戦国の弟シリーズ第2弾です。
ここでも何度か紹介していますが、毛利元就の息子のうち、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3兄弟は「三本の矢」の話が有名で、吉川元春と小早川隆景は、他家へ養子に出されますが、よく毛利本家を支えていきます。長男の隆元が弟たち比べて短命だったこともあり、豊臣秀吉・秀長兄弟とは異なり弟の方が目立った活躍をしています。吉川元春と小早川隆景の二人は、兄の隆元、父元就がこの世を去った後、毛利本家を継承した甥の毛利輝元を補佐し「毛利の両川」と称されています。元就にはあと6人の息子がおり、後妻、側室の子供だったため、他家に養子に出され隆元、元春、隆景とは同等に扱われなかったといわれ、余り表舞台に出てきませんが、彼らもよく毛利家を支えました。特に四男の穂田元清は織田家との攻防、豊臣政権時代に活躍し「四本目の矢」と呼ばれています。
武田信繁は武田信玄の弟ですが、彼も豊臣秀長同様兄をよく補佐し、「人は石垣、人は城」と呼ばれた武田家の柱石として活躍しました。信玄の父信虎は、兄信玄(当時晴信)よりも弟の信繁を可愛がり、信繁に家督を継がせようとしていましたが、このような状況で兄信玄は父信虎を追放する形で家督を相続する。このとき信繁は兄に反旗を翻すことはなく、当主の座に着いた信玄を家臣として支えるようになりました。信繁は戦場にあっては信玄を守り、家中にあっては国人たちをまとめ地味ながら武田家になくてはならない存在でした。しかしながら信玄の宿命のライバル上杉謙信との間で繰り広げられた川中島の合戦で最大の合戦となった第四次川中島の合戦で、不意を突かれて武田本陣に上杉軍が殺到する中、信繁は信玄を守るべく奮戦し、壮絶な討ち死にを遂げました。信繁は息子に宛てて忠義・武道や教養としての和歌のたしなみ、戦場のおける心構え、礼儀作法など事細かに記した家訓を残し、これが「信繁家訓」として後世に広く読み継がれました。
ここでも何度か紹介していますが、毛利元就の息子のうち、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3兄弟は「三本の矢」の話が有名で、吉川元春と小早川隆景は、他家へ養子に出されますが、よく毛利本家を支えていきます。長男の隆元が弟たち比べて短命だったこともあり、豊臣秀吉・秀長兄弟とは異なり弟の方が目立った活躍をしています。吉川元春と小早川隆景の二人は、兄の隆元、父元就がこの世を去った後、毛利本家を継承した甥の毛利輝元を補佐し「毛利の両川」と称されています。元就にはあと6人の息子がおり、後妻、側室の子供だったため、他家に養子に出され隆元、元春、隆景とは同等に扱われなかったといわれ、余り表舞台に出てきませんが、彼らもよく毛利家を支えました。特に四男の穂田元清は織田家との攻防、豊臣政権時代に活躍し「四本目の矢」と呼ばれています。
武田信繁は武田信玄の弟ですが、彼も豊臣秀長同様兄をよく補佐し、「人は石垣、人は城」と呼ばれた武田家の柱石として活躍しました。信玄の父信虎は、兄信玄(当時晴信)よりも弟の信繁を可愛がり、信繁に家督を継がせようとしていましたが、このような状況で兄信玄は父信虎を追放する形で家督を相続する。このとき信繁は兄に反旗を翻すことはなく、当主の座に着いた信玄を家臣として支えるようになりました。信繁は戦場にあっては信玄を守り、家中にあっては国人たちをまとめ地味ながら武田家になくてはならない存在でした。しかしながら信玄の宿命のライバル上杉謙信との間で繰り広げられた川中島の合戦で最大の合戦となった第四次川中島の合戦で、不意を突かれて武田本陣に上杉軍が殺到する中、信繁は信玄を守るべく奮戦し、壮絶な討ち死にを遂げました。信繁は息子に宛てて忠義・武道や教養としての和歌のたしなみ、戦場のおける心構え、礼儀作法など事細かに記した家訓を残し、これが「信繁家訓」として後世に広く読み継がれました。
武田信玄も弟の深い絆の補佐、信玄の心にやきついた事でしょうね。
感動ありがとうございます!
1.最初の正室の息子(隆元、元春、隆景)とそれ以外の子供達との扱いを明確に区別していること
2.子供達にまめに書状を送り、コミュニケーションを十分にとっていること
1は隆元、元春、隆景を可愛がり、それ以外の子供達に冷たかったかというと決してそうではありません。書状などを見ると元就はどうも7男の元政を最も可愛がっていたようです。また、元就は非常に筆まめで子供達への書状が大量に残っています。有名な「三本の矢」の逸話もこういった書状の内容から創作された(隆元は元就より早く亡くなっているので三本の矢の逸話は実際には成立しません)ものです。
親からの手紙は時が経って今の現代でも嬉しいものですよね。私も時どき親から手紙もらいますが、メールより直筆の手紙のほうが重みがあります。内容は良い・悪い関係なしにです。