奥井が夢見ている教育の一端が書かれています。「社会科音痴」をなくしたいと奥井は思っているというか、奥井自身が「社会科音痴」であることを自覚しているのかもしれません。
奥井が卯高でやりたいと思っていることが少しだけ見えてきました。でも、それを卯高の先生方に理解してもらえるように奥井が動けるとはとても思えません。どうするんでしょうかねぇ、奥井は。
学校では何を教えるべきなのか。今までどおりの教える内容で本当にいいのか。
日本人は「社会科音痴」、「不快な情報」を直視できない
じつは社会科は表面的にはやさしいように見えますが、その奥の奥まで立ち入った真の理解ともなると、極めてむずかしい学問なのです。歴史や文化の違いがその根底に横たわっているからです。
要するに、社会科の基層をなしている文化や文明の質が、八百万の神々の住む日本と唯一絶対の神が率いる欧米ではまったく違うのです。社会科の奥の奥には欧米と文化・文明を異にする日本人にはわかりにくい「暗黙の知」がたしかにあるのです。
学者でさえよくわからないのですから、中学や高校の教師はもっとわかりません。「先生、社会契約って何ですか?」と生徒に聞かれても、たいていの社会科教師は旧約聖書からはじまってホッブス、ロック、ルソーの本など読んだこともないし、読んでもわからないから、教科に書いてあることを「こういうものだと覚えろ」となるのです。かくして社会科は暗記科目となりました。
そういうわけで、日本人はじつは「社会科音痴」なのです。社会科的思考力が欠落していると思います。社会科は暗記科目なのだから、社会的思考力が育つわけがありません。これは戦前戦後を通じて変わりません。これが日本人の国際関係音痴に直結しているのです。
日本の近現代史を見ると、明治時代は全体としてうまくいっています。明治の指導者は日韓併合までは欧米列強に相談しながらやっていたからです。しかし、それ以降は欧米列強から自立して独自の外交を始めるようになります。すると、とたんにその社会科音痴ぶりが顔をのぞかせて、日本はどんどん孤立化し唯我独尊の方向へと突っ走りはじめました。
戦後の日本は米ソ冷戦の「漁夫の利」で経済発展を遂げましたが、それ以外ではコケにされっぱなしです。その背後には日本人の「社会科音痴」が隠れています。欧米のエリート高校では、社会科は思考力を鍛える教科です。授業はリポートと討論(ディベート)を中心にすすめられています。これに対してわが国のエリート高校では、社会科は相も変わらず暗記科目です。暗記すればするほど、受検に有利だからです。
日本人は個人としても国民全体としてもこの「社会科音痴」を脱却しないかぎり、ジリ貧だと私は考えています。権謀術数がうず巻く国際社会を生き抜けないと思うのです。
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歴史から戦略的思考を学ぶ際、もう一つ大事なことがあります。それは「不快な情報」を直視して戦略を考えろ、ということです。自分にとって嫌な情報、不利な情報は誰にとっても見たくない、聞きたくない情報です。だから、目を逸らせてしまう。ごまかしてしまう。これはことに日本人の病気といってもよいくらいひどい弱点です。
(日本人は)自分にとって不快な情報、不利な情報をも直視して、それらをしっかり考慮に入れて以後の戦略を練ることができません。嫌な情報、不利な情報はすぐ「そんな弱気でどうする、大和魂だ!」という精神論でごまかしたり、何の根拠もなしに「ソ連軍の侵攻はずっと先だ」とか「土地は値上がりし続ける」といった希望的観測でごまかしてしまいます。
その結果、ソ連軍の侵攻を示す動きやバブル崩壊の動きを見落としてしまうのです。こういう事例は日本の近現代の歴史にはごまんとあります。歴史からぜひその教訓を学んでください。そして、それを自分の人生戦略に生かしてください。
そうすれば、一時はやった「プラス思考」だの「つまずいたっていいじゃないか、人間だもの」といった類の人生訓の空虚さが見えてきます。前者は一時のカラ元気をかき立てるだけの人生訓であり、後者は癒しの姿をした「負け犬の人生訓」にすぎません。自分がつまづいたという不快な現実を直視する冷静さ、強さだけが厳しい21世紀を生き抜ける力となるのです。
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2002年から開始されるマサチューセッツ工科大学(MIT)のインターネット上での授業概要の無料公開は脅威です。アメリカで勉強したくても、それがかなわなかったたくさんの中国人や東南アジアの華僑の子弟が、インターネットを使ってMITで数学やコンピュータやビジネスをどんどん勉強するからです。
私の予測では、MITの授業概要公開によって、21世紀の半ばまでにわが国は知的エリート層の厚さでも中国の後塵を拝していると思います。
「『生き方探し』の勉強法」中山治郎著、ちくま新書より