忠臣蔵

2007-12-13 02:15:51 | Weblog



今から約300年前元禄15年12月14日、赤穂浪士47士は本所松坂町吉良邸に討ち入りみごと本懐を遂げ、雪の積もった両国橋を出発した浪士は永代橋を渡り築地の旧赤穂藩邸へ向かった。その門前に彼らは整列、成果を報告し、品川湾袖ヶ浦の海を左手にしながら泉岳寺の総門にたどりついた。
まぼろしの辞世「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」この辞世は内匠頭に同情する多門伝八郎の創作の可能性が考えられる。
語ることはできても、実行することのできない、凄まじい彼らの美学こそが「忠臣蔵」を貫くテーマであり、だからこそ、300年という時を経てもなお、われわれは彼らに胸をうたれるのだろう。今でも泉岳寺に眠る墓城には、いつ訪れても香華が絶えることはない。
上記の写真は聖路加看護大学・病院(旧赤穂藩邸敷地)です。
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