
最近、WEB上の小説などを読ませてもらって強く感じるのは、日本人のパターンを読む能力だ。
ずっと昔の事、たまたま家に来たバックパッカーの人が言っていた事をまた思い出した。その人は当時のバックパッカーだからタイやインドなどを中心に歩き回っていて、やはり同じようなバックパッカーとも安宿で会う事が多かったそう。中には安宿に住み着いていると言えるほど長く宿泊している人がいるとか。そう言う人がなぜいるのかと言うと、日本では違法な大麻とかその手のものがそこで手に入るからだったそうだ。
その人達の特徴が、そう言う事をするにも「道」のようにしてしまう。道と書いて「どう」だ。つまり花道、茶道、柔道のあの道だ。大麻やるにも気軽にテキトーに楽しむのではなくて、作法を作って正しいやり方と言うのが出来てくる。それに反するやり方はダメと言うとか。それを教えてくれた人は「たかが・・」と加わらないようにしていたそうだ。もちろん彼の国でも違法だし。
そうなんだよね、そうしたパターン化って、日本人はかなり訓練されている。勉強するのだってやり方があるし、パターンを覚えるのが先行する。つまり公式を覚えて問題を解けるようにしてしまう。前の年に出た問題をちゃんとやって対策する。でもその奥にある考え方は学ばない。
会社で上手くやるには考えるより先輩のやり方をトレースする。だからその会社を辞めて他に行っても新入社員と同じになってしまう。パターンで勝負しているから。
小説書くような個人の創造性に依存するアウトプットも全く同じ事で、そのプラットフォームのパターンを読んでそれ風に書く最適化をしている人がほとんどに見える。
ある意味、「道」のやり方は1つの発展の形式だからそれをもって悪いとは言えない。道にならなければお茶はもう無かったかも知れないし、花を生けるのだってつまらないものしか残っていなかった可能性がある。盆栽なんかもそうだろう。パターンが無いとけっこうつまらない。
でもね、やっぱりそのパターンとその外側ギリギリのところをあえて狙うって人は必要だなと思う。バカにされて終わるか、新規性であっと言わせるかどっちか、そこを狙うのが。
建築なんかもまさにそれで、いかに外れようかってところでデザインしたりする。面白いよね。
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