7月28日(土)、掛川ライフスタイルデザインカレッジ7月フォーラムが行われた。講師は国立民族学博物館・民族社会研究部准教授の横山廣子氏、講演のタイトルは『中国人・中国文化との出会い-文化人類学的理解の醍醐味-』である。
横山氏とは、昨年のフォーラムで初めてお会いした以後も、掛川大祭のフィールドワークで何度かお会いしており、自分でずんずん歩き、見て、聞く、まさに「現場の人」だなあと感じていた。
今回の講演も、「似ているけれどちょっと違う日本と中国の行動様式の根幹を、わかりやすく紹介したかった」の言葉通り、まさに現場から生じた感覚が出発点になっている講演であり、心に響くことが多かった。
横山氏は冒頭、中国の人と接触する中で「あれ」と思うことが、調査研究していく上でヒントとなることが多かったという話をされた。昨年のフォーラムでもおっしゃっていたように、自分の感覚を大事にし、感性をとぎすませ、「あれ」と感じたことをそのままにしない好奇心が大事なのだ。
小説好きの私にとって印象的だったのは、名前の付け方だった。中国では男系(父系)の親族のつながりが強く、伝統的に大家族で暮らすことが理想となっていた。男系親族内では同世代(兄弟、いとこ)の名前には、必ず同じ漢字を付けるという風習もあった。だから、関係が離れていたり、初対面の場合でも、名前を聞けば「誰と同世代の人か」がすぐわかったという。
なるほど、浅田次郎の『蒼穹の昴』を読んだとき、主人公は「春雲」。『中原の虹』で主人公となる兄は「春雷」だった。
もう一つ、ぺー族のお盆の風習が面白かった。
お金や服や靴を紙でつくり、燃やすと、あの世で祖先がそのお金や服や靴が使えると信じられている。
中国で子どもがいないことはとても怖いことだと思われるのは、老後の暮らしのこともあるが、自分が祖先供養してもらえないことに対する恐怖があるからだという。紙のお金を燃やしてくれる人がいないと、あの世で生活できない。成仏できない。さまよえる魂になってしまう。それを中国では「鬼(グゥイ)」になるという。「鬼(グゥイ)」にはなりたくない。だから、祖先供養してくれる子孫がほしい。
これはまさに、ファンタジーの核となりそうなモチーフである。
フォーラム後の懇親会がさらに面白かった。それぞれに感じたことを話し、横山氏が質問に答える形で補足説明をされたのだが、より自分たちのライフスタイルや生き方に関わるような議論ができたように思う。
私が話したのは次のようなことである。
「講演の中で、おごり、おごられる関係は、そのまま、頼り、頼られる関係であり、それによって関係性が深まるとも言える、というお話があった。さらに、割り勘は平等のように感じられるが、そこで関係性がいったん断ち切られることにもなる。精算されることになる。おごり、おごられる関係を『良し』とするのは、関係性を連続されるための知恵かもしれない、というお話が印象的だった。
その場で精算することは楽かもしれない。言い換えれば、白か黒かはっきりさせることは、次に引きずらなくて楽かもしれない。しかし、そこで関係性を断ち切ることになる。グレーゾーンにいることは、色々な意味ではっきりせず、苦しいかもしれないが、そこにとどまることも大事なときもある。『おごり、おごられる関係性』のお話から、私はそんなことを考えた」
これをS藤さんは「リセットしない文化」「曖昧な関係性は機会を与える」と言っていた。
もう一つ、印象的だったのは、横山氏のこんなお話。
「何かを決めるとき、自分が慣れ親しんだものから選ばなくてもいい。自分がいいと思っているものの中かから選ばなくてもいい。異文化を知る時、よくよく裏を考えてみれば、道理もあるし、理由も納得できる。そんなふうに、自分が納得できるものを増やし、選択の幅を広げ、その上で自分で選べばよい。決めるのは、自分」
近いようで遠い中国のお話として聞くもよし、身近な自分の生活に引き寄せて聞くもよし。様々な考えようのできる、考えるきっかけを与えてくれる、そんな講演だった。
横山先生、ありがとうございました。