はがきのおくりもの

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教がなければ禽獣に近し <81> H15.3.3

2010年09月13日 | じんたん 2002


 山本七平さんの本はときどき読みたくなりますね。その辺りだけは奥井と似ているかもしれません。でも、疲れているときはすぐに眠くなります。


教がなければ禽獣に近し

 私の小学校時代はもちろん「教育勅語」時代だが、当時も「知育偏重、徳育がない」と盛んに言われたものである。日本はしばしば極端から極端に走る国だが、これが徳川時代だと逆に、「徳育しかない」という状態なのである。明治期はおそらく、近代社会に必要な知識、特に科学的知識を教える「知育」が皆無だったことで驚倒し、その方向へ突っ走ったのであろう。教育史はそれを示しているが、これが可能で問題を生じなかったのは「徳育のみ」の遺産があったからである。

 そして、その時代でも一部の人は、欧米においても、ギリシア語・ラテン語を叩き込まれて古典を読むという一種の徳育、また聖書による一般的徳育が広く行われていることに気づいている。

 ところが日本は、わずかに残っていた伝統的徳育的要素を、戦後は「封建的」「軍国主義的」の名のもとに一掃し否定したので、教育の専門家でさえ「徳育」というと「教育勅語」しか連想できないようになってしまったわけである。『論語の読み方』で記したように、「軍事抜き」の孔子がなぜ軍国主義者なのか、私には理解できないが、いずれにせよ、これでは「教育の三本柱の一つ」などと言っても、現在では学校における「徳育」は無きに等しいのであろう。それでは『小学』に記されているように「教なければ則ち禽獣に近し」で、校内暴力から教育の崩壊まで云々されて当然であろう。

 なければないで致し方ない。教育とは元来、本人のためのものなのだから、自学自習すればよい。儒教は元来、「生涯教育・生涯学習」だから、それで一向にかまわない。だがしかし、教育はやはり幼児から始めるのが最も能率的なのである。それが、朱子が『小学』を編集させ、『箴言』が幼児からの教育を厳しく記している理由であろう。

 ではその一番の基本、ということは最も消極的な最低限の目標は何であろうか。おもしろいことは両者とも「禽獣に近し」にならないようにすることなのである。ということは、「教(おしえ)」がなければ禽獣になっても少しも不思議ではないということである。


 田中美知太郎先生は、「教育の基本は『畏れ』だ」と言われたが、これはギリシア人の考え方であろう。一方、『ベン・シラ』は。「主を畏れることが知恵のはじまりである」と言い、また『箴言』は、「主を恐れることは知識のはじまりである」と記す。

 また、『書経』に「畏れざれば畏れ入る」(謹み畏るばきことを知らなければ、いつかは畏るべき運命に陥る)、『左伝』には「懼(おそ)るるを知ること是の如くば、斯(こ)れ亡びざらん」(すべて懼れ慎むということを知っていれば、その人はけっして亡びるものではない)とあり、同時に「敬」が強調されている。「敬」については『論語の読み方』で詳説したので再説しないが、いずれの場合も、何らかの対象への「畏敬」が「知恵」「徳」「知識」へと進む基本的前提で、これがなければ畏るべき運命に陥って亡びに至る、としている点は同じである。

  「人望の研究」山本七平著、文藝春秋より


  高校に微かに残っていた「畏敬」を完全に失わせたのは、「15の春は泣かせない」。「畏敬」復活の道はあるか。絶望的。部活動指導からも「畏敬」は失われつつある。


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