はがきのおくりもの

 思い出したくなったら、ここに帰っておいで!!!
 元気を補給したら、顔を上げて、歩いて行くんだよ!

婆子焼庵が語るもの <86> H15.3.24

2010年09月19日 | じんたん 2002


 いよいよ「じんたん通信」の最終号です。

 これで私の役目の一つが終わりました。


 さて、森が婆子焼庵の公案を持ち出したので、ここで愛と性について少し考えてみたい。

 人の道を正しく踏み行おうとする者が必ず直面する問題が、所有観念と異性問題である。この世のすべては天に所属するものであって、自分は一時的に預かっているに過ぎないと思えるようになると、低いレベルからの所有観念から解放されて、自由の天地に羽ばたくようになる。森が尼崎の家を自分の家とは見なさず、自分は堂守りに過ぎないと見なしたことがその例だ。所有観念は、


 掃けば散り払えばまたも塵積(つも)る人の心も庭の落ち葉も


 という古歌にもうかがえるように、ちょっと油断するといつしか積もってしまう落ち葉のようなものである。

 ところで所有観念の中でももっと性質(たち)が悪く、しつこく付きまとうのが性の問題だ。

 人間は寂しい生き物だ。誰かに温かく包んで欲しい、自分のことを理解してくれ、声援してほしいと思う。この思いが高じていくと、自分を評価してくれるその人と特別に親密な関係に入りたいと願う。そして、いつもいっしょにいたい、住みたいと思い、最もプライベートな関係でもあるベッドも共にし、肌と肌を触れ合わせ、深い充足を得たいと思う。だから人間存在に付きまとっている実存的孤独は、性の関係へ発展していく可能性を常に秘めているのだ。

「男女の関係になったとしても、誰にも迷惑をかけないのであれば、いいじゃないか」

という議論もある。なるほど、そうかもしれない。その主張もわかる。しかし、注意しなければならないのは、いったん愛の関係に入ると、必ず、私一人の人であってほしいという独占欲が頭をもたげることだ。

 その間に他人が入るのを嫌い、二人だけの世界を作ろうとする。だから相手が自分以外の者を愛したり、慕うようになることは我慢ならない。その人にとっての師はもとより、天とか神とかという精神的存在すら拒否し、自分一人の「かわいい子」で置きたいと思う。つまり、相手が自分を離れて精神的に成長していくのを嫌い、自分の王国に留めて置こうとする。その人にとって、自分が王様でなければ気がすまないのだ。

 かくして性は親密さの表現であるかのように見えながら、実は貪(むさぼ)りに過ぎなくなっていく。相手の魂の成長に関心があるのではなく、相手の肉体を貪り、自分の性欲を満足させるだけのことになっていく。

 だからいつしか性の営みの中に虚(むな)しさが忍び込むようになり、行為中、肉体は燃えたとしても、心の中には砂を噛むような寂しさが居座るようになる。こうして相手の存在が疎(うと)ましくなり、精神的窒息状態に陥り、ついには破局がやってくる。

 似て非なるものという指摘は、精神の成熟性に潜む問題点の核心を突く指摘だ。一見、尊敬でき、素晴らしい人のように見えるが、実は自分の王国を護ろうとする醜い専制君主に成り下がっていることがある。道元は「愛語、よく回天の力あり」(人を思いやる言葉は人を活かす力がある)と言い、人に対して愛を持つことを高く評価したが、その愛に潜む独占欲は精神の極みを目指す者がもっとも注意しなければならないことなのである。

 森はこのことをよく自覚していた。したがって、どんなに信頼の眼差しを向けられても、それが私的な関係へと流れないように注意した。夫人が入院したため、それ以来の十五年間は一人であり、柔肌に顔を埋めたいと思う夜もあったに違いないが、相手の魂のことを慮(おもんぱか)らない、ただ肉体を貪るハイエナのような人間にはなるまいとして、自分を律した。

 その精進の結果、八十歳にして、

「ようやく婆子焼庵を通していただけたようです」

と言えたのだ。凄まじい求道だと、ただただ驚嘆するしかない。

「人生二度なし森信三の世界」神渡良平著、佼成出版より


 思いやる心と簡単に口にする。私も疲れている、自分の方が大変、誰もわかってくれないと、自分のことしか頭にない。どうしたら人を思いやることのできる人になれるのか。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。