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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
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since Oct. 2004

結婚式、残念

2011-04-17 21:02:37 | 2年目のマレーシア
結婚式に行かれなくなってしまいました。

残念ながら車が手配できず、行けなくなってしまいました。仕方ないので明日、お祝いだけ渡す事にします。




他人を見て、この人はこの先どうなるんだろうなあ、と思うことがある。

ある人がそこである事をしている。その人にはその人の原点と言うのがある。つまりXY座標のゼロのところ。ゼロのところは生まれた時と場所と環境。そこからずっと育って行って今、その人はその事をしている。時々何か判断せねばならない事があって何かを決断して、それは小さなことでも大きなことでも、そしてその人はここまでたどり着いた。

ここから先は、その軌跡の延長上をずっと行くだろうか?


人間は現在のところ、自分は一貫したものを持つ存在だと思うものらしい。自分と言うものは何かと考える。何かはたった1つの普遍的でシンプルな何か。

だからその人が今こうしてここでそれをしているとすれば、この先大きな変化と言うのはあまり期待できるものではない。つまりこの程度の今ならこの先もこの程度からそう大きく変わることはない。する事は違ってもその内容は違わないかもしれない。

別の見方をすれば、外から見れば、それでもし満足できないのだったら、無理やり捻じ曲げてみたらどうなるんだろう。そう言うことは果たして可能なのだろうか。生まれ持った才能の限界、性格の限界、身体能力の限界、遺伝的限界、環境から来る限界、与えられたお金の限界、そうした制限は確かにある。その点から見れば捻じ曲げるなど不可能。だとすれば自分らしさを追及すればするほど、いやそんな事をしなくたって自ずと方向性は決まってしまう。

いや、待て待て、と思う。

そもそも人間と言うのはそんなにシンプルで一貫した何かなのか? 追求して出てくる何かがあるとしても、それがそのまま未来にも変わらぬ自分の芯なのか? そう思いたいだけではないのか? 簡単に自分を理解する方が楽なのではないか? ならば、何も変えなくても済む。定義に従って自分はこう言うものだと思えばそれで良いかもしれない。悪い言い方をすればあきらめがつく。

実際に人には人生の間でどれだけ変化があるのだろう。人間と言うのはどちらなのだろう。少なくとも定義などできないでフワフワとどうなるかわからない方が不安もあるけれど楽しいように思う。


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