はがきのおくりもの

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歴史における悪の意味 <68> H15.1.6

2010年08月22日 | じんたん 2002


 この頃の奥井は何とも難しい本を読んでいたんですねぇ。たぶん理解してはいなかったでしょう。それでも読んでいたのはなぜか?………それは、私にはわかりません。

 ただ、「執着することは、硬直化と死にいたる道である。ただ動くことのうちに、それがどんなに痛ましくとも、生命がある」って言葉には、奥井が共感したことだけはわかる気がします。
 「どんなすばらしい教材や指導法でも、集めただけでは何もならない。それらは流通することでしか意味をもたない」なんてことを奥井が言っていたと記憶しています。


歴史における悪の意味

 できるだけ利害や主観を棄てて歴史の認識に徹しようとしたブルクハルトの目に映じたものが、他の歴史家たちの考察にくらべて、客観的で真実に近いなどとは断言できない。ただ、いえることは、ブルクハルトが「認識のための認識」を通じて見出した歴史は、同時代のおおむね楽観的な進歩史観に立つ歴史叙述とは違って、大胆に「悪」の要素をふくんでいたことである。彼の歴史観によれば、「悪」もまた歴史のなかで重要な役割を演じており、イタリア・ルネサンスのごとき世界史のなかで燦然と輝く文化と芸術の時代も、身の毛もよだつような悪行の数々と表裏一体の関係にあったのである。

 「地上における悪は、大きな世界史の経済の一部であって、それは、強者の弱者にたいする暴力であり、権利である。それは、すでに自然界(動物界と植物界)を満たす生存競争のうちに予示され、歴史の初期における殺人や略奪を通じて、また、弱い人種、同じ人種のなかの弱い民族、弱い国家組織、同じ国家・民族内における弱い社会階層にたいする圧迫(とくに絶滅あるいは奴隷化)を通じて、人類のなかにもち込まれたものである」。

 「こうしたすべての敗北を喫した諸勢力は、おそらく、より気品があり、より善であったろう。しかし、勝者のみが、ただ支配欲によって駆り立てられているにしても、未来を招き寄せるのである。ただ、一般的な道徳律は個人には継続的に通用しても、国家はそれを免除されているということのうちに、未来にたいする予測に似たものが暗示されている」。

 「すべての成功した暴力行為は、悪であり、不幸であり、少なくとも危険な例である。……地上における支配者は、キリスト教の教えにしたがえば、悪魔である。……だが、悪の支配は高い意義をもっているのであり、ただそれと並んでのみ、無私の善というものが存在するのである。もしも一貫して善は報いられ悪は罰せられることの結果、悪人がすべて合目的的に善く振る舞いはじめたならば、それは見るに耐えない光景であろう。というのも、悪が存在することは避け難く、彼らが内的に悪であることに変わりはないからである」。


 二十世紀の私たちは、「ベルリンの壁」の崩壊とソ連邦の解体に象徴される冷戦の終結を通じて、大きな「歴史の危機」を経験した。しかし、情報技術の異常な発達とグローバル化の進行によって、私たちは、冷戦の終結をさらに超えた超弩級の「歴史の危機」のさなかに立たされており、国民国家の動揺をはじめとして、足下の大地が揺らぐほどの不安をおぼえている。科学・技術の発達や経済のグローバル化などというと、動いているのは精神であるより物質的なものだと思われるかもしれない。しかし、これらの一見物質的なものも、やはり人間精神の働きから生まれたものであり、その意味では、今日の「歴史の危機」を招いているのも、とどまることを知らない精神の働きだということになろう。

 ここでいわれている精神の働きは、必ずしも理念の昂揚のごとき高尚な側面だけを指しているのでなく、たんなる「倦怠」から変化をもとめるといった卑俗な側面も指しているのである。「人間のなかには、周期的に大きな変化をもとめる衝動がひそんでいる。どの程度の平均的な幸福感をあたえようとも、人間というものは、いつの日か、ラマルティーヌ(一八四八年の二月革命で活躍した人物)とともに、『フランスは倦みたり!』と叫び出すだろう」。つまり、ブルクハルトによれば、倦怠感も革命を惹き起こす重要な要因の一つだというわけである。


 「一定の状態に執着することのうちに幸福が成り立つという考えは、それ自体として偽りなのである。執着することは、硬直化と死にいたる道である。ただ動くことのうちに、それがどんなに痛ましくとも、生命がある」。

 この最後の文章なども、現在の日本人が身につまされる類のものであろう。とくに第二次世界大戦後に半世紀近くにわたってめざましい経済の成長を経験した後では、多くの日本人が、なぜ従来の政治・経済のシステムをわざわざ壊す必要があるのかという疑問を抱いている。だが、まさにブルクハルトがいうように、一定の状態に踏みとどまろうとすることは、硬直化と死への道なのである。どんなに苦痛をともなおうとも、動くことのうちに生命があるのだから、現在の日本人も、混乱を恐れずに変化のなかに身を投ずるほかはないのである。

「歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む」野田宣雄著、PHP新書より


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