今日も、取り急ぎ「じんたん通信」をご紹介します。
だいこん県教育委員会の本当の意味での教育理念は何か。どんな社会を創る意志を持つか。
目標管理制度の限界、異動の自由と自己責任、企業理念
ある外資系企業の人事担当者に「御社の評価システムはどうなっているんですか」と聞いたことがある。回答はこうだった。「評価システムなんてありませんよ。評価は市場が決めるんです。われわれが一体何をする必要があるんですか」。
これまで年齢や勤続年数という客観基準に基づいて決めていた報酬に大きな格差をつけ、しかもそれが公平なものであると従業員に納得させられなければならない。ところが、評価というのは単に価値づけを行うだけでなく、労働者の動機づけを行うという効果を併せ持っているから、格差を拡大したときにそれが不公平だと労働者が思ってしまうと、やる気を失って生産性が低下してしまうのだ。だから「公平かつ透明な評価システムによって、誰にでも納得性の高い評価を行う」というのが、より能力主義的な評価システムを導入する際の前提条件だといわれる。従業員に評価を納得させるためには評価のプロセスを明らかにし、しかも採点が公平に行われていると信じさせる必要があるのだ。しかし、本当にそんなことが可能なのだろうか。
目標管理制度では、それぞれの持ち場で、従業員がどれだけ職務を完遂したかという点を評価の基準にせざるをえない。つまりそれぞれの持ち場で、どれだけよい仕事をするかが目標であり、実績になる。ところが、先にも指摘したように、どれだけよい仕事をしたかということは、どれだけ収益が稼げたかということには直接結びつかないのである。(中略)
結局、それぞれの従業員の給与は、会社全体で払える人件費を分配することでしかありえない。ところが、有限な人件費の原資を各個人に適切に分配できる機能を目標管理制度はまったくもっていない。なにしろ、部門ごとに、あるいは個人ごとに目標が異なっているのだから、単純に目標達成率で原資を配分することなどできないのである。
しかも、目標管理制度をはじめとする「能力主義」の評価システムは、さらに大きな問題点を抱えている。それは、その実施にとんでもないコストがかかるということである。実際、目標管理制度を導入している企業の従業員のなかには、あまりに複雑な手続きに辟易している人が多い。
会社の生産性を向上させようとして導入した目標管理制度が、かえって経営者や従業員の手間をとらせて、結局生産性が低下してしまうという、本末転倒の事態があちこちの企業で生じているのである。
いちばん望ましいのは、評価が納得できなければ、労働者が自由に社内を異動できるようにすることである。社内のどの部門に移っても高い評価が得られないのであれば、その従業員は不当な評価を得ているのではなく、そもそも貢献がないのだということを認めざるをえない。同時に評価する側も不当な評価を行えば部下を失うことにつながるから、真剣に正しい評価をせざるをえない。つまり、異動の自由は公平で透明な、誰にも納得性の高い評価を担保する強力な圧力となるのだ。人事部が異動の自由を認めるだけで、評価の問題の大部分は解消してしまうのである。
自己責任の裏返しとしての自由、あるいは個人優先のシステムを現場に適用したら、組織としての仕事が回らなくなると考えてしまうことは、無理もないことかもしれない。一見、個人優先と組織行動というのは正反対の事象に見えるからだ。しかし、その二つは両立が可能なのである。
たとえばプロ野球選手は、基本的には自分の年俸を上げることしか考えていない。しかし、彼らが個人主義に走って、チームとしての一体感やチームプレーがなくなることは決してない。なぜ全員が個人主義に走っても、チームワークが破綻しないのかと言えば、彼らには「勝利」という共通の目的があるからだ。つまり、自由と自己責任の社会で、一つの組織をまとめ上げるためには、全員が共有できる目的が必要なのである。
日本の企業も能力主義と個人優先主義の人事制度が必要になる時代になって、本当の意味での企業理念を持たざるをえなくなっている。
知的創造型の企業で経営者がやらなければならないことは、リーダーシップを発揮して自らの判断で会社を引っ張っていくことではない。思い切った権限委譲をしたうえで、一人ひとりの社員が一つの目標を共有できるように、手を替え品を替えて常に企業理念を普及していくことである。社長の挨拶のたびに企業理念を冒頭に配する。会社案内やマスコミの取材を受けたときに企業理念を繰り返す。社員との会合のたびに企業理念に立ち返って話をする。毎日毎日こうした地味な活動を積み重ねることこそが、経営者の仕事なのである。
「リストラと能力主義」森永卓郎著、講談社現代新書より