


肺が膨らむと少し楽になり、スヤスヤ眠る時間もありました。

先日、母の四十九日を終え、それが最期の仕事のように6月26日父が突然この世を去りました。
26日朝、ヘルパーが父のところへ行くと応答がないということで連絡がありました。
私も父の携帯や電話に連絡しましたが応答なし。
前日、お昼を一緒に食べ、3時過ぎまで一緒に過ごしました。
その日、泊まろうと思いながら、帰宅して夕食を食べると珍しく寝てしまいました。
気がつくとオットが帰宅してて、10時を過ぎてました。
私自身も疲れが溜まってきていたところでした。
今日は泊まるのをやめよう。。。
翌日ものすごく後悔することになるとは想像もしませんでした。
お教室の予約も入っていましたが、キャンセルして父のところへ急ぎました。
先に到着したケアマネが窓から部屋へ入ってくれました。
「残念ながら亡くなっていました」という連絡を向かう途中で受けました。
救急隊から警察へ。。。
そして現場検証、検死と、長い1日。。。
結果は「呼吸不全」
(ここからは喪主の挨拶での一部)
父は優しくて穏やかな人でした。
若い時に結核で片肺は切除して、医師には留守番程度で普通の生活はできないと言われたそうです。
それでも生きていればという思いと祖父母や母の支えで84歳まで生きることができました。
若い頃から、短歌を詠んだり、パソコンでブログを楽しむなど、ものを書くのが好きな人でした。
亡くなった日、改めて父の書いたものを読みました。
父の優しさや穏やかさが若い時に自分自身の死と向き合わなくてはいけなかった壮絶な経験にあったことがわかりました。
そして父の紡ぐ言葉は、母への愛情に溢れておりました。
母の介護を終え、どうしょうもない寂しさの中にいる父を救えなかった後悔が私の中に残ってしまいました。
きっと、父は母の元へ駆け足で行ってしまったのだと思います。
父と母が奥入瀬へ旅行へ行った時に詠んだ歌がありました。
「リュック背負い 先行く登貴(母の名)のはずみゆく あしどり追ひてたぎつ瀬をゆく」
今頃先に行く母に追いついてこの歌のように仲良く歩いていることと思います。
私は、父と母の子どもに生まれて、本当に幸せでした。
心から感謝。。。
4月28日、私の母が永眠しました。
78歳でした。
(母が逝った翌朝、窓から見える公園を歩きました)
3年ほど前、間質性肺炎という診断を受けました。
その前から風邪のような咳が続いて、幾つか病院も通いました。
診断が下るまでがとても長かった。
診断後、ステロイド治療をしていればもう少し長く生きられたのかもしれない。
母は、それを断固拒否。
私は、母の好きなようにさせることにしました。
あの時。。。娘として後悔はある。
私は、結婚するまで、実家で生活していた。
結婚して初めて寝込んだとき、寝ている間、母のことばかりが頭に浮かんだ。
母なら、今頃美味しいご飯を作ってくれただろうとか、着替えさせてくれただろうとか。。。
幼い頃、今と違って病気がちだった私のそばにはいつも母がいてくれた。
当時は珍しかったけど、母は常勤で働いていた。
なぜか記憶の中で、高熱にフウフウ言ってる私の隣には母がいた。
幼稚園から小学校の2年生まで、ほぼ365日病気だったから、仕事をしてる母がいるわけはないのだ。
相当、献身的だったのだろう。
ひらがなを教えてくれたのも母だった。
掛け算を教えてくれたのも母でした。
その日。。。母のところへは行かなかった。
それまでほぼ毎日行っていたのに、その日だけは行けなかった。
夜、9時過ぎに病院から電話があった。
眠るように静かな最期だったらしい。
15分前に見回ったときは話ができる状態だったそうです。
やはり一人で逝ってしまった。。。
生きているときに1度、家に戻してあげたかった。
母の願いだったから。
私の心に棘が刺さっている。
最期、歩けなくなった母が残していった足跡かもしれない。
入院している母の向かいにいる女性。。。
介護病棟にいる人々は、たいていの人がコミュニケーションが成立しない。
この女性は瞬きをほとんどしない。
大きな目を見開いて、いつも背の部分を起こして座らされている。
病室に入るとジロッとこちらを見る。
その視線が私はとても苦手だった。
夕食を一人で取ることが困難になってきている母のためにほぼ毎日介助に行く。
先日、その女性が食事中にベッドの手すりに渡してあるテーブルが突如傾いてベッドの下に落ちてしまった。
食器を拾い、ベッドを見るとシーツが汚れてしまっていた。
ナースコールで事情を説明して、女性が落としたのではなく、テーブルが最初から不安定だったことを伝えた。
粗相をしてもおかしくないように見える女性だが、そうではないと伝える私に、ニッコリと微笑んだ気がした。
翌日、病室に行くといつも見開いている大きな目が私を捉えると、小さく会釈をしたように見えた。
母の食事を介助し終えて、話をしていると、「ねぇ!」と呼びかけられた。
人差し指が私を指している。
そばに行って「なんですか?」と聞くと、頭の上を指差していた。
言葉にならない様子で、私もすぐには理解できなかった。
「ごめんなさい、どうしたらいいかわからないわ。」と伝えた。
少しがっかりした様子だった。
数分後また「ねぇ!」と呼びかけられた。
ちょっとめんどくさいなぁと思いながら、「私にわかるかしら。」と言って近づいた。
今度は、テーブルを指差して向こうへ押すような仕草をしている。
女性のお腹にくっつくように置かれたテーブルがとっても窮屈そうだった。
よく見ると今日も不安定な状態で置かれていたので動かすと落ちそうだった。
それでもなんとか動かしてあげると、両手を合わせてありがとうというような仕草をしてみせた。
私は、ずっとこの女性に意思があるとは思ってなかった。
ただ目を見開いて息をしているだけの状態なのだと思っていた。
間違っていた。
彼女にはその目で見てきた人生がある。
生きているのだ。
また呼ぶ声が聞こえた。「ねぇ!」
「はい?なんですか?」と聞くと、先ほどと同じように上を指差していた。
枕の事を言っているのだろうか?
枕を少し上へずらした。「そう、そう。」と女性は満足そうな顔をした。
今度は、ベッドを倒して欲しいようなそぶりをする。
少し倒してみると「もっと」というような表情をした。
彼女の表情を見ながらベッドを倒す。
「あぁ」という声と同時に頷く彼女が見て取れた。
「オッケー??」と言って手で丸を作ると彼女が「あぁ、気持ちいい~」と言った。
この瞬間を女性が覚えているのかどうかはわからない。
でも、母と同じような年齢のこの女性を一瞬でも理解できたことを私は忘れないだろう。
そして、それほど長くはない母との時間をより愛おしく思ったのでした。
2月最期の日曜日に義母は眠るように息を引き取りました。
母が病気になって、7年でした。
葬儀は、家族・親戚のみで執り行いました。
私自身、義母がいなくなってこれほどまでの喪失感に襲われるとは、
思ってもいませんでした。
葬儀が終わって、その週末は、何もする気が起きず、
何も手につかず、気力と言うものが
すっかり萎えてしまいました。
風邪をひいたせいもあるのかと思いましたが、
体調のせいだけではない心にぽっかりと穴が開いた感じがして、
何にも埋めがたい、失ったものの大きさを感じる日々でした。
この家に住み始めてから今まで、常に義母の気配を感じながら
生活をしてきました。
はじめて、時間に制約されず、義母のものさしで測られることのない生活に、
どう慣れたら良いものか?
ふと気がつくと、制約やものさしは果たして義母の目だったのか?
実は自分で勝手に作っていたものだったんじゃないか?と、
規制に慣れ切った身体や頭は、つい義母のことを考えてしまうのでした。
そして、義母が楽しみにしていた木曜日のお風呂の日には、
「あぁ、これからはいつお掃除をしてもいいんだ~」と
安心しながらも、木曜日にしなければならないことが減った淋しさと言うか・・・
じわ~っと感じるのです。
義母がいるときには、玄関や外の掃き掃除をしていても、
義母の「ご近所の目があるんだからキレイに!!」という言葉を
「私は、近所の目を気にしてるんじゃなくて、きれいな方が良いから
やってるだけだ!!」と否定しながらやっていたのだけれど、
義母がいなくなると、
「こうして毎日義母が掃いていてくれたからキレイだったんだ~」と
してくれていたことに感謝しながら掃除をしている自分に気づく。
義母が亡くなってから、どうしてもお線香があげられなくて、
申し訳なかったり、お世話ができなかったことを恨んだり、
今までのことを怒ってみたり、感謝してみたり、
死んでから感謝してる自分を責めてみたり、
色んな思いが交錯して、
お骨の前に座ることができなかった。
今朝、初めてお線香をあげることができました。
ごめんね。やさしくないこともたくさんあったと思う。
いろんな事みんな含めて、ありがとう。おかあさん。
「Atelier sucre sale」に「ウッドビーズを使ったネット編みのbag」をUPしました。
のぞいてみてね。
ホスピスに入院して4日がたちました。
眠っている時間が多くなりました。
パンパンに貯まっていた腹水は、食べ物を受け付けなくなった義母の
貴重な栄養源として、少しづつ身体から抜けているようです。
腹水がたまり、許容量を超えた時点で、
胸水として肺に水が貯まってきたために、肺炎を併発しそうな状態です。
痰が絡んだ呼吸音がとっても苦しそうです。
入院した次の日くらいから、腹水のために「お腹が張って苦しい」と
訴え始めたので、少しづつモルヒネが使われはじめました。
苦しそうな呼吸音のわりには、苦しそうではなくスヤスヤと眠っています。
先生から今後の経過を聞きました。
なるべく苦しみや痛みのないように、眠るように。。。
この言葉を聞いたとき、思いがけず涙が流れてしまいました。
今、私にできることは、義母が苦しむことがないように祈ることと、
私たちに下の世話などの迷惑をかけたくないといって、
退院して11月から今まで、何事も一人で頑張ってきた
義母の心の尊厳を汚すことなく持って逝けるようにしてあげること。
何もしてあげられなかった私の最後のつとめだと思います。
できれば、もう少し、穏やかな時間が続くことを祈ります。
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昨日のことですが、義母をホスピスへ入院させることになりました。
11月に退院してから、自宅で療養をしていましたが、
先週金曜日に、ホスピスの説明と予約を取りに、
病院へ行っている間に、ヘルパーさんから電話があり、
義母が「お腹が張って、苦しい」と言っていると連絡が入りました。
急遽、今までかかっていた病院へ連れて行くことになりました。
この日から、急激に身体が弱っていくのが分かりました。
ベットから起き上がれなくなり、夜中でもトイレに行く時は、
介助が必要になっていきました。
病院の先生にも、「もう、自宅に居られる状態じゃありません」と言われ、
ホスピスの予約も取れたことなので、入院を勧められました。
o-mamaとo-papaは、
予約は取っても、義母の体調しだいでは、キャンセルしても良いと
思っていたのですが、
最終的には義母の決断で、23日火曜日に入院を決めました。
入院の前の日は、眠れませんでした。
義母が本当は家に居たいのではないか?
o-mamaに最期を家で看取る覚悟ができないものか?
そして、ホスピスに連れて行くまで、なんとなく胸が痛くて、
心苦しくて。。。
まるで、姥捨て山に連れて行くような感覚を持ちました。
ホスピスに到着して、病室に入ると、看護師さんの手厚い看護と
義母に対する優しい接し方に、o-mamaの胸の苦しさも和らいできました。
家で、不安な状態でいるより、ホスピスで痛みや不安を
緩和してもらえることの方が、今の義母には安らぎなのかもしれない。
そう思う、そう思おう。
o-mamaに掴まるやせた細い手首、腹水がたまってパンパンに張った
お腹は、義母が頑張って病気と闘っている象徴なのだ。
腹水によって、横隔膜が上へ押し上げられるので、
肺が圧迫され、呼吸が苦しくなってきていて、
布団の重みさえも苦しくなってしまう様子です。
年末までだった命の期限が、今まで伸びて、Dr.の言葉を借りれば、
神様にいただいた時間。
神様はその時間に苦しむ義母に何を諭そうとしているのか?
そして、家族に何を悟れと言っているのだろうか?
一生懸命に病気と闘っている義母の身体が、少しでも楽になることを
祈ることしかできない日々が続きます。
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o-家では、介護保険等を利用して、
火曜日と金曜日にヘルパーさん、木曜日に訪問看護士さんを
お願いしています。
毎日、寝てばかりいる義母なので、少しは気晴らしになるでしょう。
最近は、退院して少し落ち着いてきたせいもあって、
今後が気になりだした様子の義母。
自分が動けなくなった時の身の回りの世話を、誰にしてもらうか?
最大の関心事のようです。
もちろん、o-mamaは、そのために義母が退院して戻ってくることを
受け入れたつもりなんですが、
義母は、迷惑をかけてはいけないと思っているのか?
老人ホームかホスピスへ行った方が良いんじゃないかと
思い始めているようです。
そんな相談を、ヘルパーさんや看護師さんにしているみたいです。
彼女たちは、患者さんの希望や要望に添うサービスを行うのが仕事です。
なので、義母の考えを、家族であるo-mamaに伝える訳です。
しかし、これを聞くのが結構つらいんですよね。
いわゆる他人から、
「お母様はこういう状況なんです。こういう方法もありますよ。」と、
的確なアドバイスをいただく訳です。
義母からは、一応色々な話を聞いたりして対策はとっているのですが、
それがたぶん的確でない対処なんでしょうね。
ヘルパーさんや看護師さんに同じように義母は訴える訳です。
そうすると、o-mamaがアドバイスをいただく。
アドバイスの内容としては、やっていることもあるし、やってないこともある。
でも、o-mamaから言わせてもらえれば、
やっていることだけで精いっぱいだったりするんですよ。
これ以上は、ただ責められている状態にしか感じないのです。
入れ歯が痛いと言えば、仕事でお世話になっている先生にお願いして
自宅まで来てもらってるし、柔らかい食事も作ってる。
でも、義母が「痛い」と訴えれば、
「訪問歯科もあるので、利用してみたらいかがでしょう?」と
奨められる。
義母は、o-mamaに何のためらいもなく、
「訪問歯科って言うのがあるらしいのよ。利用してみようかしら。」
と、言ってくる。
やっていることが、否定される瞬間だ。
柔らかい食事をつくっているのに、それには手をつけず、
メロンパンをムシャムシャと食べながら、
ヘルパーさんや看護師さんには、「食事が硬くて食べれない。」と訴える。
o-mamaは、柔らかい食事の宅配もあるからと、資料を渡される。
ならばと、宅配を頼んで、いつもレトルトじゃと思い、
それを参考に作って出してたら、ある日、鍋に煮魚が作ってあった。
煮魚が食べれないって言うから、レトルトを頼んだり、
ブレンダーで粉砕したりして、工夫してたのにぃ。。。
努力のすべてが水の泡になった瞬間だ。
こんなことばかり続くと、本当に気が滅入ってきてしまう。
今週火曜日は、おつかいの帰り道、荷物がずっしりと重くなって、
足も重く、道に座り込んで動けなくなってしまいました。
o-papaと相談して、煮魚が自分で作れるようなら、
レトルトを渡して、自分で食べてもらうようにしました。
看護師さんに、
「自分を大事にしてくださいね。生きて行くのは家族の人たちなんだから。」
と、言われました。
ちょっぴりだけど、立ち上がれましたよ。
「彡ふさふさ~なパイナップル帽子彡」
をUPしました。
義母は、非常に神経質な性格です。
o-mamaは、決して大雑把ではありませんが、この義母を前にしたら、
大雑把で無神経に見えるらしいのです。
入院中にとっても驚いた話があります。
義母は、毎日お見舞いにやってくるo-mamaに、
「新聞は、いつまでもポストに刺さったままにしないでね」とか、
「夜は、玄関の入り口の電気はつけてていいけど、他は消してね」
「お風呂は必ずお湯を変えたら、お湯を張っておいてね」
「雨戸は、8時過ぎまでには開けてね」
「雨戸、今の時期、4時半を過ぎたら閉めてね」
と、実に細かい指示をリストアップしてあって、言うのだ。
その中に、「外灯が、そろそろ切れるころだから、
○○電気で買ってきておいた方がいいわよ」
というのがあった。
何故?○○電気なのか分からず、聞いてみると、
「そこにしかない電球なのよ」
へぇ~っ。そ、そうなの??
って、言うか、切れたらで良いじゃない??
適当に聞き流しておいた、2日後、切れましたよ、電球が。。。
o-papaと2人「すげ~っ!!」
そして、電球を外してみると、普通の白熱球でした。
義母のこだわりは、買うお店にもあるようで、
前にお買物を頼まれたときに、
買う店から、商品の陳列棚の何段目の何と細かい指定を受けたo-mama。
めんどくさいので、適当に買って行ったら、
「あらっ?これじゃないわ!このサイズだと大きすぎちゃうから!」
o-mamaに、「いる?」
いらないよっ!!
何度、口から「大は小を兼ねるっ!!小は大を兼ねないのよ!!」
って、出そうになったことか。
こんな細々とした行き違いが重なるうちに、
義母にとってo-mamaは、「常識がない人だ」と写ったようです。
「あなたは、常識がないから、ご近所づきあいには気をつけてね」
と言われるまでになりましたよ。
とほほ・・・
なので、今は、ヘルパーの方に義母のお買物はお願いしています。
1階部分のお掃除もお願いし、
昨日の病院事件から、次回の通院もヘルパーさんにお願いしようと、
心に決めたo-mamaでした。
がんばれ!鬼嫁になってやるぅ~!
「フェルトワンコ☆シーズー」
をUPしました。