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「武士の文化」から規格大量生産の近代工業社会へ <69> H15.1.14

2010年08月23日 | じんたん 2002


 本当にこの頃の奥井は歴史づいていますねぇ。でも、歴史を勉強するってとても大事ですし、特に、異なる視点から歴史を見ることが大切です。いろんな人の歴史観を学んでみたいものですね。


「武士の文化」から規格大量生産の近代工業社会へ

 (徳川)幕府も懸命の改革を行った。(中略)徳川慶喜は、財政、兵制、政府機構などを大改革、フランス駐日公使の助言を入れて近代的な軍隊組織や政府機構をつくり始めた。軍艦や鉄砲を大量に輸入し、造船所や製鉄所も建てた。この点では、討幕派よりも進んでいた、といえるかも知れない。

 しかし、幕府の改革は実らなかった。しょせん、「武士の文化」を越えられなかったからだ。伝統と様式が大切である、礼儀正しい武士でなければ政治も行政もできない、という枠から踏み出すことができなかったのである。

 これに対して倒幕維新派は、武力でも財力でも劣っていたし、知識や経験も乏しかった。それでも、「武士の文化」を否定することで、まったく新しい尺度と考え方(パラダイム)を取り入れることができた。このことは、今、二十一世にの改革を考えるうえでも特に重要である。


 「昭和」を迎えて、日本の経済は本格的な近代工業社会に入ったといってよい。その一方で、明治以来の官僚主導が世界大不況のなかで急速に強くなった。これが完成したのは国民学校令や帝国国策遂行要綱がつくられる一九四一年(昭和十六年)頃だ。だから、私はこれを「昭和十六年体制」を呼んできた。

 昭和十六年体制には四本の柱がある。

 第一は資金の物資の統制だ。(中略)

 第二番目には、あらゆる分野で規格基準を徹底させた。(中略)

 そして第三には、全国民を規格大量生産に向いた勤労者に仕立て上げることだ。明治以来、日本は教育の普及に努めてきたが、昭和になると全国民を規格大量生産に向いた人間にしようという考えが教育官僚の間に拡まり出す。

 規格大量生産に向いた人間とは、第一に辛抱強いこと、第二に協調性に富んでいること、第三には共通の知識と技能を持っていること、そして第四には個性と独創性がないことである。

 外国から技術や制度を導入して、規格大量生産を行うのなら、個性や独創性は無用である。そこで大事なのは辛抱強い勤勉さとみんなと共同作業のできる協調性である。昭和の教育はそうした習慣を植え付けるものだった。

 そうした教育を目指してつくられたのが、昭和十六年三月に公布された「国民学校令」である。国民学校体制の最大の特徴は、厳格な「通学区」である。小学校と中学校(当時は高等小学校)には、一学校一通学区域が敷かれ、居住地で入学する学校が決まる、いわば官僚が強制的に入学する学校を割り当てるのである。(中略)

 全国の生徒が同じような教育を受けるのだから、嫌いな科目も習わなければいけない。同じ教科書を憶え、同じ運動をする。そうすると、規格大量生産に向いた辛抱強くて協調性があり、共通の知識と倫理観を持った人間ができる、というのである。

 昭和十六年体制の四番目の柱は地域構造だ。首都東京を中心にして、日本全国土を人間の体のようにする有機型地域構造を志向したのである。


 江戸時代の最大の正義は安定であり、最高の美は伝統的な様式美だった。

 ところが、黒船の近代化を奨めるメッセージを受け入れて、古い安定よりも新しい進歩を大切に考えるようになった。安定と様式にこだわっていたのでは、外国から蔑みを受ける、という危機感が湧き起こったからだ。そこで生まれたのが「富国強兵」のコンセプトであり、それを推進するための忠勇と勤勉を正義とする社会倫理だった。

 外国に蔑まれない豊かな国家と強い軍隊を実現するには、国民はこぞって国に忠義で敵に対しては勇敢で、外国の近代文明の習熟と仕事に対しては勤勉であるべし、というわけである。

 ところが、太平洋戦争の敗戦で、日本の目標から強兵は消え、忠勇という武人的な徳目は失われた。いわば「武人の文化」が敗戦によって否定された。それに代わって、繁栄と平和を目指す日本にふさわしい新しい正義が生まれた。効率・安全・平等の三つである。


 一方、敗戦にもかかわらず変わらなかったものもある。それは経済における官僚主導体制と、画一型の教育、それに東京一極集中の政策、つまり、規格大量生産のための仕掛けと仕組みである。

「日本の盛衰 近代百年から知価社会を展望する」堺屋太一著、PHP新書より


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