[タイトルの石川立(りつ)氏は同志社大学神学部教授、春日いづみ氏は歌人、日本語担当翻訳者]
5月11日(土)カトリック大阪司教区のセンター聖堂で行なわれた対談「詩文の魅力を語る」に出席した。昨年末出版された新しい日本語訳聖書について、翻訳に携わった担当者から興味ある話を直接聞くことができて、大変興味深かった。これまでの投稿記事と重なるところもあるかと思うが、概要を記したいと思う。
まず今回の翻訳は、礼拝に適した - - 朗読を聞いて分かる格調のある - - 訳を目指している。このように目的に沿った翻訳はスコポス理論(スコポスσκοπόςはギリシャ語で「目的、目標、役割」)に基づいた翻訳である。それで、会衆が聞いて味わい、知らず知らずのうちに身に付いていくような、訳文の文学性が重んじられることとなった。
[日本会議通訳者協会の頁より]
先行する新共同訳が、米言語学者ナイダの動的等価を目指す考えに沿って解りやすさを求めていたのとは、方針が異なっている。説明的になる傾向を抑えて、信徒を対象とした翻訳を目指している。
そして翻訳の進め方が、初めから原語の翻訳者と日本語担当者がチームとなって進める体制を取り、早い時点から調整が図られた。率直に遠慮なく検討がなされたという。これまでは原語担当者初動で、聖書学者の独壇場であった。(訳語が決まってから日本語担当者が取り組んだ)。今回の大きな特徴であった。
新しい翻訳の特徴を具体的に見ていきたい。まず1) 必要以上の敬語を使わない、2) 代名詞も不必要なものは除く、3) 同音異義語は紛らわしくならないように配慮する、という方針が取られた。
日本語として良ければ、古い訳語も用いられた。例、「さいわい」(「さきわい」からきた。詩篇1:1)、「汀(みぎわ)」(同23:2)、「奇(く)しき業」(同145:5)など。 なお、「おまえ」は神が人に語りかける時に使われていたが、「あなた」に変えられた。「はしため」は「仕え女(め)」に。
今回の翻訳で最大の課題は、「重い皮膚病」(KJVでは leprosy, ハンセン病)とされていた語をどう訳すかということであった。ツァラアト(Heb. צָרַעַת )といった音訳ではなく、必ず日本語にという考えで臨み、代案が多数出されたが最終的に「規定の病い」(レビ13:3)とされることになった。
またギリシャ語ピスティス・クリストゥ πίστις Χριστοΰ は、「キリストへの信仰」と訳されてきたが、この語は「キリストの真実」をも意味しており、ロマ3:22, ガラ2:16, エフェ3:12, フィリ3:9ではその訳が充てられた。
末日聖徒もこの共同訳 (私は「JBS共同訳」と略称している) を参照して、ますます聖書に親しみ理解を深めていくことができればと願っている。
当ブログ参考記事
・2018.4.19 聖書協会共同訳の特徴 ・・飯謙氏の講演より
・2015.4.19 新共同訳の次の聖書 - - 講演会から
・2015.10.17 信仰義認論に変化の可能性?その行方 I pistis Christou について
・2015.10.28 信仰義認論に変化の可能性?その行方 II 同
韻を踏んだキャッチーなコピーですね。
https://www.bible.or.jp/contents/soc/pdf/kondankai2019.pdf
東京でも5/24に教文館でありますね。
大阪の半分以下の規模ですが、関西の方が聖書に興味のある方が多いのでしょうか。
確か、共同訳→新共同訳だと思ったら旧共同訳は新約だけだったようですね。
いずれにしても最新の「共同訳」ということでこれからの標準を担う聖書になりそうです。
>末日聖徒もこの共同訳 (私は「JBS共同訳」と略称している) を参照して、ますます聖書に親しみ理解を深めていくことができればと願っている。
近くにバイブルセンターがありますので購入しようと思います。
初版特別価格で安くなっているとか。
教文館はおひざ元(同じビル)で開催するということで、座席数が少ないのでしょう。大阪は大勢という程ではありませんでした。
「聖書引用:口語訳聖書 日本聖書協会
21:28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
21:29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
21:30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
21:31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
聖書引用:新共同訳聖書 日本聖書協会
◆「二人の息子」のたとえ
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
」
「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
「 イエスはもっとも大切な掟とは何かと問われたとき、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」 という 掟こそ、第一のものであると言われた。しかしわたしはこの日本語訳に不満を覚える。「心」と「精神」と「思い」とはどこがどう違うのか。ギリシャ語原典では明らかに違う3つの言葉が使われており、その違いは明確に訳出されなければなるまい。「心」と訳されるカルディアは、本来「心臓」を意味し、「感情・意志・内面生活の中心」の意味で用いられる。従って「心」と訳すのは妥当であろう。「精神」と訳されるプシュケーは、普通「命」と訳される。「永遠の命」などを表すゾーエーに対してプシュケーは、地上の生物学的命を表す。従って「精神を尽くして」は、「命を賭けて」とするべきだろう。「思い」と訳されるディアノイアは、「~を通って」「~を経て」「~に基づいて」を意味するディアに、「思い」「心」を意味するヌースから派生したノイアが合成されている。つまりディアノイアとは「心から発せられるもの」「思いを経て出てくるもの」というような意味で、私が翻訳するとすれば「心からの行為を尽くして」となる。
こうしてみると・・・」
http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi02%2709_29.htm
「ところで、「心を尽くす」「精神を尽くす」とはどういうことなのでしょう。ヘブル語の「心」(「レーヴ」לֵב)は、知性や意志の働きと強くかかわり、むしろ理解力や悟りを意味します。心情的、情緒的なニュアンスの強い日本語の「心」とは少々異なります。日本語の「心」は情緒に重きが置かれますが、ヘブル語の心(「レーヴ」לֵב)は、どちらかといえば、理解力、洞察、悟りといった知性や意志の働きと強くかかわっています。「計画・意図・良心・決断」といった意味が含まれています。ですから、自発性、主体性、自立性といった意味合いが含まれます。「心を尽くす」とは、しなければならないからするといった義務からではなく、自ら進んでするという自発性を意味することばです。
「精神を尽くす」とはどういうことでしょうか。これは原語の「ネフェシュ」ということばをどう理解するかにかかっています。「ネフェシュ」は「霊、息、たましい、いのち、自分自身」とも訳されますが、この語彙の特徴は、目に見えないものすべてを意味することです。「目に見えないもの」とは、愛、誠実、正義、悔い改め、霊的な貧しさ、信頼、・・など。使徒パウロは「目に見えない」ものを「内なる人」と表現しています。したがって、「精神を尽くして愛する」とは、目に見えない精神的、霊的、内的なすべてのものを尽くして、神を愛することなのです。
」
これは名訳ですね。
末日聖徒の全体の伝統として、語源にまでさかのぼって本来の意味を考えるという手法をあえてしない、あるいは嫌ってる、あっても稀なこと(プロテスタントの牧師さんはその逆)なのは何故なのでしょう。
と思ったら、4月の大会でネルソン管長が「行いを改善し、より良くなれます」の説教のところで、悔い改めの語源であるギリシャ語に遡って解き明かしをされていて、やっぱり理系の大管長は伝統を気にしないからこうなるのかなと思ったりしました。
ギリシャ語の新約聖書で悔い改めに当たる言葉は,「metanoeo(メタノエオ)」です。接頭語の「meta(メタ)」は「変わる」という意味です。接尾語の「noeo(ノエオ」は,「思い」「知識」「霊」そして「息」を意味するギリシャ語に関連しています。5
ですからイエスは皆さんやわたしに「悔い改めよ」とお求めになるとき,思いと知識と霊と,さらに息の仕方までも変えなさいと勧めておられるのです。
分かりやすいお話しでしたが、息の仕方までも変えなさいのところは、文学もへったくれもなくて、元外科医だからこなるのか、さすがに直訳過ぎではないだろうかと、余計なことを考えてしまいました。
瞑想 呼吸
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E7%9E%91%E6%83%B3%20%E5%91%BC%E5%90%B8
・・・
聞いた話ですが、東京には二つ伝道部がありますが、この6月、北の伝道会長は、南の伝道会長として移転に(場所 武蔵野市吉祥寺、南の会長は3年の任期終え帰還)。で、現在の北の伝道本部の建物は不使用に(隣の宣教師アパートのみ使用される、人数も二人の長老だけに)、そして宮城県仙台市の現仙台伝道会長は仙台に滞在したまま引継いで東京北伝道部会長にって。
支部の指導者は支部会長
じゃなんで教会会長でなく大管長?
こんないい加減な翻訳を認めているモルモン教会に、聖書の語源やらギリシャ語での意味など、まじめに考察する気持ちなどありゃしませんて
主がジョセフ・スミスに啓示されたのは,原記録者がかつて記録した真理そのものである。この点で,ジョセフ・スミス訳は世にある他の聖書翻訳と趣を異にする。この意味から,ここでの「訳」という言葉は,通常の場合よりももっと広義の,異なった意味で用いられていると言える。ジョセフ・スミスの翻訳は,ある言語から別の言語への逐語訳ではなくて啓示だからである。ジョセフ・スミス訳についての詳細は,ガイドの「ジョセフ・スミス訳(JS)」の項を参照されたい。
http://scriptures.lds.org/jpn/jst/contents
ローマ 11:21 ◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう
ここは実質的には二重否定ということになると思います。そこに仮定がついていますので難読文章です。つまり、「切り捨てることをしないことをしないことをするとすれば」という文です。「神が自然に生えてきた枝を切り捨てにしたのなら、おそらくあなたをも切り捨てにしてしまうでしょう」とすることができるでしょう。
「恐らく」は「おそらく」のほうがよいと思います。
コリント第一 11:9 ◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
前半と後半とで文体を合わせようとしたのだと思いますが、かえって不自然です。ここは「女が男のために造られたからです」でよいでしょう。文法論を杓子定規に実践するからこういうことが起こってしまうのでしょう。
コリント第一 14:4 ◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます。
聖書には、「集う人々」を意味し、後の時代に「教会」を意味するようになった語があります。現代の聖書の大半はこの語に「教会」という訳語を充てているため、多くの聖句で文意が変わってしまうという問題があります。
最初の「造り上げる」は、おおかた「励ます」の意味です。文脈でパウロが指摘するとおり、異言を語る人は自分の語る言葉の意味を理解できません。つまり、自分に聖霊の奇跡が起こっていることを自覚することしかできませんので、その人の中で何かが成長するということにはなりません。一方、後半部分の「造り上げる」は「教えられて成長する」の意味です。そこでパウロは、異言よりも預言のほうがよいと結論するわけです。
仮にもパウロは、教会が建てられることや、設立されることについて述べているのではありません。「異言を語る者はその人だけを強くしますが、預言を行う者は教会の全員を強くします。」などとするなら、原文の文意を正しく示すことができます。また、コリント第一 14:2の「誰も聞いていないのに」は「誰も聞き取れないのに」か「誰も理解できないのに」としたほうがよいでしょう。
」http://biblia.holy.jp/thesis011.html
うぅぅんん、なぁんか、いろいろあるんでしょうかん??
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。招かれる者の全員が礼服を着ているわけではないからである」。
招待状に、礼服か平服か書いてなかったかも??
それに引き換え、末日聖徒の側からは何も聞こえてこないようで寂しい限りです。
私は街で彼らを見かけると聖書学の面で水準が上がっていますね、感心しています、と語りかけます。
この辺がもうデタラメで・・・
聖書は記録ではなく、良く知られた逸話や伝承を信仰者の目線から解釈して、編纂されたものなのです、これは聖書をきちんと読めばわかりますよ
2019年1月26日
Amazonで購入
教会一致の動きが加速する中、新改訳から新共同訳に移行する教会が増えてきたため近い将来に共同訳に切り替えようと思い、この聖書協会共同訳を購入したのですが、、、う~ん。新共同訳を改変する必要があったのでしょうか?
例えば、ルカによる福音書だけでも:
◆「自分の目に丸太」⇒「自分の目に梁」:「はり」なんて難しい言葉は小学生じゃ分からない。なんでオリジナルの丸太がだめなのか、、、ちなみに新改訳も「はり」
ーーー
「教会一致の動き」とはカトリックとプロテスタントの聖書解釈の違いをどう包含するかということでしょうね。
信仰義認にも配慮したとのことで末日聖徒の標準聖書になる日も近いのかもと思います。
新共同訳の「丸太」の表現は知ってましたが、いくらなんでも。。。
「梁」で正解と思う人が多いような気がします。
ひらがなだと「自分の目に針」と勘違いしそう。
おそらく完読するには数年かかるかも。
【前編】 アブラハム~出エジプト~ヨシュア
https://www.youtube.com/watch?v=xJHMQJ-X-rQ
【後編】旧約聖書の埋もれた秘密
「The Bible's Buried Secrets」2008年11月18日にPBSで放送されたものに日本語字幕をつけたもののようです。
このブログでも何回か出てきているe文書、J文書、P文書とかわかりやすくまとめられています。
イスラエル人はカナン人、ヤフー神に出会ってヤハゥエになった。
出エジプトの物語は低階層民族の反抗。
エジプトの碑文にダビデの文字が。イスラエル王国は小国。
などなど納得できる内容でした。
[聖書 新改訳2017]
「新改訳」聖書が新訳を出しましたが、キリスト教書店(大阪)で手に取ってみようと思いましたら、売り切れで入荷待ちとのことでした。
ーーー
一昨年、主に新改訳シリーズも刷新されています。
なんとアマゾンのキンドル版はアマゾンユナイテッドでは読み放題になってます。
いわゆるリベラルな教会は共同訳シリーズを使用し、福音主義派は新改訳シリーズを使っていくという流れでしょうか。
エホバさんの新世界訳も最近改定されたようです。
https://www.jw.org/ja/エホバの証人/活動/出版/日本語-聖書-新世界訳/
聖書改定ブーム?
この箇所は、以前、津村春英氏が「聖書協会共同訳」の出版を控えて発表した「それでも新聖書翻訳」という小文(https://www.bible.or.jp/know/know31/h_02.html)で、本文改訂の必要性を指摘していた場所の一つである。
」
「
新共
18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
新改
18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
口語
18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
文語
18 凡て神より生れたる者の罪を犯さぬことを我らは知る。神より生れ給ひし者、これを守りたまふ故に、惡しきもの觸るる事をせざるなり。
フラ
18 神から生れた者はみな、罪を犯さないことを、わたしたちは知っています。神から生れた方がその人を守ってくださり、悪い者はその人に手を触れることができません。
岩波
18 私たちにわかっているように、すべて神から生れた者は罪を犯さない。むしろ神から生れた者は(神が)彼を守って下さる。そして悪しき者はこれに手を触れない。
田川
18 我々は知っている、神から生れた者はみな罪を犯すことなく、神から生れた者は自分自身を守り、そして悪しき者がその者にふれることはない、と。
」
http://gospels.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/4-4489.html
ヨハネによる福音書1章3節~4節
聖書協会共同訳・(新)P160
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
新共同訳
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
新改訳
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
●問題点
聖書協会共同訳の訳文をご覧いただきますと、「命」が被造物の一つとして描かれていることがわかります。
「言の内に成った」という表現は、「キリストの内に造られた」という意味です。
ですから「言の内に成ったものは、命であった」を言い換えると、こうなります。
キリストの内に造られたものは、命であった。
ところが、この部分を原文で見ると、「造られた」に相当するギリシャ語は使われていません・・・
」https://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/33748163.html?__ysp=IueUsOW3neW7uuS4iSIgIOWFseWQjOiosw%3D%3D
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC28
「
ギリシャ語原典の表記の問題
すべて大文字で綴られている
単語と単語の間にスペースがない
句読点が(ほとんど)ない
これではあまりに読みにくいということで、聖書原典に対する種々の調整が行われるようになりました。現在原典であるとされるテキストのほとんどはこのような調整が施されたものです。
こうして、同じ聖書原典から、句読点の置き方の異なる校訂本文が生まれました。そのため、聖書協会連盟の校訂本文とネストレ・アーラントの校訂本文とは、聖書本文は同じでも句読点の位置が異なります。また、ネストレ・アーラントの校訂本文は版によって句読点の位置が変わります。
ネストレ・アーラントの26版以降は句読点の扱いが優秀だそうです。これまで、ギリシャ語聖書の校訂本文の句読点は英語などの代表的なヨーロッパ言語の感覚に合わせてつけられていました。ネストレ・アーラントは26版になってようやくそれを改訂し、句読点の位置が聖書ギリシャ語的になるよう調整したそうです。
」http://biblia.holy.jp/42-lu-23-43.html
モルモン聖典の合本の中に、ジョセフ・スミス訳聖書の一部が入ってますが、何故、あの部分だけなんでしょうか?
全部入れるか、全く入れないのならわかるんですが、何故マタイのあの部分だけが入ってるんですか?
ここで言う「原典」とは、「今日の聖書の元になった書物」と言う意味でしょうか?
それをさらに
>これではあまりに読みにくいということで、聖書原典に対する種々の調整が行われるようになりました。
って書いてしまうと、「聖書の原典」の様な、間違った解釈が生まれます。
聖書に「原典」なんて存在しないのは、皆さんご存知の事です。
でね、WEBさんご紹介の、このサイトの趣旨は、「翻訳の正確さ」と言う事ですね。その事を書いてる方が、上記の様に、日本語を正確に標記しないのは、矛盾も甚だしい。
ギリシャ語原典に正確であれば、それがどうしたというのでしょうか?それは、ただ「翻訳の正確さ」と言う論議に過ぎません。
信仰者の知りたいのは、「翻訳の正確さ」ではなく、主が語られた「真理」なのではないですか?
それなら、翻訳の正確さを論議するのは、全く無意味ですね。
私は、翻訳の正確さを云々するより、論理的に真理を見いだす方が重要だと考えます。
そのもとに成ったギリシャ語の聖書って、誰がいつ書いたかも分からないんでしょ?それが、イエスの言葉に近いという保証も無いんでしょ?
最も古いので現存という意味での‘原典’なのかも・・・真理探究ということで翻訳を極めているのかもにゃんにゃん・・・
より古く、より良質な写本によって原文を確定しようとする本文批評学が確立した。
その結果テクストゥス・レセプトゥスは今日では「(もはや)受け入れられないテキスト」となっている。
ーーーー
末日聖徒の聖書は欽定訳聖書で、その底本はテクストゥス・レセプトゥス(TR)。
しかし、現代の新訳聖書の底本はほとんどネストレ・アーラント。
つまり、英語圏以外の聖書の方が最新の底本を使っているという皮肉な結果になってます。
ただ、モルモン書が欽定訳聖書を参照して翻訳されている前提なのでおいそれと最新の底本に切り替えられないと。そういうことでしょうね。
ジョセフ霊感訳と新約コメントとの比較本、出版した模様・・・NJせんせい購入するかも・・・
https://twitter.com/NJWindow/status/1130641947041812481
https://www.fromthedesk.org/10-questions-thomas-wayment/
もっと多くあります。それでも抜粋ですが。
https://www.lds.org/scriptures/jst?lang=jpn
>主がジョセフ・スミスに啓示されたのは,原記録者がかつて記録した真理そのものである。
まぁ、客観的に言い換えればジョセフ・スミスの聖書解釈でしょうね。
モルモンから見れば、客観的ではないのでして・・・。
6月の第一日曜日の日曜学校の参照箇所が、このジョセフスミスマタイなんですよね・・・。
https://www.lds.org/study/manual/come-follow-me-for-individuals-and-families-new-testament-2019/21?lang=jpn
>ジョセフ・スミスの聖書解釈でしょうね。
とは言いにくいんじゃないですか?
https://www.lds.org/scriptures/jst?lang=jpn
合本の、ジョセフスミスマタイ1章が含まれてないですよね。
どうしてなんでしょう??
合本のジョセフスミスマタイ1章は、内容的には、新約聖書のマタイ23章の終わりの部分と、24章です。
ご紹介のサイトのJSマタイには、24章は無いですよね。
>どうしてなんでしょう??
なるほど。あまり考えたことなかったです。
フェアモルモンにはこうあります。
https://www.fairmormon.org/answers/Question:_Was_Joseph_Smith%27s_translation_of_the_Bible_ever_completed%3F
JST(または "Inspired Version")は、おそらく、Josephによる聖書のテキストに関する一種のインスピレーションを受けた解説として見たほうがよいでしょう。
その価値は、それを新しい「公式の」聖典にすることではなく、洞察の中でジョセフが読者に提供し、
その過程でジョセフ自身が学んだことです。
しかし、私たちがJSTと呼んでいるものを公表するためにジョセフが資金を集めていたという事実は、
彼がそれが公表されるのに十分に進んだと信じていたことを示唆しています。
・・・
モーセ書は、聖書を明確にするためのジョセフの努力の結果として作られました。
作品のこの部分は標準化されており、高価な真珠の一部です。
当時も今も、残りのJSTを正規化しようとする試みはありませんでした。
ーーー
ということは高価な真珠の一部として載せられているジョセフ・スミス訳聖書の箇所は聖典として取り上げられても支障のない部分となりますか。
https://www.lds.org/scriptures/pgp/introduction.html?lang=jpn
高価なる真珠が生まれた時から、入ってたので、そのまま今に至る・・?って事?
でも、なんで最初に、ここだけ入れたのか?って疑問が残るな??
いずれにしろ聖書解釈も色々なわけです。
旧約に限って言えばユダヤ教もそうだしスラム教も原典は違う部分も有るとは言えそう。
極力モルモンでの刷り込みを捨ててカトリック目線で聖書を読むとそう読めるし、プロテスタント目線ではそう読めてしまう。
長年多少聖書読んできた印象ですが一流の映画監督が集まって超大作を作った。場面場面では黄金律を語るわけですから哲学的でふんふんと感動する。
でも統一性がないんですよね。
昔ロシアだったか超一流の映画監督を集めて映画を作らせた。
ところが出来上がったのは駄作。
末日聖徒の聖典の監督はジョセフ・スミス。
もしかしたら聖書の監修者の一人よりも能力は劣るのかも知れませんが、ハリウッド映画のように言いたいことは明瞭と感じてます。
自転車泥棒よりスタートレックのほうが感動する。。オムナイっす。
たまWEBさんが書かれたように、Thomas A. Wayment が今年JSTについてユタ大から本を出す予定で、買わなければならないだろうと考えています。彼は今JSTについて最も詳しい研究者と目されています。
彼は昨年、オックスフォード大学から出された「モルモニズムの基盤文書」と題する本の中で、「ジョセフ・スミスが行なった聖書の新しい翻訳と他文書との相互関連性、及びその翻訳の目的」(約30頁)という記事を載せています。
来週初めを目標に書きたいと思っています。豚さんの知識欲には応えきれないかもしれませんが、努力します。
昔1990年春季、モルモンフォーラム4号でもJSTについて取り上げましたが、7,8割はそれほど変わらないと思います。しかし、内容を更新して当ブログに掲載したいと思っています。
旧約聖書は古い昔の洋画
ほとんどが退屈で、たまにローマの休日みたいに面白い作品がチラホラ。
新約聖書は
連続テレビ小説+ラストがパニックホラー
モルモン書は
アメリカのミュージカルとかアニメ作品のようだ。
>アメリカのミュージカルとかアニメ作品のようだ。
確かに。
人間魚雷のような船で渡ってきてキリストの指で触れた石が灯とか。
聖書には同じ対象を書いたものでも矛盾した記述が存在する。
イエスの生涯を描いた四福音書でもしばしば並行記事が食い違っており、
創世記にある二通りの創造も字義通りにとれば矛盾すると思われる場合もある。
信者にはこれらを矛盾と考えず調和化しようとする人もいる。
堀尾幸司は自著のなかで、ユダの二通りの死に方をつなぎ合わせ、首を吊って自殺した後に紐が切れ、死体が落ちて裂けたのだとした[1]。
・・2つの創造説が字義通りには矛盾するが、創造における神の目的や被造物の位置付けを表現したものとして象徴的に解釈する[2]。
・・神ならぬ人間が解釈し、記録した聖書が無謬であることはありえないとして矛盾があることを認め、
そこから導き出した信仰的意義を述べている。
ーーー
https://www.jw.org/ja/聖書の教え/質問/聖書には矛盾がありますか/
いいえ,聖書全体は調和しています。特定の聖句が矛盾しているように思える場合でも,
以下に挙げる原則を1つかそれ以上当てはめて考えるなら,
大抵は正しい理解が得られます。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/mujun.htm
聖書は矛盾していない
「聖書は矛盾している」という主張に反論する。
ーーー
聖書を信じているものの↑というのは個人的には違和感しかありません。
やはり、聖書を編纂した人は複数いて元の「書」を変更せずに残して、挿入したと個人的には思います。
それは、むしろ古代の記録者たちが誠実だった証でもあると思います。
古代の人を教育し昔の人の人生に影響を与えた宗教書を現代人はどう応用して読むのか。
それが大切なんでしょうね。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html
まだ残ってまして。
メソジスト アダム・クラーク
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%88%20%22%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%22
佐倉氏は、聖書の間違いを通じ信仰が深まったのかどうか・・・
JBSの聖書は口語訳も含めて値が張りますね。
それだけ権威があると言う事なのでしょう。
ーー
ローマの信徒への手紙14:16
JBS共同訳
従って、相続人となることは、信仰によるのです。
こうして、恵みによって、アブラハムのすべての子孫、
つまり、律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、
確実に約束にあずかれるのです。
アブラハムは、神の前で、私たちすべての者の父であって、
新共同訳
従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。
恵みによって、アブラハムのすべての子孫、
つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、
確実に約束にあずかれるのです。
彼はわたしたちすべての父です。
口語訳
このようなわけで、すべては信仰によるのである。
それは恵みによるのであって、すべての子孫に、
すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、
この約束が保証されるのである。
アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、