていると思います。
これは、日本が経験した戦争の歴史を、市民レベルで体現したイメージでしょう。
しかし、それはとりもなおさず、日本が侵略戦争を経験していない、明らかな証拠なのです。
侵略戦争とは、軍事力を使ったビジネスです。
ですから、使える軍事予算の中でしか、戦闘行為をしないのが侵略戦争であり、
それを実際に実行するのが侵略国家なのです。
ですから、侵略国家というのは、案外大きな戦いをしないのです。
なぜならば、侵略行為という軍事行動が、ビジネスだからです。
ですが日本人は、「戦争すると生活がつらくなる。」と普通に考えます。
それは、日本が経験したかつての戦争が、すべて国防戦争であった証拠なのです。
侵略戦争ならば、戦局が危うくなれば、撤退すればそれで終わりです。
しかし国防戦争ならば、相手を追い払わない限り、戦闘行為を止めるわけにはいきません。
止めたら最後だからです。
日本がかつての戦争で、当時の国力を超えた戦いを行い、
そして国民の生活を犠牲にしてでも、戦闘行為を止められなかったのは、
一途にそれが、国防戦争だったからなのです。
その一連の、日本の戦争に関しての謎は、いくつかございます。
それは過去記事、「誇るべき日本の歴史」に記しておりますが、
日本人が知らなければならない重要な事実は、
日本と戦争となった国は、その後すべて親日的になる ということなのです。
薩英戦争というのが幕末にありました。
薩摩藩とイギリスが戦争しますけれども、その戦争直後から、
薩摩藩とイギリスは急速に仲良くなり、その後の日英同盟につながります。
日清戦争の相手国は清ですが、清王朝というのは、満州人の王朝なのですね。
満州はその後、日本国の後押しを受けて、満州帝国として復活しました。
満州人は、祖国復興の後ろ盾として、かつて戦った相手国の、日本を選んだのです。
日露戦争の相手国のロシアは、とても親日国であることが最近わかってきましたね。
日本には反ロシア意識が強いのですが、一方のロシアは、親日意識のとても強い国なのです。
日中戦争の相手は中華民国です。
現在の、中華人民共和国ではありません。
日中戦争の「中」は中華民国であり、現在の台湾政府なのです。
台湾は自由主義体制ですから、反日家もいるのですが、概ね親日国ですよね。
ちなみに、日本と現中国(中華人民共和国)とは、正式な交戦はありません。
当時相手はゲリラでしたから、駆逐したりはしていたかも知れませんが、
共産党軍は、日本軍から逃げてばっかりだったのです。(笑)
そしてアメリカですね。
アメリカとは、終戦後5年経過した後、日米同盟を結ぶ中になっています。
「日米同盟には、朝鮮戦争の勃発という、背景があるじゃないか。」とおっしゃる方もいるでしょう。しかしそれならばなぜ、日本を独立させ、自衛隊という実質軍を持たせましたか?
北朝鮮と朝鮮南部で対峙するアメリカから見れば、日本は背後にあたります。
背後を、長年戦ってきた日本に任せており、これは兵法的にいえば、挟み撃ちにされる可能性がありますから、信頼がなければ、こういう措置は取れません。
近代だけではありません。
古くは、奈良時代の天智天皇の時代の、白江村の戦い(はくこうそんのたたかい)で、
日本は百済(くだら)と連合し、唐と新羅(しらぎ)連合と戦いますけれども、
その後日本は、遣唐使を送る中になっていますね。
遣唐使というのは、遣隋使と同じで、事実上の対等外交なのです。
他国の皇帝を認めない歴代中国王朝としては、これは異例のことなのですね。
また、豊臣秀吉が朝鮮征伐を行いましたけれども、
その後江戸幕府と朝鮮王朝とは、お互い鎖国下ではありましたが、友好関係でした。
終戦から、たった6年後から友好関係が始まっています。
これらが示す、重要な事実は、
戦争になった経緯は様々なれど、こと戦闘行為の現場においては、
日本の兵士たちが、信義に篤い戦いをしていたいうことです。
これは、絶対にそうなのです。
これ以外、ありえないのです。
つまり、
歴史上の戦場での日本人兵士は、相手国からも一目置かれ、信頼される存在であった
ということなのです。
日本の兵士たちが、もしも非道な兵士であり、心から憎むべき存在であったなら、戦後すぐに、戦争相手と仲良くなるということは、絶対に絶対にありえないのです。
良いですか。
日本人が本質的にひどい民族であり、戦争の時はお構いなしで、
平気でひどいことをするような、ひどい人たちであったなら、
戦闘行為が終わった直後に、「いやぁ、これからは、お互い仲良くやっていこうじゃないか。」とは、戦闘相手に絶対に思ってはもらえないのですよ。
普通は、憎まれるのですよ。
日本の歴史は、逆になっているのですよ。
これは、日本では当たり前だけれども、世界史レベルで見たなら、凄いことなのです。
太平洋を又に駆け、4年に渡り日米は死闘を演じましたけれども、
日米同盟は、戦後5年後に結ばれているのです。
アメリカだって、40万人の戦死者を出しています。
アメリカは最近、イラクと戦争をしましたけれども、アメリカとイラクが同盟関係を結んでいますか?
アメリカとベトナムも戦争しましたけれども、アメリカとベトナムは、
中国という共通の敵がいるにもかかわらず、微妙な関係が続いていますよね。
ベトナムの方は、アメリカ人や韓国人を、いったいどう思っていますか?
「米韓とは、口も聞きたくない。」というのが、ベトナム国民感情なのではないですかね?
でも、それが普通の人としての感情なのです。
戦争したのは事実だし、その時点での判断は致し方ないところもあるでしょう。
しかし、その後にすべての国々が親日的になったり、血を流す誓いである、
「軍事同盟を結んでも良い。」という仲になるというのは、これは、
歴代の日本の兵士が、とてもとても、人間的に立派だったという、明らかな証拠なのです。
歴代の日本の兵士たちは、日本的な常識の下、戦場で戦っていただけなのでしょう。
しかしそれが、世界の人々にとっては、とっても凄い人たちに見えた・・・ということです。
だから、日本と戦った国々は、戦争が終わった後、親日的になるのです。
それしか、説明できない歴史なのですよ。
アメリカ人だって、日本と戦ったことで、少しマシな人たちになった・・・
世界の警察ができるくらいにまで、日本と戦ったから、人間的に成長できた・・・
こう見て良いと、私は考えています。
日本の常識というのは、これまでたくさんの世界の人々の、目のうろこを落としてきたのです。
日本国民のみなさん、もう少し日本の歴史や、日本人という民族性に、自信と誇りを持ちましょう。
でなければ、世界は真のお手本を、見出すことはできないですよ。
それはただ世界の人々に、迷いさまよいの時間を、多く経験させるだけなのではないでしょうか。