12月13日(土)
当日の行程:(車) → 【笠置寺】 → 【旧柳生藩家老屋敷】 → 【旧柳生藩陣屋跡】 → 【十兵衛杉】 → 【仙禅寺】 → 【良寛生誕250年 大和し美し 川端康成と安田靫彦(MIHO MUSEUM)】 → 【紫香楽宮跡(甲賀寺跡)】
車で笠置寺へ向かう。
途中、カーナビに元正天皇奈保山西陵と元正天皇奈保山東陵が表示されたので、訪れる。
そして、再び、笠置寺を目指す。
笠置山登山口
「史の道ハイキングコース」で笠置寺へ。
ここから笠置寺まで約2キロ。
笠置山の標高は290メートル。
登り始めの勾配がキツイ。
一の木戸跡付近
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は約2500名の兵とともに笠置山に立てこもる。
三河国の足助次郎重範が、下から攻め込んでくる幕府軍の敵将・荒尾九郎、弥五郎兄弟を弓で打ち落とした場所だとされる。
足助重範公奮戦跡の碑
笠置寺山門
笠置山の巨岩は、弥生時代から信仰の対象になっていたとそうだ。
天智天皇の皇子・大友皇子が笠置山に鹿狩に来た時のこと、岩の上で進退きわまり、仏を念じたところ難を逃れることができたという。
後日の目印のために岩の上に笠を置いてきたことから「笠置」という名がついたと伝わる。
解脱鐘(重要文化財)
建久7年(1196)、東大寺俊乗坊重源作。
鐘の基底部が6つに切り込まれた意匠は、日本に1つしかなく、貴重な梵鐘なのだそうだ。
椿本護王宮
笠置寺鎮守。
延喜8年(908)、日蔵上人によって吉野金峯山から勧請したものと伝わる。
大師堂
石仏弘法大師を祀る。
天平勝宝3年(751)年、東大寺實忠和尚によって建立された正月堂の跡。
正月堂
笠置寺本尊・弥勒大磨崖仏の礼拝堂。
現在、東大寺の二月堂で営まれる「お水取り」の第1回目は、この正月堂で行われたのだという。
創立時の建物は元弘の戦で焼失し、現在の建物は室町時代に再建されたもの。
弥勒大磨崖仏
笠置寺の本尊仏。
正月堂に向かって左側の崖に彫られている。
奈良時代、東大寺の良弁と実忠の両和尚の指導のもと、大陸からの渡来人によって彫られたという。
大きさは、高さ20メートル、幅15メートル。
光背は分かるけれど、他ははっきりとしない。
これは、崖の前に建っていた禮堂が、元弘の戦をはじめ3度の火災で焼けたときの炎で磨耗してしまったのだという。
十三重石塔(重要文化財)
本尊・弥勒大磨崖仏に向かって左手に建っている。
元弘戦での戦死者の供養塔であるとも、解脱上人が母のために建てた塔であるとも伝えられる。
千手窟
笠置寺の修行場。
二月堂の「お水取り」の行法も実忠和尚がこの修行場で行中感得したものだといわれる。
伝・虚空蔵磨崖仏
弘仁年間(810~824)、弘法大師がこの石に登り、求聞寺法を修し、一夜で彫ったものだと伝わる。
写真だと分かり辛いが、実際にははっきりと形が分かる。
胎内くぐり
笠置山の修行場の入口。
行場入りする前にはふつう滝で身を清めるが、笠置山には滝がないので、岩をくぐって身を清めたのだという。
太鼓石
ゆるぎ石
元弘元年(1331)、後醍醐天皇が鎌倉幕府からの奇襲を受けた場所。
この石は、奇襲に備える武器として運ばれたものだとされる。
「ゆるぎ石」という名は、この石の重心が中央にあり、人の力で動かせることからついたのだという。
このあたりは山の頂上付近で、眺めも良い。
木津川にかかる笠置大橋も見える。
この矢印は進行方向を示すもの。
矢印や案内の表示のおかげで、迷わずすべてを見て回れるようになっている。
けれど、この矢印の先は……
狭い岩の間。
本当にここを通るのだろうか?
岩を通り抜け、振り返る。
道順は合っているようだけれど、力士が笠置寺を見て回るのは難しいな。
二の丸跡
笠置山には、正式な築城はなされなかったが、後醍醐天皇行在所跡を本丸と見立て、そこから一段下にあるこの場所を二の丸跡としたようだ。
後醍醐天皇行在所跡
笠置山の山頂にある。
後醍醐天皇歌碑
後醍醐天皇行在所跡の前には、歌碑がある。
「うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る」
貝吹き岩
元弘の戦の際、勤皇軍の武士の士気を高めるために、この岩の上でほら貝が吹かれたという。
宝蔵坊跡
奈良時代に創建された笠置寺塔頭49ヶ寺の宝物庫の跡。
元弘の戦で焼失。
現在は「もみじ公園」と呼ばれている。
訪れたときはもう散ってしまっていたが、足もとが落ち葉でふかふかで、ここの紅葉の素晴らしさが想像できた。
毘沙門堂
笠置寺49院のうちの多門院の本堂。
本尊・毘沙門天は、楠木正成の念持仏と伝わる。
笠置寺の御朱印
当日の行程:(車) → 【笠置寺】 → 【旧柳生藩家老屋敷】 → 【旧柳生藩陣屋跡】 → 【十兵衛杉】 → 【仙禅寺】 → 【良寛生誕250年 大和し美し 川端康成と安田靫彦(MIHO MUSEUM)】 → 【紫香楽宮跡(甲賀寺跡)】
車で笠置寺へ向かう。
途中、カーナビに元正天皇奈保山西陵と元正天皇奈保山東陵が表示されたので、訪れる。
そして、再び、笠置寺を目指す。
笠置山登山口
「史の道ハイキングコース」で笠置寺へ。
ここから笠置寺まで約2キロ。
笠置山の標高は290メートル。
登り始めの勾配がキツイ。
一の木戸跡付近
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は約2500名の兵とともに笠置山に立てこもる。
三河国の足助次郎重範が、下から攻め込んでくる幕府軍の敵将・荒尾九郎、弥五郎兄弟を弓で打ち落とした場所だとされる。
足助重範公奮戦跡の碑
笠置寺山門
笠置山の巨岩は、弥生時代から信仰の対象になっていたとそうだ。
天智天皇の皇子・大友皇子が笠置山に鹿狩に来た時のこと、岩の上で進退きわまり、仏を念じたところ難を逃れることができたという。
後日の目印のために岩の上に笠を置いてきたことから「笠置」という名がついたと伝わる。
解脱鐘(重要文化財)
建久7年(1196)、東大寺俊乗坊重源作。
鐘の基底部が6つに切り込まれた意匠は、日本に1つしかなく、貴重な梵鐘なのだそうだ。
椿本護王宮
笠置寺鎮守。
延喜8年(908)、日蔵上人によって吉野金峯山から勧請したものと伝わる。
大師堂
石仏弘法大師を祀る。
天平勝宝3年(751)年、東大寺實忠和尚によって建立された正月堂の跡。
正月堂
笠置寺本尊・弥勒大磨崖仏の礼拝堂。
現在、東大寺の二月堂で営まれる「お水取り」の第1回目は、この正月堂で行われたのだという。
創立時の建物は元弘の戦で焼失し、現在の建物は室町時代に再建されたもの。
弥勒大磨崖仏
笠置寺の本尊仏。
正月堂に向かって左側の崖に彫られている。
奈良時代、東大寺の良弁と実忠の両和尚の指導のもと、大陸からの渡来人によって彫られたという。
大きさは、高さ20メートル、幅15メートル。
光背は分かるけれど、他ははっきりとしない。
これは、崖の前に建っていた禮堂が、元弘の戦をはじめ3度の火災で焼けたときの炎で磨耗してしまったのだという。
十三重石塔(重要文化財)
本尊・弥勒大磨崖仏に向かって左手に建っている。
元弘戦での戦死者の供養塔であるとも、解脱上人が母のために建てた塔であるとも伝えられる。
千手窟
笠置寺の修行場。
二月堂の「お水取り」の行法も実忠和尚がこの修行場で行中感得したものだといわれる。
伝・虚空蔵磨崖仏
弘仁年間(810~824)、弘法大師がこの石に登り、求聞寺法を修し、一夜で彫ったものだと伝わる。
写真だと分かり辛いが、実際にははっきりと形が分かる。
胎内くぐり
笠置山の修行場の入口。
行場入りする前にはふつう滝で身を清めるが、笠置山には滝がないので、岩をくぐって身を清めたのだという。
太鼓石
ゆるぎ石
元弘元年(1331)、後醍醐天皇が鎌倉幕府からの奇襲を受けた場所。
この石は、奇襲に備える武器として運ばれたものだとされる。
「ゆるぎ石」という名は、この石の重心が中央にあり、人の力で動かせることからついたのだという。
このあたりは山の頂上付近で、眺めも良い。
木津川にかかる笠置大橋も見える。
この矢印は進行方向を示すもの。
矢印や案内の表示のおかげで、迷わずすべてを見て回れるようになっている。
けれど、この矢印の先は……
狭い岩の間。
本当にここを通るのだろうか?
岩を通り抜け、振り返る。
道順は合っているようだけれど、力士が笠置寺を見て回るのは難しいな。
二の丸跡
笠置山には、正式な築城はなされなかったが、後醍醐天皇行在所跡を本丸と見立て、そこから一段下にあるこの場所を二の丸跡としたようだ。
後醍醐天皇行在所跡
笠置山の山頂にある。
後醍醐天皇歌碑
後醍醐天皇行在所跡の前には、歌碑がある。
「うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る」
貝吹き岩
元弘の戦の際、勤皇軍の武士の士気を高めるために、この岩の上でほら貝が吹かれたという。
宝蔵坊跡
奈良時代に創建された笠置寺塔頭49ヶ寺の宝物庫の跡。
元弘の戦で焼失。
現在は「もみじ公園」と呼ばれている。
訪れたときはもう散ってしまっていたが、足もとが落ち葉でふかふかで、ここの紅葉の素晴らしさが想像できた。
毘沙門堂
笠置寺49院のうちの多門院の本堂。
本尊・毘沙門天は、楠木正成の念持仏と伝わる。
笠置寺の御朱印