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進歩史観から懐疑に耐える歴史観へ <67> H15.1.6

2010年08月21日 | じんたん 2002


 私たちは「進歩史観」に慣れ親しみ、他の歴史観があることさえ、思いも及ばなくなっているように思います。
 人生も、小学生、中学生、高校生、大学生、青年、壮年…と、どんどん成長していくと勘違いしています。成長していくものと衰えていくものがあって、必ずしも成長しているとはいいがたいものです。
 でも、わずかな成長しているところだけを見て、成長していると信じたがるのが人間のようです。


進歩史観から懐疑に耐える歴史観へ

 いったん破綻が到来すれば、道徳と宗教は崩壊し、いわゆる没落、いや世界の没落が起こらざるをえない。しかし、その間にも、精神は、その新しい状態に見合った新しい「生活形態」を構築するのである。ただし、この新たな精神の外枠も、時間が経過すれば、同じ運命をたどって没落してゆく。このように精神が動きつづけ、いったん構築した「生活形態」を崩壊させることを繰り返しているのが歴史の姿であり、ブルクハルトはそれを指して歴史の「主要現象」と呼んでいる。

 この「主要現象」のために、歴史の営みは千変万化の姿をとって現れ、国家や文化や宗教を樹立しては、また崩壊させる。そして、ある時は大衆を通じて語りかけ、ある時は個人を通じて語りかける。また、ある時は人びとを楽観的な気分にさせ、ある時は悲観的な気分にさせる。

 では、こういうことを繰り返しながら、いったい、歴史の営みは私たちをどこへ導いてゆくのか。すでに述べたように、歴史を始まりも終わりもない「精神の連続体」としてとらえるブルクハルトは、彼が「主要現象」と呼ぶ歴史の営みに明確な到達点があるとは考えない。そして、「私たちは(歴史の究極的な目的について)何を知っているだろうか」と問い、歴史の営みは「それ自体、一個のおぼろげな謎である」とまでいう。

 このようにブルクハルトの歴史観に接すると、私たちは、なにか肩すかしでも喰らったような気持ちにさせられ、こんな掴みどころのない漠然たる歴史観につき合っても何の益にもならないと思うかもしれない。しかし、そういう気持ちになるのも、私たちがあまりにも長い期間にわたって「歴史は理想的な状態に向かっての進歩の過程である」という考え方に慣れ親しんでしまったからである。


 ブルクハルトは、人間精神は歴史の「主要現象」を起こさせる原動力であると見なす一方、それは不変の人間性に根ざす恒常的な側面をもっていると考えた。この不変の人間性にかんしては、このスイスの歴史家は、人間が肉食獣であるということまでふくめて考えていたのである。「自然の歴史は、不安に満ちた生存のための闘争をしめしている。そして、この同じ闘争は、人間生活および歴史のなかに広範に拡がっているのである」。このように人間精神は自然界の闘争と連続する原始的な獣的側面を失っていない以上、この人間精神を原動力として展開される歴史が、一つの目的に向かう合理的な過程をしめすはずはない。歴史は、「おぼろげな謎」とでも呼ぶほかない、不合理なものにならざるをえないのである。


 ブルクハルト自身は、たとえ歴史が始まりも終わりも欠いた「精神の連続体」にすぎなくても、あらゆる努力を払ってでも、それを認識し尽くすことに努める必要があると説く。われわれは、「精神の連続体」としての過去に負うところが大きく、それはわれわれの最高の精神的財産にぞくするものである。

 なぜ、それ自体は一個の「おぼろげな謎」でしかない歴史が、ブルクハルトにとっては、人間の最高の精神的財産とまで重視されるのだろうか。その答えは、彼が引用する「歴史は人生の教師である」という言葉のなかに隠されているだろう。すでに指摘したように、ブルクハルトがこの言葉を好むのは、なにか人生で突き当たった具体的な問題について、それを解決するための先例が歴史のなかに見出せるからではない。

 ブルクハルトにとって、歴史を学ぶことと人生を生きることは、もっとも深いところで不可分に結びついていた。たとえば、歴史が一個の「謎」であるとすれば、人生もまた一個の「謎」であった。ブルクハルトの講義草稿のなかには、「生存と歴史全体の目標は、謎めいたままである」という言葉があるが、歴史が目的を欠いた一個の「謎」と知ることによって、私たちの人生もまた「謎」であることが自覚されるのだった。


 結局のところ、現代人が歴史について好んでくだす「幸・不幸」の判断は、利害や気分もふくめた人びとのエゴイズムに発しているのである。だから、立場が違えば、過去にたいする評価も異なり、それは、あたかも農夫が自分の利害にもとづいて、雨を望んだり天気を望んだりするのと似たものでしかない。また、人間が三十歳代で死ぬか四十歳代で死ぬかによって、自分がつき合った人物や事柄への評価が変わるように、歴史にたいする評価も、判断をくだす時代によって違ってくるのである。

 このように歴史についての価値判断が主観的で恣意的である以上、私たちは、「幸・不幸」の問題から脱して、「人間精神の生き続けた事実」をひたすら認識し尽くすことに努めねばならない、とブルクハルトは説く。

「歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む」野田宣雄著、PHP新書より


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