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規格大量生産型の近代工業社会の完成と終焉 <70> H15.1.14

2010年08月24日 | じんたん 2002


 今の自分を知るには、歴史をたどってみることなんでしょうね。今の自分が作られたものであることがわかります。決して自分で作ったものではないのです。
 でも、どうやったら自分で自分を作ることができるんでしょうか。


規格大量生産型の近代工業社会の完成と終焉

 一九四一年の国民学校令によって全国民を規格大量生産に適した国民にしようという教育制度ができたが、その根幹は戦後も残った。(中略)

 国民学校で定めた「通学区域」の制度は残った。当時は校舎も少なく、交通も混雑していたので、自由に学校を選ぶようにすると、校舎や教師の不足と通学の困難が増すと思えたからだろう。同時に、規格大量生産に適した人材の養成を目標とする戦前からの教育思想が残ってしまった。

 要するに、戦後の改革では教育の中味(仕方と仕組み)は変えたが、通学区域という体制はそのままであり、没個性画一化を目指すという考え方も続くことになった。そしてそれが、この国を規格大量生産の大国、人類史上最も完璧な近代工業社会に育てるのに役立ったのである。


 七〇年代の日本経済が、それほどまでに強かったのはなぜだろうか。それは一九五〇年代、六〇年代の高度成長の間に最も工業社会に適した社会、いわば最適工業社会ができ上がっていたからである。

 では、戦後の日本がつくり上げた最適工業社会とは、どんな形態になっていたのだろうか。それには三つの際だった特色があった。第一は官僚主導・業界協調体制、第二は日本式経営。そして第三は、職場のみ忠実に帰属する職縁社会体質である。

 これらは決して古いものではない。もちろん日本古来の伝統でもない。「規格大量生産型の近代工業社会の確立を目指す」という戦後の国家コンセプトによってできたものだ。もっとも、七〇年代になると、これが当然の存在となり、日本の伝統と信じられるようになっていたが。


 近代工業社会の終焉……この歴史的大事件を、最も劇的に示されたのが八九年から九一年にかけての社会主義諸政権の崩壊である。

 社会主義は、「人民の官僚」の指揮統制によって、規格大量生産を徹底することで、物財の豊かな世の中をつくることを目指した体制だった。

 社会主義の信奉者は、これがあたかも資本主義の次の体制のように主張していたが、その理論と実態は、近代工業社会だけを前提にしたものであった。それが、八〇年代には全世界的に行き詰まり、崩壊したことは、官僚組織の絶対性を否定したばかりではなく、その根底にある規格大量生産と物財の豊かさこそ幸せと感じる近代的人間観の破綻でもある。

 人類の文明は、七〇年代を頂点として強い国家と物財要求の方向から、はっきりとUターンし始めていたのである。

 では、その間、日本はどうだったか。実は、七〇年代以降もますます国家が強くなり、物財の豊かさを追求する近代工業社会を進める方向に走った。つまり、人類文明はUターンをして別の方向、知恵の値打ちの社会(知価社会)に向かい始めているのに、日本は以前と同じ物財増大の方向に走っていた。つまり規格大量生産型の近代工業社会を追究していたのだ。

 九〇年以来の日本経済の凋落と日本社会のたるみの根本原因はここにある。

 日本人がそのこと、つまり日本が追求している方向は人類文明の流れとは違っていることに気づき出したのは、九〇年代の末、九八年の大不況からだろう。だが、まだそれが多くの人々を心底納得させるには至っていない。大抵の人は、問題が自分自身の分野になると、従来の経験と利権に駆け込んでしまう。


 日本は経済が低迷し社会が劣化しているだけではなく、その根底にある国民の志気と知力が衰えている。戦後五十年間に積み上げてきた「戦後の文化」が、人類文明の流れから外れてしまったため、国民全体の誇りと覇気が低下した。特にそれは、指導的地位にあった高級官僚や大企業幹部に著しい。


 コンピューター制御の普及と技術変化の速さで規格大量生産の有利性は失われたし、欲求のソフト化で最適規格の神話は葬られた。(中略)人間が「経済人」であり、経済的価値なる客観的な数量によって幸せになるという人間観そのものが信じられない。現実の人間は、より主観的であり、世の中の流行や周囲の評判でファッション・ブランドを買い求める「変な存在」なのだ。

 「日本の盛衰 近代百年から知価社会を展望する」堺屋太一著、PHP新書より


 これからの教育のあるべき姿は何か。見据える責任がわれわれにはある。


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