土佐のくじらです。
前回記事の続きです。
大西洋を、赤道直下から北極圏にいたるまで流れる、世界最大の暖流メキシコ湾流。
これがかつては、今のルートを流れていなかった形跡はいくつか存在いたします。
一つは、ノルゥエーの海岸線に特徴的な、大規模なフィヨルドです。
フィヨルドとは、氷河が溶けてできた地形です。
つまりこれは、過去この地が氷河で覆われていたことを示す証拠です。
一般的な現代の常識ではこれを、
1万年前に、急激に氷河期が終わり、かつてこの地域を覆っていた氷河が溶け出した跡 と説明しているはずです。
しかし、そういうこと、つまりこの地域が氷河で覆われる・・・ということは、絶対にあり得ないことなのですね。
なぜなら、この地域沿岸部が凍らないのは、この地域のすぐ近くをメキシコ湾流が流れているからなのです。
決して気温が高くなったせいではないです。
北極圏に近い、超高緯度地域であるノルゥエーの冬は極寒です。
しかしノルゥエーの海は、絶対に凍りません。
それは、暖流によって、氷が解けてしまうからです。
一方大西洋の反対側、アメリカ大陸北部や、グリーンランドなど、ノルゥエーと同程度の緯度の地域は、万年氷河地域です。
この地域にはメキシコ湾流が入り込んでいないので、緯度相応に極寒の地域なのです。
つまり何が言いたいかと申しますと、
メキシコ湾流がすぐ沖を流れているノルゥエーにおいて、氷河があった歴史があるとするならば、それはかつて、メキシコ湾流が流れていなかった時期があった・・・ということとなってしまうのです。
そんなことあり得ない・・・とおっしゃる方も多いと思います。
しかし、暖流と氷河は、絶対に両立しないのですから仕方ありません。
現実の地理や歴史をつぶさに見ていくと、一般的に言われている1万年前に終わった氷河期とは、
ヨーロッパの氷河期が終わった限定的なものだった・・・ということになってしまうのです。
この地域の、海流の変化の証拠はまだあります。
アフリカのサハラ砂漠です。
サハラ砂漠は、ここ1万年余りで急激に砂漠化した地域と言われ、現代的常識ではその理由を、
人為的な文明によるものや、氷河期の終焉による気候の変化としております。
かつてサハラ砂漠のある北アフリカは、緑の草原地域でした。
今はナイル川周辺のみが草の生える地域となったエジプトでも、かつてはライオンやカモシカなどが暮らしていた記実が、旧約聖書を読めば本当に書いてあります。
ライオンやカモシカ類は、草原の動物です。
それがわずか3000年前まで暮らせていたのであれば、サハラ砂漠のある北アフリカは、3000年前はまだ緑がけっこうあった地域なのですね。
しかしこれも、海流・・・というキーワードを用いた分析をするならば、
この地域は、過去いくら遡っても、砂漠以外の時代があるはずのない地域なのです。
なぜなら、サハラ砂漠の西海岸、カナリア諸島あたりに、寒流が流れているからです。
寒流は水温が低いため、雨を降らせるための上昇気流が発生いたしません。
上昇気流がなければ、雨は絶対に降りません。
ですから、沖を寒流の流れる地域には雨は降らず、基本的に砂漠化するのです。
アメリカ西海岸のカリフォルニア砂漠、南アメリカ大陸チリ沖のチリ砂漠、南アフリカ西側のナミブ砂漠、西オーストラリア砂漠など、これらの砂漠は、人為的なものではなく、沖を流れる海流が要因です。
ですから、サハラ砂漠のある北アフリカ地域に、かつて緑多き時代があるとするならば、それは、
アフリカサハラ砂漠の海岸の沖に、暖流が流れていた証拠・・・とするのが、一番筋が通ってしまうのですね。
ヨーロッパの温暖化とアフリカ砂漠化と、縄文の衰退・・・
これらの謎に、整合性を与えるには、答えは一つしかないと私は思います。
それは、
今は大西洋の赤道直下から、北極圏に流れているメキシコ湾流を、塞いでいたものがかつては存在した。
それが存在していたときには、メキシコ湾流はアフリカの方面に向けて流れていた。 です。
私はこの、
かつて大西洋でメキシコ湾流を塞いでいた存在とは、伝説の大陸、アトランティス大陸 ではないかと思うのです。
一夜にして海中に没した、伝説のアトランティスの存在証明こそ、
ノルゥエーのフィヨルドであり、サハラの砂漠化であり、古代日本の縄文文明の衰退の歴史的事実ではないかと、私は推測いたします。
(続く)
土佐のくじらです。
前回記事で、古代日本の縄文文明の衰退の原因を、
日本の寒冷化による、当時の主食の栗の生産量の低下に求め、その寒冷化の要因として、
北海道などの北日本へ、寒流(オヤシオ)が流入し始めたことを上げました、
しかし、ある日突然に、海流が流れ始めるというようなことが起こりえるのでしょうか?
しかし、低緯度地域である北海道が、亜寒帯になるには寒流の存在が不可欠ですし、
栗の生産が主要な食料資源確保である縄文文明では、亜寒帯地方(北海道)での文明構築は不可能なのです。
この両者は、決して両立しないのですね。
北海道に流れ込む寒流(オヤシオ)は、元を辿れば北極海から流れ込んで来ます。
北海道の歴史的推移と歴史的産物を見る限り、かつては北極海には、冷たい海流が来てはいなかったと思われるのですね。
だから、東北地方とはそう緯度の変わらない北海道は、東北地方と同じ温帯気候だったはずなのです。
ですから、広葉樹である栗も、北海道で生育でき、栽培が可能だったのはずです。
それしか、説明ができないのです。
ではどうすれば、流れていなかった寒流が、北海道に流れるようになるのでしょうか?
これは地学の分野における、私の一つの仮説であります。
北極海に、反対側から水を押し出せば、寒流が太平洋上に流れ込み、北海道にも冷たい北極海の海水(寒流)が流れ出します。
確かに現在は、このような状況下にあります。
私に、記事上に地図や写真を張り出す技術がないもので、言葉だけで説明しているので、大変申し訳けないのですが、
現在はそのような海水の流れになっているのです。
北極海に何が流れ込んでいるのか?
それは、大西洋のメキシコ湾流という、世界最大の暖流です。
これが、アメリカ大陸の南部から、ヨーロッパ、北欧ノルゥエー沖を通過して、北極海に流れ込んでおり、
それに押し出される形で、太平洋に冷たい北極海の海水(寒流)が流れ出しているのですね。
つまり、日本の縄文文明の衰退の歴史、即ち、日本寒冷化の歴史を見る限り、
今大西洋に流れているメキシコ湾流は、かつてはヨーロッパ沖を流れてはいなかった・・・
という推測が、導き出されてしまうのです。
時を同じくして、太平洋と大西洋の2つの大海において、海流の流れを変えるくらいの大きな地球規模での変動とは何か?
これまた、ミステリーですね。(笑)
う~ん、これだけでも、記事3本文くらいの内容です。(笑)
書き上げる筆力に、自信が持てなくなりつつあります。(爆笑)
少し、休憩します。m(_)m
(続く)
土佐のくじらです。
前回記事を読み直してみると、実にあっさり書いていて、しかも結論を先延ばしにしていますね。(笑)
これでは、いつまで経っても、縄文時代から抜け出せません。(笑)
そこで補足説明的に、もう一本書くことにしました。
前回記事で私は、
日本が寒冷化し始めたことで、縄文文明の衰退が始まった。
北海道で、主食の【栗】が採れなくなったのが、その証拠だ。
という、思い切った自説を述べさせていただきました。
私は、地理や気象も好きで、地図ばかり眺めている時も多い人間です。
そのような私は、この事実が解せないのですね。
歴史的には、北海道で栗が栽培できた過去の事実がありますが、
地理的条件で言えば、北海道で栗が栽培できることはあり得ないのです。
ここはずっと昔から、1万年とは言わず、もっと悠久の昔から、今のような、亜寒帯気候でなければオカシイ地形です。
常識的には、暖かい時代があったはずがない地域なのです。
なぜかというと、北海道の周囲には、オヤシオという寒流が流れているからです。
はっきり言って、オヤシオが流れているので、北海道は寒いのですね。
高緯度だから寒いのではないのです。
東北地方と北海道。
緯度的には、ほとんど無視できる範囲の中にしかありません。
世界地図を広げていただければわかりますが、北海道は南ヨーロッパのスペイン南部と変わらない緯度です。
しかし東北と北海道だけでも、気候は違いすぎますね。
北海道は寒すぎます。
雪の質なんて、両者はぜんぜん違いますよね。
北陸や東北地方の雪は、ベタ雪ですね。
これは、日本海を流れる、暖流の影響で、湿った雪になるためです。
暖流は多量の水蒸気を、上空に出しているからです。
一方、北海道に降る雪は、水分を余り含まない、サラサラ雪です。
北海道には暖流は流れ込まず、寒流の影響下にありますので、雪に湿り気があまりないのですね。
雪が降る量も、北部の北海道より、南部の東北日本海側や北陸地方の方が、圧倒的に多いですよね。
この、北海道と東北の気候の違い。
これは、島の周囲の、海流の温度違いなのです。
以前記事に書いた、高知は黒潮が近くに流れているので、夏場に余り気温が上がらない・・・というのと同じで、
海流というのは、気候に絶大な影響を与えるものなのです。
北海道が寒いのはオヤシオが原因ですから、これはいくら地球の平均気温に変化があっても、現場の気候条件は同じです。
ですので、過去の歴史で、北海道に栗が栽培できた事実がある・・・この事実から導き出される推測は、
その頃(縄文時代)には、北海道の周囲に、オヤシオ(寒流)が流れていなかった可能性が高いのですね。
つまり、この北海道の寒冷化という事実から導き出される結論は、
海流の流れが変わるような、地球規模での大異変が古代に起こった可能性を、縄文文明の衰退は示唆していることになるのです。
ではどうすれば、流れていなかった寒流が、北海道に流れるようになるのでしょうか?
どう推測すれば、これらの事実がつじつまの合うものになるのでしょうか?
ミステリーですね。(笑)
これこそが、次回以降のテーマです。
(続く)
土佐のくじらです。
これまで綴ってきたように、平和で高度な文明を、1万年以上という、かなりの長期間続けた縄文時代ですが、
ついにその、誇るべき時代も終わる時がやって参ります。
この終わり方も、通常の歴史のパターンとは、何か違っているように思います。
何とも静かに、ロウソクが消えるがごとく、次の時代に移っていくのですね。
古代ローマ文明は、それが始まる時も、またそれが終わる時も、激しい戦いが起こりました。
古代ローマに限らず、だいたい文明や時代が変わる時というのは、激しい変動や戦争などによってそれがもたらされて、それが”国創り伝説”となるのが通常なのですね。
日本でも聖徳太子の国創りや、平安から鎌倉、室町から江戸、江戸から明治など、時代の端境期というのは、強烈な混乱が伴うものです。
しかし、こと日本の古代史というのは、どうもその、激変の跡形すらない、いたって平和な終わり方なのです。
とてもとても、不思議です。
文明の耐用年数が過ぎていたのは分かります。
それはそうでしょう。
何せ、1万年以上続いていたのですから。
では、このとても静かな縄文時代の終わり方を、一体どのように説明すれば、つじつまが合うのでしょうか?
私は、日本列島が寒冷化したから だと考えているのです。
「えっ、うそでしょ!」
「地球温暖化って、みんな言ってるじゃん!!」
って、皆様おっしゃるでしょうね。
しかし、よくよく踏みとどまって考えてくださいね。
縄文時代の主食は何でしたか?
そうですね。正解は、【栗】です。
そして縄文文明は、どこからどこまでの範囲があったでしょうか?
そうです。北海道から九州までの、全日本を領域とする文明でした。
さて問題です。
今現在、北海道で栗は採れるのでしょうか?
そうですね。今北海道では、針葉樹林ばかりが覆っているはずですね。
寒くて、栗は育たないのです。
そうすると、
縄文時代の北海道は、今よりもずっと暖かかったはずなんですね。
1万年前に、地球の氷河期が終わり、云々・・・
というような定説がありますが、縄文遺跡等を見る限り、
日本では1万年前くらいから、むしろ寒冷化が始まっていると思われるのですね。
この日本全体の寒冷化によって、縄文人の主食である、栗が採れなくなったり、採取量が減ってきたことによって、
縄文文明は、少しずつゆっくりと、衰退していったんじゃないかと、私は考えています。
ではなぜ、日本は寒冷化したのか?
これは、地球規模での大地殻変動が、この時期に起こったとしか考えられないのです。
次回はその、地球規模での一大スペクタルを、縄文文明に絡めてご紹介いたします。
(続く)
土佐のくじらです。
今日も不思議な視点から、古代日本の歴史を切り込んで参ります。
前回記事では、
縄文文明は、ムー文明の継承文明ではないか・・・と述べました。
だとすれば、縄文と同じ、継承文明の特徴を持つ、エジプト文明は、アトランティス文明の継承文明ではないか・・・
と言うこともできますね。
これまで述べてきたように、高度な技術や価値観を有する縄文文明ですが、エジプト文明と比較すると、かなり変わったところがございます。
それは、武具の発達した形跡が、全く見られないということです。
1万年を超えると言われる長い期間の間に、
全く武器が進歩しないということは、一体どういうことなのでしょうか?
日本の縄文文明は武具に限らず、他の分野においても全く歴史的に発展した形跡はございませんが、
同じ継承文明であるエジプト文明では、石から青銅へ、そして最終的には、鉄製にまで武具は発展します。
また移動機関も、馬や馬車による戦車など、時代を追うごとに、かなり進化・高度化した形跡が見られます。
建築物や生活物品などのレベルは、年々落ちていくのですが、軍事関係だけは、逆に進歩し発展して行くのがエジプト文明です。
それは、エジプト文明が周囲国との争いを経験した、明らかな証拠ですね。
一方縄文文明では、黒曜石の鏃(やじり)などがみつかりますが、これなどは、猟で使っていただろうと思います。
黒曜石の切れ味は、ナカナカのものではありますが、すぐに割れますので、戦闘には不向きです。
何せ、手で簡単に割れます。(笑)
これでは武器としては使えません。(爆笑)
戦闘があれば、双方が武具の性能を競い合うはずですから、
縄文文明のように、どこの地域でもいつの時代でも、基本的に同じ、黒曜石製の鏃しか出てこない・・・な~んていうのは、どう考えてもおかしいのです。
つまり、縄文文明下の日本というのは、極めて平和な時代が、何千年も続く時代であったはずです。
ここに日本人の、平和に対する原風景があるのではないでしょうか?
よく教科書では、
「縄文人には、国家という概念はなく、平和に暮らしていた。」
「人々は皆平等で、階級などはなかった。」
「その後の日本人が、争いという概念を持ち込んだ。」
みたいな表現をしておりますけど、半分は当たっていると私も思います。
国家という概念は、縄文人には恐らくなかったでしょうね。
私の予想では、縄文文明は”海洋型文明”です。
恐らく、小さな集落が海岸線の周囲に、北海道から九州まで(一説によると沖縄・朝鮮半島まで)点在しているような分布で、縄文の人々は、暮らしていたのではないでしょうか。
その点在する集落を、舟を使って移動する、”行商人”のような人がいて、彼らが当時の日本全国を、縄文ネットワークでつないでいたのではないか・・・と、私は想像いたします。
一つ一つの集落は、主食である栗やドングリを栽培するための林で区切られているので、近くの集落とは、実はあまり接点がなかったのではないか・・・とも、思っております。
接点がないので、お互いの利害が衝突せず、争うことも余りなかったのではないでしょうか?
栗やドングリを計画的に栽培し、それをクッキーなどにして食べる縄文人ですから、それなりの組織は、集落内であったはずです。
縄文集落には、曲がりなりにも、”高度な仕事”がありますからね。
ただ、何度も言いますが、決して、”はじめ人間ぎゃあとるず”のような、生活ではなかったはずですね。(笑)
しかし、他の集落とも、あまり接点を持たずとも、争いは少なく、それなりに楽しく暮らせたのが、縄文文明ではなかったかと、私は思います。
さて、この高度な縄文文明も終わりの時がやって参ります。
ここからが、妄想歴史マニア=土佐のくじらの本領発揮でございます。(笑)
次回から、読者の皆様の度肝を突ら抜く、日本の神話の新たな仮説をご披露いたします。(^^)
(続く)