"一発逆転"を期待したいと人は思うものだけれど、そう思うのは上手くいっていない場合だとも言われます。
資格を取ったり結婚したり本を読んだりといろいろありますし、宝くじを買ったりすることもそうです。でもそれは本当に上手くいくのかなあ?、と思うことがあります。
学校で勉強してテストを受けるとその点数が出ます。同時に偏差値と言うのが出ます。偏差値と言うのは同じテストを受けた人の中で自分が平均とどの程度違うところにいるかと言う意味です。今回のテストの点数が60点だったとします。1ヵ月後にまた同じ教科のテストを受けたら今度は75点でした。15点上がったわけですが、15点分だけ1ヶ月で勉強した成果が出たと考えて良いかと言うとそうではありません。2回目のテストの平均点が1回目より上がっていたら実は学力が低下していたって可能性もあるのです。そう言うわけで偏差値が使われるわけです。
細かいことはこのあたりを読むと良いです。
偏差値のお話(←クリック)
テストの成績と人数をグラフにするとこんな感じにかならずなります。横軸が成績、縦がその成績を出した人の人数、中心が平均点です。グニャっと曲がった内側の人数を全部足すと生徒全員の数です。

2回目のテストはどうなるかと言うと、平均点が上がれば中心が右側に行きますし下がれば左側です。この山がつぶれることもあります。でも、学力が同じだったら偏差値はあまり変化しないので全体の中のどこにいるかは点数が変わっても変わりません。テストの点数が良かったとしても学期末の成績の順位が変わっていなくてがっかりと言うことです。ただ、ちょっと他の生徒よりがんばれば自分の位置が変わるのは確かです。
だからみんな"がんばろう"とするわけです。資格とか本を読むとかそう言う、みんなが普通にやることを他の人より"多く"、"効率的に"すると言うやり方です。
それはそれとして、と話を別の方向に持っていくことにします。
上の内容でわかるのは、「がんばれば自分のポジションを有利なところに変更できる」と言うことだけじゃないと思います。それは、全体のポジション構成がテストそのものによって「予め決められてしまっている」と言うことです。または入った学校のレベルは今年も去年も来年もほとんど変わらないとすれば、もう学校に入った時点で自分はこの中のどこかのポジションにいるしかないと言うことです。
これがもし別の学校に転校したらそちらの学校のこの曲線のどこかに入ります。そうなれば元の学校のポジション(偏差値)は役に立たないかもしれません。つまりは、自分のポジションのその外側にある"枠"は自分で決める権利が無いというわけです。
そう考えると"一発逆転"の確立はある程度読めるわけで、それに対して何をしなければならないかもほとんど分かります。宝くじに当たりたいのなら莫大な資本を投下してたくさん買うことしかない(そうすると絶対もうからないから一発逆転にはならない)のですし、安藤忠雄のような建築家になりたいのならまず、安藤忠雄よりもっとたくさん本を読む必要があるのは自明です。(だいたいの人は知っていてもしないし、もうそれをしてどうにかなると言う実例が出てしまっているので方法自体がもう無効かもしれない。)
そんなわけで、いくら何をしても入れ物の形と大きさが決められてしまっているわけですから余程のことがない限りにおいて、それは飛躍には結びつかないのだと言うことです。テストの満点が100点だとすればどんなに勉強しても101点には絶対到達できません。枠組みは自分で決められなくて社会や組織が決めているわけなのです。
ただ、その枠組みを変える方法と言うものも我々は実は知っています。生協という組織は消費者=運営者なので自分でルールつ作りに参加して変更可能です。同じように国や自治体でする選挙などもそうです。ただ、国の選挙のような場合、どう言うわけかあまり"変わらなさ"を我々は求める傾向にありますから変更に成功することは今のところありません。政権が民主党に交代しても、それは民主党が自民党と同じ程度に無難だと思えるようになったから選ばれたに過ぎないわけで、これは何の変更でもないのだと思います。
我々のクセは、環境全体を(自分に変化が有利なようであっても)変えることは好まず、自分のポジションを有利にする事は個人の責任だと考え勝ちなところではないでしょうか。就職難は社会の責任であるのですが、実際に自分に合った仕事が見つからないことや面接をいくら受けても落とされるのは自分の責任だと考えるのです。だから何か努力して資格を取ってみたりするのだと思います。
では飛躍なんか永久にできないのじゃないか?、とも思ってしまいます。ですが、ちょっと思うのは、今の枠がダメなら別の枠を採用している人たちのいる場所に移動してみるってもの手ではないでしょうか、こだわりを捨てて。
建築をやりたい人で安藤忠雄が好きな人はたくさんいます。だから安藤忠雄のようになりたいと思うと安藤忠雄が100点です。自分が一番上手くできてもきっと101点の安藤忠雄にはなれません。けれどもこだわりを捨ててイラクで左右前後対称形(日本だとタブーですが)の建築物を作る事を真面目に目指したらどうでしょうか?(もちろん極端な例で現実味は全然なし。)
お釈迦様の掌(てのひら)がダメなら別の神様にすがるってのはどうでしょう? そのためにはちょっとだけジャンプ(飛躍)が必要ですけれど。
資格を取ったり結婚したり本を読んだりといろいろありますし、宝くじを買ったりすることもそうです。でもそれは本当に上手くいくのかなあ?、と思うことがあります。
学校で勉強してテストを受けるとその点数が出ます。同時に偏差値と言うのが出ます。偏差値と言うのは同じテストを受けた人の中で自分が平均とどの程度違うところにいるかと言う意味です。今回のテストの点数が60点だったとします。1ヵ月後にまた同じ教科のテストを受けたら今度は75点でした。15点上がったわけですが、15点分だけ1ヶ月で勉強した成果が出たと考えて良いかと言うとそうではありません。2回目のテストの平均点が1回目より上がっていたら実は学力が低下していたって可能性もあるのです。そう言うわけで偏差値が使われるわけです。
細かいことはこのあたりを読むと良いです。
偏差値のお話(←クリック)
テストの成績と人数をグラフにするとこんな感じにかならずなります。横軸が成績、縦がその成績を出した人の人数、中心が平均点です。グニャっと曲がった内側の人数を全部足すと生徒全員の数です。

2回目のテストはどうなるかと言うと、平均点が上がれば中心が右側に行きますし下がれば左側です。この山がつぶれることもあります。でも、学力が同じだったら偏差値はあまり変化しないので全体の中のどこにいるかは点数が変わっても変わりません。テストの点数が良かったとしても学期末の成績の順位が変わっていなくてがっかりと言うことです。ただ、ちょっと他の生徒よりがんばれば自分の位置が変わるのは確かです。
だからみんな"がんばろう"とするわけです。資格とか本を読むとかそう言う、みんなが普通にやることを他の人より"多く"、"効率的に"すると言うやり方です。
それはそれとして、と話を別の方向に持っていくことにします。
上の内容でわかるのは、「がんばれば自分のポジションを有利なところに変更できる」と言うことだけじゃないと思います。それは、全体のポジション構成がテストそのものによって「予め決められてしまっている」と言うことです。または入った学校のレベルは今年も去年も来年もほとんど変わらないとすれば、もう学校に入った時点で自分はこの中のどこかのポジションにいるしかないと言うことです。
これがもし別の学校に転校したらそちらの学校のこの曲線のどこかに入ります。そうなれば元の学校のポジション(偏差値)は役に立たないかもしれません。つまりは、自分のポジションのその外側にある"枠"は自分で決める権利が無いというわけです。
そう考えると"一発逆転"の確立はある程度読めるわけで、それに対して何をしなければならないかもほとんど分かります。宝くじに当たりたいのなら莫大な資本を投下してたくさん買うことしかない(そうすると絶対もうからないから一発逆転にはならない)のですし、安藤忠雄のような建築家になりたいのならまず、安藤忠雄よりもっとたくさん本を読む必要があるのは自明です。(だいたいの人は知っていてもしないし、もうそれをしてどうにかなると言う実例が出てしまっているので方法自体がもう無効かもしれない。)
そんなわけで、いくら何をしても入れ物の形と大きさが決められてしまっているわけですから余程のことがない限りにおいて、それは飛躍には結びつかないのだと言うことです。テストの満点が100点だとすればどんなに勉強しても101点には絶対到達できません。枠組みは自分で決められなくて社会や組織が決めているわけなのです。
ただ、その枠組みを変える方法と言うものも我々は実は知っています。生協という組織は消費者=運営者なので自分でルールつ作りに参加して変更可能です。同じように国や自治体でする選挙などもそうです。ただ、国の選挙のような場合、どう言うわけかあまり"変わらなさ"を我々は求める傾向にありますから変更に成功することは今のところありません。政権が民主党に交代しても、それは民主党が自民党と同じ程度に無難だと思えるようになったから選ばれたに過ぎないわけで、これは何の変更でもないのだと思います。
我々のクセは、環境全体を(自分に変化が有利なようであっても)変えることは好まず、自分のポジションを有利にする事は個人の責任だと考え勝ちなところではないでしょうか。就職難は社会の責任であるのですが、実際に自分に合った仕事が見つからないことや面接をいくら受けても落とされるのは自分の責任だと考えるのです。だから何か努力して資格を取ってみたりするのだと思います。
では飛躍なんか永久にできないのじゃないか?、とも思ってしまいます。ですが、ちょっと思うのは、今の枠がダメなら別の枠を採用している人たちのいる場所に移動してみるってもの手ではないでしょうか、こだわりを捨てて。
建築をやりたい人で安藤忠雄が好きな人はたくさんいます。だから安藤忠雄のようになりたいと思うと安藤忠雄が100点です。自分が一番上手くできてもきっと101点の安藤忠雄にはなれません。けれどもこだわりを捨ててイラクで左右前後対称形(日本だとタブーですが)の建築物を作る事を真面目に目指したらどうでしょうか?(もちろん極端な例で現実味は全然なし。)
お釈迦様の掌(てのひら)がダメなら別の神様にすがるってのはどうでしょう? そのためにはちょっとだけジャンプ(飛躍)が必要ですけれど。
なんだか、最近自分の思考回路が変わってきたことを感じていますが、そんなふうにとんでみようと、今、思い始めています。そんな自分にタイムリーなおはなしを読ませていただきました。
なんだ昨日のコメントはオラングさんじゃなかったですか。
やけにシニカルなB臭漂うコメントで。
しかとしますわ。
今日のブログ、なんか面白いことを書かれていますね。
いやあ本当にそうだと思いますね。
結局、器の中でいくらあがいても所詮その中のかわずにすぎない。
○ンカスのような人生ですわね。
安藤さんの魅力は、学歴とか資格とか器を取っ払って、純粋に建築文化を極めようとして、あの地位を得た点にあると思います。
反骨精神というか(実際著書の中で自分はゲリラだっつってましたし)
実際コンクリ打ちっぱなし自体は、私は特に何とも思わないし。
私が、オラングさんのブログ見に来てしまうのも、なんかやっぱりそのへんの「反骨心」というか、日本のちんけな枠組みにとらわれない魅力があるからでしょう。
とにかく、正直に言えば、私もいつかオラングさんのようなグローバルスタンダードな生き方を体現したいということ。
学生時代からも、なんだかそういうオイニイを発するオラングさんに嫉妬心を感じてたやも知れない。
今、私は次なる目標 これは建築ではないですけど、に命がけで臨むつもりです。
一歩一歩オラングさんのような生き方に近づいて行くためにも。
それではまた来ますでよう。
追伸
またなんか、キャドで作品でも発表してくださいよ。
私も、今後時間が空いたすきに、キャドの練習して、アップしますでよう!
マンキー
私マンキーこと まんきー
明日から 新たなジャランジャランに出発致します。
ドラゴン ゲート(登竜門)
という私の好きなラリーコリエルの曲です
http://www.youtube.com/watch?v=lva1IDF1srw
このバージョンはあまり好きではないです。
じゃあ ご機嫌よろしゅう
いつか オラングさんと 東南アジアのどこかで 酒でも飲みたいものです。
スラマトマラム!