回覧板

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日々いろいろ―テレビコマーシャル「年賀状、ください」から

2015年12月23日 | 日々いろいろ

 最近、「年賀状、ください」という「嵐」(わたしは彼らの顔をテレビ見知っている程度だが)のテレビコマーシャルが流れている。ネットで検索するといくつかのバージョンがある。わたしがこれを取り上げるのは、何か微かな異和を感じたからである。
 
 現在のわたしたちの日常生活世界には、企業や地方・国家行政などの社会や国家が、ある媒体を通して入り込んで来る。地方行政のお知らせやキャンペーンは、町内の回覧板を通してやって来る。しかし、現在の主要な媒体は、テレビや新聞である。(新聞に関しては、ネットに押され衰退の一途をたどっているという論者もいる)他に、電車やバスや駅や通りなどの公共的な空間での看板や電子公告などがある。また、電話セールスやネット広告もある。わたしたちは、膨大な広告空間の中に存在している。
 
 現在にあっては産業としても成り立つ、膨大な厚みを持ってしまった広告宣伝ということを、わたしの小さい頃に当たる半世紀ほど前を思い起こして、比べてみたことがある。当時は、町の所々の民家の壁に「おたふく綿」や薬の宣伝などの看板を見かけた程度である。また、めったに見ない映画にもニュースや広告宣伝が付いていたと記憶している。現在のように広告が産業として成り立つようになったのは、高度成長経済を経た消費社会の浸透や高度化と対応しているだろう。そして、広告産業の自立と高度化に大きな貢献を果たしてきているのは、電子網を通じてわたしたちの生活世界と連結し、音と映像と言葉を駆使して大量の情報やドラマや広告などを、わたしたちの生活世界に送り込むことのできるテレビの登場だと思う。
 
 わたしたちは、テレビを通して流れて来る大量のコマーシャル(広告宣伝)を別に奇異には思わないほどにはそれに慣れてしまっている。もちろん、ドラマを途中何度か断ち切るのでじゃまくさいとか、あるいは、ちょうど興味深いという話題のところでコマーシャルに入るので番組制作者たちにいやらしさを感じるとかはあるだろう。さらに、番組の合間に流すテレビコマーシャルは、一昔前よりも流す量が増えている。二つ三つだったのが、今では四つ五つになっている。おいおい、まだ続くのかい?とうんざりすることが多い。したがって、わたしは長いドラマなど録画してコマーシャルを早送りして観ることが多い。また、テレビやネットを通しての物の購入も拡大してきている。テレビショッピングの番組が、商品の紹介に登場する人物たちの番組の中での人柄や薄い物語性とともに受け入れられている。何だろうと思って観ていたら、体験者の物語性を織り込んだ青汁の宣伝番組というものもある。
 
 ところで、テレビコマーシャルには、体験者の体験談として素人みたいな人々も登場するが、主要にはスポーツ選手やら芸能人などの「有名人」が登場する。まったく企業や企業活動とは無関係な「有名人」が、代わって広告宣伝する。もちろん、これにも先例はある。にぎやかな音楽を振りまきつつ街を練り歩くチンドン屋である。ただ、現在のテレビコマーシャルは、チンドン屋のような企業の宣伝代行そのものということはなくなりはしないけれども、また、そのようなストレートなコマーシャルもあるけれども、商品やその広告宣伝ということから相対的に独立した物語性(虚構性、芸術性)の水準を獲得している。このことをコマーシャルを観る私たちの側から言えば、商品を買うか買わないかという選択領域以外のところで、面白さや風変わりなイメージや心に染み入るような思い等々をひとつの物語性として味わっている。
 
 あの人はいい人柄だから、信じるとかあの人の会社から購入したいとかいうことは、わたしたちの日常によくあることである。ということは、現在のような商品の宣伝からずいぶん離れたような物語性を持ったテレビコマーシャルでも、商品購入への通路や誘いとして機能していることになる。

 
①  ある企業→特定の商品→ある有名人→ある有名人演じるコマーシャル→消費者→その商品の購入(企業側からコマーシャルを見た場合)
 
②A ある有名人演じるコマーシャル→面白さやしみじみなどの感動または無感動→そのイメージとしての残留
 
②B ある有名人演じるコマーシャル→面白さやしみじみなどの感動→有名人≒特定の商品→その商品の購入
 
 
 ①は、企業側からテレビコマーシャルを見た場合の流れ。②は、わたしたちテレビコマーシャルを観る側からの流れ。②Aは、テレビコマーシャルを観ても消費行動につながらないでそれで終わる場合。②Bは、その商品購入に至る場合。有名人≒特定の商品ということは、ほんとうは有名人≠特定の商品であるが、その両者がテレビコマーシャルによってある通路を通って結びつくことを意味している。この通路は、今では大げさに見えるかもしれないが、巫女やシャーマンを仲立ちとして神とつながる宗教的な通路と同じだと思う。つまり、わたしたちは、依然として知識人や芸能人などの「有名人」を仲立ちとして商品に結び付けられている。遥か太古の巫女(みこ)やシャーマンに対する崇(あが)めるような感情や意識は、「有名人」に対するものとして形を変えて現在にも生き残っていることになる。
 
 嵐演じる「年賀状、ください」というコマーシャルに戻る。嵐は、誰に対して「年賀状、ください」と言っているのだろうか。まず、演者嵐は、ドラマの登場人物となって、架空のドラマ上の自分の知り合い(現実的なかれらの知り合いではなく)に対して「年賀状、ください」と語りかけている。そして、そのことは同時に、このテレビコマーシャルを観ているわたしたち観客に対して、(年賀状が欲しいな、年賀状出そうよ)とわたしたちの知り合いに成り代わり、わたしたちに語りかけていることになる。
 
 以上の物語性を持ったドラマであるコマーシャルを越えていけば、年賀状を増やしたいという企業の顔や意志と出会うことになる。たぶん、年賀状を誰に出すとか年賀状を出さないとか、あれこれ言われたり、やんわりと強制されたりする筋合いはない、大きなお世話だというわたしの感じとったものが、コマーシャルの中の企業意志の浮上あるいは浸透に触れて反発したのだと思われる。


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