マック店長は管理職でない 残業代など755万円払え(共同通信) - goo ニュース
店長、管理職に当たらず=権限店内のみ残業代命じる-マクドナルド敗訴・東京地裁 (時事通信) - goo ニュース
最近こう言うニュースが多い。
昔からよく「昇進して課長になると残業代が付かないから給料の手取りが少なくなってしまって苦しい」と言う話は聞く。
今回の判決で管理職と一般職の違いはその権限にあり、「マクドナルドの店長は管理職では無い」となったようだが、この解釈は何だか面白い。(当事者の方失礼。)こう言う事を裁判所に判断してもらわなければ管理職か一般か分からないと言うこと自体がとても面白い。
こう言うことがどうして起きるかと言えば、日本が年功制が当たり前であるからだろう。大概の場合は下っ端の丁稚奉公で就職し年を重ねるに従って後輩が出来、そのうちトコロテン方式で昇進して管理職になってしまう。その過程で昇進試験などいろいろあるのだが、実際に管理職になる時には辞令と言う紙1枚が渡されるだけであとはほぼ自動的にそうなってしまう。
ここで新たに労働契約書がきちんと取り交わされて職務も大きく変化するかと言うと、割合そうでもない。同じ職場で似たようなことをしながらその後の仕事をこなすだけだ。部下が付くとは言ってもそれまでの後輩がそこにいて同じ事をするだけであるから一般職時代の続きと言えばその通りだろう。
日本で管理職と言っても、こう言う状態が普通だから管理職の勉強をしてきた管理の専門職ではない。職務の内容には精通していても管理には精通していないままに管理職になるのだから、こうして部外者に判断してもらわないと本当に管理職と言えるかそうでないかの判断はできないと言うことになる。
それとは別に海外の求人を検索してみると日本とはずいぶん違う事がわかる。海外の求人にはエンジニアなどに混じって管理職を求めるものがけっこうある。ある職場に管理の専門家を迎え入れると言うことは管理職をスペシャリストとして認めている証拠だろう。日本でそんなことをしたら「あの上司は何も現場の事を分かっちゃいない。」と噂されるだけだ。
現場の事をよく分かっているが管理について素人を迎え入れる方が好きとは、とても面白い日本式システムなのである。
店長、管理職に当たらず=権限店内のみ残業代命じる-マクドナルド敗訴・東京地裁 (時事通信) - goo ニュース
最近こう言うニュースが多い。
昔からよく「昇進して課長になると残業代が付かないから給料の手取りが少なくなってしまって苦しい」と言う話は聞く。
今回の判決で管理職と一般職の違いはその権限にあり、「マクドナルドの店長は管理職では無い」となったようだが、この解釈は何だか面白い。(当事者の方失礼。)こう言う事を裁判所に判断してもらわなければ管理職か一般か分からないと言うこと自体がとても面白い。
こう言うことがどうして起きるかと言えば、日本が年功制が当たり前であるからだろう。大概の場合は下っ端の丁稚奉公で就職し年を重ねるに従って後輩が出来、そのうちトコロテン方式で昇進して管理職になってしまう。その過程で昇進試験などいろいろあるのだが、実際に管理職になる時には辞令と言う紙1枚が渡されるだけであとはほぼ自動的にそうなってしまう。
ここで新たに労働契約書がきちんと取り交わされて職務も大きく変化するかと言うと、割合そうでもない。同じ職場で似たようなことをしながらその後の仕事をこなすだけだ。部下が付くとは言ってもそれまでの後輩がそこにいて同じ事をするだけであるから一般職時代の続きと言えばその通りだろう。
日本で管理職と言っても、こう言う状態が普通だから管理職の勉強をしてきた管理の専門職ではない。職務の内容には精通していても管理には精通していないままに管理職になるのだから、こうして部外者に判断してもらわないと本当に管理職と言えるかそうでないかの判断はできないと言うことになる。
それとは別に海外の求人を検索してみると日本とはずいぶん違う事がわかる。海外の求人にはエンジニアなどに混じって管理職を求めるものがけっこうある。ある職場に管理の専門家を迎え入れると言うことは管理職をスペシャリストとして認めている証拠だろう。日本でそんなことをしたら「あの上司は何も現場の事を分かっちゃいない。」と噂されるだけだ。
現場の事をよく分かっているが管理について素人を迎え入れる方が好きとは、とても面白い日本式システムなのである。
今日、ちょっとした用で旅行代理店に行った。
その旅行代理店には結果的に無理な相談だったので担当の方がいろいろ調べてくれている時間が少し長かった。
手持ち無沙汰でカウンターに座っていると隣に大学生の男の子が2人座った。担当には女性スタッフが付きなにか相談しているようだったので聞き耳を立てて聞いていたら、学生旅行らしい。卒業旅行だろうか。
いつの頃からか大学生が海外旅行に行くのが普通になっているが、その学生たちの検討しているパンフレットは何と「パックツアー」。その代理店には学生旅行用のパンフレットが用意されていて、そのほとんどがパックツアーだからさも有りなんと言うことなのだけれども、実際にそれを見てホテルはどうのなんて女性スタッフと話している男の子を見るとやはり少しショックである。
どうも行き先は「バンコク」。そして4日間の超短期ツアー。片方の学生がホテルのパンフレットを指して「ここは?」とスタッフに言うと、「それはかなり高級ですので....」と却下。
仕舞いには「行ったことないからなあ...」と迷っているらしい。
何てこった!行ったこと無いから行ってみる、やった事ないから自分でやってみるんじゃないのか。何でバンコクあたりで若い男2人がパックツアー? 空港送迎だと!
と思って帰ると今日の毎日jpには、
「さくっと内定、さあ海外へ 大学生向け格安ツアー人気」の記事。
何だそれ?
大学生の君達、仕事に就いて「君、明日アブダビで打ち合わせして来て」って言われたらどうするの?
その旅行代理店には結果的に無理な相談だったので担当の方がいろいろ調べてくれている時間が少し長かった。
手持ち無沙汰でカウンターに座っていると隣に大学生の男の子が2人座った。担当には女性スタッフが付きなにか相談しているようだったので聞き耳を立てて聞いていたら、学生旅行らしい。卒業旅行だろうか。
いつの頃からか大学生が海外旅行に行くのが普通になっているが、その学生たちの検討しているパンフレットは何と「パックツアー」。その代理店には学生旅行用のパンフレットが用意されていて、そのほとんどがパックツアーだからさも有りなんと言うことなのだけれども、実際にそれを見てホテルはどうのなんて女性スタッフと話している男の子を見るとやはり少しショックである。
どうも行き先は「バンコク」。そして4日間の超短期ツアー。片方の学生がホテルのパンフレットを指して「ここは?」とスタッフに言うと、「それはかなり高級ですので....」と却下。
仕舞いには「行ったことないからなあ...」と迷っているらしい。
何てこった!行ったこと無いから行ってみる、やった事ないから自分でやってみるんじゃないのか。何でバンコクあたりで若い男2人がパックツアー? 空港送迎だと!
と思って帰ると今日の毎日jpには、
「さくっと内定、さあ海外へ 大学生向け格安ツアー人気」の記事。
何だそれ?
大学生の君達、仕事に就いて「君、明日アブダビで打ち合わせして来て」って言われたらどうするの?
何度も書いているドーナツとアイスクリームのワンパックハウスですが、とうとうYahoo店が開店したようですよ。最近お取り寄せスイーツは売らんかなでいろいろ派手にやっている店が多いのですが、ワンパックさんのように趣味的にやっているところも良いんじゃないかと思います。本当に趣味で使っている材料なんかすごいんですから。原価考えているのか!って感じですから。このブログもあまり見ている人はいないと思うんですが、もし興味あればヒヤカシに見てみてください。伊豆大島にわざわざ行くより楽ですから。
ワンパックハウスYahoo店
ワンパックハウスYahoo店
この文章は100年後まで残っているでしょうか。
私の人生はあとその半分も無いでしょうから、ほったらかしになって何時か消されてしまうかもしれません。もしかしたらどこかの検索エンジンのメモリの中にキャッシュとして人知れず残されるでしょうか。
100年後のみなさん
100年後、それはどんな世界でしょう。今よりも良くなっているでしょうか。それとも悪くなっているのでしょうか。私にはその予測はできません。そうする能力は今の私達には欠けているのです。決定的に。
そして、私達はあなたがたの世界を予測する手段に欠けるばかりか、私達の居ないあなたがたの世界に無関心です。私達はあなたがたの世界がどうなるかなど気にして生きてはいないのです。
私達の関心は何かちょっとした物や他人からの注目を集めたりすることにあります。我々は、まるでリスが冬眠の準備をする前に巣にヒマワリの種を溜め込むような勢いで何かを集めています。その持てる物の多さを互いに競い合っています。それらをたくさん持てる事で何故か我々は潤ったように思うのです。それが我々の生き方の基本であり関心事なのです。
そして、そのちょっとした物たちが私達の経済を支え成り立たせています。こっけいでしょうか? それとも100年後のあなた達も同じですか?
しかし、そうして集められた物達は、あなたがた100年後の世の中にはほとんどがその形を留めて残ってはいないでしょうね。自らに集めた注目や栄光のようなものさへも無に帰するでしょう。100年後のあなた達が見るそれらの物はきっとどこかの大きな穴に埋め立てられたゴミであるとか灰と言う形の物に形を変えているはずです。
もしかしたらもっとマシな処理方法が発明されて何かの役に立つ別の物に生まれ変っているでしょうか。もしそうであれば幸いです。
我々はこんな事をしながら皆死んで行きます。あなた達に残せるものはそう多くは無いでしょう。私達の事は歴史書の中に何と記されていますか。間違いの時代として記されるでしょうか、それとも輝ける時代でしょうか。
残念な事に、そこに何と記されていても私達はそれを確認できません。もっと残念な事に、我々はその事に何の関心も持ってはいないのです。
100年後のみなさん、あなた方が幸せを感じる世の中に暮らしている事をお祈りします。
<Machine translation>
Does these sentences remain 100 years later?
My life might not have the half either.
Therefore, it becomes an oak and it is likely to be erased some time when
carving it.
To everybody after 100 years.
What kind of world is it 100 years later?
Do it improve since now?
Do it worsen?
I cannot do the forecast. We of today definitely lack the ability to do so. And, it is indifferent in the worlds of you who doesn't have us. We do not worry about your worlds.
It is interested in attracting the attention of some little thing and others.As if, save up the polly seed to the nest before the squirrel prepares hibernation. Many of the thing that can be had compete mutually. We think that we were enriched in a lot of things that can be had why. It is a basis of our way of life and the concern. And, itself support, and compose our economy.
Is it funny?Or, are you after 100 years also the same?
However, things collected and might stop the shape in you 100 world beyonds of year almost and not remain. Even the one like attention and the glory, etc. attracted to oneself will also return to nothing. Shape is sure to have been changed into the thing called an ash as those things that you after 100 years see are the garbage reclaim surely from in a big hole somewhere.
Is a good processing method invented, it born in another useful thing, and was changeable possibly? It would be greatly appreciated if it is so.
We all die while doing such a thing. There might so not be a lot of things that you can leave it. How is our thing kept in mind in the history book?Is it an age that is recorded as an age of the mistake or can shine?
We cannot confirm it to a regrettable thing even if recorded very much there. It has in a more regrettable thing and we are not being interested in the thing.
It prays to live in the world where the following everybody and you feel happiness for 100 years.
私の人生はあとその半分も無いでしょうから、ほったらかしになって何時か消されてしまうかもしれません。もしかしたらどこかの検索エンジンのメモリの中にキャッシュとして人知れず残されるでしょうか。
100年後のみなさん
100年後、それはどんな世界でしょう。今よりも良くなっているでしょうか。それとも悪くなっているのでしょうか。私にはその予測はできません。そうする能力は今の私達には欠けているのです。決定的に。
そして、私達はあなたがたの世界を予測する手段に欠けるばかりか、私達の居ないあなたがたの世界に無関心です。私達はあなたがたの世界がどうなるかなど気にして生きてはいないのです。
私達の関心は何かちょっとした物や他人からの注目を集めたりすることにあります。我々は、まるでリスが冬眠の準備をする前に巣にヒマワリの種を溜め込むような勢いで何かを集めています。その持てる物の多さを互いに競い合っています。それらをたくさん持てる事で何故か我々は潤ったように思うのです。それが我々の生き方の基本であり関心事なのです。
そして、そのちょっとした物たちが私達の経済を支え成り立たせています。こっけいでしょうか? それとも100年後のあなた達も同じですか?
しかし、そうして集められた物達は、あなたがた100年後の世の中にはほとんどがその形を留めて残ってはいないでしょうね。自らに集めた注目や栄光のようなものさへも無に帰するでしょう。100年後のあなた達が見るそれらの物はきっとどこかの大きな穴に埋め立てられたゴミであるとか灰と言う形の物に形を変えているはずです。
もしかしたらもっとマシな処理方法が発明されて何かの役に立つ別の物に生まれ変っているでしょうか。もしそうであれば幸いです。
我々はこんな事をしながら皆死んで行きます。あなた達に残せるものはそう多くは無いでしょう。私達の事は歴史書の中に何と記されていますか。間違いの時代として記されるでしょうか、それとも輝ける時代でしょうか。
残念な事に、そこに何と記されていても私達はそれを確認できません。もっと残念な事に、我々はその事に何の関心も持ってはいないのです。
100年後のみなさん、あなた方が幸せを感じる世の中に暮らしている事をお祈りします。
<Machine translation>
Does these sentences remain 100 years later?
My life might not have the half either.
Therefore, it becomes an oak and it is likely to be erased some time when
carving it.
To everybody after 100 years.
What kind of world is it 100 years later?
Do it improve since now?
Do it worsen?
I cannot do the forecast. We of today definitely lack the ability to do so. And, it is indifferent in the worlds of you who doesn't have us. We do not worry about your worlds.
It is interested in attracting the attention of some little thing and others.As if, save up the polly seed to the nest before the squirrel prepares hibernation. Many of the thing that can be had compete mutually. We think that we were enriched in a lot of things that can be had why. It is a basis of our way of life and the concern. And, itself support, and compose our economy.
Is it funny?Or, are you after 100 years also the same?
However, things collected and might stop the shape in you 100 world beyonds of year almost and not remain. Even the one like attention and the glory, etc. attracted to oneself will also return to nothing. Shape is sure to have been changed into the thing called an ash as those things that you after 100 years see are the garbage reclaim surely from in a big hole somewhere.
Is a good processing method invented, it born in another useful thing, and was changeable possibly? It would be greatly appreciated if it is so.
We all die while doing such a thing. There might so not be a lot of things that you can leave it. How is our thing kept in mind in the history book?Is it an age that is recorded as an age of the mistake or can shine?
We cannot confirm it to a regrettable thing even if recorded very much there. It has in a more regrettable thing and we are not being interested in the thing.
It prays to live in the world where the following everybody and you feel happiness for 100 years.
インドのタタ、超低価格車を発表=「28万円」と世界最安(時事通信) - goo ニュース
これがどの程度「衝撃」なのか? 日本にいては想像が難しいと思うのでとりあえず自動車と二輪車の価格を調べてみた。
「インドの自動車 -ありちんの世界の車」によれば、自動車の値段は40万~50万ルピー程度らしい。タタの超低価格車はその半額と言うことになる。
「インドの二輪車産業の歴史と現状、そして今後の展望 -JAMA」によれば二輪車の価格はスクーターで約25,000~45,000ルピー、モーターサイクルは約30,000~60,000ルピーであるから、だいたい5倍程度であるらしい。
同JAMAの文献によればモーターサイクルを保有する家計は全体の28%、スクーターは8%であり、モーターサイクルはスクーターより高価格であるにも関わらず急成長しているらしい。となればこの拡大がタタの低価格車の普及に繋がる可能性も高いかもしれない。単純に価格だけで買えるものでもなくて、ローンを組みやすい金融事情であることも必要である。
いずれにしてもこの車の発売は、どんな形でかはわからないにしてもインドの自動車普及を予測するものだと考えられる。
もうずっと以前になるが、日本で自動車が大きく普及したのはそれだけの経済力が付いたと言うことに加えて、先行国アメリカの豊かさへの追従であっただろう。そう言う追従はいまだに続いていて、アメリカで流行った事は数年を経た後に必ず日本で流行る。同じ事が途上国で起こっても不思議では無い。
追従される側になった我々日本人もいまだにお金があれば自動車を買うと言うような習慣が残っている。数年に1度は車を買い換える。まだ使えるかどうかよりも、今より新しい車が発売されたとか、もうちょっと良さそうな車とかそういった事で買い換える。
そう言う姿を世界の人々は見ているだろう。中国だってもう自動車は作ることができるのだから、その安い自動車を世界中に溢れさせるだろうことも予想はつく。アフリカの内戦で銃よりも中国の1ドルもしない安いナイフがたくさんの人を殺したが、それと同じ事が自動車でも起きる可能性がある。
我々は、車が買えるだけのお金を手にしたと言う理由だけでそれを買うような原始的な習慣をそろそろ捨てて、急いで角を曲がる時期に来ているのではないだろうか。
これがどの程度「衝撃」なのか? 日本にいては想像が難しいと思うのでとりあえず自動車と二輪車の価格を調べてみた。
「インドの自動車 -ありちんの世界の車」によれば、自動車の値段は40万~50万ルピー程度らしい。タタの超低価格車はその半額と言うことになる。
「インドの二輪車産業の歴史と現状、そして今後の展望 -JAMA」によれば二輪車の価格はスクーターで約25,000~45,000ルピー、モーターサイクルは約30,000~60,000ルピーであるから、だいたい5倍程度であるらしい。
同JAMAの文献によればモーターサイクルを保有する家計は全体の28%、スクーターは8%であり、モーターサイクルはスクーターより高価格であるにも関わらず急成長しているらしい。となればこの拡大がタタの低価格車の普及に繋がる可能性も高いかもしれない。単純に価格だけで買えるものでもなくて、ローンを組みやすい金融事情であることも必要である。
いずれにしてもこの車の発売は、どんな形でかはわからないにしてもインドの自動車普及を予測するものだと考えられる。
もうずっと以前になるが、日本で自動車が大きく普及したのはそれだけの経済力が付いたと言うことに加えて、先行国アメリカの豊かさへの追従であっただろう。そう言う追従はいまだに続いていて、アメリカで流行った事は数年を経た後に必ず日本で流行る。同じ事が途上国で起こっても不思議では無い。
追従される側になった我々日本人もいまだにお金があれば自動車を買うと言うような習慣が残っている。数年に1度は車を買い換える。まだ使えるかどうかよりも、今より新しい車が発売されたとか、もうちょっと良さそうな車とかそういった事で買い換える。
そう言う姿を世界の人々は見ているだろう。中国だってもう自動車は作ることができるのだから、その安い自動車を世界中に溢れさせるだろうことも予想はつく。アフリカの内戦で銃よりも中国の1ドルもしない安いナイフがたくさんの人を殺したが、それと同じ事が自動車でも起きる可能性がある。
我々は、車が買えるだけのお金を手にしたと言う理由だけでそれを買うような原始的な習慣をそろそろ捨てて、急いで角を曲がる時期に来ているのではないだろうか。
ワンパックのドーナツがテレビ出演しました。
フジテレビの「子育てれび」の「親子で行く!伊豆大島」(1月11日午前11:25~11:30)に。
但し残念ながら出演はドーナツだけで作っている本人のオガワさんが出演せず。少しは宣伝になっただろうか?
フジテレビの「子育てれび」の「親子で行く!伊豆大島」(1月11日午前11:25~11:30)に。
但し残念ながら出演はドーナツだけで作っている本人のオガワさんが出演せず。少しは宣伝になっただろうか?