はがきのおくりもの

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明治維新の大きな失敗 <83> H15.3.10

2010年09月16日 | じんたん 2002


 教育については、私もいま、必死に研究しています。南ココナツ国の教育制度を作り上げていきたいと思っています。そういう点から日本の教育を見ていくと、結構勉強になります。


 人間にとって精神教育・道徳教育が如何に大事であるか、これはもう当たり前の事、申すに及ばぬことである。尋常のことである。尋常とは「常を尋ねる」で、およそ人間である限り、古の人であろうが、いまの人であろうが、東の人であろうが、西の人であろうが、何時、如何なる時代、如何なるところに生まれても、絶対に変ることのない法則、つまり常則、これを究明するのが尋常ということであります。

 だから如何なる境地に臨んでも、変らずにもたねばならぬ心を尋常心、平常心という。どんな危うきに臨んでも、よし死に直面しようとも、常の心を失わないということを尋常の覚悟という。

 教育はそういう意味の人間、精神、道徳、人格をつくる。これは尋常のことである。その深い意味を忘れて、尋常というと、当たり前のことである、つまらないことである、どうでもよいことである、という風にだんだん誤解してきた。

 そして尋常小学校とか、尋常中学校とかいうと、当たり前のつまらぬ学校で、高等学校、大学を偉いものだ、という風にとんでもない価値転倒の逆立ちした考えになってしまって、もう世の親達は、小学校や中学校だけで可愛い子供を終わらせてはつまらぬ。なんとかして上の学校へ入れて、日進月歩の知識・技術を修得させねばならぬ。教育というものは子供を学校に入れることだというので、家庭でも精神・道徳・人格・修練などということを一般に等閑にしてしまいました。

 ここに明治時代からはじまった教育の大きな誤りがある。教育というものを学校に限って、家庭から離してしまった。その学校が尋常ということの意味を忘れて、専ら高等ということに走って、教育の主眼を日進月歩の西洋的知識・技術の修得においた。ここに人間としてとんでもない錯誤が起こった。


 大体この子供は、三歳くらいの幼児の頃からいわゆる「三つ子の魂」が現れて参りまして、もう五、六歳頃には立派に性格の基礎が出来る。そして知能や技能の基本的なものがぐんぐん伸びて、十歳から十二、三歳頃をピ-クとして、十六、七歳で一応人間の根本的な型というものが出来てしまう。それから先は附属的な知識や技術、及び経験だけが発達してゆくのです。

 だからどうしてもこの間に道徳教育・精神教育・或は人格教育というような人間の根本的なものをたたきこむ必要がある。よい躾をつけるということが大事であります。これをしておかぬと、その後に発達して来る知識や技能というものが極めて浅薄な機械的なものになってしまう。

 その大事な人間の根本である道徳教育・精神教育・人格教育を全くおろそかに扱ったために、修身などというと、それこそ眠たい講義の代名詞のようになってしまいました。そして専ら後にやってしかるべき知識・技術ばかりをたたきこんだ。そこで人造りの結果が、人間性を持たぬ、浅薄な、物質的・機械的な、いわゆる専門家というものになって、大学卒業者という権威の下にたくさん出て来たわけであります。

 世界の奇蹟と言われるほどの成功を致しました明治維新でありますけれども、ここに大きな失敗があった。

  「日本の伝統精神」安岡正篤著、PHP文庫より


 今の学校の危機的な状況は、知識・技能の効率的な修得のために学校がつくられたことにある。根本から学校教育を築き直す必要がある。しかし、何という困難か。絶望的。


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