若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

文字さえ書ければ、ポエット
感覚次第で、何でもアート
日日を豊かに遊び心

なぜ今「ヤスクニ」か?韓国人靖国合祀取下げ(ノーハプサ)訴訟の原告を迎えて

2008-07-20 | 時事問題
愛する人の死を悼む遺族の心を踏みにじる靖国の闇を照らしだすノーハプサ裁判を支援してください!
 
2007年2月、韓国の元日本軍人軍属の生存者・遺族が靖国合祀の取り消し(霊璽簿等からの氏名抹消)を求めて提訴しました。日本政府・靖国神社は、戦後、肉親の生死確認すらできず遺族らが苦しんでいるその間、ずっと遺族らに無断で、日本の侵略戦争に強制動員され挙句の果てに命を落とした犠牲者をあろうことか靖国神社に「英霊」として合祀手続きを続けていたのです。「ノー!ハプサ(合祀をやめて)」の声を上げる韓国人徴用犠牲者の遺族の願いはひとつ「死んでなお軍国神社に縛り付けられた父の魂を返してほしい」の一点です。
この裁判は、「合祀」と言う名目で、死者の魂までも「人質」とする宗教の仮面を被った靖国神社という「英霊」製造マシーンから、肉親の魂を取りもどす闘いであり、戦後密かに延々と営まれてきた日本軍国主義の「闇」をアジアの視点から暴く裁判です。ご支援をよろしくお願いします。

敗戦直後の1945年8月24日、舞鶴沖で謎の爆発により沈没し、多数の朝鮮人が犠牲となった浮島丸事件に遭遇して、帰らぬ人となったのが、海軍軍属として徴用された林西云(イムソウン)のお父さん林萬福(イムマンボク)さんでした。残された林西云さんは、戦後、孤児同然の生活を余儀なくされ、8歳で朝鮮戦争に巻き込まれ、11歳から働きだし、そのためつい最近になってから文字を習いだしたそうです。それは、戦後補償裁判の原告になったのがきっかけでした。

(イムソウンさんの陳述書より)
父は遅くに結婚し子供は私一人だけだったのでそれはかわいがってくれました。徴用に行った後は家族写真を送ってくれと連絡があると送りもしましたし、母は家で農業をし、父が帰ってくる日だけを待ちました。
 しかし、解放されても父は戻って来ず、ある日、父が死亡したという便りを聞き、祖母は父が帰ってこない辛さからで51歳の若さで亡くなりました。母は本人が4歳になった年に実家に戻り再婚をし、私は幼い年で両親がいない孤児になってしまいました。
 家に大人がいなく幼い時から生計をたてる為に生活に追われ、16歳の幼い年に家を出て、ソウルに移り生活しましたが生活は厳しく、学ぶ機会がなかったことが一生の恨みになっています。今でも思い出すと、家族を破綻に追いやり、幼い年で苦痛の中で生活しなければならず、学ぶ機会を持つことをできなくした日本に対しての恨みは言葉で表現することができないくらいです。父の顔を知らないまま育ち、苦労してがんばって生きてきて父の存在についてあまり考えることすらできませんでした。
しかし年を取りいつかは父のそばに帰っていくのだという思いで、父のために何もできないことに対して罪深い気持ちになっています。私は、父が靖国神社に合祀されていることを知りとても驚きました。父の魂が父を強制的に連れて行った人たちと一緒に祭られていることに対して父はやはり心落ち着かないだろうと思い眠れない日が続きました。
 私は父が日本の天皇のために忠誠を捧げ、戦死したことで称えられていることに対して納得することができません。父は日本天皇に忠誠するために志願したのではなく、強制的に連れて行かれ、苦痛の歳月を送り、解放後家族の懐に帰ることができないまま犠牲になった人です。そんな人と戦争を挑発した戦犯者たちが一緒に祭られて天皇のために忠信を称えていることに対して怒りを感じない訳にはいかず、何の罪意識もなく堂々と参拝する小泉総理を見て日本は韓国人被害者たちに心から謝罪しないだろうと感じました。  


主催 ノー!ハプサ(NO!合祀)/在韓軍人軍属(グングン)裁判を支援する会