はがきのおくりもの

 思い出したくなったら、ここに帰っておいで!!!
 元気を補給したら、顔を上げて、歩いて行くんだよ!

夢や希望は身近に置くもの <80> H15.2.24

2010年09月10日 | じんたん 2002

 夢や希望を身近に置くって、たえず小さな夢や希望を叶えていくってことでしょうか。


強さとは、流れに沿っていく能力……夢や希望は身近に置くもの……

 「苦」と「楽」はそれぞれ別々に独立して存在するものだと考え、「苦」を否定し、「楽」だけを肯定するところに、余分な葛藤が生じるのだ。「苦しいこと」から逃げまくり、「楽しいこと」だけを追求する、「楽したい」とつねづね考えて生きている人の場合、その考え方にどだい無理があるので、心の中に無駄な葛藤を生じ、さらにその苦痛は倍加しているといえよう。

 なぜなら、「苦」と「楽」、「不幸」と「幸」などと言葉のうえでは二つに区別ができるのだが、これらは、実際には別々に存在しているのではない。

 「楽は苦の種、苦は楽の種」という白隠禅師の言葉があるが、裏と表で成り立っている一枚のコインのように、二つで一つ、二つのものはもともと一体なのである。


 私欲をなくせば、心は「良知」そのものの心になるのだ。心が良知で満たされたということは、天理と万物(自然)と一体となったということを意味している。そうなったとき初めて、人は自然の本質と宇宙の真理と感応でき、肉眼では見えなかったものが見えるようになるというのである。


 誰にでも、自分のいま置かれた境遇がよくない理由に、周囲の同僚の誰かや両親を含む家庭環境や社会のせいにして、自分の努力不足をごまかす、カバーするという言い訳を繰り返してきた経験はおありだろう。いまだに、他人や社会のせいにして、努力を怠っている人も多いに違いない。

 もちろん、他人や社会にも問題があることを分かっていての話なのだ。確かに、誰が見てもどうしようもない性根の腐った人や、困った状況というのはあるわけだけれど、口でいって説明しても、お説教しても、相手はますます心を閉ざすだけなのである。ましてや、目に見えない社会という存在に対して文句をいってみたところで、それは愚痴でしかない。


 舜は、自分で自分を修める努力をするだけで、自分を修めることで悪人を感化しようとはしたが、積極的にしゃしゃり出て悪人の悪事を正すことはしなかった。時間はかかったかもしれないが、そうした努力が功を奏したのである。もし舜が、象の悪事をあばきたて、非難していたら、お互いの溝は深まるばかりで、さらに悪事を重ねさせていたに違いない。

 舜は、自分に対して心を開かせる、友達になるという工夫をしたうえで、言葉ではなく、態度で、間接的に象の悪事を正していったのだ。


 「配牌で、一九牌だけが集まって来ると、たいていの人はツイてないという。人間が勝手にツイてないと思ってるだけなのです。人は、自分の思ったとおりになることをツイているというわけですね。ツイてる、ツイてないじゃなくて、麻雀からテーマを与えられてるんですよ。今度は、このテーマに取り組んでごらんとね」

 もちろんこの言葉は、麻雀だけではなく、人生にも通じる教えである。配牌同様、トラブルや試練は、取り組み、乗り越えるためのテーマであり課題なのである。


 「一番大切なことは、いま出来ることをやるということなんです。誇大イメージのために、がんばるんじゃない、ということなんです。

 皆は誇大イメージが、夢や希望がないと動けないと思ってるんです。でもそれは、いまの自分の動きを狭くしているんですよ。思いやりだとか、助け合いだとか、やさしさとか、やることはいっぱい転がっているというのに。

 夢や希望っていうのは、身近に置くものなんです。身近なものを、段々段々一つずつクリアーしていって夢を楽しむんです。それを遠くに置くから、身近なものをおろそかにすることがあるんです。これだったらやるけど、これはやらないっていうのが多くなるのは、夢や希望というのを、天下を取った徳川家康だとか松下幸之助だとかに置いてしまうからです。

 そんなの損だ、やってられないよっとかそんな子たちが多くなってきて、逆にアホなことへ走っている子が多いんです」

  「雀鬼と陽明」林田明大著、三五館より


  大人たちは夢を追ってここまで来たんじゃないのに、夢見ることを子どもたちに語りたがる。夢を追い求めたがる現代人の習性は、いつ頃から生まれたのだろうか。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。