モルモン書が昭和訳(佐藤龍猪が明治訳を改訂したもの)から平成訳に改訂された経緯を箇条書きで、私沼野治郎が関与した範囲で記します。
改訂作業の時期・・1991年~1995年(平成3年~7年)
改訂の所管部署・・1991年東京管理本部 翻訳課、1992年以降米教会本部翻訳部
1991年当時、東京の管理本部長は北村正隆で聖典改訂プロジェクトマネージャーを兼務した。このプロジェクトは米国の教会本部翻訳部の管轄下にあった。
校閲者の協力・・東京の翻訳課が作成した改訂訳原稿を三名の教会員が校閲する形でこのプロジェクトに協力した。無償奉仕ベースで校閲者(content reviewer)はいずれも大学で教職に携わる人たちであった。モルモン書は沼野治郎が校閲を担当し、教義と聖約(高価な真珠を含む)を担当する人、日本語の面で全般的に目を通す人の三人であった。
改訂委員会の会議・・1991年に三回(4月, 8月, 12月)校閲委員会が東京渋谷で開かれた。
改訂の方針・・1981年版英語の聖典に準拠すること、正確でなかった箇所の修正、自然な日本語の表現にする、などが目的とされた。中でも使用されている日本聖書協会の聖書(1955年口語訳)と用語上符合させる、という一項が含まれていた。
用語上の擦り合わせ例 (カッコ内は昭和訳):
エバ(イブ)、メルキゼデク(メルケゼデク)、ベニヤミン(ベンジャミン)、
エリヤ(エライジャ)、ラバン(レーバン)、ヤレド(ジェレド)など
And it came to pass は訳出しない。behold も訳出不要な場合は訳さない。
magnify 「務めを尊んで大いなるものとする」(召しを全力を尽くして遂行する - - 教義と聖約84:33昭和訳)この語は新約聖書では「務めを光栄とする」ローマ11:13と訳されている。
以上、平成に行なわれた末日聖典の翻訳改訂に参画した一人として、関わった範囲で記録を短くまとめここに掲載しました。交換された書簡、提出した校閲ノート、会議録などを基にしています。
[翻訳改訂に携わったことにたいする謝辞の書簡。オークス、ホランド、アイリング長老の署名が見える。]
参照 関連した記事 当ブログ 2019.03.23日付け
モルモン書翻訳改訂(1995年) に際し聖書の原語を参照した例 - NJWindow(J) (goo.ne.jp)
やはり一度締めさせていただきます。悪しからず。次の記事投稿(主催者のブログ面)までお待ちください。
来週なかばまでには投稿したいと思っています。本文批評について予定しています。
皆様の旺盛な書き込みについていけません。そんな齢(よわい)にきています。
素晴らしい!
私の周りの末日聖徒はプロテスタントな言葉を持ち出すと、
訝しがられます。
「キリスト者の自由」を聖餐会で紹介した時も、後ろの監督の視線が。。。w
>あなたは善を行い、そして最後まで忠実であり続ければ、神の王国に救われるであろう。
(D&C 6:13)
ここ昔はこうなってました。
教6,13,もし汝善を行わんと欲し誠に終りまで変ることなく忠信ならば、神の王国に救わるべし。
実際善行に至らなくても行おうと欲していれば良いのでしょうね。
どういうことでしょう? 聖典にこうありますが。
あなたは善を行い、そして最後まで忠実であり続ければ、神の王国に救われるであろう。
(D&C 6:13)
>つまり、善行そのものではなくて、努力する姿勢・心の向きが救いをもたらすと考えています。
と言うことですか?
善を行う人=善行に対する努力する姿勢・心の向きを持っている、のが普通だと思います。
善を行う人、けれど善行に対する努力する姿勢・心の向きを持っていない人、って通常考えられません。
善を行わないけれど気持ちを持っているだけでOK、とおっしゃっているようにも聞こえますが、気持ちがあるなら何らかの行動に現れるものではないですか?
<儀礼編重、免罪符などのルターが感じたであろう信仰生活の生きづらさを自由で快活な信仰に揺り戻す
「ルターは、堕罪の状態にある人は、自分自身で神に向かう力を持っていない。人間は自らの中心(自身の「心」、そしてそれによって影響される意思)を、理性によって神に依拠するために動かすことはできないと述べている。つまり神との関連で、人間の意思の能力は不自由である。ただ神のみが、その言葉を通じて、人間の心と意思を神に依拠するように動かすことができる。」
ここには近代神学のさまざまなアプローチ、理解とは異なった「自由」が述べられています。
それ故に、彼はトマス・ミュンツアーが指導した「農民戦争」に反対しています。
また、エラスムス(人文学者でロッテルダムに住む)に対して反論しています。エラスムスが「人間は神に対して自由意志を持つ」と主張したからです。
ルターと似たようなような理解がカルヴァンの「予定説」の中にも見出せると思います。
ルターにとっての神学は、「知恵の諸要素を含む実線的学問である。」ので「近代神学の理論・理性の観点(主に哲学の手法を応用)からなされた神証明の提示が与える確信を得る」までには2〜300年の時間が必要でした。
(個々の引用は「キリスト教神学の主要著作」からのものです)
おー!そうなんです!
>ブルース・マッコンキーは、『信仰に関する講話』を復活させるよう提案したが、受け入れられずであったと・・
興味深い。
確かに。。尻切れトンボで申し訳ない。
ここで豚師匠への書き込みに戻ります。
>各々の人間も良い行いを通じて努力する姿勢を見せてこそ、
救われると考えています。
つまり、善行そのものではなくて、努力する姿勢・心の向きが救いをもたらすと考えています。
借り物の光のうちはモーセの律法のように指導者からの戒めに従い、アロン(モーセの兄)神権の儀式では
決まり言葉を一言一句守って従順を学びますが、
福音の律法すなわち完全な自由の律法では
文字(行為義人)は殺しますが、霊(福音の律法)は生かします。
なので信仰ある善行に勤しむべきなのでしょうね。
還言すれば善行では救われず、キリストが救い主であるとう信仰といくら善行を積んでも満たされない自分でも救ってくださるという希望。
そして何よりもキリストの愛が人を救ってくれるのでしょう。
パウロ曰く、能力以上に走る必要はない。
それぞれに与えられたタラントに応じて主を信頼し、ベストを尽くせば良いのでしょうね。
僕のベストはこんなもんかな、奉仕もしてるし教義もよく知っている。と高慢に陥れば聖霊を通じてダメ出しされますし、
私はまだまだ最善を尽くしてない。と無理すれば
聖霊はあなたは十分に頑張ってっますよ、と慰めてくださいます。
聖霊を伴侶とするということはそういうことかもですね。
『信仰に関する講話』で触れらてるような・・
それが、失われたジョセフの教えか・・
1981年?くらい英文合本聖典の出版前に、その委員会に、ブルース・マッコンキーは、『信仰に関する講話』を復活させるよう提案したが、受け入れられずであったと・・
>末日聖徒の教えではキリストが成すべき贖罪の業は完了しましたが、我々が成すべき業は完了していません。
>キリストの様な慈愛を身につけ鍛錬し悔い改めを続けてこそ、
>進歩し、救いに至る階段を登らなければならなないのでしょう。
と言うことが、善行に励めば救われる、ってことですよ、だってその階段を登らないと救いに至らないのですからね
オムナイさんがその階段を登っているかどうかは私には関係ありませんが、自分は登っているんだと思っているならどうぞ、私はその階段を登らない末日聖徒なので
私は末日聖徒の福音は善行に励めば救われるとは教えていない。と考えているので。。。
>だってもうすでに、イエスの購いは成されており、人は救われたことを知りましたので、必死で善行に励む必要はないんです、ただそれでも、善行に励んでいる自分が好きと言う方には、どうぞお好きに頑張って下さい、と思ってます。
アジフライさんの立場私のとは違いますが、理解しました。
私はこのように思います。
末日聖徒の教えではキリストが成すべき贖罪の業は完了しましたが、我々が成すべき業は完了していません。
キリストの様な慈愛を身につけ鍛錬し悔い改めを続けてこそ、
進歩し、救いに至る階段を登らなければならなないのでしょう。
この世に生を受けた人間は第一の位を勝ち得て、さらに第二の位を得るべく父なる神様の元へ帰還することが、救いの計画だと信じています。
見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
黙示録 22:12
それは誰でも一緒じゃん
あなただって直ぐに反論書き込むし、人間のサガですよ
いやいや汗;
〜べきなのでしょうね。とは文法上推量に当たるので、批判には当たらない。
私は、末日聖徒は聖書協会共同訳に切り替えるべき。と断定的に言ったときは賛同された。
意見が同じときは断定でも良くて違うときは推量でも「ちょっと待て」なるのはちょっと待てデスわー。
>末日聖徒は伝統キリスト教の土台の上にあり、信仰ある善行に勤しむべきなのでしょうね。
と「末日聖徒は~すべき」論で勝手に締め括られると「ちょっと待てや、コラ」って反論が出てくることは理解しないといけないよね
私は、人がそれぞれ持っている良心で行動することは否定しない、だけど同時に、善悪とは主観的なものでしかないことも理解しておかないといけないと思ってる、立場や状況が変われば善悪はコロッと逆転する
戦争で何百万人が殺し合うのはなぜか、どちらも自分が正しい、自分が善だと思ってるから
善行に励め、そうすれば救われる、と言うのは危険で恐ろしい考え方だと思う、自分の信じている善のために徹底的に他者を潰すことを厭わなくなる、それは末日聖徒が信者数が増えた!、第◯位だ!、と言う話題で高揚する信者がいるがそれを表してる
確かにモルモン教会は、最後まで忠実で戒めを守れ(善行に励め)、そうすれば救われると教えている、だけど私にその考えは捨てました
だってもうすでに、イエスの購いは成されており、人は救われたことを知りましたので、必死で善行に励む必要はないんです、ただそれでも、善行に励んでいる自分が好きと言う方には、どうぞお好きに頑張って下さい、と思ってます
でも「末日聖徒は~すべき」なんて言い出して、勝手にこっちを巻き込まないでほしいです
https://bycommonconsent.com/2021/10/09/faith-alone-in-romans-328-jst/#more-115828
マルティン・ルターとジョセフ・スミスの両方がローマ人への手紙 3章28節に「のみ」という言葉を付け加えたことが分かります。
これは原文の復元ではありません。
この変化は明らかに翻訳的なものです。
なぜ二人とも詩に同じ変更を加えたのでしょうか?
ーーー
興味深いですね。
若かりしオムナイは信仰義認を日本語的に読んで、
「イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる。」
あたりまえだね。。。それが何か?的に思ってました。
ルターさんの名言、酒と女と歌を愛さぬものは生涯の馬鹿である。
アメリカの青春ドラマでは「あの女はカトリックだから。。プロテスタントの女にしとけ。」的なセリフもあって、
イメージ的には退廃の元凶みたいに思ってました。
叔父に当たる人が熱心なプロテスタントで良く母とやり合ってました。
(モルモンは異端だー、カルトだ、今すぐやめなさい。)
薩摩の女に喧嘩を吹っかけるなんて。。怖いもの知らずのおじちゃんやなぁ。と尊敬もしてましたがw
まぁ、毎回、叔父の酒癖の悪さと浮気の前歴を持ち出されて、母の勝利で終わるのですが。
そんなイメージのまま、反モルモン掲示板で
「聖書には律法によっては救われない。信仰のみが人を救う。」
と書いてあるのに、モルモンの信仰箇条には律法によって救われると書いてある。矛盾してますね?と問いかけられた。
とりあえず、お決まりのヤコブ書の行いのない信仰は。。という箇所を持ち出すも、
理知的な反モルモンの説明に彼らの視点で聖書を読み直すべきかと思い始めました。
そんな時昼ごはんさん?NJさん?から紹介されたのがマルティン・ルターの「キリスト者の自由」
wiki/キリスト者の自由
1520年にヴィッテンベルクで発表されたマルティン・ルターの著書。ドイツ宗教改革者としてのルターの最も優れた内容の小品であると評され・・・
私たちの隣人を助け、おのおのお互いに他人に対して、いわばキリストとなるべきである。
こうして私たちはキリストのものとなり、同一のキリストがすべてのうちにありたもう。
すなわち、これがまことのキリスト者である」と説いた。
ーーー
素晴らしい!!あまりの感動で、「キリスト者の自由」を示しながら聖餐会のお話で紹介しました。
信仰義認は英語でby faith alone(信仰のみ)
ルターはドイツ語訳の聖書(ローマ書)に信仰のみと加筆したとか。
ジョセフ・スミスと同じ感じですね。
当時の私の理解では信仰と行いの関係性の解釈はカトリックの説明が正当性を帯びているように感じられましたが、
儀礼編重、免罪符などのルターが感じたであろう信仰生活の生きづらさを自由で快活な信仰に揺り戻す
神様の啓示だったのだろうという思いでした。
末日聖徒は伝統キリスト教の土台の上にあり、信仰ある善行に勤しむべきなのでしょうね。
改めて思うのですが、コメントを書かれる皆さんは、けっこう正直に自分の思いや考えを書いてくださっていると思います。教会での集会ではなかなかこの「正直に発言する。意見交換をする」という機会はあまりありません。教会員の中にあって貴重な機会だと思っています。
2N 25:23に関連したことで弟のヤコブも次のように記録しています。
「にもかかわらず、主なる神は私たちの弱点を示される。それは、このようなことを行う力が私たちにあるのは、神の恵みと人の子らに対する神の大いなるへりくだりによるということを、わたしたちに分からせるためである。」(BMヤコブ4:7)
<あの頃は、行動が重視される傾向が強く、佐藤訳が修正されたと記憶しています。
そうですね、あの頃、「信仰とは信行」であると話される指導者も結構いらしたことを思い出しています。
(部分引用)
「自分の選択の自由を使える、または使うべき人を強制的に正義の道を歩ませようとするのは、不義な行為なのです。人に対して断固とした制限を設ける必要がある時、常に愛ある忍耐と永遠の原則を教える方法によって行うべきです。」
「不義な支配には、絶え間ない批判、承認や愛の欠如が伴うことがよくあります。支配される側はまるで、そのような指導者や親を喜ばせることは決してできず、自分はいつも不十分であると感じてしまいます。賢い親は、子供が生活の特定の分野において自分の選択の自由を使う準備ができていることを見定めなければなりません。しかし、親がすべての決定権を握り、それを親の「権利」であると考えるなら、子供の成長をひどく制限してしまうのです。」
「不義な支配のもう一つの悲劇的な副作用は、神の愛を信頼しなくなることです。あれこれ指図して厳しい要求をする指導者や親に支配された人を何人か知っていますが、そういう人たちは、義の道を進むように支え励ましてくれる、天の御父から受ける本当の愛を感じることが難しくなってしまうのです。」
「子供はいつまでも家にいるわけではありません。子供が独立して家を出て行くころになって初めて、選択の自由を使う力を子供に与えるのでは遅すぎます。家にいる間に重要な決断をする自由を一度も与えられなかったとすれば、賢い決断をする能力を急に伸ばすことはできません。そのような子供はこうした強制に反抗するか、または自分で決断できなくなっているのです。」
「賢い親は、自分たちがいなくなってもやっていけるように子供を備えます。子供が選択の自由を適切に使うほど霊的に成熟すると、成長の機会を与えます。これはもちろん、時に子供が間違いをして、失敗から学ぶということでもあります。」(2012年4月総大会ウイルソン長老「義の原則に従ってしか」より)
私も似たような間違いを子供達やその他の方々に行ってきました。
子供たちは、大抵は「反抗」と失敗を多く経験しました。その度に、親として自分の至らなさを学びました。(どうしてこんなことになったの?)
話の中の「親と子供」を「指導者と会員」に置き換えることもできると思います。
(引用)
「「青少年の強さのために」がしてくれないことを知っておくことも大切です。これは、皆さんの代わりに選択をしてくれません。皆さんが直面する可能性のある全ての選択について、「イエス」か「ノー」かを教えてはくれません。「青少年の強さのために」は、皆さんの選択の基盤に焦点を当てています。個々の行動について説明するのではなく、価値観と原則、教義を教えています。」
(引用)
「リスク受容度の個人差が大きく、社会的な合意形成が難しくなっている。ならばむしろ個々人が選ぶ方が合理的です。・・・私たちは個人を尊重できる時代に生きているのです。」(中西準子氏)
教会も多様性の中で共通の「to do list」の達成から個々人の選択の尊重へと変更しているように感じています。
>あじフライさんも末日聖徒の一人だと思っています。
過分なお言葉をいただき恐縮に感じます
かつて私は教会の教えに厳格に熱心に努め励んでこそ末日聖徒だと考えておりました、いまでもそう考える会員や、そう教える指導者が多くいます(ほとんど全て?)
今の私は、普通の日本人がお寺に用事があってお寺にいく程度に、教会とスタンスを持つと言うスタイルです
聖餐式のアサイメントや教師の割り当てがあって結果的にほぼ毎週出席していますが、それも、普通の日本人が、お寺の住職からお願いをされたから引き受ける程度にはやる、という距離感で教会と繋がっています
なので安息日や断食や戒めは厳格に守りたい人がやればよいことだと思いますがく、自分はいろいろ考えた結果、それらの束縛を捨てることにしました
この信仰スタイルが受け入れられるのならモルモン教会も文化の一つとなりうるかもしれない、そんな気持ちで、この教会がどうなっていくのか傍観している気持ちです
いただきました。
雲間から
父の説教
痴れ痴れし
ーーー
200まで、後いくつ?m(__)m
“モルモン”呼称止め同様、エキュメニズム一環運動に則り・・フリーメイソンから要請に応じ・・
「古語で「痴れ痴れし(しれじれし)」という形容詞があります。この語釈の中に、枕草子の用例を引いて「わざと知らないふりをしている、そらぞらしい」と解説しているものがあります。意味的、語感的に今で言う「しれっと」に通じるものがあるような気がします
」
教会幹部が目指してるは、グローバル教会・・将来の反キリスト出現への道だったりしてな・・
2009年のは、折衷、カモフラージュか・・ だっから、“長子の教会”の教えは無視だよね・・
>最後の「神の恵みによって救われる」について2012年4月総大会でベドナー長老は「イエス・キリストの贖いによって”人に能力を授ける力」と話されています。その後も多くの指導者の話の中で彼の定義がしばしば引用されています。
>近年のベドナー長老、他の使徒(ウークトドルフ長老他)などの恵み言及はまだ先のことでした。
新約で、“行い”といえば、ヤコブの手紙・・ 5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
このヤコブの手紙、聖典外しへとのルター・・
「マルチン・ルターは「ヤコブの手紙」を価値のない「藁の書」として、聖書(正典)から外そうとしました。
」
ヤコブの手紙 ルター 排除
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99%20%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%20%E6%8E%92%E9%99%A4&ei=UTF-8
「「信仰のみ」で救われるのか 米神学者ジョン・パイパー氏の答え
2017年10月13日
・・ 「救われるには信仰と善行の両方が必要」 米プロテスタントの半数が同意)。これに応じるかのように ・・
5つの有名な「ソラ(sola)」(ラテン語で「唯一」の意味)の重要性について力説した。
5つのソラは、マルティン・ルターや他の宗教改革者たちが強調したキリスト教信仰の重要な教義。「ソラ・スクリプトゥラ(sola Scriptura=聖書のみ)」、「ソラ・フィデ(sola fide=信仰のみ)」、「ソラ・グラティア(sola gratia=恵みのみ)」、「ソルス・クリストゥス (solus Christus=キリストのみ)」、そして「ソリ・デオ・グロリア(soli Deo gloria=神の栄光のみ)」の5つを指す。
」
https://www.christiantoday.co.jp/articles/24585/20171013/god-save-us-by-faith-alone-john-piper.htm
「伝統的に、行いと恩寵(恵み)の問題は、それぞれの側が他方を非難するための簡単な不条理な帰納法を持っているために問題となる。恵みの側からは、ペラギウス主義、つまり、人間は技術的には完全な服従によって自分自身を救うことができ、それによって救い主の必要性をなくすことができるという考え方があります; そのため、「純粋な者にはすべてのものが純粋である」と読んだり、「他人の配偶者とセックスしても姦通罪にはならない」と信じたりする人が出てきて、つまり、地獄が皮肉にも解けてしまうという考え方です。
この議論の現代的な姿は、1520年代のルターとエラスムスに遡る。(私は、この論争が西洋文化の多くを構成しているため、すべての人がこの論争を読む必要があると心から信じています)。私が思うに、この論争は数学に起因しています。ルターもエラスムスも、救済に対する人間の貢献は基本的に無限大だと考えていますが、19世紀まで数学は無限大を扱う方法を知らなかったので、この微量なものが何か(エラスムス)か何も(ルター)かについて意見が分かれます。[1]歴史的な影響という点では、ルターがこの論争に勝ったが、その理由の一つは、彼の解答が素晴らしくきれいであるのに対し、エラスムス派は「無ではない」などというあらゆるニュアンスを交えなければならないからである。[2]
」 deepl ++
https://bycommonconsent.com/2016/04/03/president-uchtdorfs-theology-of-grace/
豚に限らず全ての人は多かれ少なかれ罪を犯します。(当然ですね)
なので、父なる神の視点では義人はいない。一人もいないわけですね。
それだと誰も救われません。
>この考えの中のどこにキリストが関与で来るんでしょうか?
>神の愛は何処に有るんでしょうか?
キリストが天父目線の救いを語っとき、弟子たちは「では誰が救われるのだろうか?」と疑問に思いました。
(そりゃそうだ)
出来損ないな人間を、誰一人救えないはずの人間を
父なる神は罪のない豚。いや羊。いや、なんと
最も愛する子を生贄にすることで罪をチャラにして浄化し、
天国へ入ること許可するというシステムにしたのです。
なので、この犠牲そのものが父なる神の愛であり「恵」なんですな。
末日聖徒やカトリックではそのシステムの素晴らしさに気がついて、各々の人間も良い行いを通じて努力する姿勢を見せてこそ、
救われると考えています。
プロテスタントの多くは、そのシステムのありがたさに気がつけば、自然と良い行いをするのが本当の信仰だと考えているようです。
まぁ、アバウトな私の感覚ではどっちも同じじゃんとしか思えないので、しっくりする方で頑張れば?と思ってます。
あの頃は、行動が重視される傾向が強く、佐藤訳が修正されたと記憶しています。
近年のベドナー長老、他の使徒(ウークトドルフ長老他)などの恵み言及はまだ先のことでした。
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あじフライさんも末日聖徒の一人だと思っています。いろんな層のlds が日本にも出現し始めているのではないでしょうか。
>「神の恵み」についても「人の行動重視」が説かれているように思いますが皆さんはいかがお考えでしょうか。
こちらに、その記事がありました。読みました。
https://jp.churchofjesuschrist.org/acp/bc/Japan/Liahona/2012/2012-04_Liahona.pdf?lang=jpn
ベドナー長老らしい。
彼のグッドボーイ・グッドガールになりなさい。という青少年への言葉はシンプルで素晴らしいと当時感動しました。
超強力に行いを強調しているような印象ですが、さすが使徒。
恵のポイントもキチンと押さえてるなぁ。と感じました。
区分けして見ました。
・・・
大半の人は,贖罪が罪人のためにあることを明確に理解しています。
しかし,わたしたちは贖罪が聖徒のためにもあること,すなわち,従順で良心的でふさわしい人,
また,より善い人になり,より忠実に仕えようと努力している善良な男女のためにもあることを理解しているでしょうか。
↑ーーー行いの強調ーーー
善人からより善い人になり,聖徒となる旅を,わたしたちは自分の力だけで歩まなければならないと思い違いをしているかもしれま
せん。
根性や意志の力,自制心だけによって,明らかに限界のある自分の能力に頼って進もうとしていないでしょうか。
↑ーーー恵の強調ーーー
わたしは個人の聖文研究の際に,恵み という言葉を見つけたら「人に能力を授ける力」と書き込むようにしています。
例えば,わたしたちが皆よく知っている次の聖句について考えてみてください。
「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知っている。」(2 ニーファイ25:23)
聖文に恵み という言葉を見つける度に「人に能力と強さを授ける力」と書き込むなら,
贖罪のこの重要な側面について多くのことが学べると信じています。
ーーー行いの強調ーーー
個人の意志の力,決意や意欲,効果的な計画や目標設定は必要ですが,
この現世の旅を成功のうちに終えるには最終的には十分ではありません。
実に,わたしたちは「聖なるメシヤの功徳と憐あわれみと恵み」に頼るようにならなければならないのです(2 ニーファイ 2:8)。
↑ーーー恵の強調ーーー
「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知っている。」
(2 ニーファイ25:23)
との日本語訳は個人的にはやや行いが強調されずぎの印象ですかね。
しかし、英文でも時系列的に最善を尽くした後で。。と読解できるようですから、
なかなか古代の預言者も表現しづらい教義なのでしょうね。
信仰義人に絡んでカトリックがプロテスタントに理解を示したのも「恵」は行いに先行して与えられる。的な理解を示したからだと記事を読んだことがあります。
末日聖徒も伝統キリスト教からは行い重視、律法主義と思われているかも知れませんが。
実は超グレース重視です。
これらのうち最も大いなるものは神の愛(恵)である。
この頃、ニーファイは晩年だったんでしょうかね・・
理想的には
「3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
」2テモテ 4
とかって言えればね・・
「""私は会議室で定員会との祈祷会に出席し、ヨハネの黙示録にある14万4千人に関し発言し、特にはその人数を形成するための人選はすでに始まっていることを示しました。
""
1844年2月4日・日曜 教会歴史 第6巻p196
"私は永遠の命への道を進み歩んでいます。
それは、単に死者のためにバプテスマを受けるだけでなく、自分を救うために経験したのと同じように、死者のためのすべての儀式を受けていくことが必要になってきます。
シオン山には14万4千人の救い手・救済者がいます。そして彼らのもとには、誰も数えられないくらいの大群がいるでしょう。
おお、私はあなた方に心底お願いします。進み進んで、あなた方自身の召しと選びを確かなものとするようにと懇願します。
もし 私がここで説いた福音以外の福音を説く者があれば、その者は呪われるでしょう。今、私の話を聞いている人たちの幾人かは、私が真実を証言していることを見て知ることでしょう。
""
1844年5月2日 教会歴史 第6巻p363-67
」https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/216c61fab0169627aad357bd45559082
“誰も数えられないくらいの大群”は、救いを望む人たちでしょうか?? 或いは霊界の人たちも含む??
召しと選びを確かなものにすることが、長子の教会員としての条件か・・
恵みによって、到達しつつというその確信に至る・・?!
>「神の恵み」についても「人の行動重視」が説かれているように思いますが皆さんはいかがお考えでしょうか。
教会に入った頃から、「行い重視」「行いによる救済」に慣れてますので、今でもその感覚です。
ただ、現状を言いますと、行いの悪い豚は、救済されることは無いと思っています。
それで、この世だけの人生を楽しく生きようって考えになってます。
客観的見地では、行いによる救済と言うのは、いかにもアメリカの合理主義に合致する考えだと思えます。
良い行いをした人が救われて、良い行いをしない人は救われない。
行いに応じて、死後に行く世界が決まる。
実に合理的です。
ただ、この考えの中のどこにキリストが関与で来るんでしょうか?
神の愛は何処に有るんでしょうか?
って疑問が湧きます。
救われるために行動が重要だと言う人は、人間が何の代価を支払うこともなく、恵みにありつけるなんて、理屈に合わないと感じるんじゃないですかね
私は、救われるために何をすべきか?と言う考えはもう捨てました
購いの業はイエスによってすでに成されており、人はただそれを受け入れるだけ、ただ仰ぎ見るだけと考えています
購いが成されたことを知ることが救いである、と私は考えています
この世で教会の教えていることに忠実で、それを実践した者には来世で素敵な待遇が待っていることを救いだと考える人が末日聖徒のほとんどですが、私はその考えは捨てました
なのでそう言う点では私は末日聖徒ではありません
200で区切りとのこと急いでコメントします。
<上記のIIN25:23は昭和訳で、明治訳を踏襲して、「どんなに勉め励んでも・・」と恵み重視となっていますが、後に「恵み」よりも「行ない」重視の訳に変更されています。教会が「恵みによる」というプロテスタントの姿勢を遠ざけているのが反映されたものと思っています。
英語は it is by ... と by grace が強調されている構文です。しかし、東京(SLCも?)は「行動」重視の訳に変えました。
最新の合本(2009年)も、行動重視の訳にしていますね。私はこの節の after ... をむしろ「.。した後でさえ」と見て、恵み重視に読めると感じていま
す。
2N 25:23は私の信仰にとって、そして、「キリストの救い」を知るために最も大切な聖句となっています。
この中で、最後の「神の恵みによって救われる」について2012年4月総大会でベドナー長老は「イエス・キリストの贖いによって”人に能力を授ける力」と話されています。その後も多くの指導者の話の中で彼の定義がしばしば引用されています。そして、「人が変わることー改心」へと繋がっているように受け止めています。
私がそれまで理解していた「救い・救済」とは異なっており新たに目が開かれた(理解が得られた)とその時感じました。
「神の恵み」についても「人の行動重視」が説かれているように思いますが皆さんはいかがお考えでしょうか。
NJさんは1995年改訂作業の段階でこのような流れを理解しておられたのでしょうか。
私の手元にあるモルモン径
1957年5月20日初版
1975年10月1日 23版
には序文は有りません。
モロナイ書10章3-4の引用で始まり、
次にモルモン径の紹介文
ペルシャの金版、マヤペルーの遺跡等の写真(画像)
(モルモン径の時代と認められるペルーの織物他)
モルモン径の簡単な解剖
3人の見証者証言
8人の見証者証言
本文
の順番です。
聖句ガイドも無く、モロナイ書であっさり終わってます。
もう少し古いソフトカバーのを使っていたのですが、今は行方不明(惜しい!)
ひとりのキリスト教徒の目線から
ギリシャ語でベレヤと題する、このブログ素晴らしいです。
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、
あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、
わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、
なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。
また他宗教については個人的な感想として書いています。
ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。・・
ーーー
非常に理知的なサイトだと感じました。見習いたい。
使徒行伝17:10、11
ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、
心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。・・・
以下の3つの記事興味深かったので紹介します。
http://athanasius828.blog.fc2.com/blog-entry-346.html
昭和版の佐藤龍猪訳の「モルモン經」には四つの装丁があります。
1957年5月30日の初版の黒表紙で四角い囲みの中に「モルモン經」の文字が箔押しで表と背にあるだけのシンプルな装丁となっています(明治訳「モルモン經」と同じデザイン。
ただし明治訳は黒表紙ではなく緑色のハードカバー本)。・・・
http://athanasius828.blog.fc2.com/blog-category-12.html
佐藤龍猪訳「モルモン経」の「ごらん」の訳語と改訂箇所
ひさしぶりに「モルモン経」を手にして開いて見ますと、なんともやたらと「ごらん」という言葉が出てきます。
モルモンの宣教師から「モルモン経」をもらって一回通読した時にも、
この「ごらん」というフレーズがよく出てくるなーという印象を持ったものです。・・・
http://athanasius828.blog.fc2.com/page-2.html
佐藤龍猪訳「モルモン経」の四つの装丁による改訂箇所の続き
前回の記事「佐藤龍猪訳「モルモン経」の「ごらん」の訳語と改訂箇所」では、
昭和版である佐藤龍猪訳「モルモン経」の装丁によって改訂箇所があり、その中から三カ所の改訂箇所を紹介しましたが、
今回は残りの四か所を取り上げたいと思います(細かく調べるともっとあるかもしれません)。・・・
1975年以降のモルモン経で第2ニーファイ9章6節の訳文が改変されたのは、おそらく「救いの教義(全3巻)」の翻訳が始まったからですね、これは1976年に日本語版の初版が発行されています。この第1巻P.111 でフィールディング・スミスが、第2ニーファイ9章6節を引用している以下の文章があります
『この世の生涯は必然性があって短いが、それでも求められる事柄は全部達成することができる。死は救いの計画の中で誕生と同じように重要なのである。私たちは死ななければならない。死は必要である。死がこの世に入ってきたのは、「大いなる造り主の憐れみ深い道が成就するため」であった。』
ここは英文ではこうなっています
『 Life here in this world is short of necessity, and yet all that is required may be accomplished, but death is just as important in the plan of salvation as birth is. We have to die -- it is essential -- and death comes into the world "to fulfil the merciful plan of the great Creator." 』
フィールディング・スミスはモルモン書の聖句を引用し、人間に死が入ってきたのは「大いなる造り主の憐れみ深い道が成就するため」と明言しています、これで教会の翻訳者たちは泡食ったと想像するのに難しくありません、従来の佐藤龍猪訳のままでは引用できないからです、モルモン経の訳文を変更せざるを得なかった、というわけでしょう
ところが平成訳では、上記の経緯を忘れたのか無視したのか分かりませんが、また意味を変えています、「大いなる創造主の憐れみに満ちた計画を成就するため」というフレーズは残していますが、人に死が入ってきた理由がそれである、とは平成訳からは読み取れません
預言者であったはずのフィールディング・スミスの解説は採択されなかったと言えます、まぁこの頃には教会内部でも「救いの教義」はちょっとアレな本だと思われつつあった気がしますし・・・教義や聖文が変更されるのはモルモン教会では良くあること、と理解した方が良さそうです
しかしモルモン教会は、なぜか聖書に対しては、根拠もなく「真理が抜き取られている」とか、「正確に翻訳」されていないもの聖典ではない、などとやたら難癖をつけるのに、モルモン書については甘々な姿勢はどういうこっちゃ?て思いますね
『モルモン書教師用リソース・マニュアル』(2004 年)、19 - 21
モルモン書の序文はオリジナルの版には含まれていませんでした。初めて出版されたのは 1981 年版のモルモン書です。
ーーー
えっ?
では1970年代のモルモン経には今の序文(introduction)なかったのでしょうか?
記憶って曖昧ですね。
そういえばジョセフ・スミスJrによるモルモン経の紹介記事だったような。前書?
モルモン経の簡単な解剖は『モルモン書』についての概説に
変わってますが、内容はほぼ同じなので、訳の問題でしょうね。
度々批判的に話題になる部分。
1957年版
残ったレーマン人はアメリカインディアンの先祖として中心的な存在となった。
現在
レーマン人はアメリカインディアンの祖先の一つです
wiki/Book_of_Mormon
モルモン書には次のバージョンがあります。
モルモン書、パルマイラ版 (1830 年)。
モルモン書、ノーブー版 (1840 年)。
モルモン書、LDS 版 (1981 年)。
>いろんな版のモルモン書やモルモン経をお持ちでしたら、第2ニーファイ9章6説を比較してみると、さらに面白いですよ
比べて見ました。これは興味深いです。
(明治訳)
死は萬民に来るべきものなれば、大なる造物主の愛憐深き道を成就せんとならば、復活を来す能なくては叶わじ。
(昭和訳:13版 1970年)
万人に死が伝わったから大いなる造り主の憐れみ深い道が成就するためには必ず復活を来す能力がなくてはならない。
(昭和訳:22版 1975年)
大いなる造り主の憐み深い道が成就するために万人に死が伝わったから必ず復活を来す能力がなくてはならない。
(平成訳:現行)
死がすべての人に及ぶようになったので,大いなる創造主の憐れみに満ちた計画を成就するためには,復活の力が必ずなければならない。
昭和訳が途中で全く異なる意味に翻訳され直しています。人類に死が行きわたったのはなぜか?と解説されており、これは教義上の変更を感じます。
しかし平成訳ではまた戻っています。正直言うと、私は現行の平成訳と昭和訳の相違があることは知っていましたが、実は昭和訳が途中で改変されていたことは知りませんでした。
私は初版本を持っていませんので初版本でどうなっているかは分かりません。
英文を翻訳サイトにかけてみました。
(英文)
For as death hath passed upon all men, to fulfil the merciful plan of the great Creator, there must needs be a power of resurrection, and the resurrection must needs come unto man by reason of the fall; and the fall came by reason of transgression; and because man became fallen they were cut off from the presence of the Lord.
(deepl翻訳)
偉大な創造主の慈悲深い計画を実現するために、死がすべての人に及んだように、復活の力が必要であり、復活は堕落のために人間にもたらされる必要があります。
(Google翻訳)
なぜなら、死がすべての人間に及んだように、偉大な創造主の慈悲深い計画を成就するには、復活の力が必要であり、復活は堕落によって人間にもたらされる必要があるからである。
deeplでは改変後の昭和訳に近い意味に翻訳されましたが、Googleではその他の訳に近い結果となりました。
興味深い点は2つです。
(1) モルモン書は、人間の死について本来どのように教えているのか?
(2) なぜ昭和訳は途中で改変されたのか?
私が新しい記事を掲載しないためですが、コメント数は200件で一応締めたいと考えています。
後に読み返す必要がある時、多すぎることになるからです。
>まず、私が投稿文で言及したのは昭和訳初版(1957年)です。
ご回答いただきありがとうございます。
そうしますと1970年の13版までの間に変更されていたのですね。
また各訳文に関するお気持ちもありがとうございます。
私も「恵み」重視の訳文のほうが好きです。
ゴスペル・ドクトリンも素晴らしいサイトの一つ
https://www.gospeldoctrine.com/content/credits
著者/編集者
ブライアン・リチャーズ(七十人定員会のH・ブライアン・リチャーズと混同しないでください)は終身会員です。
彼は福音の教義が定期的に議論される活発な家庭に生まれました。
彼は韓国で伝道活動をし、家族と教育の通常の追求に戻りました。彼はユタ州レイトンで耳鼻咽喉科医(ENT医師)として働いています。
ーーー
NJさんのような日本語の末日聖徒関連のサイトも、もっともっと増えて欲しい。
序文
https://www.gospeldoctrine.com/book-mormon/introductory-pages/introduction
1) モルモン書には、聖書と同様、永遠の福音が完全に含まれています。
「永遠の福音の充実」という言葉については、多少の説明が必要です。末日聖徒の間では当たり前の会話となっている教義の主題は記録にないか、ほとんど記載されていない。次のトピックについて検討してください。
A) 前世のこと。
B) 天の会議、天の戦争、打ち倒された天の軍勢の三番目。
C) 3 つの栄光の段階。
D) 死者のための洗礼と身代わりの儀式。
E) 天上の結婚
F) 知恵の言葉
これらの教義は私たちにとって不可欠ですが、「永遠の福音の充実」という言葉にはこれらの教義は不可欠ではないと結論付けることもできます。永遠の完全な福音には、「この世で平和を、来るべき世で永遠の救いを得る」ために必要なすべての原則、教義、戒めが含まれています。私たちは福音が単純であることを思い出さなければなりません。福音の教義は単純です。
「永遠の福音の完全さ」は単純です。
・・・
4) どの本よりも正しい
モルモン書を批判する人たちは、モルモン書の異なる版における変更点、句読点や文法上の問題を指摘する際に、この言葉をよく引用します。
この点に関するジョセフ・スミスの言葉の文脈は、人は他のどの本よりもその戒めに従うことによって神に近づくことができるということです。
したがって、それは教義的に地球上で最も正しい本です。
そのページから発せられる啓示の精神は、イエスがキリストであり、救いは彼の名によってもたらされることをすべての人に宣言します。
モルモン書のシンポジウム・シリーズの中で、ジョージ・A・ホートン・ジュニアは次のように説明しています。
「ジョセフ・スミスが『モルモン書は地球上のどの本よりも正しい』と言ったとき、
彼が文法、句読点、綴りについて話しているのではないことは明らかです。
彼は教義の明快さと深さ、そして、この本の使命とメッセージ、
それが育むインスピレーションの精神、この本が魂に火花を散らして『大きな変化』を起こさせたいという神聖な願い、
そしてこの本が私たちの心にもたらす永遠の主の愛に。」
ーーーーー
この序文(introduction)は誰が書いたのでしょうね?
扉のページは確かモロナイで現代では巻末に書く内容を古代では一番上に持ってきたと、何かで読んだ記憶があります。
むむ。。読むだけでは神に近づくことはできず、
「その戒めに従うことによって神に近づくことができる」
なるほど、そりゃそうだ。
わたしたちは,キリストの贖罪により,全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。(信仰箇条3)
>過去 モルモン書=完全な書物
すんもはん(鹿児島弁ですみません)
どうやら、あじフライさんのが正しいです。
序文の
モルモン経は聖書と並び称せられる聖典である。
この聖典はアメリカの古代住民に対する神の導きについての記録で、聖書と同じように、”永遠の完全な福音が載せてある。”
(口語訳モルモン経1957年)
が誤解されて刷り込まれたみたいです。
モルモン経はこの地上で最も正確な書物であり、私たちの宗教のかなめ石である。
人はその教えに従うことにより、ほかんのどの書物にもまして神に近づくことができる。
と「最も正確な書物」の記述は昔からあったようです。
アバウトな性格が災いしました。
現在 最も正確な書物
未来 ほぼ正確な書物
ほとんど正確なのかも知れない書物
やっぱ正確じゃないかも?
昔は正確やったけど
ま、どっちでも良いような書物
ショーオムナイさんと同じぐらい正確な書物
こうして、モルモン書は・・・・。
わたしは兄弟たちに言った。『モルモン書』はこの世で最も正確な書物であり、わたしたちの宗教のかなめ石である。
(モルモン書の序文)
「正確」って明記されとるがな
>それがいつの頃からか?「最も正確な書物」と言う表現に。
あれ?そうでしたか。現在でも「完全な書物」だと思ってました。
これは英語の表現も変わったのでしょうか?
それとも翻訳が変わったのでしょうか?
調べてみます。
Concerning this record the Prophet Joseph Smith said:
“I told the brethren that the Book of Mormon was the most correct of any book on earth,
and the keystone of our religion, and a man would get nearer to God by abiding by its precepts, than by any other book.”
この記録について、預言者ジョセフ・スミスはこう言っています:
「わたしは兄弟たちに、モルモン書はこの世のどの書物よりも正しく、わたしたちの宗教の要であると言いました、
他のどんな本よりも、その戒めを守ることによって神に近づくことができると言いました。
確かに表音文字が多いそうですが、表意文字も使われているそうです。
ヘブライ文字は母音がなく子音のみで読むときは母音を想像しながら読むらしいのですが、
エジプト語もヒエログリフ(聖刻文字)、ヒエラティック(神官文字)、デモティック(民衆文字)も子音のみ文字らしいですね。
だとすればヘブライ文字と1対1でエジプト文字に対応させても意味がない。
そもそもヘブライ文字は母音の表記が無い分、少ないスペースで多くの情報を詰め込めるはずですから、
もっと効率的するには表意文字的に使用を絡めるしかなないでしょうか。
wiki/エジプト文字
特に線文字のヒエラティックやデモティックでは、語の綴りがある程度固定する傾向がみられる。
文字の配置も右から左への横書きに固定され、頻繁に用いられる連続では”結合字”が多用された。
ーーー
この結合字という考え方は面白いですね。
結合字合字 とは、複数の文字を合成して一文字にしたもの。
抱き字、連字とも呼ばれる。
ユリウス・カエサルの表記「Julius Cæsar」の「æ」が典型的な合字の例である。
KJVがKing James Version
USAがUnited States of America
みたいな感じでしょうか。
それがいつの頃からか?「最も正確な書物」と言う表現に。
私はずっとこの表現が気に入らないです。
というか、変な感じがしてます。
「最も」と言うのは「比較」するときに使う言葉なのですが、「モルモン書は最も正確な・・・」って言う時に、一体何と比較しての事なのか?さっぱりわかりません。
「全ての書物の中で最も正確」なのでしょうか?
でも、全ての書物において正確さを比べるのは、意味不明ですね。
書物って、学術書以外はほとんど正確に書こうなんて考えていない。
宗教書はその最たるもの。宗教書と正確って言葉はまったく別次元の存在です。
聖書は誰もが「正確ではない」と認識しながらそれでもその価値を認めている。
モルモン書も、中身に価値が有れば「正確かどうか?」なんてのはどうでも良い事だと思う。
しかし見よ、わたし自身は悪い人間であり、当然守っていなければならないほど主の掟と戒めを守ってこなかった。>
前にも書きましたがオムナイ(omni)は旧約聖書のオムリ(omri)を反映させている可能性があるように思います。
wiki/オムリ
オムリは、北イスラエル王国[1]第6代の王で、オムリ王朝の創始者である。
旧約聖書以外の文献に登場する最初のヘブライ人の王でもある。
オムリはヘブライ語で「主の礼拝者」という意味である。
・・・
:列王記上/ 16章 25節
オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前の誰よりも悪を行った。
:列王記上/ 16章 27節
オムリの行った他の事績、彼の上げた功績、それらは『イスラエルの王の歴代誌』に記されているとおりである。
ーーー
モルモン書のオムナイは悪人であるが生涯同胞のために戦ったとあります。
旧約聖書のオムリの「悪」とは偶像礼拝だったようです。
だとするとモルモン書のオムナイが悪人と後悔を滲ませているのは、
やはり偶像礼拝に染まったことを示しているのかも知れません。
ご存知のようにオムナイ書は失われた116Pの代替えであるニーファイの小版と大版をつなぐ書ですが、
ニーファイの小版に出てくる、ニーファイ神殿は大版では出てこず、唐突にゼラヘムラ神殿に舞台移ります。
もしかしたら預言者オムナイの頃にニーファイ神殿を捨てて、出エジプトよろしく新たな聖地への脱出があったのかも知れませんね。
もしそうなら、リーハイ書を翻訳していたジョセフ・スミスはニーファイ神殿にノーブー神殿を重ねて見ていたのかも知れませんね。
そりゃそうでしょ、隣国だし、交易したり、戦争したり
ただね、エジプトの文字(ヒエログリフ)って表意文字みたいだけど実は表音文字なのですよ、だから少ない文字数でたくさんの情報を書くには不向きです
モルモン書がジョセフの創作ではないのかとの目線は一旦引っ込めて、一応、モルモン書が古代の記録との視点で考察します
■モルモン9章33
もしわたしたちがヘブライ語で書き記せたならば、見よ、わたしたちの記録は不完全なところがまったくなかったであろう。
慣れないエジプト語で書いたからだ、と言うことみたいですね
>
これには面白い記事がありまして。
https://evidencecentral.org/recency/evidence/egyptian-writing
・・・
モロナイは彼らが書いたスクリプトを「私たちによって伝えられ、改変された」「改革されたエジプト語」であると説明しました(モルモン9:32)。
エジプト語で書いても、ヘブライ語ほど完璧に彼らの考えを捉えることはできなかったようですが(モルモン書 9:33 )、モルモン書の著者たちは、歴史を通じてエジプト語を使用しました。
・・・
これらの主張を疑わしい、または信じられないと見る人もいますが、
現在、古代イスラエル人が実際にエジプトの言語と文字に精通していたことが証拠によって証明されています。
・・・
「パレスチナのヒエラティック」と呼ぶ、独特の「ユダヤ人の変種エジプト文字」が生まれました。
・・・
エジプトで発見されたイスラエルの歴史的および宗教的文書は、エジプトのデモティック文字を使用してアラム語で書かれていました。
この言語と文字の予期せぬ組み合わせは、何十年もの間、テキストの解読に苦労していた学者たちを困惑させました。
・・・
このパピルスに書かれた文章の一部は今でも「アラム語文書をデモティック文字に転写する際に生じる問題のため、
非常に謎めいている。つまり、1つのデモティック記号は数個のアラム文字に相当する」という。
・・・
古代からの証拠を総合すると、さまざまな時代と場所のイスラエル人の筆記者がエジプトの言語と文字体系に精通していて、
自分たちの執筆活動にエジプト語を使用していたことを示しています。
しかし、彼らはエジプトの文字と言語を使用していましたが、彼ら自身のイスラエルの書記の伝統に従っていました。
そしてエジプトの文字体系を彼ら自身のニーズに合わせて適応させました。
さらに、エジプト文字はセム語のテキストを不完全に捉えることしかできませんでした。
ニーファイ人のエジプト語の使用と文字について私たちが知っていることはほとんどありませんが、
これらの発見と一致しています。
ーーーー
(昭和訳)
1ニー1,2,まことに私は父の言葉で1つの記録を書くが、それはユダヤ人の学問とエジプト人の言葉から成っている。
Yea, I make a record in the alanguage of my father, which consists of the learning of the Jews and the language of the Egyptians.
DeepL
私は、ユダヤ人の学問とエジプト人の言語からなる父の言語で、記録を作る。
つまり、内容はヘブライ語あるいはアラム語で多義語なエジプト文字で書かれていたのでしょうか?
いろんな版のモルモン書やモルモン経をお持ちでしたら、第2ニーファイ9章6説を比較してみると、さらに面白いですよ
まず、私が投稿文で言及したのは昭和訳初版(1957年)です。
上記のIIN25:23は昭和訳で、明治訳を踏襲して、「どんなに勉め励んでも・・」と恵み重視となっていますが、後に「恵み」よりも「行ない」重視の訳に変更されています。教会が「恵みによる」というプロテスタントの姿勢を遠ざけているのが反映されたものと思っています。
英語は it is by ... と by grace が強調されている構文です。しかし、東京(SLCも?)は「行動」重視の訳に変えました。
最新の合本(2009年)も、行動重視の訳にしていますね。私はこの節の after ... をむしろ「.。した後でさえ」と見て、恵み重視に読めると感じています。
けっこう翻訳試行錯誤してるんですね。
http://athanasius828.blog.fc2.com/page-2.html
そして、ニーファイ第二25:23です。こちらは第一装丁版
"何故ならば、人がどんなに勉め励んでも、その救われるのはひとえに神のめぐみによることを私たちは知っているから、自分らの子孫と兄弟たちにキリストを信じさせ、神のみこころにかなうようにするために、私たちは力をつくして書き誌(しる)すからである。"
となっていたのですが、第二装丁版から以下のように改訂されました。
"だから私たちが力をつくして書き誌(しる)すのは、自分たちの子孫と兄弟たちを説得してキリストを信じさせ、神との一致を得させるためであり、それは人が最前をつくしてはじめて、神のめぐみにより救われることを知っているからである。"
この個所は思想が大きく変わっています。神の恵みによる救いが、神の恵みによる救いを得るには人の行いが前提という方向転換の訳に代わってしまいました。
第一装丁版の訳文は明治訳の訳文と変わりません。以下に明治訳を引用します。
"何となれば、人は如何ばかり勉め励むとも、其救はるゝは偏(ひとへ)に神の恩恵(めぐみ)に頼(よ)ることを我等知れば、己が子孫と兄弟等にキリストを信ぜしめ、神の御旨に適(かな)はしめん爲、書物(かきもの)に力を盡せばなり。"
(明治訳)
第二装丁版以降はモルモンの行為主義にあった訳になっています。今回は英文原典の1830年初版、1879年改訂版、1920年改訂版、1981年改訂版に当たっていないので、原文の方の変更があるのかもしれません。気が向いたら確認しようかなと思います。
ーーー
2 「モルモン経」昭和訳1957(昭和32)年 5月 佐藤龍猪訳
2. 1952年版 (実際は1920 edition)
1952年版のようです。
探しましたがネット上には無いようです。
2Ne25:23 について
(1) NJさんが比較対象に用いられた昭和訳(佐藤龍猪訳)は第何版ですか?
私の持っている一番古いモルモン経は1970年の第13版ですが
その版もそれ以降もNJさんのような文章ではありません。
(2) 数ある聖句の内からこの部分を提示されたのはどうしてですか?
やはり翻訳者として、大きく意味が変化しているとの認識を以前よりお持ちだったからでしょうか?
ご回答いただけると幸いです。
それは、わたしたちが最善を尽くした後、神の恵みによって救われることを知っているからである。
grace (恵み)を強調して表現するとこの方がわかりやすい。
けど、翻訳として正しいかどうかは。。
それは、わたしたちが最善を尽くした後に救われるのは
ひとえに神の恵みによることを知っているからである。
>昭和訳が版を重ねる途中で改変されたのでしょうか?文章の意味が全然違っているので結構驚いています。
少し、調べてみました。
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/ca6a289573d60af5c8765dcb95738e8e
訳例の二つ目で明治訳、昭和訳が「恵み(grace)」重視であるのに対し、
平成訳、平成改訂版では「行ない」重視に変わっている。
この部分の英語は it is by grace that we are saved, after all we can do である。
英文を見る限り強調構文で grace (恵み)が強調されている。
ーーーーー
https://www.gospeldoctrine.com/book-mormon/2-nephi/2-nephi-25
2 Ne 25:23 私たちが救われるのは恵みによるのであって、私たちにできることはすべてやった後です。
この聖句は、「恵みによって救われる」という宗派の教義に反論するための重要な聖句です。
この教義は、人がイエス・キリストを救い主として受け入れると、すぐにその人は救われると教えています。
つまり、救われるということは、キリストを受け入れたときに起こる、時間と空間の中の一つの出来事なのです。
・・・
私たちは、行いのない信仰は死んだものであること(ヤコブ 2:17)だけでなく、信仰のない行いも死んだものであることを理解する必要があります。
実際、救いの過程について理解すればするほど、私たちをそこに導くのは自分の義ではないことが理解できます。
これはスティーブン E. ロビンソンによって美しく教えられています。
「この聖句(2ニフ25:23)を一見すると、私たちができることをすべてやり終えた後にのみ恵みが時系列的に私たちに与えられると思うかもしれませんが、
これは明らかに誤りです。なぜなら私たちはすでに多くの現れを受けているからです」
私たちがこの点に至る前から、神の恵みがありました。
神の恵みによって、私たちは生き、息をしています。
恵みによって、私たちは天の両親から霊的に生まれた子供であり、神聖な展望を楽しんでいます
...神の恵みは、私たちの霊的な進歩に関与してきました。
最初から最後まで私たちの進歩に関わっていきます。
ーーーー
grace (恵み)を強調すべきに1票。
その中で私が興味を持ったのは第2ニーファイ25:23
(明治訳)
人は如何ばかり務め励むとも、其救はるゝは偏に神の恩恵に頼ることを我等知れば
(昭和訳:佐藤龍猪訳)
人がどんなに勉め励んでも、その救われるのはひとえに神のめぐみによる
(平成訳)
それは、わたしたちが最善を尽くした後、神の恵みによって救われることを知っているからである
平成訳は前の2訳と比べて全く意味が違いますね。どうしてでしょう?
数ある聖句の中からNJさんがこれを例示したのも「全く意味が違っている」部分だと常々意識があったからでしょうか。
英文ではこうなっています。
for we know that it is by grace that we are saved, after all we can do.
各翻訳サイトで翻訳してみました。
(Deepl)
なぜなら、私たちが救われるのは、私たちにできることはすべて、恵みによるものだと知っているからです。
(Google翻訳)
なぜなら、私たちができることをすべて行ったとしても、私たちが救われるのは恵みによることを私たちは知っているからです。
(Weblio翻訳)
我々は、することができるすべての後、我々が救われるのは優美さによってであるということを知っています。
ということで、私の率直な感想は、平成訳は誤訳じゃないのか?という疑問がわいてきました。
それでもう少し調べてみたところNJさんが提示した昭和訳のモルモン書ですが、それは昭和訳の初版でしょうか?
私の手元には1970年の第13版がありますけれど、文章はこうなっています。
「それは人が最善を尽くしてはじめて、神のめぐみにより救われることを知っているからである。」
昭和訳が版を重ねる途中で改変されたのでしょうか?文章の意味が全然違っているので結構驚いています。
>「正しく翻訳されたる限り」との条件が付いてます。
いえ。「正しく翻訳されたる限り」と条件がついてるのは聖書だけ。
聖書を無誤的に信じる福音派なども”原典”において全く誤りがない。。。としているので。ほぼ同じ意味。
モルモン書(英文)は完全な福音が載せてあるとしているので、
モルモン書(英文)そのものが”原典”になるのでしょう。
なので、KJVの文を多く引用している手前、おいそれとは最新の聖書に変えられない。という側面もありますね。
しかし、モルモン書のコンセプトというのは素晴らしすぎる。
なにしろほとんどのキリスト教会が「聖書」が正典であるのに、
アナザー聖書という概念がすごい!
確かに神の言葉は預言者によって伝えられるわけだから、
様々なところに聖書はあって良いはずですよね。
ユダヤ人の聖書に同じユダヤ人が新しい聖書を追加した。
アメリカ大陸に渡ったユダヤ人もさらに新しい聖書を追加した。
コロンブスの卵的発想。アメリカ大陸を発見するわけですね。
モルモン書がジョセフの創作ではないのかとの目線は一旦引っ込めて、一応、モルモン書が古代の記録との視点で考察します
■モルモン8章12
この記録を受け入れ、この中に不完全なところがあるからといって非難したりしない者は、これらのことよりも大いなることを知るであろう。
え?モルモン書に不完全なところってあるの?はい、あるんです、何しろ最後の編纂者がそう書き残しているんですから、なぜ不完全なのか、その理由を編纂者モルモンはこう説明しています
■モルモン9章33
もしわたしたちがヘブライ語で書き記せたならば、見よ、わたしたちの記録は不完全なところがまったくなかったであろう。
慣れないエジプト語で書いたからだ、と言うことみたいですね、もう一つ、モルモン書で最初に登場する預言者ニーファイによれば
■第2ニーファイ33章1
また書くときには話すときほどの力もない。人が聖霊の力によって語るときには、聖霊の力がそれを人の子らの心に伝えるからである。
と言うことで書き残すより実際に話をしたほうがもっと良いのに、と感じていたようです
なんか書いてる人たちが自信無さげな感じですね、さらに驚くのは自信無さげどころか、戒めを守っていないと公言する人も、金版に書き残しています
■オムナイ1章2
しかし見よ、わたし自身は悪い人間であり、当然守っていなければならないほど主の掟と戒めを守ってこなかった。
読んでいる人はこう思うんじゃないでしょうか、おいおい、これ神の聖典として大丈夫かよ・・・
それはモルモン書を書いた人も案じていたようで、自分たちの不甲斐なさ故にモルモン書を否定する人が出てくることを想定してこう言ってます
■第2ニーファイ33章10
これらの言葉を聴き、キリストを信じなさい。また、これらの言葉を信じなくても、キリストを信じなさい。キリストを信じれば、これらの言葉を信じるようになるであろう。
まぁこの言葉の解釈は様々でしょうが、作者から読者への懇願だと私は受け止めています
で、どうですか皆さん、モルモン書の文章に関わった人が自信たっぷりに感じましたか? 私は正直、なんか言い訳がましいなぁって思ってしまいます
deeplに、モルモン書の金版の写しを翻訳させよう!アントン教授に見せたら、これは古代の文字に間違いないって言った(という話になってる)アレですよ
さぁ早く、早く、deepl に翻訳させてみて!
「正しく翻訳されたる限り」との条件が付いてます。
何度も翻訳の変更が有れば、どれが正しいのかが不安になりますね。
一番不安なのは、最初に翻訳した人の問題ですね。
もう、7年も前ですかー。
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/db16dde511b34608bb65b696c56a5cd0
magnify という語はモルモン書ヤコブ書1:19 (2:2) に、
magnify our office の形で出てくる。普通、現代英語で
magnify は make large 「大きくする」という意味である。
それで昭和訳は、「私たちは力いっぱいの努力をした」と訳されていた。
現在、平成訳は「自分たちの務めを尊んで大いなるものとした」となっている。
ーーーーー
英語 ヤコブ書1:19
And we did magnify our office unto the Lord, taking upon us the responsibility, answering the sins of the people upon our own heads if we did not teach them the word of God with all diligence; wherefore, by laboring with our might their blood might not come upon our garments; otherwise their blood would come upon our garments, and we would not be found spotless at the last day.
DeepL訳
そして、私たちは自分の職責を主に向かって高めた、
もし私たちが神の言葉を熱心に教えなければ、人々の罪を私たち自身の頭の上に負わせることになるのです;
だから、私たちが力を尽くして働くことによって、
彼らの血が私たちの衣服にかかることがないようにしたのです;
そうでなければ、彼らの血が私たちの衣服につき、
私たちは終わりの日に汚れのない者として発見されないだろう。
明治訳ヤコブ書1:19
我等二人は天主の御前に其職を盡(つく)して責任を負へり。
我等若し勉めて神の道を民に教へずんば、民の罪の責(せめ)我等に歸すべきを認めたり。
故に彼等の滅亡の責の我等に歸することを免れん爲、我等は力を盡して勉めき。
然せずんば民の滅亡の責我等に歸し、終の日我等は罪なき者と認めらるまじ。”
昭和訳ヤコブ1:19
私たち二人は主の御前にその職をつくして責任を負い、
私たちがもしも一生けんめいに神の道を民に教えなかったならば、
民の犯した罪の責任を私たちが負わなくてはならないことを認めた。
それであるから、かれらの犯した罪の血が私たちの衣にかからないようにのがれるために、
私たちは力いっぱいの努力をした。
そうしなかったならば、かれらの犯した罪の血が私たちの衣にかかって、
終りの日に私たちは潔白な者とは認められないであろう。
平成訳ヤコブ1:19
そしてわたしたちは,もし自分たちが力の限り神の言葉を民に教えなければ,
民の罪を自分たちの頭べに受るという覚悟で責任を受たので,
主に対して自分たちの務めを尊とんで大いなるものとした。
そしてわたしたちは,民の血がわたしたちの衣にかかることのないように,力の限り働いた。
そうしなければ,彼らの血がわたしたちの衣にかかって,
わたしたちは終りの日に染のない者とは認められないであろう。
ーーーー
平成訳の「自分たちの務めを尊んで大いなるものとした」
翻訳の工夫が成功している様に感じられます。
しかし、様々な訳を読むことは理解の奥深さを感じさせますね。
豚師匠とRさんの対話面白い。
死んだ後もランク付け? 救いの計画って何千年もかけて壮大なミカンの選別するようなこと? 神の子イエス・キリストがしたかったのはそんなことなの?
そんな風に思っちゃいます
せっかく罪無き神の子羊が偉大なる犠牲を捧げてくれたんでしょ? 無限無窮の犠牲なんでしょ? だったらみんな日の栄えでいいじゃん、私はそう思います
最新の記事にタイムリーなのがありました。
モルモン書の証拠: 救いの計画
https://evidencecentral.org/recency/evidence/plan-of-salvation
中略
したがって、モルモン書における救いの計画の展開は、文学的に複雑であると同時に、古くからもっともらしいものでもあります。
ーーーー
なるほど、なるほど。
宣教師から福音を教えられた「救いの計画」
義人は日の栄、善人は月の栄、悪人は月の栄。
妙に素直に受け入れられました。
まさしく簡単明瞭な教えですね。
>モルモン書における救いの計画の展開は、文学的に複雑であると同時に、古くからもっともらしいものでもあります。
これすごく納得です。
確かに「もっともらしい」ものですね。
ショーオムナイさんと同意見です!
「もっともらしい」の意味
もっともらしいとは、一見するとそれなりに正しいように感じられるものの、実際はそうとは言い切れないことです。
日本聖書協会の協会共同訳聖書に何一つ支援していませんけれども・・・
むしろ
協会共同訳聖書(←有料)
とか言ってましたね、ただで寄越せってことなんでしょうか、そりゃ厚かまし過ぎですぅ
一気にスレッドを盛り上げる。
まさに、大谷翔平の「ショータイム」を思わせます。
これからは、そんなオムナイ氏に敬意を表して「ショーオムナイ」と呼ばせてもらいたいです。
張り切って行きましょう!!
ほんまにショーーーオムナーーーイーーー!!
プロテスタント 約60万人
カトリック 約44万人
エホバの証人 約20万人
モルモン 約15万人
なおルモンの場合、活発率は15%くらいじゃないですかね、教会ユニットの統廃合と教会集会所の激減が活発会員の減少を物語っています
なお上記全部合わせても日本の人口の1%あるかどうか、その中で微増しているからモルモンは世間に受け入れられているって思えるメンタリティーは、私には奇特なものに思えます
ダイアログやサンストーンって、こんな論調で書かれた雑誌なんでしょうかね?
福音主義的なキリスト教は「啓示や神の現れ」を現実の事象のように捉えるから、その見えるのかも。
最初の示現も聖典の表現に合わせて神の現れや言葉を選んでいる感じがしますね。
実際の体験は朧げで夢にような概念だけを受け取ったのかも。
そういった宗教的思想の思考なら現代でもどの教派でもあるのではと思います。
モーセの紅海が分かれてエジプト軍が全滅するシーン。
あれは良く読むと軍事的策略ですもんね。
松明を利用して最後尾を先頭と偽装して沼地に引き込んだ、見事な勝利と読めます。
どうやら一部のフリーメールを排除したみたいですね。
>ご存知の通り、一般に流布されている聖書は私の知る限りで150巻以上もある古文書の66巻に過ぎず、
然もそれは何度も人の手によって書き写されてきたもので、誤写を含め脱落や書き加えによる改ざんが甚だひどいものです。
学者さんの書籍のコメントやネストレアーラントの解説にもある様に客観的にはそれぞれの教団の思想に合わせて原著者の思想が見えにくくなっていることは確かな様です。
>
古語は現代用法と意味が全く異なりますので注意する必要があります。
例えば、cry(cried)であれば、「叫び求める」ではなく「願い求める」であり、
magnify(magnifying)も「大いなるものとする」ではなく「尊重する」とか「礼賛する」と訳さなければなりません。 >
ハンドルネームは「森のふくろう」という方、かなり翻訳にも詳しそうですね。
日本の末日聖徒の中にも多くの知識人がいることがわかりました。
アメリカの末日聖徒達は個人レベルで様々なサイトや動画を配信しています。
日本でも増えると良いですね。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/32008/20230216/2022-japan-religion-yearbook.htm
信者数の多いキリスト教系教団上位( )内は前年の信者数。
カトリック教会 43万1100人(43万5083人)
末日聖徒イエス・キリスト教会 13万192人(12万3502人)
日本基督教団 10万7224人(10万9593人)
ーーーキリスト教系包括宗教法人のみーーー
日本のキリスト教会界にあって末日聖徒は責任ある立場になりつつあります。
欧米での融和が進むにつれ、日本でもキリスト教と認知される日もすぐそこにきているのでしょう。
>「私ニーファイは・・
「実際、これらの言葉は、彼の民に対する王および支配者としての彼の権威を書面で示していた可能性があります。このように始まる碑文の最も良い例のいくつかは、王としての彼の勝利を記念して古代シリアに3つの大きな記念碑を建てたバラカブという名前の王からのものです。1それらはすべて、「私、バラカブ、パナムの息子...」という言葉で始まります。2別の碑文は、「私、パナム、キレルの息子...」という言葉で始まります。3これらはすべて、リーハイの時代より前の紀元前750年頃にさかのぼります。
・・そのほかの碑文はすべて王の父親について言及していますが,ニーファイが父親だけでなく「両親」についても言及しているのは興味深いことです。
」 ブラウザ訳
https://knowhy.bookofmormoncentral.org/knowhy/why-does-nephi-begin-by-saying-i-nephi
「" 唯一まことの教会 " は条件つきだにゃ 2019-03-30
」 https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/2bb8ad041e21deb90c8131914cae92c5
“モルモン”の呼称止めにしたのは、フリーメイソンからの要請で?? 旗幟鮮明、キリスト教とわかるように・・イスラムとの対立のため・・
ネルソン管長自身はユタ大学時より、エリートのスカル&ボーンズ結社員だよね、この年齢に至っては、かなりトップ・エリートのグローバル・フェイス指導者ということか・・
キリスト教はシオニズムに絡めとられてる・・
「いまやエキュメニズムによりキリスト教世界はひとつにまとまりつつあるんでしょう。・・3回目の世界戦争は政治的シオニスト達とイスラム世界の指導者達との間のイルミナティの工作員によってもたらされる紛争を利用して煽動されなければならない。
」 https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/d52ef64c73b52a6ec4fd6ea5f87fcec8
「こんな政治家がいる、日本も捨てたもんじゃないと・・
」 https://ameblo.jp/drminori/entry-12806280207.html
「なぜ今?LGBT法推進派の正体を暴く【LGBT問題 後半】|茂木誠
ChGrandStrategy
131,159 回視聴 2023/06/09
」 https://www.youtube.com/watch?v=ENCSPTZBrXI
「広末涼子さんはどないなっとるだ。というわけで、ホロスコープを見て考察したくなりました。
」 https://ameblo.jp/tsukika385/entry-12807380038.html
末日聖徒のあの御仁も火星ノーアスペクトだとです・・
良くわかりませんが。。こんな寛容なブログの管理人さんから
度々イエローカードを出される方達の意見に無関心なのは確かですね。
さすが師匠は愛が深くていらっしゃるので取りなしにされている様ですが、
弟子は人間ができてないので。。サンストーンなどのリベラルな研究者の意見や、指導者の意見に感銘することが多いですね。
あじフライさんの意見拝聴してますが、私は共感できないことが多いので無関心のことが多いですね。
ごめんなさい。
そりゃそうだ、モルモン会員にとって、神が他の教会を非難する言葉をどれだけ言おうと何の関係もない
その言葉を、モルモンに向けられたらどうするの?って好奇心さんは聞いてるワケだけれどね
まぁオムナイくんは本物のアホじゃないでしょうから、ワザと相手の言葉の真意を無視して、発言の一部を切り取り、それに対する反論を並べて会話のマウントを取る、という戦術を使ってるんでしょう?
お見事です、バレバレですけど(笑)
あの時、モルモン教会に対して同じこと言われたらどうするんですか?と聞かれたら「断固抗議します」って返してましたっけ
他の教会を叩くのは気分がよくて大好き、でも自分の宗教にちょっとでも文句言われたら激怒する、そんなメンタリティーでしょうか
>現代の末日聖徒イエス・キリスト教会とは一切関係ありませんよね。
そうそう、だから同じ理屈で多くのキリスト教会の玄関に「当教会はエホバの証人、統一教会、モルモン教会とは一切関係ありません」って書いてあるのね
それでもなぜか大激怒するモルモン会員がいるのは極めて不可解、だってモルモンが悪いとも間違っているとも書いてない、「当教会」は「モルモン教会と関係ない」との事実を書いてあるだけでは?
まぁこれ逆に返せば、「忌まわしいと言ったのは信条のことです」との屁理屈には相手の感情に対する配慮があるかどうかの指摘に繋がりますね
思いやりとか、愛とか、人を救うとか標榜しながら、「他の教会はすべて間違い」との啓示はないわなぁって思うのが一般人の感覚でしょ
NJさんはこう言われてますよ。
唯一まことの生ける教会」である。情報に通じた教会員にとっては扱いにくいテーマである。
オークス長老の「真理と寛容のバランスを取る」という記事が目に入った。
この課に大変関連のある重要な記事である。
オークス長老は現代社会にあって、互いに寛容を示し、相互尊重と忍耐の姿勢が求められると述べている。
ーーー
一発アウトのとげとげしい言葉とは捉えていませんね。
>彼らに共感したり交流を持つことは破門の対象になりえます。
モルモン原理主義者さん達が行っている「一夫多妻」は現代の末日聖徒イエス・キリスト教会とは一切関係ありませんよね。
「モルモン原理主義者」の権利をジョセフ・スミスは守るのでしょうか?
はい、彼らの宗教的権利が阻害されれば守るとジョセフ・スミス言うでしょう。
ただし、法律に抵触していれば、その限りではありません。
当然ですが。
https://morefaith.jp/教会員ってどんな人?/モルモンとカトリックが共有するもの/
「両者には多くの共通点があります。
家族を中心に置き,教育や慈善,公の場で信仰に生きたり信仰を伝えたりすることを大切にしています。
最近,カトリック教会と末日聖徒教会の間の絆は、宗教の自由を支持し擁護することにおいて強まっています。」
他の信仰から学び成長する
アウザ氏はLDS教会の組織やプログラムを称賛しました。
彼はとりわけLDS青少年のセミナリーについて言及し,
このプログラムは「カトリックの聖職者をして聖なる嫉妬心を起こさせます」と述べています。
ユタ峡谷大学の宗教研究のプログラムと倫理学研究のセンターのディレクターをしている
ブライアン・バーチは,モルモンはカトリック教から大いに学ぶことができると語りました。
ーーー
カトリックとプロテスタントも長い間反駁してきましたが、融和し共にキリストの愛を共有しています。
末日聖徒とも融和しつつありますね。
多くの教会員にとって喜ばしい事です。
この融和は未来に向けてもっと進むと私は見ています。
末日聖徒も唯一まこと、カトリックも唯一まこと
それぞれの原点を尊重し共にキリストの愛を勧めるのは、それほど難しいことではありません。
>命を差し出す用意ができていることを,天の前にあえて宣言します。
>末日聖徒の権利を踏みにじる考え方は,ローマカトリックや,あるいは信者が少なく,自分たちを守る力を持たない宗派の権利をも踏みにじるものです。
ジョセフ・スミスとモルモン書を信じている「モルモン原理主義者」と呼ばれる集団がユタ州やアリゾナ州に数万人いるそうです。彼らに対して末日聖徒イエス・キリスト教会は、一切関係ないとしていますね。彼らに共感したり交流を持つことは破門の対象になりえます。
「モルモン原理主義者」の権利をジョセフ・スミスは守るのでしょうか?
過去の人が残した言葉を素晴らしいと感じる人には、ぜひその言葉を行いに移していただきたいものです。
>そうですか?
はい、そうです。
最初の示現の中で、神が「すべて間違っている」と言いました。これだけでどのキリスト教会もモルモンに嫌悪を抱くでしょう。さらに、神は「信条は忌まわしい」「腐敗している」などなどの言葉を語った、これらは真実である。と言うのが最初の示現です。
ジョセフに現れた神が、キリスト教会について何も良いことを語らず、貶める表現ばかり繰り返している全体の内容を無視して、「忌まわしい」のは信条であって他の教会のことではないという微細な点ばかり繰り返して弁解する論法。
あなたも十分理解した上でこの論法を使っているのでしょう?
>まぁ、確かに誤解しやすい厳しい言葉
「厳しい言葉」ではありません、このブログなら一発アウトのとげとげしい言葉。
>先人の研究者目線は参考になりますね。
それは研究者の目線ではありません。末日聖徒の目線です。モルモン会員が信じる神の言葉を、モルモン会員が正しい、正しいと言うのは当たり前では?あなたも「末日聖徒の信者なんだから一番素晴らしいと信じるのは当たり前です」って言いました。
他の教会はすべて間違い、モルモンは神が回復した正しい教会、自分は素晴らしい教会の会員だという教義。これは末日聖徒には痛くもかゆくもないどころか、実に気分がいい。気持ちの良い教えでしょうね。でもキリスト教会はモルモンに対してどのような感情を抱くか、という目線がすっぽり抜けています。
もちろん最初の示現が実際に起こった出来事だと信じるのは自由です。しかしそれではキリスト教会との融合は有り得ない、と私はお伝えします。
新約聖書はギリシア語テキストがあらわされて以降、多くの人々によって筆写され、
無数のテキストが作られたが、写本製作の過程におけるミスや意図的な改変により多くの異読が生まれた。
・・・
「ネストレ・アーラント」が最高水準のギリシア語テキストであるといえるのは、
これまでに作成されたギリシア語聖書の中で見ても集めうるもっとも多くの写本をもとにしており、
さらに最新の聖書学や歴史学の知識にもとづいて校訂が行われているからである。
・・・
なるほど、と思う反面。では聖書から抜き取られたものなど無いじゃないか?と思ってもみます。
多くの兄弟姉妹は多くの「ゆらぎ」の中で真理を見出す努力を続けているのでしょうね。
見失ってはいけないのは人生を有意義に生きるための法則を知るために学んでいるということ。
なぜなら聖典の編集者達もそれを織り込もうとしているから。
ーー引用ーー
聖書学者モーリス・ロビンソン(Maurice A. Robinson)のように
「異読の中で数の多いものを選ぶという(基本的な校訂の)やり方は
かえってオリジナルのテキストから離れていく。
異読の中の少数例こそ重視されるべきだ」というものいるが
「ネストレ・アーラント」の編集指針も大文字写本と呼ばれるもっとも古い時期の写本こそが
「オリジナルのテキストに近い」というものである。
・・・
ーーーー
うーん。どうなんでしょうね。
写本も現代の聖典がそうであるようにオリジナルの精神を追い求めて校正、編集を時代に合わせてブラッシュアップしてきたものだと
すれば、古い時期の写本が原著者の思いを反映するとは限らないかも。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=204651&id=67681058
>
モルモン書では第一ニーファイの書き出しからこの慣用句が用いられています。
流布されている和訳モルモン書とは異なり、正確には「私ニーファイは良家に生まれたので・・・」であり、この家族が経済的に恵まれていたばかりでなく、信仰の上でも優れた伝統の家系であったことが分かります。
>
これは以前Webさんも指摘してましたね。
経済的、信仰的の他に当時最高水準の技術者、知識層の家系でもあるような気がします。
(造船や見事な作りの金版を作成している。)
ウィルソン姉妹がキリストの職業に関して別の訳を参照して、
大工ではなく石工の方が相応しい的な解説をしていました。
少年イエス(ヨシュア)は神殿で優れた知恵で周りを驚かせたのは、主も当時最高水準の技術者、知識層の家系だったのではないでしょうか。
まぁ、経済的には恵まれていなかったかもですが。
ニーファイ達は当初、木でソロモン神殿に似せて神殿を作りました。
まるで神社の宮大工の様。
宮大工の技術はまさに神業ですからね。
すべての人には自分の良心に従って信じる自由があり,
その自由を尊ぶことによって,地域社会の中に協調を築くことができる。
「わたしはすべての教派や宗派,門派に対して,この上なく寛大な 気持ちを抱き,慈愛を感じています。
そして良心の権利と自由を何よ りも神聖に,また大切にしており,
自分と意見が異なるためにだれか をさげすんだりはしません。」
「聖徒たちはわたしが兄弟たちのために進んで自分の命を捨てるかどうかについて証することができます。
もしこれまで『モルモン』の ために進んで命を差し出すことが証明されてきたとするなら,
わたし は自分が長老派,バプテスト,あるいはほかの宗派の善良な人の権利を守るためにも同じように
命を差し出す用意ができていることを,天の前にあえて宣言します。
末日聖徒の権利を踏みにじる考え方は,ローマカトリックや,あるいは信者が少なく,自分たちを守る力を持たない宗派の権利をも踏みにじるものです。
ーーー
素晴らしい!
多くの伝統キリスト教が衰退する中、微増ではあるものの世の中に受け入れられ続けているのは、
末日聖徒の融和的姿勢なんでしょうね。
https://news-jp.churchofjesuschrist.org/記事/預言者、バチカンで教皇フランシスコと会見
宗教間の対話は、当教会の創設時から末日聖徒の指導者たちが実践してきた。
ネルソン大管長が2018年に末日聖徒イエス・キリスト教会の指導者になって以来、ローマ・カトリックの聖職者らと関わりを持ってきた。
ーー
そうですか?
全ての教会が。。と彼らの信条。。では天と地くらいの差があるように私は思いますけど。。。
https://www.churchofjesuschrist.org/bc/content/shared/content/japanese/pdf/language-materials/36481_jpn.pdf
歴代大管長の教えージョセフ・スミスーP438
御二方はわたしに,すべての教派は ”誤った教義” を信じており,
神が御自分の教会と王国として認めているものはないと告げられました。
そしてわたしは『それらのどれをも追い求めないように』はっきり命じられ,また同時に,
将来いつか完全な福音がわたしに知らされるという約束を受けました。
ーーー
まぁ、確かに誤解しやすい厳しい言葉ですが主は当時の教会や信者を指して憎むべきとは仰いませんでした。
先人の研究者目線は参考になりますね。
>彼らの信条は忌まわしいものだと彼は言われた
ジョセフ・スミスは自分の経験を語るうえで、「地元の教会のどこが自分に合っているか」と言った質問をしたわけではないのです。彼の言葉が正しければ、彼の疑問は「すべての教派のうちのどれが正しいか」でした。
ジョセフを天才宗教家だと持ち上げる人が、最初の示現という宗教成立に関する重要なイベントに関しては、ジョセフは「地元の教会のどこが自分に合っているか」を知りたかっただけだと、矮小化するのは奇妙に思えます。私にはその人からはどちらかと言えば何らかの印象操作の意図を感じますが。
それはともかく「すべての教派のうちのどれが正しいか」を訪ねたジョセフに対する神の答えは「すべて間違っている」でした。さらにその上に「彼らの信条はことごとくその(神の)目に忌まわしい」ものであり、「信仰を告白するそれらの者たちはすべて腐敗」していると言うのが神の啓示でした。
これはとげとげしい言葉以上のもの、侮蔑ではないのだろうか、と私は思います。これはモルモン教会に対する憎悪、嫌悪、軋轢の他に何も生じることはありません。
参考までにモルモンの分派として知られる「コミュニティ・オブ・クライスト」、いわゆる復元イエス・キリスト教会では、ジョセフが最初の示現を受けたのは事実であるがそれがどのような内容だったのかについて神学的素養の無いジョセフは正確に表現できていない、としています。私もその見解には同意です。
>彼らの信条は忌まわしいものだと彼は言われた
それは詭弁と言う論法ですね。
たとえばこのブログのコメント欄で、末日聖徒の信条はことごとく神の目に忌まわしい、という発言があったらどうでしょう?
そしてその発言者が「信条・・・」にキーポイントがありそうです、末日聖徒を「忌まわしいもの」であるとは主張していません、その信条が忌まわしいと言っただけです・・・などと言い訳を始めたとしたら、このブログの管理人さんは納得されるでしょうか?それとも堪忍袋の緒が切れませんか?
少し想像力を働かせれば分かることですが。
私には伝統的クリスチャンの知り合い(もう他界しました)がいましたが、モルモンがそういう排他的な教義を持っていることは知りませんでした。しかしその教義を知っていたら非常に気分を害すると思います。さらに「教会を忌まわしいと言ったのではなく、信条について言ったのです」などと弁解し始めたら本当に怒り出すと思いますよ。
だって同じことじゃないですか。むしろ感情を逆なでしていますよね。それが分かりませんか?本当に分からないのなら共感性が無い人だと思います。
>現代の若者も宗教同士の争いに嫌気がさしています。
だから他の教会を貶めている教義に嫌気がさして、モルモン教会を離れたい、そう考える人が多いのでしょうね。実際モルモンをやめていく人は多いです。
キリスト教会ではなくて「彼らの信条・・」にキーポイントがありそうですね。
fairlatterdaysaints.org/answers/Question:_Did_God_tell_Joseph_Smith_that_all_of_the_churches_of_the_day_were_an_%22abomination%22%3F
質問: 神はジョセフ・スミスに、当時の教会はすべて「忌まわしいもの」であると言われましたか?
ジョセフは当時の教会が「忌まわしいもの」であるとは主張しませんでした。
彼らの信条は忌まわしいものだと彼は言われた
ある評論家はこう主張する。
モルモン教の経典によると、あなたの教会の創設者(ジョセフ・スミス)は、
1820年に当時のすべての教会は「忌まわしいもの」であると神から告げられました。
ジョセフは当時の教会が「忌まわしいもの」であるとは主張しませんでした。彼は彼らの信条は忌まわしいものだと言われました。
・・・
rsc.byu.edu/prelude-restoration/all-their-creeds-were-abomination
「彼らの信条はすべて忌まわしいものだった」
背教の一部としての信条についての簡単な考察
ジョン・W・ウェルチ
主がジョセフ・スミスに明らかにしたこの重要な啓示は、いくつかの疑問を引き起こします。
イエスはどのような信条を念頭に置いていたのでしょうか。
1820 年にはいくつの信条が存在していましたか。
また、それらの信条のどれがさまざまな「宗派」のどれによって採用されましたか?
それらの信条は何を言っているのでしょうか、そしてそれらの何がそれほど忌まわしいものなのでしょうか?
ーーー
なるほど、さすがウェルチさん。
師匠やオムナイのようにどっちもどっち。とアバウトでは、いや。。
まぁ。いいか的ではありませんね。
現代の若者も宗教同士の争いに嫌気がさしています。
当時の少年ジョセフもそうだったのかもしれませんね。
最新の記事にタイムリーなのがありました。
モルモン書の証拠: 救いの計画
https://evidencecentral.org/recency/evidence/plan-of-salvation
旧約聖書も新約聖書も救いの計画について名前を挙げて言及しておらず、
聖書のどこにもこの計画についての詳細な記述はありません。
実際、計画という言葉は欽定訳聖書にも登場しません。
一方、モルモン書には、この教義の詳細な概要がいくつか記載されています。
・・・
モルモン書は、救いの計画は、何らかの形で聖書から失われた、
あるいは聖書から取り去られた「明白で貴重な」真理の一つであると信じるように私たちに勧めています(1ニーファイ13:28 )。
これは大胆で予想外の主張のように見えるかもしれませんが、それにもかかわらず、
神殿関連の文脈でしばしば与えられる、数多くの外典や偽書記の文書の中に同様に明確に表現された真実の存在によって裏付けられています。
したがって、モルモン書における救いの計画の展開は、文学的に複雑であると同時に、古くからもっともらしいものでもあります。
ーーーー
なるほど、なるほど。
宣教師から福音を教えられた「救いの計画」
義人は日の栄、善人は月の栄、悪人は月の栄。
妙に素直に受け入れられました。
まさしく簡単明瞭な教えですね。
>イエス様があなたが求める教会はこの世には無い
と言ったのではありません。このように言いました。
「すべて間違っている」
「彼らの信条はことごとくその(神の)目に忌まわしいもの」
「すべて腐敗しており」
「彼らは唇をもってわたし(神)に近づくが,その心はわたし(神)から遠く離れている」
「神を敬うさまをするけれども神の力を否定している」
このような言葉で末日聖徒を非難する人がこのブログにコメントしたらどうなるでしょう?その人がこのブログ管理者から受けるであろう当然の仕打ちを、モルモン教会はキリスト教会から受けているのは致し方ないことです。
>他のキリスト教が腐敗しているとか全て間違っているとか考えたこともありません。
モルモンを研究者の目線で考える際には、オムナイさんがどのように考えたことがあるかどうかは全く関係ありません。
ジョセフ・スミスはこのように語っています。
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わたしが主にお伺いしようとした目的は,自分が加わるべき教派を知るために,すべての教派のうちのどれが正しいかを知ることであった。そこで,わたしは我に返って物を言えるようになるやいなや,わたしの真上で光の中に立っておられた方々に,すべての教派のうちのどれが正しいか(当時は,すべての教派が間違っているということなど,わたしの心に思い浮かびもしなかったからである),また自分はどれに加わるべきかを伺った。
すると,それらのどれにも加わってはならない,すべて間違っているからである,とのお答えであった。また,わたしに話しかけられた御方は,彼らの信条はことごとくその目に忌まわしいものであり,信仰を告白するそれらの者たちはすべて腐敗しており,「彼らは唇をもってわたしに近づくが,その心はわたしから遠く離れている。彼らは人の戒めを教義として教え,神を敬うさまをするけれども神の力を否定している」と言われた。
その御方は再びわたしに,それらのどれにも加わることを禁じられた。
わたしは実際に光を見た。その光の中に二人の御方を見た。そして,その方々が実際にわたしに語りかけられたのである。たとえ示現を見たと言ったことで憎まれ,迫害されたとしても,それは真実であった。
-----------------------------
(ジョセフ・スミスの歴史1:18-20、25)
宗教を研究する人が、その宗教がどのようにして発生したかを調べるとき、教祖と認められる人物の経験はもっとも重要なものです。
ジョセフ・スミスの言葉に嘘がなければ、神はキリスト教会について「すべて間違っている」「忌まわしいものである」「腐敗している」などとジョセフに告げられました。
ジョセフはこれが真実であると証をしています。これがモルモン教義です。
豚師匠のお答え、誠に然り
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/8a1f4f0a191febdd6b11366f88125f5d
「唯一まことの生ける教会」である。情報に通じた教会員にとっては扱いにくいテーマである。
これについて考えていて、ふとリアホナ2月号にオークス長老の「真理と寛容のバランスを取る」という記事が目に入った。
この課に大変関連のある重要な記事である。
オークス長老は現代社会にあって、互いに寛容を示し、相互尊重と忍耐の姿勢が求められると述べている。
・・・・
少し古いですが、2007年7月10日にバチカンは「カソリックは唯一真の教会である」との声明を発表したと言うことです。
こっちはギリシャ正教
・・・
ま、本家○○屋、元祖xx屋と似たような話で、こんな事を、日曜学校で勉強する必要は無いと思いますけどね。
ーーー
そもそもジョセフ・スミスは地元の教会の中でどの教派が正しいか?と悩んで森に祈りに入ったわけで。
示現で聖書の言葉を引用してイエス様があなたが求める教会はこの世には無い。と言ったところで、この教会は全ての宗教を批判する宗教だー。
なんて思いませんよ。
>もしこれを否定するのなら、その人は、ジョセフスミスが主とまみえたことを否定する人間です。
全然、私はジョセフ・スミスは父なる神とキリストにまみえたと信じますが、
他のキリスト教が腐敗しているとか全て間違っているとか考えたこともありません。
信じている宗教を唯一の真理の宗教と考えるのは普通のことですし、
自分の宗教が真実だから他者は間違っていると教えるのは危ない宗教です。
事実ジョセフ・スミスは彼らも自身の宗教を真実と信じていると考えて尊重するように教えています。
実に真っ当な宗教だと思います。
wiki/宗教的排他主義
カトリックは第2バチカン公会議(1962-1965)において、
「キリスト教の教えに納得できない者やキリスト教を十分に理解していない者が洗礼を受けなくても、
決して滅びることはない」という見解を示しており、
プロテスタントも「信仰をもっていない者のことも、神の愛に信頼して任せることができる」と考える教会が多くなっている
ーーー
末日聖徒は当初から宗教的排他主義ではありませんでした。
教会の公式サイトに書いてましたけど、オムナイさんは無視するの?
ある意味すごい人ですね。
化石は考古学では事実を証明する貴重な語り部です。
生きた化石って言うのも有ります。
この化石で証明されるモルモンの信条が間違いなく現在も生きているって言うのは、モルモンの正典の中にはっきりと書かれているからです。
個の信条(教義)は、ジョセフスミスが主からはっきりと聞いた言葉の中に含まれています。
モルモンの基本中の基本となる教義です。
現在も生きています。
もしこれを否定するのなら、その人は、ジョセフスミスが主とまみえたことを否定する人間です。
かたやモルモン教会の正当性の根拠は、神のお告げです、ただし日付は不明、公表された内容にも様々な差違がある、検証できるものではありません
モルモン教会がしょっちゅう口にする「聖書から抜き取られた真理」にしても、「失われた神権」にしても、具体例を示すことはなく、何年のことかすら説明がない
これでは妄想で適当なことを言ってるのと変わらないじゃないか、と研究者の目線を持っている人はそう指摘するのは当然だと思います
●何でも日本が世界最高と思ってる
⇒そうでもないでしょ、と言う意見は反日パヨク(左翼)と決めつけ
●自分は日本を愛してると言ってはばからない
⇒しかしその言動は周囲から眉をひそめられている
●世界情勢とその中にいる日本のポジションを正しく理解してる、と思ってる
⇒実際はネットの情報の聞きかじり
●日本を滅ぼそうとする中国、韓国、北朝鮮、ロシアの謀略を誰よりも見抜いている、と思っている
⇒現実よりも根拠の無い陰謀論が大好き
こう言うメンタリティーの人っていますよね、これ日本をモルモン教会に、世界情勢を宗教に置き換えてみると、私はある人物が思い浮かんできます
ソンナコトナイ
伝統キリスト教は自らを「正統派」と名乗り、カトリックは唯一のキリスト教はかカトリックとしています。
一神教ですからね。ある意味道理にあってる。
昔、キリスト教とイスラム教の対立も同じ神様だったから。
信仰箇条11
わたしたちは,自分の良心の命じるとおりに全能の神を礼拝する特権があると主張し,
またすべての人に同じ特権を認める。
彼らがどのように,どこで,何を礼拝しようと,わたしたちはそれを妨げない。
ーーー
ヒンクレー管長曰く
末日聖徒の信条に一歩も引く必要はありません。
しかし、同時に他の宗教の信条を尊重することも難しいことではありません。
と仰いました。
ヒンクレー管長の頭のようにハゲしく同意します。
末日聖徒の信者なんだから一番素晴らしいと信じるのは当たり前です。
他の宗教の信者さんもそうでしょう。
互いに黄金律について教え合えば良いんです。
我こそは唯一まことの教会=他の教会は異端なんて化石の信条でしょう。
これって、オムナイさんのことですよね!!!!
>これほどクリスチャンらしい教団は他にない。
そこなんですよね・・・問題は。
「他にない」
「自分とこ以外はすべて間違ってる」って言いきってるのが、キリスト教文化からつまはじきされっる要因なんですよね。
白鳥は悲しからずや・・・。
既にヨーロッパはキリスト教衰退著しいですが文化的なキリスト教圏だと思います。
つまりモルモン文化ではなくキリスト教の一員として文化的に溶け込んでいくような気がします。
なにしろ世界一のお金持ち教団で、聖書の知識も豊富、他の宗教への理解も深い。
資格十分でしょう。これほどクリスチャンらしい教団は他にない。
手前味噌ですが。(英訳だとどうなるんです?)
それは、理屈抜きの理屈でモルモンを擁護する派と、いろんな角度から(最近は収束気味ですが)批判を展開する派、その掛け合いの妙がモルモンの文化では無いでしょうか?
私から見て不思議なのは、排他的に始まった集団なのに、独自の文化を形成出来ていないモルモンの現状ですね。
私が思うには、「生ける預言者に従う」と言う信徒の姿勢が独自の文化形成を阻んだのかと思います。
さらに重要なのは、独自の文化を形成する前にどんどん中心的指導者と教義が変化してしまった事でしょう。
もっと重要なのは、その中心的指導者の選出方法が固定されていて、その指導者階級や信者の総意ではなく、偶然によって「生ける預言者」が選任されると言う不幸です。
たしかに継承にまつわるごたごたは起きないのですが、中心になり崇拝されるべき「生ける預言者」が、
指導者集団の総意でもなく、信者の総意でもないって言うのは、誰の意志でもなく偶然によって教義の解釈が変更されると言う不幸を招いていると思います。
要するに、軸が無いって事です。
「選択の自由」でしたからね。
犯人は間違いなく悪魔と呼ばれる「サタン」でしょう。
しかも確信犯。
懲りませんなアイツも。。まぁ象徴的な意味でですが。
>重要な要素のうち、選択の自由についての記述が足りない、あるいは
>欠落していると感じてしまうのです。
>モルモン書は選択の自由がいかに大切なものであるかを
>誤解のないようにはっきりと明かしています。
なるほど!それは「神の子羊の書物から抜き取られた部分であるに違いありません。
(昭和訳)
1ニー13,28,
それであるから、汝にはあの書物があの憎むべき大教会の手を経て出てきてからは、
神の子羊の書物から誰にも解る貴い多くの記事が抜きとられていることがわかる。
1ニー13,29,
そしてこの誰にもわかる貴いことが抜きとられてから、
この書物は異邦人の全国民に伝わり、また束縛の身から免れた異邦人と共に汝の見た大海までも渡って異邦人の全国民に伝わる。
しかし、その書物にのっている子羊の福音から抜きとられた所があるために非常に多くの人々がつまづき、
サタンがこれらの人々を大いに支配する力を得ていることは今汝が目に見る通りの有様である。
ーーーーー
シナイ山で最初に与えられるはずだった「完全な自由の律法」は
それを回復したはずの新約聖書からも抜き取られていたのですね。
ジョセフ・スミスの霊感訳聖書はそれを回復したかったのでしょうか。
私もならないと思いますね
そもそも「モルモン」って言葉は古代のエジプト語で more good 「より良いもの」を意味する、というのがジョセフ・スミスの説明でした
それは今日、言語学的に否定されていますが、ヒンクレー大管長の時代に、モルモンがmore goodを意味すると言うのは全ての末日聖徒にとって良いスローガンだと説教を残しています、これは動画も残っています
しかし現在ではモルモンと呼ぶことをやめようという話になってきています、これはもともと蔑称であったクリスチャンという呼び名を受け入れてきた経緯と比べて対照的ですね
せっかく世間でも馴染み始めた「モルモン」ですが、ネルソン大管長は、モルモンと呼んでくれるなということなのでしょう、これでは文化とはなり得ないんじゃないかと思います
理由は
1.他の教会は、神の目から見て憎むべき存在であり、それらに加わってはならないとする教義
2.末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長だけが救いに必要なあらゆる鍵を持ち行使できる唯一の存在であるとしている教義
3.それらに関する信仰を具体的な行動により示す度合いによって救いが受けられるとする教義
もちろん上記のような事柄を好ましく思う人もいるでしょう。しかし真面目にモルモン教義に向き合えば、すべてを教会に捧げるか、やめるか、どちらかしか選択の余地がなくなっていくことは、多くの人にとってしんどいだけでしょう。
ただし、その『しんどいこと』をやってる、だからこそ見返りとして永遠の命を得られるのだ、ただで救われようとするなんてあり得ない、と考える人がいるかも知れません。そういう人にとってはモルモン教義は救いへの道を進んでいると実感できるものなのかも知れませんが。社会の文化にはならないだろうなと私は思います。せっかくモルモン教会に改宗しても、モルモンの家庭に生まれても、離れていく人の多さがそれを感じさせます。
モルモン書、教義と聖約、高価な真珠、新約聖書と読み進めましたが、
旧約聖書は専任宣教師になってからやっと読み終えました。
旧約聖書を読み終えた率直な感想は、救い主がこの世で生を
受けた時の名前が、一切旧約聖書には出てこないことに対する違和感です。
ナザレのイエスを旧約の時代に預言されたメシヤだと認めない人が、
旧約聖書に書かれたその名を取り除いたのか、
はっきりとその名を記さないことによって、人がナザレのイエスを
メシヤだと認めるかどうかをメシヤをお遣わしになった方が
試されているのかは、
あるいは他の答えがあるのかは推測することしかできません。
無理に結論を出さず、明かされる時が来るのを待てばよいと考えています。
聖書を唯一の啓示の書とお考えの方には申し訳ありません。
モルモン書と聖書を読み比べて、決定的な違いがあるとすれば、
私個人は選択の自由についてはっきりと書かれているかどうか
ということです。
肉体-死-復活、選択の自由-罪-贖罪という、与えられたものの、
不完全であるために、贖い主によって補われる必要がある、二つの
重要な要素のうち、選択の自由についての記述が足りない、あるいは
欠落していると感じてしまうのです。
モルモン書は選択の自由がいかに大切なものであるかを
誤解のないようにはっきりと明かしています。
私は選択の自由について理解が進んだことによって、
自分がこの世に生まれてきた目的をはっきりと理解できました。
選択の自由について理解が進んだことで、他の教義の理解も
進みました。選択の自由という観点からみると、理解の難しく見える
教義も、ああそういうことなのかな、と思えます。
一方で、旧約聖書が一貫して教えていることは、聖約の大切さである
と感じています。旧約聖書の最初の方にある律法にしても、
士師の統治、サウル以後のイスラエルにしても、後半の預言書にしても、
聖約の一つ一つに忠実であるように促しているように思います。
聖書とモルモン書の優劣について書いたのではありません。
そもそも優劣をつける必要などないのではと思います。
聖書はモルモン書に書かれていることがキリストの教義であることを、
モルモン書は聖書に書かれていることがキリストの教義であることを
示していると感じています。解釈が人によって異なるだけかと思います。
現在の聖書のほとんどの底本はネストレ・アーラントというギリシャ語。現在28版が最新。
これはネットに公開されている。。
やってみました。
ヨハネ3:16(口語訳)
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
NA28;John3:
16 οὕτως γὰρ ἠγάπησεν ὁ θεὸς τὸν κόσμον, ὥστε τὸν υἱὸν τὸν μονογενῆ ἔδωκεν, ἵνα πᾶς ὁ πιστεύων εἰς αὐτὸν μὴ ἀπόληται ἀλλ’ ἔχῃ ζωὴν αἰώνιον.
DeepL ギリシャ語ー>日本語
16 神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたのである。
それは、彼を信じる者が、滅びることなく、永遠の命を得るためである。
ーーー
ワオ!予想以上。
欽定訳の底本TR(テクストゥス・レセプトゥス)をDeepL翻訳すれば。。待望の欽定訳日本語版ができるやも。
なるほどです。共感します。
>モルモン信仰では呑気に生きることは許されず、深入りするか止めていくか選ぶしかなくなります。
確かに。
ネクスト・モルモンも次世代の末日聖徒はリベラルな宗教を求めていると分析していました。
ヨーロッパ、アメリカ、日本も同じような傾向が続くでしょうね。
健康な人に医者はいらない。奇しくも医者だと言われているルカはそう綴っています。
成熟した民主国家では宗教そのものの役割は終えて、日本神道のような文化的宗教になっていくのかもしれませんね。
むしろそれは良きこと。
あなたが立ち直ったら兄弟を助けてあげなさい。
これからは発展途上国や共産圏に伝道の時代でしょうか。
素晴らしい幸福得た末日聖徒は世界の病を癒すためにキリストの弟子として働く使命を帯びていると思います。
これ読んだ上で、モルモン教義の「悪魔の教会によって聖書から純粋で貴重な部分が抜き取られた」に合致する、と仰ってるんでしょうか?
また、聖典の編集と改変では全く意味合いが異なりますが、理解された上で仰ってますか?
似通ったキーワードの書籍があったとしても、意味するところが違うなら、モルモン教義の擁護にはなり得ないですね
>その他の宗教情報についての知識において、すべての宗教グループの中で最も高いスコアを獲得していることが示されています。
その記事は以前にこのブログで話題になりましたが、モルモンが優れていると自慢するために利用できるものではないと判断すべきかと。
もともとのピュー・リサーチ・センターの調査は、それぞれの宗教グループは他の宗教、宗派のことをどれくらい理解しているか、というものです。調査結果による順位(順位をつけることが調査目的ではないでしょうが)は
1位・・・無宗教、無神論者
2位・・・ユダヤ教徒
3位・・・モルモン
4位・・・白人福音主義
5位・・・白人カトリック
無宗教者のがもっとも宗教に対する理解が深い、という皮肉な結果です。
彼らは、一歩おいて冷静な目線(研究者の目線?)で宗教全体を見渡して、あえてどの旧教にも属さないという選択をしているのではないか、私はそう思います。
なおこの調査対象者は無作為に算出して、メールか電話で協力を依頼し、自分の属する宗教も自己申告してもらう形式だったはずです。自ら「自分はモルモンだ」と名乗るのはよっぽど宗教に深入りしている末日聖徒しかいないと考えられます。根拠は宗教を離れようと考えた割合がモルモンは極めて多い、というオムナイさん紹介の記事です。
逆に言えば、教義を大して知らずとも、何か月か振りにフラッと集会に来るだけでも、イエス様は私を守ってくださっていると日々安堵できる信仰を受け入れる寛容さがないのでは?と私は考えています。オムナイさんが言うように「ベストを尽くせば」救ってくださると「普通の信者」が考えているなら、モルモン信仰では呑気に生きることは許されず、深入りするか止めていくか選ぶしかなくなります。
これは批判ではなく、そのような理由でモルモン教会を離れて行った友人を何人も知ってる現実から申し上げています。
キリスト教の根幹をなす正典、新約聖書。だがそこには、意図的な改竄や偶発的なミスによって無数の書き換えが加えられてきた。
「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というイエスと姦通の女の有名な場面も、じつは後世に付加されたものだという。
聖典は、なぜ、いかにして書き換えられてきたのか。
さまざまな写本を突き合わせ、テキストを徹底的に読み解くことによって改変箇所を特定し、
現存しない原初の姿を復元しようとするのが「本文批評」という学問だ。
著者曰く、「本文批評の仕事は探偵に似ている」。新約聖書学の権威がその営みを魅力たっぷりに紹介した刺激的な一冊。
アーマン,バート・D.
1955年生まれ。カンザス州に育ち、ホイートン大学を卒業後、プリンストン大学神学校でM.Div.およびPh.D.を取得する。
新約聖書学、初期キリスト教史を専門とし、多数の著作がある。
現在はノース・キャロライナ大学チャペルヒル校教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ーーー
えー。罪の女の場面も。。ショック。
旧約聖書もやはり歴史書というより教訓的な物語で良き社会を作りたいとう目的のために編纂された宗教書なんでしょうね。
むしろ先人たちの尊い知恵と受け止めたい。
天照(アマテラス)信仰の中心である伊勢神宮には馬を犠牲に捧げる儀式のなごりがある。これを神馬(しんめ)という。
列王記下/ 23章 11節
ユダの王たちが太陽に献げた馬は除き去った。
それは、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそば、主の神殿の入り口にあった。太陽の戦車は火で焼き払った。
バビロン捕囚後南ユダ王国では異教の儀式の名残である馬の犠牲を宗教改革によって取りやめた。
よって北王国には太陽(アマテラス)に献げる馬の儀式は残っていたはずである。
日本の神社の多くには「絵馬」があるが本物の馬を使うことが難しくなったので木製の板の馬を捧げたのである。
ーーーー
なるほど、なるほど。
日本に古代ユダヤ教である神道を普及させたのは十部族が多くいる北王国の流れを組む有力な事象ですね。
馬といえばモルモン書の記述の不信感に繋がる事象ですが、
最新の研究ではやっぱりいたかも的になってきています。
鹿かも。。的な論説は馬鹿される仮説になる鴨ですね。
https://evidencecentral.org/recency/evidence/horses
炭素年代測定された資料から得られた最近の証拠は、
モルモン書の時代に馬がアメリカ大陸に存在していた可能性を示唆しています。
・・・
モルモン書の時代に先コロンブス期の馬が発見される可能性は、
モルモン書の中でかつて時代錯誤だと考えられていた事柄を確認しようとする
はるかに大きな傾向の中の単一のデータポイントにすぎません。
「科学と同様に学問においても」ヒュー・ニブリーはかつてこう述べました。「あらゆる逆説や異常は、私たちがそれを追い求めさえすれば、
新しい知識が私たちを待っているという広範なヒントなのです。」
モルモン書の馬に関する言及をまさにそのような広範なヒントとして扱うことに辛抱強く取り組んできた人々は、
今、アメリカ大陸の歴史を書き換える寸前にあるかもしれない新しい知識を楽しんでいます。
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『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものであったとも推測されるが、異論もあり、いまだに定説を見ないのが現状である。
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https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8_%E6%88%90%E7%AB%8B%E9%81%8E%E7%A8%8B
との説明は、成立過程など誰にも分からないという意味でもなく、だから改竄されていたのだよと言う意味でないことは自明の理です
伝統的なキリスト教会の牧師が解説するサイトや動画では、いくつもの学説を紹介しながら、自分はどういう理由でどれを受け入れ、どう考えているかきちんと説明していろものがたくさんあります、少なくとも何の根拠も無しに聖書は改竄されたなどと言う人はいません
またもし、ベストを尽くして今を生きれば必ず救われる、と言う考え方が物事の真理を表しているなら、聖書研究のベストを尽くさないで「聖書は改竄されている」との結論が果たして出てくるものなのかどうか
そのような姿勢が幼子のように素直なものなのかどうか、神を喜ばせることなのかどうか、思い直す必要があるのでは?
研究者の目線で私が思うことを言いますと、具体的な個所も示さず、根拠も無しに「聖書は改竄されている」との主張は学術的には全く通らない話です、ダイアログ誌やサンストーン誌にそんなことが書いてあるのでしょうか?
教会で教えていることを素直に受け入れるのがモルモン信仰だからとの説明は、とげとげしい言葉で教会外の人たちを評価する行為の免罪符には成りえない、と私は思います、その理由で私はジョセフ・スミスの最初の示現についても細部は見直されるべき、と考えます
おおおーー!これはもうダビデ神社に間違いない!
大闢(ダビデ)と中国語で書くなら、景教の流れでしょうか?
必ず御朱印もらいにいきます。
普段はご縁がありますようにと5円ですが、ここには五十五円と大枚はたきます。
穴あきの硬貨が効果的だとか。
是非。
もぎせかチャンネル 1,633 回視聴 2023/06/11
」
https://www.youtube.com/watch?v=p2Fi9g2FkVs
https://newsroom.churchofjesuschrist.org/article/mormons-knowledge-of-bible-christianity-evident-in-national-u.s.-pew-study
ピュー・リサーチ・センターの新しい研究によると、モルモン教徒はキリスト教、聖書、
その他の宗教情報についての知識において、すべての宗教グループの中で最も高いスコアを獲得していることが示されています。
・・・
モルモン教徒は世界の宗教に関する知識 においても一般人よりも高いスコアを持っています。
ーーーーー
>セミナリーをまじめにやったのは4年間中1年間だけ、
>インスティテュートも単位がもらえるだけ出席したクラスは2つぐらい、
>当然神学を体系的に学んだこともなく、
学ぶべき事柄には人それぞれ優先順位がありますからね。
音楽家の友人(末日聖徒)は旧約聖書と教義と聖約は最後まで読んだことがないと言ってました。
カトリックやプロテスタントの知り合いも首を傾げるくらい基本的な聖書の知識を知りません。
まぁ普通そんなもんです。
もちろん、神父さんや牧師さん。熱心な信者さんはそれなりに
知っていますが、やはり自身の宗教の知識が主要です。
末日聖徒はまず、末日聖徒の宗教的知識を学び、他の宗教理解にも勤しむべきなんでしょうね。
ジジイになった今、年々捻くれ度合いがひどくなっていきます。
まだまだ、師匠には追いつきませんが。
>神会の御三方を喜ばせるようなことをしている人のほうが、
>天国には近いのかもしれません。
はい。
ジョセフ・スミスが回復した真理のうち最も素晴らしいものの一つは「ベストを尽くして今を生きれば必ず救われる」ということだと思います。
タラントの喩え。
"mormon"の記述がなく"Latter-day Saints"が9箇所。
個人的にはモルモンが「回復」の意味かもと知ってから復活希望だったのですが。。
ネルソン管長の勝利です。
モルモンタバナクルクワイヤーまでなんとかなんとかクワイヤーにしてしまった徹底ぶりが勝因ですね。
https://www.prri.org/research/religion-and-congregations-in-a-time-of-social-and-political-upheaval/
セミナリーをまじめにやったのは4年間中1年間だけ、
インスティテュートも単位がもらえるだけ出席したクラスは2つぐらい、
当然神学を体系的に学んだこともなく、
「わたしに従ってきなさい」が始まるまでは4大聖典以外の
キリスト教関連書籍を読んだことはなく、
現在「わたしに従ってきなさい」は20週遅れです。
上記を正当化するつもりはありません。
大人になった今、幼子のようになることが難しいと感じています。
どうすれば、幼子のようになる、つまり素直に、謙遜に、純粋に
なることができるのかと。
そのほうが神会の御三方には喜ばれると思うのです。
取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる
とはクリスチャンには強烈な言葉です。しかし実際、
クリスチャンを自任している人よりも、真理を知らなくとも
神会の御三方を喜ばせるようなことをしている人のほうが、
天国には近いのかもしれません。
MIXIでの意見でも同じような意見の方もいましたし、同意な方多いようです。
weblio.jp/wkpja/content/旧約聖書_成立過程
『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、
何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものであったとも推測されるが、
異論もあり、いまだに定説を見ないのが現状である。
ーーーー
NJさんに教えていただいたのですが、事後予言的な記述は「聖書は都合よく書き換えられた」と見る向きもあります。
いわゆる第一イザヤの予言が後年第二、第三イザヤで予言的中的に加筆された可能性が高い。
これは聖書に無垢な正当性を期待する人には裏切りのように感じられるかもしれません。
新約聖書は最初コイネーという庶民のギリシャ語で書かれたとか。
それは痛快な生き生きとした革命家イエスの物語で庶民にあっという間に広まった。
しかし、その原著書は燃やされ写本も残っていないとか。
よくいう「安かれ」とか「平和があるように」と弟子たちに現れた言葉は
「シャローム」という挨拶なのだとか。
韓国語の安寧(アンニョンハセヨ)を穏やかなれと訳したようなもの。
コイネーで書かれた物語では「諸君元気か?」と驚かせるつもりだったのかも。と想像しながら読んでます。
>お互い様でしょうね。
これは奇妙な説明に感じます。
モルモン教義的には「聖書から純粋で尊い部分が失われた」という主張は200年前に慣用句としてジョセフ・スミスが言ったのではありません。
古代アメリカにいた予言者が、悪魔を設立者とする教会が聖書から純粋で尊い部分を抜き去った示現を見て、それを金版に記録し、その金版をジョセフ・スミスが神の力で英語に翻訳した、と言うのがモルモン教義です。
モルモン教義を否定する目線ならともかく「標準的信者」と自称する方による説明とはしては甚だ不自然に感じます。
リンク貼り忘れました。。。
その具体例はどこでしょうか?
マソラ本文(と言ってもほとんどの末日聖徒は何のことか理解していませんが)では厳格な写本のルールが定められていました。
wikipediaから抜粋します。
------------------------------------
しかしながらその写本は「決して記憶に頼って書いてはならず、必ず元となる写本を見てから書かなければいけない。」といったことを初めとするユダヤ教で定められた非常に多くの厳格なルールに則って作成されているために、古い時代の本文をよく保存していると考えられている。そのことは死海文書等に残されている古い時期の写本と内容を照合してもほとんど内容が変わっていないことからも確認できる。そのため、現在伝わっているヘブライ語聖書のテキストの中では最も原型をよく伝えていると考えられている。そのため現在ヘブライ語聖書の学術的な校訂本を作成するときは基本的にこのマソラ本文をもとにしている。
-----------------------------------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BD%E3%83%A9%E6%9C%AC%E6%96%87
根拠もなく、誤写があった、改ざんされている、などと言うべきではないと思います。
ジョセフ・スミスは相当聖書を研究しているようで勉強不足とは思えません。ヘブライ語とか学んでいたでしょうし。
「悪魔の仕業」云々は200年近く前の宗教界ではそれこそ慣用句みたいなもだと思います。
お互い様でしょうね。
現代から見れば確かに刺々しい言葉ですね。
ジョセフ・スミスは天才宗教家の名に恥じないまさに、現代の預言者だと思います。
異端の誹りを跳ね退けて世界宗教へ育ったのは末日のヨセフの貢献と言えると思ってます。
わたくし標準的信者なので。。ありがちな教祖への信頼ではありますけど。
>この特定の実践分野においては、末日聖徒がその基準において際立っていることは明らかです
末日聖徒イエス・キリスト教会の出席率は各ワードから毎週報告をあげているようですが、その集計結果は公式に発表されていません
この方が、いかなる方法で、他の宗教と比較対象となる「出席状況」を入手できたのか、私としては研究者の目線でそこが気になります
末日聖徒で、神学校や神学部で学んだ指導者はどれくらいいるでしょうか? 系統的に聖書学を学んだ研究者はどれくらい? 日本の話ですよ
たとえば聖書の成立過程を、何の資料も手にせず説明できるほど学識ある人はどれくらい? そんなの伝統的キリスト教会の牧師なら当たり前にできることだと思いますけれども
勉強不足で聖書が理解でないから「悪魔の仕業」となるなんて、それはあまりにもとげとげしい言葉過ぎませんか?
そんな根拠の無い推測で、改竄があったと決めつけるのは酷すぎますね
それはとげとげしい言葉どころか、聖書に関わってきた人々への侮辱です、抗議されるべきでしょうね
>表現が変わった部分は多くあるんでしょうね。
また憶測に基づく決めつけですか? まず具体例を挙げて下さいよ
>いわゆる失われた純粋で尊い部分とは何か?と考えると。
学術的には「失われた純粋で尊い部分」などありません、私もその見解を支持します、研究者の目線で語るとそう言うことになりますね
米国のモルモン教徒の4人に1人がLDS教会からの脱退を考えたことがあることが調査で判明と題して記事を投稿していました。
(RNS) —アメリカの生活における宗教に関する公共宗教研究所の最新報告書によると、
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は、宗教心、礼拝への出席率、その他の基準において全アメリカ人の中で最も高いランクにある。
しかし、結果はまちまちであり、調査に対するモルモン教徒の回答は、
他のいくつかの分野での宗教性の弱体化を示している。
・・・
米国の末日聖徒の多くが良いニュースと受け止めていることは、
祈り、年に少なくとも数回教会に出席し、宗教指導者と面会する人の割合がどの宗教の中で最も高いかという点で、
彼らは第1位にランクされているか、同率1位であるということである。
・・
PRRIの最高経営責任者(CEO)で長年政治学者を務めるメリッサ・デックマン氏は、
「私が印象に残っているのは、末日聖徒は米国国民よりも信仰心が強いというイメージが今でも見られるということ、
そしてそれが事実であるという兆候がまだあるということだ」と語った。
「私たちは宗教への出席状況を常に報告していますが、祈りや宗教指導者との会話など、
この特定の実践分野においては、末日聖徒がその基準において際立っていることは明らかです。」
・・・
一方で、この調査では、献身意識の低下とみなされる可能性のある兆候が少なくとも 2 つありました。
1つ目は、人生において宗教を「最も重要なもの」と位置付けた割合において、
モルモン教徒は集団の真ん中にしかランクされていなかったことである。
・・・
熱意の低下を示す2番目の兆候は、調査対象となったアメリカのモルモン教徒の24%が、
「現在の宗教的伝統や宗派を離れることを考えたことはありますか?」という質問に「はい」と答えたことだ。
これはあらゆる宗教団体の中で最高位であり、大きな驚きでした。
ーーーー
うーん。教えや教会の活動が真面目さの強要になっている感じでしょうかね。
厳しくも自由かつ楽しい教会であるべき。。。まぁ。難しいですけどね。
最近私は色々読んでいるうちにJSTを見直しつつあります。
ジョセフ・スミス訳聖書の興味深いブログがあります。
https://bycommonconsent.com/2022/05/13/whats-new-with-the-jst/#more-117977
ジョセフ・スミスの聖書翻訳を理解する(ユタ州プロボ:宗教研究センターおよびデゼレットブック、2022年)
・・・
ジョセフが実際に 1833 年半ばに翻訳を完了したという見解を強く持っており、私もそれに同意します。
では、なぜ彼はそれを出版しなかったのでしょうか?時間、リソース、状況。啓示(戒めの書、教義と聖約、モルモン書の新版)の出版はJSTよりも先に行われ、
他のことが起こっていたため、彼は亡くなるまでにそれに到達することができませんでした。
・・・
翻訳に多くの傾向があることに気づきました。
例としては、仮定法「be」を直説法「is」に置き換えることが挙げられます。
「damnation」という言葉をさまざまな方法で和らげたり(「非難」など)、比喩が文字通りに受け取られるものではないことを明確にするために「as」という単語を追加して比喩を直喩に変えたり、などです。
・・・
ほとんどのLDSが気づいていないことの1つは、LDS KJVに含まれるJST資料は全体の20%未満というごく一部に過ぎないということです。
・・・私が言及したいもう 1 冊、KJV が並列列に掲載されている JST の BYU 版につながります。文章をどのように表現するかについては、編集上多くの選択が必要でしたが、
編集者は一貫して良いものを作成したと思います。
この版では、JST 全体を読んだり、KJV テキストを並列列で比較したりできるようになりました。
ーーー
えっ?なるほど。どこにあるんでしょうか?
ーーコメントーーー
最も完全で正確な JST バージョンの聖書は、こちらでご覧いただけます:
https://scriptures.info/scriptures/oc
https://scriptures.info/scriptures/nc
聖書の定本は手書きだったので当然誤写は多くあったでしょうし、現代のように原著者の意図をその時代に合わせるに従って表現が変わった部分は多くあるんでしょうね。
ただ、原典に限りなく近づいたとされる最新研究の聖書にしても
ジョセフ・スミスが使っていた頃の欽定訳とそう大きくは文意は変わらないように思います。
まぁ、師匠と違ってアバウトなせいもあるでしょうが。
いわゆる失われた純粋で尊い部分とは何か?と考えると。
例えば、同じ聖書を読みながら
どうすれば救われるか?天国へ行けるのか?という肝の部分が
教派によって真反対の場合もある。
信仰のみで救われるのか、善行も加味されるのか。
また、福音を聞く機会がなかった人々の救いは?
ジョセフ・スミスの解釈は伝統的キリスト教とは違っていて、
それらの疑問を末日聖徒敵には解決するものでした。
なので、その視点からは、大切な部分が解釈し切れてない分かりにくい聖書は多くの神の言葉を残しつつも「悪魔の仕業」となったのでしょうね。
ごもっとも、ですが
>聖書に「誤写を含め脱落や書き加えによる改ざん」がある
こう言うモルモン教会の教義こそが、聖書やクリスチャンに対するとげとげしい言葉ですよね
教会で教えていることがどうであれ、根拠もなく聖書に書き加えや改竄があると言うべきではないと、私も思います
聖書の成立過程を知らない人の発言ですね。笑われると思います。
聖書に「誤写を含め脱落や書き加えによる改ざん」があるとモルモン教会は何の根拠もなく主張していますが、具体的な例を挙げて説明している人を見たことがありません。
むしろジョセフ・スミス訳と比較して「本来はこういう聖句だったんだよね」と思い込んでいる末日聖徒が多いですが、ジョセフ・スミス訳には学術的な根拠はなく、彼の独自の解釈を「翻訳」と称しているだけです。
ジョセフ・スミス訳の問題点を指摘されると、返答に窮した末日聖徒は決まって「あれは厳密な意味での翻訳ではないから」と言い訳するのではないでしょうか。それならジョセフ・スミス訳ではなく、初めからジョセフ・スミス解釈版と呼称するほうが誠実と思えます。
嫌いじゃないですw
実は四国は日本で唯一足を踏み入れたことがないところ。
https://www.savag.net/ark/
剣山では毎年7月17日に、
剣山本宮山頂大祭という祭りが行われます。
この祭りは、剣山の麓から山頂に向かってミコシを運んでいくというもので、そのミコシの形状が、アークの聖櫃とそっくりなのです。
また、旧約聖書に登場するノアの大洪水で、ノアがアララト山に降り立った日も7月17日です。
またさらに、7月17日は京都で祇園祭りが開催されており、ミコシを担いで移動する神輿渡御は、
剣山の祭りとも酷似しており、まさにアークを運び出す姿そのものです。
また「祇園」は、ヘブライ語でエルサレムやイスラエルを意味する「シオン」から来ているので、
シオン(イスラエル)祭りとも言えるのではないでしょうか。
これらが全て偶然だとは考えられませんよね。
ーーーーー
もちろん偶然とはトーテー思えません!
日ユ同祖論ではないでしょうが、文化的宗教的交流があったことは確実でしょう。
この不思議な日付と事象の一致はモルモン書の出現にもみられます。
https://evidencecentral.org/recency/evidence/timing-of-the-discovery-and-receipt-of-the-plates
モルモン書の証拠: 版の発見と受領のタイミング
古代の収穫祭の季節
モロナイの毎年の訪問は、通常、いくつかの異なる祝日を含むイスラエル人の収穫祭の季節の頃に行われました。
1823年の9月21日と22日の最初の訪問は、その年の仮庵の祭り(または仮庵の祭り)のお祝いと一致しました。
1824年、9月22日の夜から、トランペットの祝日(またはロシュ・ハシャナ)として知られるユダヤ人の新年が始まりました。
1825 年、9 月 22 日はまさに贖罪の日 (またはヨム キプール) でした。
そして1827年、モロナイが最終的に版をジョセフに届けたとき(ジョセフ・スミス—歴史1:59)、9月22日のモロナイのタイミングはユダヤ人の新年(ロシュ・ハシャナ)と正確に一致しました。
・・・
1827年9月22日というモルモン書の回収のタイミングについて、ブラッドリーは次のように説明している。
ジョセフは…ユダヤ人がシナイ山で神が石板に指で律法を刻んだことを祝った日、
神が失われた書物が記され始めたのにふさわしい機会であった日に、
アーク[彼らが埋葬された石の箱]から版を取り出した。
彼はシェレム山で指で触れた石を通して金の板に描かれていました(エテル3)。
ーーーー
大管長会がこの不思議な事象を知れば、あぁここ日本は「神の国」と啓示が降るに違いありません。
世界には現在300のタバナクル、ソロモン神殿の流れを組む末日の神殿があります。
日本には幾つのタバナクル、ソロモン神殿の流れを組む末日の神殿がありましょうや!
なんと80,000の神殿があるのです!
エレミヤ31:31−34
主は言います。
31「わたしがイスラエルおよびユダの民と、新しい契約を結ぶ日がくる。
32それは、わたしが彼らの先祖の手をとってエジプトから導き出した時、結んだようなものではない。
彼らがそれを破ったので、やむなく、わたしは彼らを見捨てた。
33新しい契約とはこうだ。
わたしは、わたしのおきてを彼らの心に刻みつける。
そのため彼らは、わたしをあがめたいという気持ちになる。
こうして、彼らは文字どおりわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
34その時はもう、主を知るようにと互いに忠告する必要はなくなる。
身分の高い者も低い者も、だれもがわたしを心底から知るようになるからだ。わたしは彼らの罪を赦し、忘れる。」
ーーーーーーー
いかがでしょうか?これは日本国民の様にピッタリ一致しているのではないでしょうか。
落とし物は高確率で戻ってくる、犯罪率の低さ、おもてなしの心。
「主を知るようにと互いに忠告」されなくても高い道徳性と平和を確立しているのです。
モーセの律法を成就した現在のキリストの律法は,完全な福音すなわち「完全な自由の律法」
(新ヤコ1:25)である。(聖句ガイドー律法)
そう!ここ日本は既に「完全な自由の律法」を具現化し8万の神殿に日々詣でる末日の聖徒の一員だったのです!
八幡神社ってそういう意味?
ソロモンクロニクル
71,442 回視聴 2020/06/26
」 https://www.youtube.com/watch?v=gW-sRnZnwBk
コロナで投稿が激減のようですが。
mixiってまだやってたんですね。
昔のIDでログインもできず、新規登録もできませんでしたが。。
勿体無い。
このNJさんのブログやFBに参加すれば良いのに。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=204651&id=67681058
私は預言者ジョセフ・スミスがどれほどこの聖典の正確さに信頼をおいていたか、また自分もそれを知りたいと思って研究して来ました。
ご存知の通り、一般に流布されている聖書は私の知る限りで150巻以上もある古文書の66巻に過ぎず、然もそれは何度も人の手によって書き写されてきたもので、誤写を含め脱落や書き加えによる改ざんが甚だひどいものです。
紀元397年に司教たちが集まったカルタゴ会議でヨハネの黙示録が付け加えられ現在の66巻になったわけです。
対して、モルモン書は筆記されたままの原文からのウリム・トゥミムによる忠実な英訳であり、原文に人の手による間違いがあってもあえてこれに手を加えていないことは、ジョセフ・スミスが前書きで証しています。
然しそういうわけで、より分かりやすく和訳するためには、補足を入れる他に「慣用句」や「古語」に注意する必要があります。
どこの国の言語にも「慣用句」と言う言い回しがあるのですが、例えば、最もよく知られているところでは、あいさつがあります。
good morningを誰も「よい朝です」と和訳しないでしょうし、日本語の「おはようございます」を英訳する場合も全く同じことが言えます。
また直訳で「それは一切れのケーキです」も「そんなの簡単だよ」とか「朝飯前だよ」となりますし、分かりやすいところでは「骨を折る」即ち「尽力する」もあります。
モルモン書では第一ニーファイの書き出しからこの慣用句が用いられています。
流布されている和訳モルモン書とは異なり、正確には「私ニーファイは良家に生まれたので・・・」であり、この家族が経済的に恵まれていたばかりでなく、信仰の上でも優れた伝統の家系であったことが分かります。
それで彼らが何を信じていたかは、第四章でニーファイが良家のボンボンであった兄達に語った話につながるわけです。
それは、神に導かれた預言者モーセがエジプトで奴隷の境遇にあったイスラエルの大集団をその境遇から解き放った神の力であり、
紅海の水を分けた天空の力であり、エジプト軍を壊滅させたエホヴァの力であり、またシナイの荒野で40年間毎日イスラエル二~三百万もの民を天空からのマナで養ったエホヴァの力であったわけで、
文面を読んで行きますと彼らの中でエホヴァの力とモーセの影響力がどれだけ大きかったかが分かるのです。
それは、イシマエル一族がニーファイの言葉一つで荒野に出て行った経緯からも分かるはずです。
またヘブライ語・アラム語からの直訳で旧約にも度々登場する「主は生きておられる」と言う慣用句がありますが、これは「命にかけて誓う」と言う意味であり、
ニーファイがゾーラムを捕まえた時に語った言葉は「私の言うことを聞くか。
言うことを聞くなら私は命にかけて誓う。確かにお前の命を助けてやる」となります。
この場面も二人の信仰による取引であり、主をどれだけ信頼していたか、またニーファイの言葉を信じ、
命にかけて誓い、リーハイ一族と行動を共にしたゾーラムの信仰が見えるのです。
ーーーー
言いそうですね、昔なら。
会員の経営する会社に勤めてた人が、社長を「・・・兄弟」て呼んでいたとか聞きましたけど。
重症ですね。
モルモンを長くやってると生じる変換ミス
清算 とか 生産 が 必ず 聖餐になってしまう。
電動工具が 伝道工具
真剣に が 神権に
これって生活習慣病なんですかね?
「あじフライ兄弟、もうメシは来ましたか?」
「いいえ、リフレッシュメントはまだみたいですけど」
「じゃなくて、伝道の召しこのことですよ」
なんて笑い話が
すんません、教会に長くいると、こんな変換になってしまうんです。
もちろん、食うのは「飯」ですよ。
やっぱ、文字だけの付き合いって言うのは難しい。
情報量も限られるしね。
また、一緒に難波で召しでも食わないとね。
オムナイス(オムライス)とアジフライと豚カツってメニューは??
ちょっとハード過ぎ?
「わたし」と「わたくし」の2種類を使い分けているんですよね、真面目で謙遜な人が語る場合は「わたくし」、上位の人が目下のものに語る場合は「わたし」、一例をあげると
1 Ne.1:1 私すなわちニーファイは善い父母から生まれたので
では「わたくし」
2 Ne.1:6 私リーハイは私の中にある「みたま」の働きによって予言する
では「わたし」
他にも2人称に対して「あなた」「お前」「汝」などを使い分けている、たとえば 2Ne. でリーハイが語る説教では、自分の子供であるレーマン、レミュエルたちには「お前」、家族ではないゾーラムに対しては「汝」となっていて、文章で登場人物の関係性や発言者の感情などを表現しようと言う意図が見える
2 Ne. 1:29 しかし、もしもお前たちにこれを聞く心がないならば、私はまことに私の第一等の祝福を取り上げてこれをニーファイに伝える。
2 Ne.1:30 さてゾーラムよ、汝に言うがよく聞け。
理由の2つ目は、暗唱しやすいリズミカルな文体であることです、これは聖典として重要な要素であると私は考えます、また聖餐の祝福文も現行のものはガタガタして私は好みではありません、モルモン経時代の方が流暢で暗記しやすかった
もっとも現行のモルモン書にも翻訳者のこだわりがあって、なるべく原文の表現を正確に伝えようとした、と聞いていますが、学術書などではそれは重要かもしれませんが、私としてはそうは思えないのが正直なところ、まぁ好みの問題かもしれませんが
例えば、イザヤ 28で検索、
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%20%EF%BC%92%EF%BC%98&ei=UTF-8
wordproject.org bible.com のが・・
前者は口語訳が。後者は新共同訳
(教会の使わない・・コピペで読みが出ちゃう・・
“酔よいどれの誇ほこる冠かんむりと・・大水おおみずのあふれみなぎる暴風ぼうふうのように”)
例のギレアデ氏,解説で、は、28章も含め、末日の事でもあるんだってね・・
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/s/%E3%82%AE%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%87
https://isaiahinstitute.jp/avraham-gileadi/
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=isaiahexplained&ei=UTF-8
そうなるなら、早くそうなってちょ・・
「Lori Toye and the I AM America Map: Earth Changes and the Golden Cities, Part 1
Lori Toye 27,790 回視聴 2011/03/21
」
https://www.youtube.com/watch?v=BEakbJ4_F7o
アル・ビエレク
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AF&ei=UTF-8
al bielek map
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=al%20bielek%20map&ei=UTF-8
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/1fa52975dc96dd73eb09232bff0c0033
問4 既に保護期間が切れている著作物等の保護期間はどのようになりますか。
(答)
著作権法においては,一度保護が切れた著作物等については,その保護を後になって復活させるという措置は採らないという原則があるため,
改正法の施行日である平成30(2018)年12月30日の前日において著作権等が消滅していない著作物等についてのみ保護期間が延長されます(TPP整備法附則第7条)。
したがって,既に保護期間が切れているものについては,遡って保護期間が延長されるわけではありません。
ーーーー
口語訳聖書は1955年だったから2005年には切れてたはず。
wikiくらいになると聖書協会に一言いうべきなんでしょうね。
後年の修正したのを載せたのかも。
末日聖徒の口語訳聖書は聖書協会と色々協議したみたいですね。
Wikiノート参照して下さいよ、たまさん
著作権を理由に非公開にすべきって主張している人がいるからみたいですよ
アメリカだと著作権保護期間は発行から95年になっちゃったんですね
日本だと作者の死後から70年だそうですよ
ホントですね。
私もたまに使ってました。
以前、アメリカ並みに70年に延長云々とかありましたけどそれでしょうか。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
こちらで
末日聖徒の公式ホームページも口語訳あります。
現在、この項目の一部の版または全体について、削除の手続きに従って、削除が提案されています。削除についての議論は削除依頼の該当のセクションで行われています
」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8
協会共同訳聖書←有料
なんて書き込みにとげとげしさを感じるのですが、それはさておき、リクエストにお応えして研究者目線な話題をいたしましょうか、協会共同訳聖書の特徴を一つご紹介しますと・・・
口語訳聖書では古代イスラエルの捧げてきたいけにえに、燔祭、酬恩祭、愆祭、揺祭、などその単語を見ただけでは何のことか分からない表現がされています
そこで以下のような解説サイトを読む必要が出てきます
https://bible-study30.com/bible-study/115.html
この捧げものの名称は英語では分かりやすい、燔祭は Burnt Offering ですからね、牛や羊を完全に「焼き尽くす」という捧げものです、酬恩祭は Peace Offering で、これは神への感謝、あるいは和解を求めて行うもので、まさに「和平の」捧げものです、燔祭は完全に焼き尽くすのですが、酬恩祭は肉を焼いて食べるのです、その点も異なります
で、この捧げものの名称が協会共同訳聖書では変更になっています、一例をあげると
(口語訳)燔祭⇒(協会共同訳)焼き尽くすいけにえ
(口語訳)酬恩祭⇒(協会共同訳)会食のいけにえ
まぁ、口語訳のほうが宗教儀式っぽくて良いと言う人もいるでしょうし好みの分かれるところかもですが・・・
ただですね、先の紹介サイトのような解説をきちんとできる教師はモルモン教会には一人もいません、教会発行の教師用ガイドを読んでなぞっているで、神学校や神学部で体系的に聖書を学んでませんから
↑
これは問題提起であってとげとげしいことを言ってるのではありませんよ
そんなワケでモルモン教会にはいつも物足りなさを感じるのですね
ウィルソン姉妹の解説で興味深いのがあったので追加しておきますね。
口語訳マタイによる福音書/ 26章 25節
イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。
イエスは言われた、「いや、あなただ」。
聖書協会共同訳
イエスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
KJV
Then Judas, which betrayed him, answered and said, Master, is it I? He said unto him, Thou hast said.
DeepL
すると、彼を裏切ったユダが答えて言った、
「先生、わたしでしょうか」。 彼は彼に言った、「あなたは言われました」。
NIV
Then Judas, the one who would betray him, said, “Surely you don’t mean me, Rabbi?”
Jesus answered, “You have said so.”
DeepL
すると、彼を裏切ることになるユダが言った。"まさか、ラビ、私のことですか?"
イエスは答えた。"あなたはそうおっしゃいました。"
ウイルソン姉妹の解説
ユダの偽善的な質問に対するイエスの答えは、「あなたは知っているはずです」と翻訳することもできます。
ーーー
なるほど!他の弟子達と同じように「私ではないでしょう?」と言ったユダにイエス様の答えは
「いやあなただ」は他の弟子に聞こえそう。。
"あなたはそうおっしゃいました。"ユダが白状した?
「あなたは知っているはずです」この訳しっくりきますね。
日本流に言えば「自分の胸に聞いてみなさい」ですかね。
>その線から言えば、やはりとげとげしさが見え隠れしています。
炎上の初期消化流石です。
長年ブログをやってこられた経験ですかね。
>聖書協会共同訳←有料、とか言ってる人に、そう言うのはやめたほうが良いにゃ!とやんわりとたしなめているだけですが
うーん。救いは無料なのに宗教は何かと金がかかる。。の流れの投稿なので。
この部分だけを切り取られて「当て擦り」とたしなめられても。。
お互い管理人さんの意を汲んでコメントに勤しみたいですね。
豚師匠と違ってオムナイはアバウトなので。
誤解されないように善処しますね。
今回の初めの3行で理解が進みました。
>「常にモルモン教会を誉めちぎる発言しか行ってはならないとしたら」
そんなことは私の姿勢でも方針でもありません。研究者のような、あるいは中立のメディアの調子で論じて欲しいと思っています。その線から言えば、やはりとげとげしさが見え隠れしています。
私が見ている米のサイトは、リベラルでも、やや批判的サイトでも品がある、というかマナーを守っているように感じられます。
前にもお伝えしたと思いますけれど・・・
毎週、集会に参加してます、帰還宣教師です、これくらいで充分でしょう?
モルモン教会員が、常にモルモン教会を誉めちぎる発言しか行ってはならないとしたら、それはいかがなものかと
と言いますか、私は今回、教会を批判してませんけれども、聖書協会共同訳←有料、とか言ってる人に、そう言うのはやめたほうが良いにゃ!とやんわりとたしなめているだけですが
また、このコメント欄に書き込むにあたり、ブログ作成者に本名やら素性を伝えないといけないとのお考えでしたら、それはgooブログの規約を超えた要求かと思いますけれども
関東、関西、東北など大体の住まい、改宗歴、この教会に対する姿勢や発言が、またこのサイトに対するものいいがとげとげしいか否か、その理由などがわからないと落ち着きません。そういったことを書いてもらえないですかね、アジふらいさん、とおりすがりさん!
自分以外のサイトに来て、何を言ってもいいというわけではないでしょう。弁えがないとは大人げない。
どうも泣きかたが可愛ゆくない。度がすぎるとシッシッと追い出すつもり。
ここの住まいの方針をしっかり読んでいないみたい。
さぞや本家の末日聖徒は進んでいて様々な訳を駆使して学んでいるのかも。。。とWikiで調べてみました。
wiki/英語訳聖書
米国でどのような聖書が使われているか、2014年にインディアナ大学・パーデュー大学インディアナ分校合同の
宗教・アメリカ文化委員会が行った調査の結果が発表されている。
ジェームズ王版聖書 - 55%
新国際版聖書 - 19%
新改訂標準訳聖書 - 7%
新アメリカ聖書 - 6%
リビングバイブル - 5%
その他 - 8%
ーーー
えー。未だにKJVが過半数以上ですか!?
末日聖徒がKJV使い続けてるものわかる気がします。
19%のNIV
新国際版聖書 New International Version1978
ファンダメンタリズム・福音主義教会による翻訳
福音主義の聖書翻訳も一定の支持があるみたいですね。
英語には膨大な数の聖書翻訳がありますが、メジャーなのは日本とあまり変わりないかも。
むしろKJVから脱却した聖書がメジャーな良い側面もありますね。
にゃにゃにゃ!?
たまにオムナイくんも良いこと言うにゃぁ~!
wiki/日本語訳聖書
末日聖徒で公認されている口語訳の後でもメジャーなものだけでも。
新改訳聖書(1965年)日本聖書刊行会
共同訳聖書(1978年)日本聖書協会(絶版)
新共同訳聖書(1987年)日本聖書協会
聖書協会共同訳(2018年)日本聖書協会
が発刊されてますね。
一番新しい聖書協会共同訳が日本のスタンダードになっていくんでしょうね。
わたくし初版本ゲットしてあります。
新改訳聖書(1965年)日本聖書刊行会は菊地長老が愛読されていました。
wiki/新改訳聖書
新改訳の特徴として、「聖書を『誤りなき神のみことば』と確信する42名の翻訳者による委員会訳」などとしている。
また、新改訳聖書刊行会では、特徴として、「聖書を『誤りなき神のみことば』と告白する福音主義の立場に立つ委員会訳であること」、「
特定の神学的立場に傾かないで、言語的に妥当であるかを尊重すること」などとする。
ーーー
福音主義。。個人的にはやや原理主義的な訳かなと。
菊地長老らしいですね。
最新の聖書協会共同訳はまだデジタル版が出ていないようです。
日本に聖書を普及させる絶好のチャンス。
末日聖徒も聖書協会共同訳に切り替えるべき。
エッ?ブリンケン暗殺!?
あー。妄想サイト。。
kindleの電子書籍なら0円~99円にゃ!
しかし印刷して製本してモノを発送するなら当然ながらコストがかかる、だから書籍だと3000円くらいするのは仕方ないにゃ!
そんなことにも頭が回らないで
>(聖書協会共同訳)←有料
なんて当て擦りはやめたほうが良いにゃにゃにゃ~~~ん!
二人とも、その夢・示現はたしか2010年の4月総大会中の日に受けたようだ・・で、その地震も4月総大会中って・・
その一人は、SLC大地震の示現で、付随の事として、その前後にイスラエル国の転覆?消滅?が見えたというこっちゃな・・
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF
(カンファレンス・センタ)
世界情勢的に、米国の覇権一極から 多極化へと・・BRICS等等
田中宇 多極化
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%87%20%E5%A4%9A%E6%A5%B5%E5%8C%96&ei=UTF-8
「イスラエルではネタニヤフ政権の司法改革に反対する人たちが、連日デモを繰り広げており、政権は安定していない。
さらに、イスラエルという国家の根幹に関わり、その存続を左右する影響力を持つロスチャイルド家の凋落も気になる。
あるいは、ウクライナにユダヤ人国家を建設するため、ロシア系住民を虐殺しているゼレンスキーの命運が尽きたとの意か
」
iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-10926.html
「一方、イスラエルでは、ベンヤミン・ネタニヤフ首相の極右内閣とその過激主義政策に抗議して、21週連続で数万人が複数の都市の通りを埋め尽くした。
」
benjaminfulford/2023-5-29
「アントニー・ブリンケン国務長官では先週、北京への抜き打ち訪問中に人民解放軍によって処刑されたが、ホワイトハットは死亡者が本物のブリンケンなのかボディダブルやクローンなのか不明だと、海兵隊軍サイバー空間司令部の関係者がリアルローニュースに語った。
月曜日、サイバースペース司令部は、ダニエル・クリテンブリンク国務次官補(東アジア・太平洋担当)とロイド・オースチンとの間で、ブリンケンの死亡状況を詳細に記した通信を傍受した。
サイバースペースコマンドは、ブリンケン、クリテンブリンク、および不知のDSメンバーたちを乗せた国務省の飛行機が、6月3日の15時13分(UTC)に北京首都国際空港への着陸許可を求めたことを知った。しかし、管制塔は、飛行計画が提出されておらず、ブリンケンは中国への入国を禁止されているとし、着陸許可を拒否した。
2月、アラスカから大西洋岸まで何事もなく上昇していた中国のスパイバルーンとされる気球をアメリカ空軍のF-22ラプターが撃墜した後、政権はそれまで予定されていたブリンケンの中国訪問を中止させた。サイバースペース司令部は、それは一部フェイクニュースであり、真実は習近平がブリンケンをペルソナ・ノン・グラータと宣言し、中国を避けるか、結果に直面するよう警告したことであると述べた。
最近、政権と北京の間に分裂が起きている。先月報告したように、習近平はバイデンを偽の大統領と呼び、中国の李尚武国防相は先週シンガポールで開催された防衛サミットでロイド・オースティンとの会談を拒否した。
・・
一方、J-10戦闘機2機がBlinken機を迎え誘導した。戦闘機パイロットは英語を話し、ブリンケン機に対し、滑走路18Lへの最終進入経路までついていき、その後着陸して護衛を待つよう指示した。
サイバースペース司令部は、J-10が飛行機を撃墜せずに着陸を許可した理由を把握していない。
滑走路では、武装した兵士を乗せた軍用車がブリンケンの飛行機を出迎えた。武装した兵士に囲まれたブリンケンとクリテンブリンクだけが降機することを許された。ブリンケンはヒューズを吹っ飛ばした。通訳を介して、空港ターミナル内の事務所で丁副首相がブリンケンと会うように手配したと言う。そして、その高官が自分の飛行機を妨害したことを「見え透いた侵略行為だ」と憤慨した。
オフィスには丁副首相の姿はなく、3人の軍人が腰に差した拳銃に手をかけているだけだった。
"これは何だ?" ブリンケンはそうつぶやいたという。「丁雪祥副総理はどこだ?私は国務長官......」。
銃弾は彼の顔面を直撃した。
「今すぐ家に帰り、ここで何が起こったかを国民に伝えなさい」高官は震えるクリテンブリンクに言った。"あなたはここでは歓迎されません。遺体を飛行機に運びます。"
サイバースペース司令部は、政権が最も貴重で愛着のある資産を、危険な任務に就かせるとは信じがたいと述べている。
・・
」
deepl(噂のサイト)https://realrawnews.com/2023/06/a-antony-blinken-execute-during-secret-visit-to-china/
オムナイ的には逆です。
古(いにしえ)の預言者も弱き人間であって、必ず当たる占い師的予言者では無かったでしょう。
生ける預言者たちは、その名に相応しい宗教指導者だと思いっます。
あ。オムナイはイケテル偽預言者ですからね。
安!逆に警戒されるw
へー。オンラインストアーで売るようになったんですね。
https://biblehouse.jp/?mode=grp&gid=1933921&sort=n
聖書は10倍くらい。
バプテスマを受けた記念に白いモルモン経をいただいたのを思い出します。
あの頃の普通のモルモン経は紙の端が赤かったんですが、
これは金色。
紙も上質で薄かった。なので普通のモルモン経の2/3くらいの厚みしかなかったかな。
書き込みするの勿体無かったので、未だに真っさらな状態でどこかで眠っているはず。
明治訳のモルモン経も古参の教会員からもらったり、
古本屋めぐったりで数種類コレクションしてます。
出色なのは明治訳モルモン経のポケットサイズのを持ってます。
紙の厚みは普通なので分厚く感じます;;
これからは何冊売れたという指標よりも、ダウンロード数で評価される時代になるのでしょうね。
まぁ、ジョセフ・F・スミス管長(1838 - 1918 01管長)の時代あたりまでは、教会員は誰も、管長のことを預言者(このブログでは予言者)・聖見者等とは口にしなかったということだね。総大会で、管長を予言者、啓示者、示現を受ける者として支持する時のみということか。ジョセフ・スミスが生きてた時は、少なくともジョセフ・スミスと同時代のまたは同世代の教会員にとっては、予言者といえば、常にたった一人予言者ジョセフだけで、スミス管長とか予言者ジョセフなどと呼んでいた。
うぅぅんん、ジョセフ・F・スミス管長は、’予言者’等の称号を神聖視していて言葉の安売りはしなかったんだと。
・・
“生ける予言者”なる言葉が、教会出版物などから広まるようになったのは、マッケイ管長時かららしい。また、現在に至るまで、総大会などで、管長自らが(ジョセフは自らを予言者と言ってた。‘生ける’予言者なる言葉の出現は20世紀後半からか)、自分を予言者です、生ける予言者です等と言ったケースは一度もないということだ。あの故ヒンクレー管長の、ラリー・キングだったかとのインタビューでも、そのように(つまり予言者として)会員から支持されてると言ったまででしたね。
」
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/0947d3640b7ba3b9633eecece0bcab4c
最初、第2次大戦後、教会出版物に、生ける予言者という語をどんどん印刷させていったというのが、故マイケル・クイン氏の研究に・・
一説に、使徒の按手任命(聖任)時に、予言者・聖見者・啓示者という語句を入れない(言わない)そうな、管長任命時もおそらく・・早くともマッケイ管長~ヒンクレー管長時の時に至るまで・・?!
たまWEB的には、一般会員、目を覚ましてもらって、軽々しく生ける預言者(・聖見者・啓示者)とかって証し等に言うのは、止めになってほしいな・・予言者はこの神権時代、ジョセフのみなんだと・・
預言者・予言者というなら、予言をしないとあかんのでしょう。聖見者というなら、ジョセフのように翻訳とかって、実際の成果・実がなかったらいかんのでしょう・・
「3 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
」 マルコ11
米国の一般会員で、お互い知り合いでない二人の人物が、ほぼ同じ時期に、示現的夢で、ソルトレークに起こる大地震で、教会幹部が取り去られるのを見たという・・
実質、ジ・エンド・オブ末日教会みたいな・・その後各地域から不動産・動産の取り合いが起こりとかって・・
https://store.churchofjesuschrist.org/jpn/ja/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E5%AD%A6%E7%BF%92/%E8%81%96%E6%96%87/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9B%B8/%E2%80%8B%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9B%B8%E2%80%8B
世界中で人気のBLACKPINK。なぜか日本ではイマイチ。
残念だー。
https://watch.angelstudios.com/
こちらも世界中で大人気の「選ばれし者」。
イエス様が権威ある人物からフランクな親しみやすい人物として描かれ、弟子たちもより人間的に描かれています。
末日聖徒も制作者として関わっているよう。
シーズン3はじまったのですが。。。日本語字幕ありません。。。
おそらく日本からの閲覧数極端に少なかったのでしょうね。。
。残念だー。
>(聖書協会共同訳)←有料
あ。そっちw去年の10月。。
救いは無料だけど宗教ってお金がかかるのに無料て?
の意だったかな。
口語訳や新改訳、リビングバイブルは無料で手に入るけど。。
新改訳聖書←無料だと疑問の対比にならないね。。
そんな感じ。
>オムナイ 2022年10月23日
>
>是非!「選ばれし者」無料です。
>さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。
>金のない者も来るがよい。
>買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずに
>ぶどう酒と乳を買え。
>イザヤ書55:1
>ーーー
>渇いている者は来るがよい。
> 命の水が欲しい者は、
>価なしに飲むがよい。黙示録22:17
>(聖書協会共同訳)←有料
これが当て擦りにゃん!
やっと京都へ帰ってきたら「そうだ京都、行こう。」のポスター。
京都駅にそんなん貼っても。。。
https://www.youtube.com/channel/UCP40QiZo7EjfltE3QkStkCw
うーん。昔は「そうだ京都へ行こう。」だったはず。
還暦のジジにはこちらの方が語感がいい。
>いくつか抜粋したいところですが。。コピペは制限がかかっていて出来ません。
そうだ!字幕ローダーで行こう!
と思いついたので脱線。
ほー。と思ったことを抜粋してみます。
・ユダヤ人の世界では、1日の始まりは夜明けではなく日没から始まるか。
・福音書すべてが、裏切り者を公表する部分があります。
しかし、興味深いことに、ルカでは聖餐式の前ですが
マタイとマルコでは聖餐式はその後です。
・客間としてカタラーマという言葉もある。
ルカ2章で使われたのと同じ言葉です。
マリアとヨセフが救い主のために宿泊場所を探していたとき自分たちの宿がなく、公共の家に泊まらなければなりませんでした。
このとき、誕生とまったく同じ言葉が今度は死のときにも使われる。
カタラーマで生まれた者は、カタラーマで最後の食事をすることになる。
これは誕生と死の美しい結びつきです。
使徒たちのために敷物や枕が用意されていた。
使徒たちは椅子に座ったりはしない。
レオナルド・ダ・ヴィンチのようなテーブルがあるわけでもない。
地べたに座っている。
特に過越の祭りの場合は、寝転んだりします。
というのも、これは重要なことだった。
奴隷や使用人であった場合はできないことだったからです。
・イエスは夕食から起きると、自分の外衣を敷いて奴隷のような姿になり、弟子たちを洗い始めた。
古代世界での弟子としての役割足を洗うのは奴隷だけだったということです。
・ヨハネの福音書17章に、主はユダのことを「滅びの子」と呼んでいます。
なぜユダを追い出さなかったのでしょうか。
上級の儀式を受けなければ、ユダは滅びの子にはならなかった。
・これは別の訳ですが、「しもべはその主人より偉くなく、また、遣わされた者は送られた者よりも偉い。
使徒という言葉は、1セントという意味です。
これは言葉遊びです。
・ルカによる福音書22章15節と16節には「私が望んだのだ」とあります。
これはヘブライ語かアラム語です。
興味深いのは、ルカがこの言葉を記したことです。
ルカはギリシャ語を母国語とする人です。
他の著者はおそらくギリシャ語を母国語としなかったと思われますがルカはそれを指摘しています。
・モルモン書にそのような記述がある場合、私たちはそれを古代のヘブラ民族のものだと考えます。
古代ヘブライ語の定型文であるとしています。
まさにその通りです。
・新約聖書の時代には、過越のワインはそれほど薄められませんでした。
平均的なユダヤ人の家庭で家庭は貧しく、彼らは自分たちを欺いていた。10 分の水 1 分のワインでワインが水を浄化することを確認するためです。
・ワインを作るとき、ブドウをそっと押さえ甘くなるようにする。
しかし、救世主のワインは苦いワインだった。種がつぶされ、ワインは苦くなった。
・弟子である私たちは、自分の証を過信しすぎてはいけません。
鉄の棒にしがみつくことです。
鉄の棒とは神の言葉であり、神の預言書である。
何の話??ww
ああ、こちらは無料。ここは有料と当てこすりをしたと?
そうではなくて、どの聖書も無料というわけではないよいう優しい注意喚起ですよ。
汗るわー。
協会共同訳聖書(←有料)
なんて当て擦りはやめた方が良いにゃ!
ネルソン管長がシンボルマークをモロナイからキリストで変更してから、伝統キリスト教とのマリアージュ非常に美味です。
ウークトドルフ長老の説教の帰結
愛する友人の皆さん,まことの弟子としてのこのすばらしい,充実した道に踏みだす第一歩は,
まず次の簡潔な問いかけをすることです。
「主よ, それはわたしですか。」
ーーー
古(いにしえ)の使徒たちの謙遜さは見習うべき資質なのでしょう。
愛する友人の皆さん,まことの弟子としてのこのすばらしい,充実した道に踏みだす第一歩は,まず次の簡潔な問いかけをすることです。
https://www.youtube.com/watch?v=oB9cYVb8M_M
相変わらずウィルソン姉妹の解説素晴らしすぎます。
KJV以外の様々な訳を参照しながら教会では聞いたこともない新鮮な研究を聞くことができます。
英語苦手な方はユーチューブ日本語字幕つけられます。
https://archive.bookofmormoncentral.org/content/matthew-26-mark-14-luke-22-john-13-jesus%E2%80%99s-last-supper-part-1
文字で読みたい方はこちらも
PDFを右肩の↓マークでダウンロードしてDEPPLの文書翻訳で私は読んでます。
いくつか抜粋したいところですが。。コピペは制限がかかっていて出来ません。
米ユタ州の教育委員会が聖書について「低俗な内容、または暴力を含んでいる」として小中学校の図書館で禁じる決定をした。性的描写がある書籍の規制を進める保守的な運動に反発した保護者の申し立てがきっかけとみられるが、泥沼の対立の結果、規制を加速させる可能性がある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/62356ac6b10f66f8ce5ec885f9257768377a8675
ウークトドルフ顧問の説教引用し、タンポポ~~、自分の生活を吟味せよ~~ 他を批判するなかれ、特に教会幹部、指導者を~~
https://www.churchofjesuschrist.org/study/general-conference/2014/10/lord-is-it-i?lang=jpn
教師は元ステーク会長,元関東地区地域70人・・バリバリの中央幹部説教信奉者ですかぁぁ・・
なんか、たまWEB、Zーム視聴ですが、批判する者へ罰せずにはおくまじみたいな意思もあるんではと感ぜられぇ~・・
LDS版裏読み・踏み絵統制・・末日教会内での踏み絵支配があるとすれば、それは指導者への従順の基準、それに反した批判者は徹底取り締まり対象・・
“「主よ、それはわたしですか」(欽定訳) 聖書 / 2015-01-25 23:59:22 ・・
末日聖徒イエス・キリスト教会が当初より、欽定訳英語聖書の格調と19世紀前半において権威ある版であったことからこの聖書を使用してきたことを私は承知している。ただ、この版の底本が16世紀の古い本文であって、その後の本文批評学や聖書学の成果を取り入れた各国語の聖書翻訳と比べると、著しく時代遅れで正確さに欠けることを指摘せざるを得ない。
また、この部分のギリシャ語本文は、Μήτι ἐγώ εἰμι, Κύριει? となっていて、否定の答えを予期する疑問の小辞Μήτιがあり、口語訳や新改訳、新共同訳、岩波書店訳(2003年)などのように否定の表現を含んだ訳文が原文に忠実である。辞書にはΜήτιの意義の中に surely, probably, perhaps を含めて説明しており、邦訳すれば「まさか、・・・ではないでしょう?」が妥当である。(Arndt & Gingrich, Grk-Eng Lexicon. 1957, 1973. 邦訳は筆者。)
欽定訳を一貫して使用するのもひとつの方針であるが、英文が現代人にとって古い文体になっており、何よりも英語以外の国で伝道するに当たって聖書本文が一部でも相違することは支障となる。このことは末日聖徒の識者が以前から気付いていたことであり、適切な対処方法が模索されるところである。(本当は焦眉の急を要する問題である。)
”https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/f61bee048f9446aa71fe9ae9f74e333e
「欽定訳聖書 実際にはウィリアム・ティンダルら先行する英語翻訳にかなりの部分で依拠
」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%BD%E5%AE%9A%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8
“26:22 And they were excedinge sorowfull and beganne every one of the to saye vnto him: is it I master?”
https://textusreceptusbibles.com/Tyndale/40/26
https://biblehub.com/texts/matthew/26-22.htm
https://biblehub.com/parallel/matthew/26-22.htm
22 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。
イスカリオテのユダの裏切り - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E8%A3%8F%E5%88%87%E3%82%8A
驚いたあまり、他は兎も角も、自分じゃないよね、と主の同意を求めてるふうな情景なのかなぁぁと(各自の主へ近さ、親愛度が高かったからこそのそんな言い方・・)
昔の翻訳者たち、ギリシア語の語句・用法・意味とかそんなに詳しくはなかったでんしょうかね・・
新約への深い、広い理解には、聖書翻訳の貢献を取り入れたりで補強されるんだろうし、そういった学問系利益を加味したほうがベター・・一概にすべてではないにせよ・・
各自がそれぞれ理解に応じ、そういった詳しめの情報環境で、さらに、主に近づいていけるみたいな・・
LDS教会は、まず教会幹部・指導者に近づけ、従順であれだもんな・・
学び中
ヘブル12:23「長子たちの教会」
「贖われた聖徒たちは『長子たちの教会』(ヘブル12:23)に入るというパウロの教えの『長子たちの教会』という言葉は,聖書の中で唯一この場所にのみ出てきます。
末日の啓示の中で,預言者ジョセフ・スミスは,長子たちの教会とは,日の栄えの王国の忠実かつ昇栄した聖徒たちによってなるキリストの天の教会を意味していることを学びました(教義と聖約76:54;88:4-5参照)。
『イエスは天の御父の霊の子供の長子であり,また御父の肉における独り子であり,復活によって死者の中からよみがえられた最初の御方である(コロサイ1:13-18参照)。
忠実な聖徒は永遠に長子の教会の会員となる(教義と聖約93:21-22参照)』(『聖句ガイド』「長子;初子」参照,
scriptures.lds.org)」(New Testament Student Manual〔教会教育システム手引き,2014年〕,489)これらの聖徒たちは,「キリストと共同の相続人」(ローマ8:17)であり,最終的に「父が持っておられるすべて」(教義と聖約84:38)を受け継ぎます。
ーーーー
なるほど。長子(キリスト)ではなく”長子たち”の教会なんですね。
それが144000人という固定された人数ではないのは確かでしょうが。
まぁ、星の栄で十分という日頃の意識が目を曇らせていたか。。
伝統的キリスト教では「長子たちの教会」ことをどのようにかんがえていらっしゃるのでしょうか?
調べてみます。
「17:14 彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。
」黙示録
14万4千人は長子の教会の会員でしょう・・
そして、14万4千人に加わるLDS教会員がいるとすれば、それは“召しと選びをたしかなものにした者たちからでしょう・・
「私は会議室で定員会との祈祷会に出席し、ヨハネの黙示録にある14万4千人に関し発言し、特にはその人数を形成するための人選はすでに始まっていることを示しました。
1844年2月4日・日曜 教会歴史 第6巻p196
シオン山には14万4千人の救い手・救済者がいます。そして彼らのもとには、誰も数えられないくらいの大群がいるでしょう。
おお、私はあなた方に心底お願いします。進み進んで、あなた方自身の召しと選びを確かなものとするようにと懇願します。
1844年5月2日 教会歴史 第6巻p363-67
」
「1:10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。
」1ペテロの手紙
“人選はすでに始まっている” ジョセフの時代から既に、召され選ばれに到達した教会員はいたということに・・
確かなものにするとは、例えば、“わたしはあなたに、あなたが永遠の命を受けると聖約する。”(モーサヤ26:20)のような、個人的啓示を受けること。
召される者は多いが選ばれは少ないということになってはあかんと・・召しと選びを確かなものにするというのが期待された、個人個人の目標になるということなのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/216c61fab0169627aad357bd45559082
>それまでは、偽りの使徒や預言者のいる末日教会ということで、すんなり長子の教会へとはいかないんでしょう・・
>欺かれてしまう教会員がいるということになるんでしょう?!
ほー。ワタクシ長子の教会=末日聖徒イエス・キリスト教会だろ思い込んでいました。
emp.byui.edu/SATTERFIELDB/Papers/firstborn
長子教会の一員になることは、すべての末日聖徒の目標であるべきです。
聖文の中で「長子の教会」という言葉が使われていますが(ヘブライ12:23;
教義と聖約76:54、67、71、94、102;77:11;78:21;88:5;93:22;93:22;76:54、67、71、94、102、107:19参照)。
教会の多くの人はその意味をよく知りません。
以下は、長子教会の教義に関する聖文と兄弟たちの言葉の検討です。・・・・
日の栄えの王国の最高レベルは長子教会です
が、「長子教会」という言葉は日の栄えの王国一般については言及していません。
教義と聖約 76 章に日の栄えの王国の幻が示されてから 12 年後の 1843 年 5 月、預言者は「日の栄えの栄光の中には 3 つの天または段階がある」と教えました(教義と聖約 131:1)。
ジョセフ・フィールディング・スミスは、日の栄えの王国または昇栄の最高レベルに到達した人だけが長子教会の会員であると教えました。
・・・
長子教会の会員になるには、神殿で行われる神聖な儀式が不可欠です。このことはジョセフ・スミスによって明らかにされました。
・・・
ブリガム・ヤングは後に次のように述べた:「神の家の儀式は明らかに長子教会のためのものである」(『ブリガム・ヤング談話』
・・・・
ジョセフ・フィールディング・スミスは、長子教会の会員になるための神殿の儀式の必要性を次の言葉で教えました。・・・
私の理解では、長子教会の会員になるということは、内輪の一員になることです。
わたしたちは皆、バプテスマと確認を受けて末日聖徒イエス・キリスト教会の会員となっていますが、昇栄の特権を得ずに会員のままで満足しているように見える人もたくさんいます。
(救いの教義、2:42)。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、神の子供たちが長子教会に入る準備をするために存在します。
マッコンキー長老は次のように書いている。
「地上の教会の目的は、天の教会で受け継ぐことができるように私たちを備えることです。」(『信仰箇条の新しい証人』p.337)。
ーーーー
簡単に言えば昇栄した人々の集まりを長子の教会ということですかね。
38 シオンに住む者は、シオンに関するすべてのことを裁くであろう。
39 そして、偽りを言う者や偽善者はシオンに住む者たちによって立証され、また使徒でも預言者でもない者たちは知られるようになる。
40 また、判士である監督や、その副監督たちでさえ、もしも彼らが自分の管理の職に忠実でなければ罪があるとされ、ほかの人々が代わりに立てられる。
41 見よ、わたしはあなたがたに言う。シオンは栄えて、主の栄光がそのうえにあるであろう。
42 そして、シオンは民のために旗となり、天下のあらゆる国から人々がシオンに来るであろう。
43 地のもろもろの国民がシオンのゆえにおののき、シオンの恐ろしい者たちのゆえに恐れる日が来るであろう。主がこれを語った。アーメン。
」 64
「23 それゆえ、欺かれてはならない。引き続き確固としていて、天が震え、地が揺れ動いて酔った者のようにあちらこちらとよろめくのを、またもろもろの谷が高くなるのを、また山々が低くなるのを、また起伏の激しい所が平らになるのを待ち望みなさい。これはすべて、天使がラッパを吹き鳴らすときに起こるであろう。
24 しかし、主の大いなる日が来る前に、ヤコブは荒れ野に栄え、レーマン人はばらのように花咲くであろう。
25 シオンはもろもろの丘の上で栄え、山々の上で喜び、わたしが指定した場所に集められるであろう。」
」 49
このシオン、長子の教会は、失われた北の十支族帰還後だにゃ、14万4千人のもとでシオンの建設が始まってからだにゃ・・
それまでは、偽りの使徒や預言者のいる末日教会ということで、すんなり長子の教会へとはいかないんでしょう・・
欺かれてしまう教会員がいるということになるんでしょう?!
「聖書には,ペレグの時代に地球が分割されたので,主が地球を分割されたことが書かれています。イスラエルの子ら10部族が北の国へ行ったとき、主は再びそれを分割された。また、聖書には「地は酔っぱらいのようにくねくねと動く」とあります。この地球が酔っぱらいのようにあちこちに動く原因は何だろうか。星々はイチジクの木から落ちるように地に落ちるとあります。この星々が奪われた場所に戻るとき、地球を揺り動かすことになる。
・・
夜、エライザ・R・スノウ姉妹を少し訪問し、「地球の分割」について話をしました。彼女は預言者ジョセフが、10部族が連れ去られたとき、主は地球を2つに切り、ジョセフは左手の中央を右手の端で叩いて説明し、彼ら(10部族)は自分たちだけのオーブまたは惑星におり、彼らが連れ去られた地球の一部を持って戻ってくると、この2つの体またはオーブが一緒になることで衝撃が起こり、「地球は酔っ払った人間のようにあちこちよろめく」、と言ったと教えてくれました。
」
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/d47c92776916e376b851f3038fb1ad61
「17 地に住む者よ、恐れと、落し穴と、わなとはあなたの上にある。
18 恐れの声をのがれる者は落し穴に陥り、落し穴から出る者はわなに捕えられる。天の窓は開け、地の基が震い動くからである。
19 地は全く砕け、地は裂け、地は激しく震い、
20 地は酔いどれのようによろめき(Earth reel to and fro like a druken Man)、仮小屋のようにゆり動く。そのとがはその上に重く、ついに倒れて再び起きあがることはない。
21 その日、主は天において、天の軍勢を罰し、地の上で、地のもろもろの王を罰せられる。
22 彼らは囚人が土ろうの中に集められるように集められて、獄屋の中に閉ざされ、多くの日を経て後、罰せられる。
23 こうして万軍の主がシオンの山およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前にその栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる。
」イザヤ24章
「6:12 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、
6:13 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。
6:14 天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
6:15 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
6:16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。
17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。
」 黙示録
「あなたは岩の間にはいり、ちりの中にかくれて、主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避けよ。」 イザヤ書2:10
「おお、あなたがた悪人たちよ、岩の中に入り、土の中に隠れよ。主への畏れと主の尊厳の輝きが、あなたがたを打つからである。 」 第2ニーファイ12:10
そして、あのホピの予言とかでしょうかね・・
「予言9・天の住居が大音響ともに落ちてくる。青い星のようなものが見えるとき、ホピ族の儀式はまもなく終わりを告げる
」
ホピ 天の住居 大音響
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%9B%E3%83%94%20%E5%A4%A9%E3%81%AE%E4%BD%8F%E5%B1%85%20%E5%A4%A7%E9%9F%B3%E9%9F%BF&ei=UTF-8
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E3%83%9B%E3%83%94(ホピ)
いただきました。
黙示録の14万4千人ってエホバの証人さんが強調してますよね。
昔、会社の同僚がエホバの証人で意見交換したことがあります。結局のところエホバの証人の14万4千人だけが復活し、救われるということのようです。
伝統的キリスト教でもこの解釈は様々なようで、実は末日聖徒の解釈も様々。
https://www.ldsscriptureteachings.org/2018/07/what-is-going-on-in-revelation-72-4-with-the-144000/
黙示録 7:2-4 では 144,000 人について何が起こっているのでしょうか?
教義と聖約 77:11
質問: イスラエルの全部族のうち 14 万 4,000 人、つまり各部族のうち 1 万 2,000 人を封印することで、私たちは何を理解できるのでしょうか?
教義と聖約 77:11
A: 私たちは、封印された人々は永遠の福音を執行するために神の聖なる秩序に任命された大祭司であることを理解する必要があります。
なぜなら、彼らは、地上の諸国民を支配する力を与えられた天使たちによって、あらゆる国民、血族、言語、民族の中から、長子の教会に来る者をできるだけ多く連れてくるようにと任命された者だからである。
ブルース・R・マッコンキーは次のように述べています。
ヨハネはここで、これらの王と祭司のうち14万4,000人(各部族から1万2,000人)が改宗し、洗礼を受け、授けられ、永遠の結婚をし、
最終的には永遠の命に結び固められ、召命と選出が確かなものとなっているのを見ています。(新約聖書の教義注釈、3:492)
リチャード・ドレイパーはこう語った。
封印された者の数は144,000であると予言者は述べています。
この数字を文字通りに受け取る必要はありません。
教義と聖約には次のように述べられています。彼らは、あらゆる国民、血族、言語、民族の中から、地上の諸国民を支配する力を与えられた天使たちによって、
長子の教会に来る者をできるだけ多く連れてくるようにと任命された者たちだからである。」(77) :11)。
この聖句では数字が特定されていないことに注意してください。
ジョセフ・スミスは彼らを神殿と結びつけました。数字の象徴的な意味は、この関連付けを裏付けています。
12は神権を表します。聖書の人々は、その象徴的な意味を強調するために数字を二乗しました。したがって,144 は神権の権能が充実していることを示唆しています。
しかしヨハネはそれに満足していません。彼は、完全性を表す 1,000 を掛けることで、画像に最上級の品質を与えます。
このようにして彼は、末日、つまりまさに時の満ちる神権時代における神権の強さと広さを示しています。
この期間中、完全な神権の権能が機能します。世界がこの権威を非難するにつれて、それが非難されるのも不思議ではありません。
ーーー
12X12X1000=144000なるほど。
長子の教会は末日聖徒イエス・キリスト教会のことです。
末日聖徒ではですが。
」
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2%20%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3&ei=UTF-8
「1- 3 ミズーリ州インディペンデンスは、シオンの町と神殿のための場所である。
4- 7 聖徒たちはその地方で土地を購入し、受け継ぎを得なければならない。
8-16 シドニー・ギルバートは店を開き、W・W・フェルプスは印刷を行い、オリバー・カウドリは出版のために資料を編集しなければならない。
1 聴きなさい、おお、わたしの命じたとおりにこの地、すなわちミズーリの地に集まって来たわたしの教会の長老たちよ。主なるあなたがたの神は言う。ここは、わたしが聖徒の集合のために指定し、聖別した地である。
2 それゆえ、ここは約束の地であり、シオンの町のための場所である。
3 また、主なるあなたがたの神はこのように言う。もしあなたがたが知恵を得たいと望むならば、ここに知恵がある。見よ、今インディペンデンスと呼ばれている場所は中心の場所であり、神殿の建てられる地点は西方の、郡庁舎から遠くない地所にある。
4 それゆえ、聖徒たちがその土地を購入することは賢明である。また、西方に位置している土地、すなわち、ユダヤ人と異邦人の間をまっすぐ走っている境界線に至るまでのすべての土地を、
」57
このシオンは場所的にSLC,ユタではないんだべぇ・・
また、14万4千ということは、末日聖徒教会ではなく、長子の教会というこっちゃな・・
「わたしたちは次のように理解すべきである。すなわち、印を押される者たちは、永遠の福音をつかさどるために神の聖なる位に聖任される大祭司である。彼らは、長子の教会に来たいと望むすべての者を導くために、地のもろもろの国民を治める力を与えられている天使たちによって、あらゆる国民、部族、国語の民、民族の中から聖任される者である。
」77
大祭司とあるけんど、より正確には、召しと選びを確かにした教会員たちが含まれる・・かな・・
末日教会の見解
「シオン/新エルサレム
・・モルモン書とジョセフ・スミスの初期の啓示は、終末の日に散らされたイスラエルの子孫たちが集まる場所として機能する将来のシオンの都市について述べています。ジョセフ・スミスの霊感による創世記の改訂版には、古代の預言者エノクが建てたシオンという「聖なる都市」の記述があります。エノクのシオンに集まった人々は貧困をなくし、統一され、正しく、純粋な心を持っていました。1831年、末日聖徒たちは、イエス・キリストの再臨に備えるために、シオンの都市を建設しようとしました。ある啓示では、この都市を「新しいエルサレム」と呼びました4。また別の啓示では、シオンをより広く「心の清い」人々と呼んでいます5。
シオン建設への初期の取り組み
1831年,ジョセフ・スミスは,シオンの都市がミズーリ州ジャクソン郡のインディペンデンスの町の近くにあるという啓示を受けました6。ビショップのエドワード・パートリッジは,この地域の土地の購入を始め,新しい会員が到着したときに定住できるようにしました。1833年の夏,ジョセフ・スミスと大管長会の顧問たちは,神の導きを求めながら,格子状の道路と24の市民会館や教会堂を,それぞれ異なる目的のために「神殿」として奉献した都市計画を立案しました7。しかしその夏,ジャクソン郡の市民が聖徒たちを郡外に追い出し,彼らは土地とシオン都市建設への努力を放棄せざるをえなくなりました。
・・
聖徒たちがシオンを取り戻すために行った試みは、米国の法制度への訴えも含めて、彼らの権利を認めたり、ジャクソン郡に直ちに戻るという結果には至りませんでした。1841年1月、ジャクソン郡に神殿を中心とするシオンを建設する試みが失敗したことに関する啓示で、主は「これ以上その仕事を要求せず...彼らの献金を受け入れるのが私の望みである」と説明しました10。同じ啓示で、聖徒はイリノイ州ノーブーに神殿を建て、その町を新しい集会所として設立するように命じられました。
ノーブーでジョセフ・スミスは、シオンは「北米と南米のすべてからなる」と教え、ある意味で「聖徒が集まる場所はすべてシオンである」と付け加えました11。また、シオンと集会のための神殿の重要性を強調し、「まず(神殿)建設ができるところは、その場所だ」と宣言したのです。 「12 ジョセフは、ノーブーのような神殿都市が集会の中心となり、シオンのステークが各地に設立され、それぞれが信者の避難所となることを予期していました13。
末日聖徒たちは、ミズーリ州ジャクソン郡への帰還を願い続けていた。同時に、ブリガム・ヤングのような教会指導者は、聖徒がどこにいてもシオンを築くことの重要性を説きました。ソルトレーク・バレーに定住して間もなく、ヤング大管長は、成長する都市を新しいエルサレムと呼び、ソルトレーク神殿が集会の中心的存在になると語っています14。
1950年代から1960年代にかけて、教会は世界各地にシオンのステークを設立するようになりました。この取り組みについて、スペンサー・W・キンボール長老は、「大管長会と12人は、複数のシオン、つまり、それぞれの文化や国の聖徒が王国建設の澱(パン種)として作用できる多くの集会所に大きな知恵を見出しています」15。今日、末日聖徒は多くの国でシオン支部に集まり、神殿を建て、教会指導者はシオンの理想-統一、神性、慈善に生きる人々になることを重要視しています。
」deepl
https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/zion-new-jerusalem?lang=jpn
シオンの回復が始まってから200年以上経ちました。
ヒンクレー管長の頃のネルソン長老のイスラエルの集合に関する説教です。
今まで私が聞いた集合のお話の中で最もエクセレントにまとまった説教です。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/general-conference/2006/10/the-gathering-of-scattered-israel?lang=jpn
散らされたイスラエルの集合
ラッセル・M・ネルソン(十二使徒定員会)
・アブラハムの聖約は末日においてのみ成就する,とモルモン書には記されています
・愛にあふれる御父は悲しみながらこのようにはっきりと言われました。「わたしはあなたがたを国々の間に散ら〔す〕。」
主はそのとおりに,彼らをあらゆる国々へ散らされました
・聖典の随所に記されている集合に関するこの約束は,イスラエルの散乱に関する預言と同じように確かに成就するでしょう
・大背教は,過去の各神権時代を終わらせたのと同じ足跡をたどりました・・・しかし,人々の不従順さが背教を生んだのです。
そのため,過去のすべての神権時代はその期間と場所が限定されていました
・このため,完全な回復が必要でした。父なる神とイエス・キリストは,この神権時代の預言者としてジョセフ・スミスを召され__ました
・過去の神権時代に存在した,神から与えられるすべての力がジョセフ・スミスによって回復されました。
この時満ちる神権時代は,時期や場所が限定されません。
背教で終わることはなく,世界中を真理で満たすのです
この地上において,伝道活動はイスラエルの集合に欠かせません・・・教会の宣教師たちは多くの国で散らされたイスラエルを探してきました。
古代と同じように,彼らを岩の裂け目から狩り出し,すなどってきました
・憐(あわ)れみにより,「キリストのもとに来る」という招きは福音を知らずに亡くなった人々にも差し伸べられます
・今日(こんにち)では,それぞれの国に民が集められます。
主は聖徒たちに,各々の生まれた国においてシオンを打ち立てるよう命じられました。
・キリストのもとに来るという選択は,物理的な場所の問題ではありません。個人の献身の問題なのです
・霊的な安全は,わたしたちの住む場所ではなく,生き方にかかっています。各国の聖徒たちは,主の祝福に対して同等の権利を得ることができるのです
ーーーー
つまり、もう集合している最中でして。。現在7000万人以上が集合してるわけですね。
日本だと10万人。
「イエスと同時代人の言説であるところの(アレクサンドリアのフィロン)、“神と顔を合わせてまみえる”
」の意なんだよ、となったらいいのになぁぁ、つくづく思うぜよ・・
「メルキゼデク神権の回復は未だに・・ (たまWEB) 2023-03-31
」 https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/1793701379a2873fe5b825243d5c9660
シオンの回復の開始は、失われた北の十支族が帰還して、彼らと米国先住民が共に主体となってからで、異邦人の信仰者は彼らの指導に従っていくみたいな?!・・
「『地球の悪を焼き尽くしに“やがて来る者たち”とは帰還する失われた十部族(十支族)』説 2022-09-23
」
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/d47c92776916e376b851f3038fb1ad61
「『地球の悪を焼き尽くしに“やがて来る者たち”とは帰還する失われた十部族(十支族)』説 2022-09-23
」
逆かな。。
オリーブの木のたとえ
https://www.churchofjesuschrist.org/manual/book-of-mormon-gospel-doctrine-teachers-manual/lesson-13?lang=jpn
オリーブの木は年老いて枯れ始めるときに,根から新芽を出す。
それを接ぎ木して,刈り込むと,立派なオリーブの木に生長する。
このようにして,木の根は新しい木を生み出し,何千年にもわたって実りをもたらす。
ーーー
選民として選ばれたイスラエルはシナイ山で完全な福音を与えらえようとしたが、堕落と悔い改めを繰り返し、ついには背教し散らされてしまう。
そこで神様は異邦人に完全な福音与え養うことにした。
(根から新芽を出した)
末日には元祖イスラエルに接ぎ木して(ユダヤ人にも伝道して),刈り込むと,立派なオリーブの木に生長する。
元祖イスラエル→改宗した異邦人イスラエル→元祖イスラエルなオリーブの木が出来上がるというわけで。。。
結局、選民であるユダ人と異邦人に救いの条件の差はないのでしょうね。
異邦人イスラエルの末日聖徒も結局本家のパターンをなぞっているわけで、聖書もモルモン書も教義と聖約の物語も
多くの同じパターンの繰り返しですね。
」 84
究極、主の臨在を受けても、完全な栄光ではないというのがあって・・
「77 これらは、御子の臨在は受けるが、御父の完全は受けない者である。
」 76 が
説明しているにゃ。 月の栄光を受けてしまう限界、原因とは??・・
「18 それゆえ、わたしの造った豊かなものの中から取りながら、わたしの福音の律法に従って貧しい者や乏しい者に物を分け与えることをしない者は、悪人とともに、地獄で苦しみながら見上げるであろう。
」 104
「2 見よ、わたしはあなたがたに言う。各個人ではなく教会全体について語れば、わたしの民は戒めに背かなかったならば、今はもう贖われていたであろう。
3 しかし見よ、彼らはわたしが彼らの手に求めたことに従おうとせず、あらゆる悪に満ち、また聖徒としてふさわしく彼らの中の貧しい者や苦しんでいる者に持ち物を分け与えない。
4 また、日の栄えの王国の律法により求められている和合一致に従って結束していない。
5 日の栄えの王国の律法の諸原則によらなければ、シオンを築き上げることはできない。そうでなければ、わたしはシオンをわたしのもとに迎えることはできない。
6 そして、わたしの民は、たとえ苦しみを受けることによらなければならないとしても、従順を学ぶまで、必ず懲らしめを受けなければならない。
」 105
「主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし,思いを一つにし,義のうちに住んだからである。そして,彼らの中に貧しい者はいなかった。
」(モーセ7:18)
「2 そして第36年には、民はニーファイ人もレーマン人もともに皆、地の全面で主に帰依した。そして、彼らの中にはまったく争いがなく、論争もなく、皆、互いに公正に振る舞った。
3 また、彼らはすべてのものを共有したので、物持ちも貧しい者も、束縛された者も自由な者もなく、皆自由であり、天の賜物にあずかる者となった。
」 第4ニーファイ
そのように築き上げられたシオンの社会であれば、長子の教会の教会員と呼ばれるのでしょう。
かくして末日教会が、すんなりそのまま長子の教会へと移り変わることはないんでしょうね・・
“完全な英光”とおそらく同義とされる言葉に、“完全な福音”がありまして、
「8 しかし、異邦人の中の信仰心のない者は災いであると、父は言われる。彼らはこの地の面にやって来るにもかかわらず、イスラエルの家に属するわたしの民を散らすからである。そして、イスラエルの家に属するわたしの民は、彼らの中から追い出され、彼らに足で踏みつけられる。
9 父は異邦人を憐れみ、イスラエルの家に属するわたしの民を裁かれるので、まことに、まことに、あなたがたに言うが、これらの後、わたしはイスラエルの家に属するわたしの民が打たれ、苦しめられ、殺され、異邦人の中から追い出され、彼らに憎まれ、軽蔑の的となり、笑いぐさとなるようにする。
10 また父は、あなたがたに次のことを言うように、わたしに命じられた。『異邦人がわたしの福音に背いて罪を犯し、わたしの完全な福音を受け入れず、あらゆる国民、全地のあらゆる民にも増して高慢な心で高ぶり、あらゆる偽りと欺き、悪事、あらゆる偽善と殺人、偽善売教、みだらな行い、秘密の忌まわしい行いにふけるその日、もし彼らがそのようなことをすべて行い、わたしの完全な福音を受け入れなければ、見よ、わたしは彼らの中からわたしの完全な福音を取り去ろう』と、父は言われる。
11 『そのとき、わたしはかつてわたしの民、イスラエルの家に立てたわたしの聖約を思い出し、彼らにわたしの福音を伝えよう。
12 そして、おお、イスラエルの家よ、異邦人にはあなたがたを支配する権力がないことを、わたしはあなたがたに示そう。イスラエルの家よ、わたしはあなたがたに立てたわたしの聖約を思い出そう。そしてあなたがたは、わたしの完全な福音を知るようになるであろう。
13 しかし、もし異邦人が悔い改めて、わたしに立ち返るならば、見よ、彼らはわたしの民、イスラエルの家の中に数えられる』と、父は言われる。
14 『また、わたしはイスラエルの家に属するわたしの民が彼らの中を通り過ぎて、彼らを踏みにじることを許さない』と、父は言われる。
15 『しかし、もし彼らがわたしに立ち返らず、わたしの声に聞き従おうとしなければ、わたしは彼らが、すなわちわたしの民イスラエルの家が彼らの中を通り過ぎて、彼らを踏みにじることを許そう。彼らは塩気を失った塩のようで、もう何の役にも立たず、捨てられて、わたしの民イスラエルの家の足の下に踏みつけられるだけである。』
16 まことに、まことに、あなたがたに言う。父はわたしに、この地を受け継ぎとしてこの民に与えるようにと命じられた。
」 第3ニーファイ16
異邦人には悔い改めの条件付きでということだにゃ、なぜなら、異邦人は結局完全な福音を受け入れず、シオンを築かずという罪の故ということなんでしょう。
これは、かつての「彼らは荒れ野にいる間神の安息に入れないと誓った」にたいへん似通っているんでは??!!
https://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewBook?id=0
このリンクは偽預言者オムナイのMacのファイルのありかです。。
アルマ34:32、33
英文
32 For behold, this life is the time for men to prepare to meet God; yea, behold the day of this life is the day for men to perform their labors.
33 And now, as I said unto you before, as ye have had so many witnesses, therefore, I beseech of you that ye do not procrastinate the day of your repentance until the end; for after this day of life, which is given us to prepare for eternity,
behold, if we do not improve our time while in this life, then cometh the night of darkness wherein there can be no labor performed.
DeepL訳
32 見よ、現世は人が神に会うための準備の時であり、また見よ、現世の日は人がその労苦を果たすべき日である。
33 さて、前にも言ったように、またあなたがたには多くの証人がいるのだから、あなたがたは、悔い改める日を最後まで先延ばしにしないように、わたしはお願いする、
見よ、もしわたしたちが現世で時間を改善しないなら、何の労働もできない暗闇の夜がやってくるのである。
明治訳
三二 現世は人々が神に逢ふ用意を爲すべき時期なり。
現世に於ける生涯は人々が各働を遂ぐべき時期なり。
三三 我が曩(さき)に汝等に語りし如く、汝等に證(あかし)を立てし者(もの)斯斗(かばかり)多き故、
我は汝等が臨終の時迄悔改を延引(えんいん)せざらんことを懇(ねんごろ)に勸(すす)む。
永遠の來世に行く準備の爲し得らるゝやう我等に與へらるゝ現世に於ける生涯の光陰を有益に用ひずば
後には夜の如き暗闇の境涯來り、其境涯に在りては何の働も爲し得まじ。
抜粋: モルモン經 第二卷
https://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewBook?id=0
昭和訳
32現世は、人間が神に逢う用意をしなくてはならぬ時期である。現世の生涯は人間が各々働きを遂行せねばならぬ時期である。
33私が前にあなたたちに話したように、あなたたちに証を立てた人々は非常に多いので、
私はあなたたちがこの世を去る時まで悔改めを引き延さないようにねんごろにすすめる。
永遠の来世に行く準備ができるように私たちに与えられている現世の生涯の光陰を有益に用いなかったならば、
後から夜のような暗やみの生涯がやってきてそこへ入ったら何の働きもできるはずがない。
平成訳
32 見よ,現世は人が神にお会する用意をする時期である。
まことに,現世の生涯は,人が各自の務めを果す時期である。
33 さて,前に話したように,あなたがたにはすでに非常に多くの証拠があるので,
最後まで悔くい改めの日を引延すことのないように切に勧める。
永遠に備えるためにわたしたちに与えられている現世の生涯を
終ると,
見よ,もしわたしたちが現世にいる間に時間を有益に用いなければ,
後から暗闇の夜がやって来くる。そして,そこでは何の働きもできない。
ーーー
DeepL;あなたがたには多くの証人がいるのだから、
明治:汝等に證(あかし)を立てし者(もの)斯斗(かばかり)多き故、
昭和:あなたたちに証を立てた人々は非常に多いので、
と多くの証人。。人に焦点が当たっている表現なのに
平成訳では「非常に多くの証拠があるので」と事象的になっているのが興味をひかれました。
探すと色々表現の違いありそうですね。
「8 心の清い人々は皆、幸いである。彼らは神を見るからである。」 JSTマタイ5
末日聖典で
「1 まことに、主はこのように言う。自分の罪を捨て、わたしのもとに来て、わたしの名を呼び、わたしの声に従い、わたしの戒めを守る者は皆、わたしの顔を見て、わたしがいることを知るであろう。
2 また、わたしが世に来るすべての人を照らすまことの光であること、
3 また、わたしが父におり、父がわたしにおられ、父とわたしが一つであることを知るであろう。
」 93
「10 さらにまた、まことに、わたしはあなたがたに言う。次に述べることはあなたがたの特権であり、またこの務めに聖任されたあなたがたにわたしが与える約束である。すなわち、あなたがたがねたみと恐れを除き去り、また、まだ十分にへりくだっていないのでわたしの前にへりくだるならば、幕は裂け、あなたがたはわたしを見て、わたしがいることを知るであろう。ただし、肉の思いや、生まれながらの心ではなく、霊の心で見るであろう。
11 人は神の御霊によって変えられないかぎり、いまだかつて肉体において神を見た者はいない。
12 生まれながらの人はだれも神の臨在に堪えられない。肉の思いに従う者もそうである。
13 あなたがたは今は神の臨在にも、天使たちの訪れにも堪えることができない。それゆえ、あなたがたが完全になるまで忍耐し続けなさい。
」 67
「38 また、あなたがたは忍耐することによって自分の霊を保つために、常に主の顔を求めなさい。そうすれば、あなたがたは永遠の命を得るであろう。
39 人々がわたしの永遠の福音に召され、永遠の聖約を交わすとき、彼らは地の塩、また人の味と見なされる。
40 彼らは人の味となるように召される。それゆえ、もし地の塩がその塩気を失ったら、見よ、もはや何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。
」 101
「19 また、この大神権は福音をつかさどり、王国の奥義の鍵、すなわち神の知識の鍵を持つ。
20 それゆえ、この神権の儀式によって神性の力が現れる。
21 また、神権の儀式と権能がなくては、肉体を持つ人間に神性の力は現れない。
22 これがなくては、だれも神、すなわち父の御顔を見て、なお生きていることはできないからである。
23 さて、このことを、モーセは荒れ野の中でイスラエルの子らに分かりやすく教え、その民が神の顔を見ることができるように、彼らを聖めようと熱心に努めた。
24 しかし、彼らは心をかたくなにし、神の臨在に堪えることができなかった。そのため、主の怒りは彼らに向かって燃え、主は激しく怒って、彼らは荒れ野にいる間神の安息に入れないと誓った。この安息とは、主の完全な栄光のことである。
」 84
「32 見よ、現世は人が神にお会いする用意をする時期である。まことに、現世の生涯は、人が各自の務めを果たす時期である。
」 アルマ37章
この原参照蘭に、その教義と聖約84:23とかって挙げられてほしいもんだな・・
基本、お会いをする用意する イコール、主の顔を求めることなんだと・・そうでないと、かたくなとなって塩気を失い、101章のように今日に至るもシオン回復は実現されず・・古代のモーセの民の轍を踏んでしまうことに・・
各自各々方、将来のシオンにふさわしくあるには、主の顔を求めてる状態の信仰は必須ということでしょう・・
「53 アダムは死ぬ3年前に、すべて大祭司であったセツ、エノス、カイナン、マハラレル、ヤレド、エノク、およびメトセラを、義にかなった子孫の残りとともにアダム・オンダイ・アーマンの谷に呼び集め、そこで彼らに最後の祝福を授けた。
54 すると、主が彼らに現れた。(“And the Lord appeared unto them”)彼らは立ち上がってアダムをほめたたえ、彼をミカエル、君、天使長と呼んだ。
55 また、主はアダムに慰めを与え、そして言った。「わたしはあなたを立てて首長とした。多くの民族があなたから出るであろう。そして、あなたはとこしえに彼らを治める君である。」
56 そこで、アダムは会衆の中に立ち上がった。彼は老齢で腰が曲がっていたにもかかわらず、聖霊に満たされ、最後の世代に至るまでその子孫に起こることを預言した。
57 これらのことはすべてエノクの書に記されており、定められたときに証されるであろう。
」 107
ジョセフの解説によれば、アダムがアダム・オンダイ・アーマン(神の御前にいるアダムの意)の谷に祝福すべく彼らを呼びよせたのは、彼らを神の御前に連れてきたいという一心であったためと・・
“This is why Adam blessed his posterity; he wanted to bring them into the presence of God. ”
そして、彼の願いは受け入れられ、主は彼らに御姿を現された(彼らは主の臨在を受けた)・・
「神の臨在に堪えることができなかった」 英語 “they hardened their hearts and could not endure his presence;”
「19 すなわち、天の王国の奥義を受ける特権を持ち、天が彼らに開かれ、長子の教会の総集いと親しく交わり、また父なる神と新しい聖約の仲保者イエスの親しい交わりと臨在とを享受することである。
(“to enjoy the communion and presence of God the Father, and Jesus the mediator of the new covenant”)
」 107
「20 しかし、悪人のところへは、御子は行かれなかった。また、神を敬わない者や、肉体にあるときに自らを汚して悔い改めなかった者の中では、御子の声は発せられず、
21 昔の預言者たちの証と警告を拒んだ不従順な者は、御子の臨在を目にすることも、御子の顔を仰ぎ見ることもなかった。
(21 Neither did the rebellious who rejected the testimonies and the warnings of the ancient prophets behold his presence, nor look upon his face.)
」 138
>モルモン書は基本、ヤコブがイスラエルとなったような、神と顔と顔を合わせて語り合った人達の手になるもので、その偉大さ・重要さは計り知れない・・
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-seen-God.html
聖書は、主イエス・キリスト以外に神を見たことのある人はいないと言っています(ヨハネ1:18)。
出エジプト記33:20で、神は宣言されています。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。
人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
これらの聖書の箇所は、人々が神を「見た」と説明されているほかの箇所と相反するように見えます。
たとえば、出エジプト記33:19-23はモーセが神と「顔と顔をあわせて」話したと説明されています。
この場合「顔と顔をあわせて」という言い回しは、神とモーセが非常に近しいコミュニケーションを持っていたことを示す、比喩的な表現です。
神とモーセは、まるでふたりの人が近しく会話しているようにお互いと話したのです。
創世記32:30では、ヤコブは神が天使として現れたのを見ました。彼は本当に神を見たわけではありません。
たしかに、神を「見る」ことができ、たくさんの人々が神を「見」ました。それと同時に、だれも神が全てのご栄光のうちに現れるのを見てはいないのです。
神の幻を見た人々、神のイメージを見た人々、神の現れを見た人々はいますが、神ご自身のすべての完全性のうちに神を見た人はひとりもいないのです(出エジプト記33:20)。
ーーーー
>今日、そういった経験のない御仁たちが、教会指導者として預言者、聖見者と騙られてる、騙ってしまってる状況は、
ジョセフ・スミスを含めた末日の生ける預言者達は比喩的意味で「顔と顔をあわせて」神様に謁見されていると思います。
なので末日聖徒の未来は前途洋々、明るい未来が広がっていいると確信しています。
全く心配ない。
むむ。なるほど(笑すぎて僅な腹筋が痛いw)
Deepleしてみました。
To be particular or not to be particular is to be particular, not to not be particular.
それをまた、Deeple
こだわること、こだわらないことは、こだわることであり、こだわらないことではありません。
ーーー
さすがのAI翻訳も師匠には追随できなかったようです。
>Give me a(エイ) book = (本ならなんでもいいから1冊ちょうだい)
どっちでもaじゃない?
>師匠と同じくアバウトな人間ですけど、・・・
これは明らかに違います。
私はアバウトではなく人間でも有りません。
正確に表現すると、キッチリした豚です。
アバウトな豚なら、>神聖な聖句 (豚) に書いたようなことは考えないです。
私は、「聖句の一言一句にこだわるべきか?こだわるべきでないのか?」についてこだわってます。
こだわるかこだわらないかにこだわるのは、こだわってるのであって、こだわって無いのではありません。
こだわりがないのなら、こだわってるかこだわって無いかなどにこだわりませんからね。
コメントありがとうございます。当時の状況 - - 各自の力量、経験、信仰 etc. - - に応じて皆出来る限りのことをしたと思っています。
協力、目的のため心の一致が見られ、振り返ってみて良い思い出になっています。
現在私たちが使っている「モルモン書」の1991年〜1995年の改訂作業について教えてくださりありがとうございました。
翻訳課の改訂原稿作成に当たられた黄木兄弟他、校閲を担当された3名の方々は当時の日本の末日聖徒の中で最も有能で相応しい方々であったことがわかり嬉しく思っています。
今日の(6月2日)の日経新聞の小説の中にこのような一文がありました。
「翻訳すること、これ単に英語から日本語に語彙を移すのみにあらず。
新しい訳語の発明・発見は、即ち新しき”考え”の導入に等しい。
例えば”workhouse"にはどのような漢語、日本語を当てるべきか・・・」
教会独自の専門用語・文(英単語、英文)を適切な日本語に訳することは翻訳者のその単語・文章に対する理解と日本語の大変な力量が求められると思います。
さらに、聖書(日本語訳)との整合性も考慮しなければならず大変だったと思います。
今後、若い人たちの中から神様から与えられた様々な賜物を用いて、「モルモン書」「教義と聖約」への理解がさらに深まり、それに基づいて、新しい翻訳がなされることに希望を持っています。
NJさんの様々な試みがそのための先駆けとなることを願っています。
そのころは、Chat GPTをはじめとする「AI」が大きな助けになるのかもしれませんね。
今日、そういった経験のない御仁たちが、教会指導者として預言者、聖見者と騙られてる、騙ってしまってる状況は、いずれ正されざるを得ないんではないかと・・
末日聖徒教会が終わる時、すんなり長子の教会へと移行することはないんでしょう・・
新しい派遣がある→新しい発見がある
訂正します。
>ちょっとぐらい間違ってても気にしない事にしよう。
ありがとうございます!
関係あるような、ないような話なんですが。
昔、英会話クラス初級に出ていた時に、
一本のボールペンを生徒の前にかざして、
ディス イズ エィ ペン(リピートアフターミイ)と。。
生徒の皆さん、ユタ州の訛り?と戸惑って小声で
”ディス イズ あ ペン”と。
宣教師:???ディス イズ エィ! ペン
見かねたベテラン求道者が日本では”ディス イズ あ ペン”と教えられてるので。。
宣教師:顔を真っ赤にしてノー・ディス イズ エィ! ペン!
その頃は事なかれ主義だったオムナイ。A(エー)だからかな?
とりあえず、
エィでいきましょ。とベテラン会員よろしくその場をおさめたのでした。
ちょっと調べました。
https://egoroku.ti-da.net/e4116212.html
みなさん、中学生の頃、英語の授業で
「This is a pen」(ディス イズ ”ア” ペン」
って習いましたよね?
(実際にThis is a pen=これはペンです。なんて日本語でも使わないですが。。。。。わかりやすい例としてここでは使わせてもらいますね)
しかし!! 「This is a pen」を(ディス イズ ”エイ” ペン)
とネイティブが発音しているの聞いたことありません?
「”エイ”?なにそれ?
”ア” じゃないの?」
と、疑問に思ったことある方多いと思います。
ということで、調べました!!!
「エイ」と発音するのは、いわゆる「1つ」だということ強調したい時に使うらしいです!
Give me a (ア) book = (本ををちょうだい)
Give me a(エイ) book = (本ならなんでもいいから1冊ちょうだい)
という、ちょっとしたニュアンスの違いです!
多くのネイティブは無意識に使い分けているので、「何が違うの?」と聞いたら、「どっちも同じ」と返ってくると思います( 実際にそう言われましたので )
大きな違いはないので、そんなに気にすることでもないですね、きっと
ーーーー
その宣教にしてみれば、なんで日本人に発音あれこれ言われなあかんねん。。と憤慨したことでしょう。
がA(エィ)と発音したのはまさに1本のボールペンを強調した場面でした。
モルモン書でも文字での表現は限界があるとあります。
師匠と同じくアバウトな人間ですけど、微妙な翻訳のキビというのもあるんでしょうね。
宗教をやろうかって人は、「何が真理なのか?!!」等と言う事を大上段に掲げてしまうので、「聖句」についてもうるさくなってしまう。
そして
>御霊を受けられるよう、 御霊が共にあるよう、 この違いの意義は?? 何か意図が??
等と言う疑問のブラックホールにはまってしまう。
よく考えてみると、「受けられるように」も「共にあるように」もそう大した違いはない。
目糞と鼻くそほどの違いもないって思いませんか?
結局のところ、人間の意志や思考を伝えるのには「言葉」と言う媒介が必要なので、「言葉」によって内容が変質してしまうのは避けられない。
例えば花の美しさを正確に言い表すことが出来るでしょうか? 私は不可能だと思う。
神の意志を正確に表現することも不可能だと思う。
そう考えると、バプテスマや聖餐の言葉を一銀一句間違えない様に唱えるって言うのは、全く無意味なのだと思う。
仮に、今の聖餐の言葉が正しかったとすると。
以前に使って居た聖餐の言葉は、間違っていたことに成る。
以前の聖餐の儀式はすべて無効なのか?
バプテスマもやり直さないといけないのか?
いや、どちらも有効なのは言うまでもない。
これからは、ちょっとぐらい間違ってても気にしない事にしよう。
気は心である。
公式ホームページから。
https://news-jp.churchofjesuschrist.org/article/20211112-scripture-revised-japanese?imageView=5Scriptures.jpg
ーー明治訳ーー
末日聖典の日本語出版は1909年,アルマ・O・テイラー訳『モルモン經』に始まった。
1905年,テーラーは第3代日本伝道部会長の責任を受け,モルモン書の翻訳に着手する。
初稿は18か月で完成し,さらに18か月にわたって丁寧に推敲を重ねた。(この原稿はどこへ?最初の口語訳?)
夏目漱石がテーラーに紹介した新進気鋭の文学者・生田長江に依頼された。
心血を注いだ翻訳は完成し,『モルモン經』と題して1909年10月に刊行,特別装丁本が皇室と政府高官に献上された。
ーーー昭和訳ーーー
ボイド・K・パッカーらによってバプテスマを受けた佐藤龍猪は,モルモン書の改訳を依頼される。
神の言葉や啓示は文語体で格調を保ち,それ以外は口語体にするという方針で翻訳した。この『モルモン経』は1957年5月に刊行。
ーー平成訳ーー
1990年代,再び末日聖典の改訳プロジェクトが始まり,改訂版『モルモン書』『教義と聖約』『高価なる真珠』が1995年に発刊される。
この時の改訂では末日聖典の全編が口語体となった
当時普及し始めたパソコンを用い,英語から日本語への用語対照が正確になされた。
翻訳文においては,日本語として自然な文章にするため意訳されていた部分を,
たとえ流れが多少ぎこちなくなっても原文に忠実に翻訳し直すという方針が執られた。
ーーー
なるほど、平成訳が少し日本語的にぎこちないのは感じていましたが、そういう理由だったのですね。
モルモン書が預言者モルモンがまとめたから。という以上の意味があるかもだとか。
https://www.youtube.com/@DontMissThis
私たちは、毎週新しいビデオ、ニュースレター、スタディガイドを備えた聖句学習サプリメントです!
私たちのビデオのほとんどは、「Come Follow Me」カリキュラムの学習スケジュールに従っています。
ニュースレターとビデオは、毎週月曜日に配信されます!
ビデオを見て、自分自身で勉強したり、教える準備をしたり、グループや家族で一緒に見たりしています。
神様を愛し、互いに愛し合うために、これらのビデオがあなたを導いてくれることを願っています。
無料のニュースレターには、その聖句を子供やティーンに教えたり、夫婦で勉強したりするためのヒントやアイデアが掲載されています。
あなたがここにいることをとても嬉しく思います!
ーーーー関連書籍もあります。ーーー
Don't Miss This in the Book of Mormon: Exploring One Verse from Each Chapter
あなたは以前にモルモン書を読んだことがありますが、おそらく見落とされがちですが、短くて力強い聖句を見逃しているかもしれません。
今年は、聖典への愛が伝染するエミリー・ベル・フリーマンとデビッド・バトラーと一緒に、各章の 1 節の重要性を探ります。
短い信心スタイルのレッスンに加えて、彼らの招待状は、モルモン書のより有意義な個人的な研究と、その教えについての家族や友人との活発な議論にあなたを導きます。
独学で勉強しながら、自分だけの「これは見逃せない」聖句を探すのも楽しいかもしれません。
さっと読んで毎日共有できるほど短いので、モルモン書の教えと真理がいかに完全に当てはまり、今日の生活を豊かにしているかを簡単に再発見できるでしょう。
ーーー
とかく聖典研究は一方向な独学に走りがち。
温故知新。先人な賢人たちから学んでこそ新しい派遣があるというもの。
是非!お見逃しなく。
議事録なり改訳一覧を示せって話
あまりに頻繁に改訂するので英語版読んだ方がまだマシかな、と思ったね。
njなんて教会の詐欺行為の実行犯くらいにしか思っとらん。
>異邦人(の教会)は、ニーファイ人がそうであったよう滅んで・・
勝者の歴史って言葉がありますが、聖書やモルモン書は敗者の歴史なんですよね。
同じような罪深い行為を繰り返す人類。
失楽園、ノアの洪水、バビロン捕囚。
ついには神様ブチ切れて。。でも可哀想だからと救いの手を。。
はたして悲劇のサイクルから抜け出す策はあるのか?
無いんです。だから終末は週末のように必ず来ると。
教師:「バプテスマの時、オムナイ兄弟は、神様とある約束をしたはずですが覚えていますか?」
少年オムナイ:「え?何か約束しましたっけ?」
・・われはイエス・キリストより権能を受けたれば天父と御子と
・・に由りて汝にバプテスマを施す、アーメン。。。なにも約束せんかったと思う。
教師:按手礼の時の言葉を思い出してください。
少年オムナイ:「汝聖霊を受けよ!」ですか?
教師:そうです!聖霊を伴侶とすることはバプテスマの時だけの
約束ではありません。
実は毎週。。。云々カンヌン。
と素晴らしいレッスンを受け、セミナリーの先生の時も何度となく
教えてきました。
シンプルして奥深い教義ですね。
たまたまオムナイさん他、相方にしてあれこれ言ってるだけぇぇ・・
んが、究極的モルモン書メッセージをたまWEBふうとなると・・コワーッ・・
異邦人(の教会)は、ニーファイ人がそうであったよう滅んで・・
そのへんのところをねぇぇ・・
たまWEB訳Book of mormonとかチャレンジしたらいかがですか?
日本語のモルモン書にもバリエーションがあって良い。
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聖餐の祈りでは、動詞用法で御座んしたにゃ、
「3〈事が〉〈…を〉示す,〈…の〉証拠となる.
自動詞
〔+前+(代)名〕
1a〈人が〉(証拠をあげて)〔…に有利な〕証言をする 〔for〕; 〔…に不利な〕証言をする 〔against〕.
witness against [for] an accused person 被告に不利[有利]な証言をする.
b〈人が〉〔…の〕証言をする 〔to〕.
witness to a person's good conduct 人の善行の証言をする.
2〈事が〉〔…を〕証明する; 〔…の〕証拠となる 〔to〕.
These acts witness to his essential goodness. これらの行為は彼が本質的に善良であることを物語っている.
【語源】
古期英語「知っていること」の意
」 https://ejje.weblio.jp/content/witness
ということで、聖餐の祈りでは、証人となるといった意味にはならずですかぁぁ・・あなたに証明してという訳が正しいですかぁぁ・・
“永遠の父なる神よ”は、
“おお、神よ、永遠の父よ”
だにゃ・・
やっぱ、証人になるというのを入れて改訳したほうがよさげ・・これまで欠落させたてことを悔い改めて・・
パン
おお、神よ、永遠の父よ、わたしたちは御子イエス・キリストの御名によってあなたに、このパンを頂くすべての人々のために、これを祝福し、聖めてくださるよう願い求めます。すなわち、御子の体の記念にこれを頂いて、おお、神よ、永遠の父よ、あなたの証人となれますように、また、進んで御子の御名を受け、いつも御子を覚え、御子が与えてくださった戒めを守り、いつも御子の御霊が共にましますように、アーメン。
水
永遠の父なる神よ、わたしたちは御子イエス・キリストの御名によってあなたに、この水を頂くすべての人々のために、これを祝福し、聖めてくださるよう願い求めます。すなわち、この人々のために流された御子の血の記念にこれを頂いて、おお、神よ、永遠の父よ、あなたの証人となれますように、また、いつも御子を覚え、御子の御霊が共にましますように、アーメン。
この証人となる、神の証し人になるというのは、モーサヤ18章にみえるだにゃ・・これが日本語聖餐の祈りに欠落というのは、至極残念というか誤訳というか欠陥というか・・
「08 そして、アルマは言った。「見よ、ここにモルモンの泉がある。(この泉はこのように呼ばれていた。)あなたがたは神の羊の群れに入って、神の民と呼ばれたいと願っており、重荷が軽くなるように、互いに重荷を負い合うことを望み、
09 また、悲しむ者とともに悲しみ、慰めの要る者を慰めることを望み、また神に贖われ、第1の復活にあずかる人々とともに数えられて永遠の命を得られるように、いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、死に至るまでも神の証人になることを望んでいる。
10 まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたが心からこれを望んでいるのであれば、主からますます豊かに御霊を注いでいただけるように、主に仕えて主の戒めを守るという聖約を主と交わした証拠として、主の御名によってバプテスマを受けるのに何の差し支えがあろうか。」
11 人々はこの言葉を聞くと手をたたいて喜び、「それこそわたしたちが心から望んでいることです」と叫んだ。
」モーサヤ18
ldslivingのサイトに関連記事ありました。
https://www.ldsliving.com/john-bytheway-a-line-by-line-look-at-the-sacrament-prayers-that-will-change-how-you-understand-them/s/86834
モロナイが聖餐の祈りを版に刻んだことは、聖餐が彼らの崇拝の一部ではなく、必須の部分であったことの証です。
モロナイが霊感を受けて聖餐の祈りを取り入れたことは、私たちにそれぞれの祈りをより詳しく調べ、それぞれのフレーズの深さと意味を探す機会を与えてくれます。
主にとって何が最も重要かを考えるとき、私たちは主が私たちに繰り返すよう求められたことについて深く考えるかもしれません。
わたしたちはバプテスマを受けるのは一度だけですが,バプテスマの聖約への再誓約は毎週聖餐を通して行われます。
・・・
モロナイが記録したこれらの祈りの中で、それほど重要で時代を超越したものは何でしょうか?
「おお神よ、永遠の父よ。」何か面白いことを聞きたいですか?キング・ジェームス聖書の中で「永遠の父」という言葉が何回出てくると思いますか? ゼロ。一度もありません。・・・
現代の私たち一人一人にとって、そして彼の時代のモロナイ個人にとって、私たちの孤独感は、常に私たちとともにいるという神の約束によって答えられます。
おそらくモロナイは、沖縄のニール・A・マクスウェル長老のように、自分自身に聖餐を授け、約束された主との交わりを感じたのでしょう。・・・
ーーーー
アルマ書ではゾーラム人の決まり文句の祈りを批判的に書いてる部分がありますが、ここでは「決まり文句の祈り」が出てきます。
逆に重要さが増すのでしょうか?
儀式における「決まり文句」はアロン神権に関連があるのに。。
アロンな儀式では一言一句正確に言わなければならない。
メルキゼデクな祈りや儀式では御霊に促されるままな言葉で行われますね。
>御霊を受けられるよう、 御霊が共にあるよう、 この違いの意義は?? 何か意図が??
色々、興味深い。
モロナイ4:3
O God, the Eternal Father, we ask thee in the name of thy Son, Jesus Christ, to bless and sanctify this bread to the souls of all those who partake of it; that they may eat in remembrance of the body of thy Son, and witness unto thee, O God, the Eternal Father, that they are willing to take upon them the name of thy Son, and always remember him, and keep his commandments which he hath given them, that they may always have his eSpirit to be with them. Amen.
(平成訳)
「永遠の父なる神よ,わたしたちは御子イエス・キリストの御み名によってあなたに願ねがい求もとめます。
このパンを頂ただくすべての人々が,御子の体の記念にこれを頂けるように,
また,進んで御子の御名を受うけ,いつも御子を覚え,御子が与えてくださった戒めを守ることを,永遠の父なる神よ,あなたに証明して,
いつも御子の御霊を受うけられるように,このパンを祝福ふくし,聖めてください。アーメン。」
(DeepL)
永遠の父なる神よ、御子イエス・キリストの御名において、このパンを口にするすべての者の魂を祝福し、
聖別してくださいますようお願いいたします。
彼らが御子の体を思い起こしながら食べ、御子の名を身にまとい、常に御子を思い起こし、
御子が彼らに与えた戒めを守り、その霊が常に彼らとともにあるようにしたいと望んでいることを永遠の父なる神よ、
あなたに証します。アーメン。
(Google)
おお、永遠の父なる神よ、私たちはあなたの御子イエス・キリストの御名において、
このパンを食べるすべての人々の魂にこのパンを祝福し、神聖なものとしてくださるようお願いします。
それは、彼らがあなたの御子の体を思い出して食事をし、
永遠の父なる神よ、彼らが喜んであなたの御子の御名を受け入れ、常に御子のことを覚えていて、御子の戒めを守ることをあなたに証しするためです。
彼らが常に神のスピリットを持ち続けることができるように、神は彼らに与えたのです。アーメン。
(昭和訳)
「永遠の父なる神よ、われら御子イエス・キリストの御名によりて願いたてまつる。
ここにこのパンをいただくすべての人々が、御子のからだの記念にこれをいただくよう、
また喜びて御子の御名を受け、御子を常に忘れず、またその下したまえる誡めを守ることを
永遠の父なる神の御前に証明し、かくして御子の「みたま」常に一同と共にましますよう、このパンを祝いきよめたまえ。アーメン」と。
(明治訳)
“永遠の天父なる神よ、我等御子イエス・キリストの御名に託て願ひ奉つらくは、
凡て此パンを與り⻝ふ人々が御子の體の記念に之を⻝ふことを得るやう、
又常に御子の御靈を己等と共に在らしめん爲、御子の御名を甘じ受けて常に御子を記念し、
其下し給ひし誡戒を守るを爾に誓約することを得るやう、此パンを彼等の心の爲に祝ひ淨め給はんことを、アメン』と。”
---
AI翻訳中々ですね。
2 キリストは彼らの名を呼んで言われた。「わたしの名によって熱烈に祈って父に請い願いなさい。あなたがたはこのように行った後に、あなたがたが手を置く者に聖霊を授ける力を持つであろう。わたしの名によって聖霊を授けなさい。わたしの使徒たちはこのように行うからである。」
3 キリストは初めてその御姿を現されたとき、彼らにこれらの御言葉を語られた。群衆はこれを聞かず、弟子たちだけがこれを聞いた。そして、彼らが手を置いたすべての者に聖霊が降られた。
」
授けることと受けることは対になってるんでしょう・・
で、教会員としての聖霊への理解は、バプテスマ・確認時での、“受ける”から、その後は、聖餐式という更新時での、“共にいますように”へと変わっていくというのが正解かなぁぁ・・
直感的に言うと、まずまずの人選じゃないですか?
Kさんは知りませんが、他の二人は、客観的に対応が出来る人かと思います。
良い悪い両方の意味で大人の対応が出来る人。
別件
>御霊を受けられるよう、 御霊が共にあるよう、 この違いの意義は?? 何か意図が??
モロナイ書2章2節との関連ですか??
バプテスマの時に「聖霊を授ける」ので、聖餐の時も「聖霊を受ける」になるのかと??
ほんま、知らんけど・・・。
①英文 「that they may (always) have his Spirit to be with them」(主の御霊が彼らと共に(いつも)ありますように といった訳に・・
②佐藤龍猪訳では、“御子の御霊が(常に)一同と共にましますよう・・
③現行(96年の改訳以降) ・・ “御子の御霊を受けられるように・・
“御霊を受けられるように”だと、状態的には、各個人が別々に、独立した状態でその都度その都度受けれるといった感じ・・
英文だと、“御霊”が聖餐受ける人たちと共にあるよう、つないでいるよう?!慰め主としての伴侶の働きがあるよう?・・みたいな・・
“to be with them” が“受ける”では消えてしまっている・・
貴重な投稿を読めて感謝です。
>暫くは上の情報は,そっと読んだ方の心に留めて頂ければと希望致します。
承知いたしました。
明治のモルモン経(文語体)を読むと、夏目漱石が紹介した生田長江(ゲーテ詩集などを翻訳)さんが
実質翻訳したというだけあって朗々として素晴らしい。
昭和のモルモン経はそれを下敷きにして口語にしたものという印象を受けました。
実質平成版が最初の口語訳ですかね。
>用語上の擦り合わせ例 (カッコ内は昭和訳):
>エバ(イブ)
明治訳ではエバ
>ベニヤミン(ベンジャミン)
明治訳ではベンジャミン
同時期の文語訳聖書ではベニヤミン
人名の翻訳も様々な思索が見られて興味深いですね。
末日聖徒イエス・キリスト教会ももっと公けの性格の情報は公開してよいと思います。昔は聖徒の道に佐藤龍猪による改訂の次第や内容が掲載されていました。
私の他の校閲者ふたりは、潟沼誠二、高木信二兄弟でした。高木兄弟が教義と聖約・高価な真珠を担当し、潟沼兄弟が日本語の面でBofM, D&C/PofGP の訳文を点検されました。翻訳課の改訂原稿作成は黄木信(王木信)氏でした。
(コメント欄はグーグル検索にかからないので、人名をこちらに記しました。)
暫くは上の情報は,そっと読んだ方の心に留めて頂ければと希望致します。
このような記事を書いてくださり恐縮です。
やはり時間のかかる作業だったのですね。
また翻訳の難しさが垣間見えた気がします。
そもそも人の言語は不完全なもの、人によって違った理解が
あったりすることを考慮すれば、読む人の能力だけに
頼った理解では、複数の人の間での理解の一致に至ることは
難しいと思います。
しかしこの不完全さは、個人に対する聖霊の訪れによって
補われているように思います。それこそが聖霊が等しく
人に遣わされている一つの理由であるように思います。
天父が「人をかたより見ない御方」という前提があれば、
真理を求めているある人には聖霊を遣わして真理を告げるが、
真理を求めている別の人には聖霊を遣わして真理を告げることは
しない、という扱いがなされることは無いように思います。
差があるとすれば、個人のかたくなさ柔和さとタイミングでしょうか。
インスティテュート冬期講座でモルモン書の翻訳は
どなたによって行われたのかという質問に答えてくださら
なかった方は、日本の教会の内部事情を多く知っておられる
からこそ、質問しました。
個人名を挙げなくとも、「管理本部の翻訳課で作成した原稿を
特に専門的な知識を持つ識者である会員数人が推敲した」
と言ってくださればよいのに、そのときははぐらかされて
しまいました。
改訂当時の状況と、その後の最新の改訂の時期から言って、
何かおかしな方に話が進んで改訂に至ったのか、と想像していました。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。