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知価創造社会へ…どういう社会になってゆくのか <71> H15.1.14

2010年08月25日 | じんたん 2002


 これからどんな生き方、暮らし方をする人が増えてくるのでしょうか。
 南ココナツ国も変わっていくのでしょうねぇ。


知価創造社会へ…どういう社会になってゆくのか

 産業革命が人類文明にとって重要なのは、単に技術が進歩し、人々の暮らしが豊かになっただけではなく、労働力と生産手段が分離したことによって、世の中のすべてが変わった点になるからだ。

 蒸気機関で動く大型機械群からなる工場の出現によって、生産手段は個人が所有するのには高価過ぎ、家族で運営するのには複雑過ぎるようになった。このため、生産手段は特定の資本家がーのちには株式会社や国家などの法人がー所有し、そこで働く者は労働力だけを提供するようになった。マルクスのいう「何物も持たないが故に自由な労働者」の誕生である。

 労働力と生産手段の分離は、世の中のすべてを変えた。

 資本家(法人)は自らの利潤追求のために人間的感情を抜きにした技術革新と経営合理化に邁進する。そのことによって、次々と新技術が生まれ、経営が刷新された。近代工業社会は「進歩」の仕掛けを内蔵した世の中である。

 「自由な労働者」は、身分と土地から解放され、雇われる場所を求めて移住する。地域コミュニティーは崩壊し、家族は夫婦と未成年の子供だけの核家族になった。工場や港湾が発達したところに労働者は集まり、都市をつくった。

 近代都市は、それまでの都会とは違う。都市の運営は、住民の自治ではなく、税金によって雇われた専門家(公務員)によって行われる。かつては住民が交互に分担した慰安や消防や救急、貧者の救済は、都市の公務員の仕事となり、やがて国家の役割となった。自由に移動する労働者には、地域への愛着も関心も薄いからである。

 教育も変わった。かつてはまず職能訓練を受け、次に一般知識を学ぶのが普通だったが、近代工業社会では一般知識(読み書き・計算)を先に教え、その後で職能訓練を受けるようになった。その結果、教育は家庭よりも公共の責任になっていく。


 知価創造社会では、労働力と生産手段は合体化する。そしてそんな産業が経済成長と資本蓄積の主要な源泉となる社会の体質と気質(パラダイム)は、労働力と生産手段の分離を前提とした近代工業社会とはまったく違う。

 近代工業社会では、(中略)労働(生産活動)と消費(生活)とはまったく別ものと考えられていた。

 労働は辛くて厭なものだが、生活の糧を得るためには行わざるを得ない行為である。

 一方、消費は生存と繁殖と安息のための行為だ。人間は「経済人(ホモ・エコノミクス)」だから、消費に費やし得る支出が大きくなればそれだけ幸せの度合いも大きくなるはずである。

 しかし、自らの知識と感性を生産手段とする知価創造産業は、そうではない。労働(仕事)は苦しみでもあり楽しみでもある。自らが備えた(と自分では思い込んでいる)生産手段が活用できるのは喜びでもある。

 その一方、この豊かな世の中では、生存と繁殖と安息だけの費用なら、フリーターで週三日も働けば稼げる。それ以上の収入で得られるのは、ブランド品を身にまとい、大型高級車に乗り、自慢できる豪邸に住み、高級レストランに通うなどの主観的満足である。

 労働(仕事)にも主観的満足があり、消費も主観的満足の追求だとすれば、この間には互換性が生じる。賃金は安くとも好きな仕事を心地よい人間関係のなかでするのがよいか、厭な労働を厳しい条件でしてブランド衣料や大型車で満足するかは、ひとそれぞれの選択である。

 知価社会での主要な働き手は、自由な労働者ではない。自らに備わる生産手段(知識と感性)を生かすことにこだわる「区分された職能人」である。


 長期的に見れば、仕事に楽しみの乏しいダーティーワークの賃金は上昇し、面白みと満足感のあるプリティワークのそれは低下する。このことが技術進歩の方向をも変えるだろう。

 二十一世紀には、人の欲しがる情報化、多様化とともに、人の嫌がるダーティーワークの機械化、省力化を進むだろう。逆に、楽しみを感じる人の多いプリティワークでは賃金格差は拡がり、押しなべて低級になるだろう。

 「日本の盛衰 近代百年から知価社会を展望する」堺屋太一著、PHP新書より


 多様化、個性化…好きなことを好きなようにしなさいという教育を始めた。時代の流れかも知れないが、今までのままでは、ちょっと無責任のような気もする。


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