平成27年2月14日(土)
出 発:南海「岸里玉出駅」
到 着:JR「寺田町駅」
かつての「摂津國住吉郡」として広大な地域を管轄していた「住吉区」が、昭和18年4月1日の区編制により分区。「東住吉区」とともに誕生した「阿倍野区」。旧住吉区役所が「阿倍野」の地にあったことから、そのまま「阿倍野区」が「住吉区」という区名を名乗る予定であったが「住吉大社」周辺の住民らから反対に遭い断念。以前は「東成郡天王寺村大字阿部野」という地名であったことから区名となる。陰陽師「安倍晴明」ゆかりの地として、また、かつてこの地を治めた「阿部氏」に因み地名になったなどの諸説があり「阿倍野」「阿部野」「安倍野」あるいはひらがな・カタカナで「あべの」「アベノ」などと表記される。
区北部は、天王寺駅南側に位置する繁華街であり、平成26年6月には、地上60階、高さ300m、日本一の超高層ビル「あべのハルカス」がオープンした。区西部の「上町台地」は高級住宅街として開け、区東部にはちょっとレトロな旧市街地が残る人口約10万1千人の住宅街である。「東西南北」「高さ日本一」と立体的に歩くぞ。「野里町歩紀~摂河泉をゆく~陰陽師ゆかりの地『阿倍野』」もよろしく。
南海「岸里玉出駅」。南海本線と高野線、そして超ローカルな支線である汐見橋線の3線が交わる。かつては、それぞれ別の駅だったようだが、統合されたため駅舎は東西に分かれている。
駅舎自体は「西成区」だ。午前9時15分出発。
駅を出て南へ。モータープールの角を左折すれば信号に出る。そこに「阿部野神社」の看板。向こうを走るチンチン電車の「阪堺電車阪堺線」を越えれば7~80mで「阿倍野区」に入る。
「阿部野神社」。南北朝時代、南朝方についた「北畠顕家(きたばたけあきいえ)」とその父「北畠親房(ちかふさ)」を祀る神社である。付近の地名も「阿倍野区北畠」という。
この階段を真っ直ぐ進めば境内なのだが、正面から参拝するため南に回る。
ここは、北畠顕家が足利軍との戦いで敗れた古戦場跡と伝わるが、神社自体は明治15年創建の比較的新しい神社である。
境内に入れば「北畠顕家像」が建つ。
今日一日の安全を祈願する。
高級住宅街を東に抜ける。
税関宿舎を過ぎれば右に「府立住吉高校」。大正11年創立。当時の「住吉郡住吉村」にあることから「住吉」という名が冠されている。古い学校なので多くの著名人を輩出している。
グランドとの間を東へ。チンチン電車「阪堺電車上町線」の「北畠停留所」。
少し北に上り、大きなマンション前で阪堺線と分かれ右へ。
すぐに「浄土宗源正寺」。
寺の角を右折し、次の突き当たりを右に曲がって、先ほどのマンション角で左折。「あべの筋」を左に曲がる。
目の前の信号で「あべの筋」を渡ると「北畠公園」。
公園の一角には、先ほど訪れた阿部野神社の御祭神「北畠家」の墓所がある。
「あべの筋」をひとつ南の信号まで戻り、左折すれば「あべの王子商店街」の入口に出る。「あべの筋」に並行して南北に走る約400mのアーケード街だ。
まだ、午前中なので人通りは少ない。
商店街から路地に入ると「播磨湯」というお風呂屋さん。
商店街に戻る。
お好み焼き屋さんもまだ鉄板に火は入っていないようだ。
北端で左に曲がり「王子本通商店街」として「あべの筋」まで続く。
商店街出口から「あべの筋」を挟んで正面には「阿倍王子神社」の鳥居が。
「熊野三山」へと続く「熊野街道」に建てられた「九十九王子」のひとつで、大阪府下で唯一現存する「九十九王子」である。
御祭神は、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」「素戔嗚尊」「品陀別尊」の四柱。
神社の隣には「印山寺」。曹洞宗の寺院であるが、先ほど訪れた「阿倍王子神社」の宮寺として造営されたことから、かつては「神宮寺」と呼ばれたらしい。明治時代の神仏分離令を経て現在に至る。山門前の碑によると「五代目桂文枝之墓所」のようだ。
これまで訪れた「阿倍(部)野」は、かつてこの地を治めた豪族「阿部氏」に因むものと伝わる。「印山寺」前の道は「熊野街道」。右(北)に曲がる。すぐ右手に「安倍晴明神社」。
そう、あの陰陽師「安倍晴明」である。「阿倍野区」という地名のもう一つの由来である。安倍晴明は、安倍保名という人物が和泉國「信太の森」で助けた白狐との間に生まれたと伝わるが、詳しくは「野里町歩紀~摂河泉をゆく~」の「能勢、3つの伝説を訪ねる」「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~」「浜寺から織物の町、小栗街道を経て信太の森へ」を参照。
境内には、安倍晴明が産湯をつかったという「産湯井」が残る。
「清浄水」という手洗舎の水は、井戸水らしく温かかった。夏は冷たいのだろう。
参拝を終え「熊野街道」を北へ。
すぐに「阿倍野保名郵便局」。完全に安倍晴明の世界である。
「熊野街道」を北に歩く。街道らしい街並みだ。
すぐに「松虫交差点」で「松虫通」を渡り左(西)へ進む。
この道は「歴史の散歩道」。
チンチン電車を渡る。
すこし歩けば右に「松虫塚」。
後鳥羽上皇の官女「松虫」が庵を結んだなどいろいろな説がある。
さらに西へ進む。
「市立松虫中学校」を通り過ぎれば、右にこんもりとした山が現れる。
路地を右折し、階段を登れば「天下茶屋聖天正圓寺」。付近の住民からは「天下茶屋の聖天さん」と呼ばれているそうだ。
山門の前に「不動明王」。
真言宗の寺院であるが、本堂の前には「聖天山山頂」の標柱が。そうここは標高14mの「聖天山」と呼ばれる「低山」なのである。
参拝後、先ほどの「不動明王」まで戻り右へ。この道は「西成区」との区境である。
ぐるっと回って階段を上る。そしてここは「御勝山古墳」「帝塚山古墳」「茶臼山古墳」と並ぶ「大阪市四大古墳」のひとつ「聖天山古墳」でもあるのだ(「生野区」編、「住吉区」編、『野里町歩紀~摂河泉をゆく~「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~』」参照)。
今は公園になっている。土器や刀剣などが発見されたそうだが被葬者は不明。公園の一角に古墳の一部が保存されている。
「聖天山公園」から北に住宅街を抜ける。かなり高低差があるようだ。
そのまま進んで行けば「大阪キリスト教短期大学」。
明治38(1905)年に創設された伝道所に建てられた神学校を母体に昭和27(1952)年に開学した短期大学だ。
そのすぐ北には「大谷学園」。親鸞を祖とする「真宗大谷派」が設立。創立は寛文5(1665)年までさかのぼる。その後、真宗伝道所から学校へと発展し、明治42(1909)年、大谷女学校として開学。ここには、中学・高校と東大谷高校が置かれている。キリスト教から仏教。いろいろあるな。
住宅の間を抜け「あべの筋」に出れば左折。
「阪神高速道路」の高架をくぐれば「阿倍野交差点」の角に「あべのベルタ」という17階建ての高層マンション。交差点を左折する。
高架の向こうには「市設阿倍野墓地」。
右には「あべのクオレ」という14階建ての高層マンション。
「あべのベレーザ」という、これも14階建てのマンションを過ぎれば「あべのグラントゥール」という40階建ての高層マンションが。
左に「大阪市大病院」を見ながら北へ。
「あべのルシアス」という16階建てビルを過ぎれば突き当たるので右へ。
道路を挟んで北側には「旧阿倍野ホテル」。昭和6年建築のレトロビルだ。
その後「浪速郵便局阿倍野橋分室」を経て「大手前看護専門学校」という学校になったようだが、現在は空き家になっている。
そして随分と前から視界に入っていたのだが、目の前には、平成26年6月、日本一の超高層ビルとしてオープンした「あべのハルカス」。地上60階建て。「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の新アトラクション「ハリー・ポッター」とともに大阪名物となり、国内外から多くの観光客が訪れる。
時間は午前11時30分。今日は「あべのハルカス展望台」のチケットをインターネットで予約した。チケットの引き換え時間が午後0時15分なので、12階の「あべのハルカスダイニング」に上がり「ピッコロ」で昼食とする。
「オムライス(トマトソース)」(907円)を注文。景色を眺めながら食事をとる。
食事を終え、16階で入場券(2000円)と引き換え、エレベーターで地上60階、高さ300mの「展望台」に向かう。大阪市内が一望できる。「よおっ、日本一!」。「ミナミ」から「キタ」への高層ビル群を望む。手前は「天王寺公園」。
先ほど「見上げ」ながら通り過ぎた高層ビル群を300mから「見下ろす」。
「四天王寺」を「上空?」から眺める。一直線に建物が並ぶ「伽藍配置」の様子がよくわかる(「天王寺区」編参照)。
多くの観光客が「日本一」の眺めを楽しんでいた。
59階は吹き抜けで、58階は「屋上庭園」になっている。天井がないので少し寒い。
見学を終え16階へ。ここもちょっとした展望台になっている。
かなり眺めは良いのだろうが、30階と比べると雲泥の差だ。
「日本一」から下りたところには、阪堺電車「天王寺駅前」停留所。「上町線」の出発点だ。
「あべのハルカス」の南側は「あべの」の繁華街。すぐ西に労働者の町「西成」が控えているため「キタ」や「ミナミ」に比べると若干地味だが、近年、上町台地というしっかりとした地盤であることから、先ほど眺めた高層ビルを中心としたショッピング街を経て、現在の「あべのハルカス」へと続いている。
この道は「庚申街道」。
南へ進むと「カトリック阿倍野教会」。大正10(1921)年に「望之門教会」としてスタートした「日本キリスト教団」の教会である。
「庚申街道」をさらに南下。
路地を右に入れば「日本キリスト教団大阪常磐教会」。
ネットで調べると信号を渡ったところに昭和35年築の「一富士荘」というレトロなアパートがあるはずなのだが「取り壊し」の真っ最中であった。「残念」
すぐ前には、まだ古い長屋が残っていた。
そのまま進み「阪神高速道路」の高架を迂回し、路地を進んで行けば「玉菊稲荷神社」の小さなお社。久しぶりに日本の神様に出会った。
「庚申街道」に戻り南へ進めば「末日聖徒キリスト教会」。いわゆる「モルモン教」の教会である。
さらに南へ進めば「南大阪教会」。「日本キリスト教団」の教会である。
この塔は、昭和3(1928)年に建てられたそうだ。
南へ進み「阿倍野郵便局」のある信号を過ぎて、次の角を左に入れば何やら立派な木造家屋が。
「寺西家阿倍野長屋」。昭和8年に宮大工により建てられた四軒長屋で登録有形文化財に指定されている。
ここには「町家レストラン」として4軒のお店が入る。
すぐ東の「昭和町駅前交差点」で「あびこ筋」を渡る。地下鉄御堂筋線「昭和町駅」の真上にあるので「駅上交差点」か?
交差点を東へ。次の信号で北を見れば「文の里商店街」のアーケードが見えるが、反対方向を見れば、こちらにもアーケード街が見えるので入ってみよう。
ここも「文の里商店街」の延長だろう。
アーケードを抜けた所のアパート跡も更地になっている。
しかし、所々、古い木造家屋や長屋が残る。
突き当たりを右に曲がり「あべの筋」に出て、南へ曲がれば左手に「桃山学院高等・中学校」。明治24(1891)年開校した英学校を母体とする「日本聖公会」系の私立学校である。
校舎横には「聖アンデレ教会」。かつて「川口居留地」にあったキリスト教の宣教学校が明治45(1912)年、桃山中学の礼拝堂として移転。その後、昭和2年、「日本聖公会大阪聖アンデレ教会」として発足したという(「西区」編参照)。
ここから「昭和町3・4・5丁目」と南に進む。
「街並み」とまでは行かないが、結構、古い建物が残る。
ここにも。
向きを変えてもう1枚。
「昭和」という地名が良い。
下調べの段階では良くわからなかったが、「昭和町」という町は、結構、古い家、特に「長屋」がたくさん残っている町だな。暫し、長屋の風景をお楽しみください。
これは「千鳥湯」というお風呂屋さん。
さらに古い家が続く。
立派だと思えば、これは「天理教会」。
しかし、この長屋は立派だ。
二戸一クラスは、結構、残っている。
「美園ビル」と掲げられた古いビル。
「南港通」に出れば左折。すぐに「シャープ本社」。明治45(1912)年、東京で早川徳次という人が創業したベルトのバックル業が前身といわれる。その後、発明した「早川式繰出鉛筆が「シャープペンシル」としてアメリカでヒットした。
関東大震災で被災、大阪に移りラジオ製造業として再起。ついには世界的に有名な総合家電メーカーとなる。
社屋とJR阪和線の間には「長池公園」。
「長池」。この後、訪れる「桃ヶ池」とともに「旧大和川」の支流といわれる「猫間川」に連なる湖沼の名残と言われる。
JR「南田辺駅」の前を通りすぎる。駅から東は「東住吉区」だ。
旧川筋に沿って北へ進み、「市立昭和中学校」の西側を通り抜ければ、自然と大きな公園に続く。「桃ケ池公園」だ。
古くから「ももがいけ」と呼ばれる池があり「百ケ池」「股ケ池」「腿ケ池」「脛ケ池」などの漢字が当てられていたそうだが、昭和に入り「桃ヶ池」に改められたという。
かつて聖徳太子が大蛇を退治したとの伝説が残る場所らしい。池に浮かぶ「蛇島」と呼ばれる島。退治された大蛇の屍を埋めたところと言われる。
池の畔には「股ケ池明神」と呼ばれるお社が祀られている。この大蛇に因むのだろう。
一つの大きな池なのだが、複雑に半島が入り組み、池は3つに分けられている。それぞれ橋でつながっている。
一番北の部分には大きな島が浮かび公園になっている。一角には「国威宣揚」の碑。昭和13年の建立で、戦前の名残だ。
公園を通り抜けところの大通りは「松虫通」。
左(西)へ進めば、右に先ほど見えた「文の里商店街」のアーケード入口が現れる。
300mほどのアーケード街だ。
突き当たりを右に曲がれば「明浄通商店街」と名を変える。
一旦、「阪神高速道路」の高架で途切れる。地下には、地下鉄谷町線「文の里駅」。
50mほどでアーケードは終わる。
商店街を抜ければ「明浄学院高校」。大正10(1921)年、日蓮宗系の女学校として設立されたそうだ。法人経営の短大が、平成18年「大阪観光大学」という4年制大学に改称された。
「明浄学院高校」の北西角には「天明湯」というお風呂屋さん。
この角を左折し、立派なお屋敷が見えてくれば右折する。
突き当たりを左折し、ぐるっと回れば「市立(第二)工芸高校」。
大正12(1923)年に創立された工業デザイン・美術系の古い公立学校だ。
レトロな校舎は、大阪市の有形文化財に指定されている。
高校の北側にも立派な「長屋」が。
同じ筋には「旭湯」というお風呂屋さん。
次の辻を左折し、通りに突き当たれば右へ。次の信号を北に入ると「府立天王寺高校」。明治29(1896)年開校の歴史ある公立高校で多くの著名人を輩出している。
通りに戻り、そのまま東に進めばJR阪和線「美章園駅」。
ガード下に多くの店が並ぶ。
裏に回れば。
人の営みも行われているようだ。
近鉄「河堀口駅」のガードをくぐる。「こぼれぐち」と読む。
「あべの翔学高校」。昭和4年創立の「大阪女子商業学校」を前身とする。
長らく「大阪女子高校」と呼ばれていたが、昨年(平成26年)、男女共学となり改称された。大阪の私学は、近年、共学化や短大の4年制への移行等によりどんどん名前が変わるなぁ。
学校の北側は「国道25号線」。歩道橋横に古いたばこ屋さんが見えれば、信号で国道を渡る。
国道を渡れば、すぐ左に「八反田地蔵尊」。長い間、お地蔵さんとして信仰を集めてきたが、専門家による調査の結果「地蔵菩薩」ではなく「阿弥陀如来」であることが判明した。しかし、長らく信仰されてきた「お地蔵さん」を引き継ぐため、わざわざ新たに「地蔵菩薩」が建立された。
正面が、お地蔵さんとして信仰されてきた「阿弥陀如来」。左が、新たに建立された「地蔵菩薩」。
JR関西本線のガードをくぐり、アーケードではないが「寺田町南商店街」へと進む。ゴールも近い。
看板に従い右折すれば「黄金湯」。お風呂屋さんがあるということは「下町」ということだ。
建て替えられ「新旧折衷」の長屋が多く見られる。
長屋の前を東へ進んでいく。
突き当たりを右折し、次の信号の前には商店街の入口。
「アプロ」というスーパーの前を過ぎれば「源ケ橋商店会」へと続く。
真っ暗なアーケードの中にポツリポツリと電灯が灯っている。
「昭和」の臭いがプンプンするな。
120mほどでアーケードは終わる。
アーケードを抜ければ「国道25号線」。目の前は「生野区」編で歩いた「ほんどーり商店街」の出口「源ケ橋交差点」である。ここからは、以前歩いた同じコースでJR大阪環状線「寺田町駅」を目指す(「生野区」編参照)。
午後4時15分、JR「寺田町駅」に着。本日の歩紀「29010歩」(24.94km)。神社・仏閣・キリスト教会・お地蔵さん。「古い町」と言うより「古くから開けた町」なのだろう。
出 発:南海「岸里玉出駅」
到 着:JR「寺田町駅」
かつての「摂津國住吉郡」として広大な地域を管轄していた「住吉区」が、昭和18年4月1日の区編制により分区。「東住吉区」とともに誕生した「阿倍野区」。旧住吉区役所が「阿倍野」の地にあったことから、そのまま「阿倍野区」が「住吉区」という区名を名乗る予定であったが「住吉大社」周辺の住民らから反対に遭い断念。以前は「東成郡天王寺村大字阿部野」という地名であったことから区名となる。陰陽師「安倍晴明」ゆかりの地として、また、かつてこの地を治めた「阿部氏」に因み地名になったなどの諸説があり「阿倍野」「阿部野」「安倍野」あるいはひらがな・カタカナで「あべの」「アベノ」などと表記される。
区北部は、天王寺駅南側に位置する繁華街であり、平成26年6月には、地上60階、高さ300m、日本一の超高層ビル「あべのハルカス」がオープンした。区西部の「上町台地」は高級住宅街として開け、区東部にはちょっとレトロな旧市街地が残る人口約10万1千人の住宅街である。「東西南北」「高さ日本一」と立体的に歩くぞ。「野里町歩紀~摂河泉をゆく~陰陽師ゆかりの地『阿倍野』」もよろしく。
南海「岸里玉出駅」。南海本線と高野線、そして超ローカルな支線である汐見橋線の3線が交わる。かつては、それぞれ別の駅だったようだが、統合されたため駅舎は東西に分かれている。
駅舎自体は「西成区」だ。午前9時15分出発。
駅を出て南へ。モータープールの角を左折すれば信号に出る。そこに「阿部野神社」の看板。向こうを走るチンチン電車の「阪堺電車阪堺線」を越えれば7~80mで「阿倍野区」に入る。
「阿部野神社」。南北朝時代、南朝方についた「北畠顕家(きたばたけあきいえ)」とその父「北畠親房(ちかふさ)」を祀る神社である。付近の地名も「阿倍野区北畠」という。
この階段を真っ直ぐ進めば境内なのだが、正面から参拝するため南に回る。
ここは、北畠顕家が足利軍との戦いで敗れた古戦場跡と伝わるが、神社自体は明治15年創建の比較的新しい神社である。
境内に入れば「北畠顕家像」が建つ。
今日一日の安全を祈願する。
高級住宅街を東に抜ける。
税関宿舎を過ぎれば右に「府立住吉高校」。大正11年創立。当時の「住吉郡住吉村」にあることから「住吉」という名が冠されている。古い学校なので多くの著名人を輩出している。
グランドとの間を東へ。チンチン電車「阪堺電車上町線」の「北畠停留所」。
少し北に上り、大きなマンション前で阪堺線と分かれ右へ。
すぐに「浄土宗源正寺」。
寺の角を右折し、次の突き当たりを右に曲がって、先ほどのマンション角で左折。「あべの筋」を左に曲がる。
目の前の信号で「あべの筋」を渡ると「北畠公園」。
公園の一角には、先ほど訪れた阿部野神社の御祭神「北畠家」の墓所がある。
「あべの筋」をひとつ南の信号まで戻り、左折すれば「あべの王子商店街」の入口に出る。「あべの筋」に並行して南北に走る約400mのアーケード街だ。
まだ、午前中なので人通りは少ない。
商店街から路地に入ると「播磨湯」というお風呂屋さん。
商店街に戻る。
お好み焼き屋さんもまだ鉄板に火は入っていないようだ。
北端で左に曲がり「王子本通商店街」として「あべの筋」まで続く。
商店街出口から「あべの筋」を挟んで正面には「阿倍王子神社」の鳥居が。
「熊野三山」へと続く「熊野街道」に建てられた「九十九王子」のひとつで、大阪府下で唯一現存する「九十九王子」である。
御祭神は、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」「素戔嗚尊」「品陀別尊」の四柱。
神社の隣には「印山寺」。曹洞宗の寺院であるが、先ほど訪れた「阿倍王子神社」の宮寺として造営されたことから、かつては「神宮寺」と呼ばれたらしい。明治時代の神仏分離令を経て現在に至る。山門前の碑によると「五代目桂文枝之墓所」のようだ。
これまで訪れた「阿倍(部)野」は、かつてこの地を治めた豪族「阿部氏」に因むものと伝わる。「印山寺」前の道は「熊野街道」。右(北)に曲がる。すぐ右手に「安倍晴明神社」。
そう、あの陰陽師「安倍晴明」である。「阿倍野区」という地名のもう一つの由来である。安倍晴明は、安倍保名という人物が和泉國「信太の森」で助けた白狐との間に生まれたと伝わるが、詳しくは「野里町歩紀~摂河泉をゆく~」の「能勢、3つの伝説を訪ねる」「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~」「浜寺から織物の町、小栗街道を経て信太の森へ」を参照。
境内には、安倍晴明が産湯をつかったという「産湯井」が残る。
「清浄水」という手洗舎の水は、井戸水らしく温かかった。夏は冷たいのだろう。
参拝を終え「熊野街道」を北へ。
すぐに「阿倍野保名郵便局」。完全に安倍晴明の世界である。
「熊野街道」を北に歩く。街道らしい街並みだ。
すぐに「松虫交差点」で「松虫通」を渡り左(西)へ進む。
この道は「歴史の散歩道」。
チンチン電車を渡る。
すこし歩けば右に「松虫塚」。
後鳥羽上皇の官女「松虫」が庵を結んだなどいろいろな説がある。
さらに西へ進む。
「市立松虫中学校」を通り過ぎれば、右にこんもりとした山が現れる。
路地を右折し、階段を登れば「天下茶屋聖天正圓寺」。付近の住民からは「天下茶屋の聖天さん」と呼ばれているそうだ。
山門の前に「不動明王」。
真言宗の寺院であるが、本堂の前には「聖天山山頂」の標柱が。そうここは標高14mの「聖天山」と呼ばれる「低山」なのである。
参拝後、先ほどの「不動明王」まで戻り右へ。この道は「西成区」との区境である。
ぐるっと回って階段を上る。そしてここは「御勝山古墳」「帝塚山古墳」「茶臼山古墳」と並ぶ「大阪市四大古墳」のひとつ「聖天山古墳」でもあるのだ(「生野区」編、「住吉区」編、『野里町歩紀~摂河泉をゆく~「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~』」参照)。
今は公園になっている。土器や刀剣などが発見されたそうだが被葬者は不明。公園の一角に古墳の一部が保存されている。
「聖天山公園」から北に住宅街を抜ける。かなり高低差があるようだ。
そのまま進んで行けば「大阪キリスト教短期大学」。
明治38(1905)年に創設された伝道所に建てられた神学校を母体に昭和27(1952)年に開学した短期大学だ。
そのすぐ北には「大谷学園」。親鸞を祖とする「真宗大谷派」が設立。創立は寛文5(1665)年までさかのぼる。その後、真宗伝道所から学校へと発展し、明治42(1909)年、大谷女学校として開学。ここには、中学・高校と東大谷高校が置かれている。キリスト教から仏教。いろいろあるな。
住宅の間を抜け「あべの筋」に出れば左折。
「阪神高速道路」の高架をくぐれば「阿倍野交差点」の角に「あべのベルタ」という17階建ての高層マンション。交差点を左折する。
高架の向こうには「市設阿倍野墓地」。
右には「あべのクオレ」という14階建ての高層マンション。
「あべのベレーザ」という、これも14階建てのマンションを過ぎれば「あべのグラントゥール」という40階建ての高層マンションが。
左に「大阪市大病院」を見ながら北へ。
「あべのルシアス」という16階建てビルを過ぎれば突き当たるので右へ。
道路を挟んで北側には「旧阿倍野ホテル」。昭和6年建築のレトロビルだ。
その後「浪速郵便局阿倍野橋分室」を経て「大手前看護専門学校」という学校になったようだが、現在は空き家になっている。
そして随分と前から視界に入っていたのだが、目の前には、平成26年6月、日本一の超高層ビルとしてオープンした「あべのハルカス」。地上60階建て。「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の新アトラクション「ハリー・ポッター」とともに大阪名物となり、国内外から多くの観光客が訪れる。
時間は午前11時30分。今日は「あべのハルカス展望台」のチケットをインターネットで予約した。チケットの引き換え時間が午後0時15分なので、12階の「あべのハルカスダイニング」に上がり「ピッコロ」で昼食とする。
「オムライス(トマトソース)」(907円)を注文。景色を眺めながら食事をとる。
食事を終え、16階で入場券(2000円)と引き換え、エレベーターで地上60階、高さ300mの「展望台」に向かう。大阪市内が一望できる。「よおっ、日本一!」。「ミナミ」から「キタ」への高層ビル群を望む。手前は「天王寺公園」。
先ほど「見上げ」ながら通り過ぎた高層ビル群を300mから「見下ろす」。
「四天王寺」を「上空?」から眺める。一直線に建物が並ぶ「伽藍配置」の様子がよくわかる(「天王寺区」編参照)。
多くの観光客が「日本一」の眺めを楽しんでいた。
59階は吹き抜けで、58階は「屋上庭園」になっている。天井がないので少し寒い。
見学を終え16階へ。ここもちょっとした展望台になっている。
かなり眺めは良いのだろうが、30階と比べると雲泥の差だ。
「日本一」から下りたところには、阪堺電車「天王寺駅前」停留所。「上町線」の出発点だ。
「あべのハルカス」の南側は「あべの」の繁華街。すぐ西に労働者の町「西成」が控えているため「キタ」や「ミナミ」に比べると若干地味だが、近年、上町台地というしっかりとした地盤であることから、先ほど眺めた高層ビルを中心としたショッピング街を経て、現在の「あべのハルカス」へと続いている。
この道は「庚申街道」。
南へ進むと「カトリック阿倍野教会」。大正10(1921)年に「望之門教会」としてスタートした「日本キリスト教団」の教会である。
「庚申街道」をさらに南下。
路地を右に入れば「日本キリスト教団大阪常磐教会」。
ネットで調べると信号を渡ったところに昭和35年築の「一富士荘」というレトロなアパートがあるはずなのだが「取り壊し」の真っ最中であった。「残念」
すぐ前には、まだ古い長屋が残っていた。
そのまま進み「阪神高速道路」の高架を迂回し、路地を進んで行けば「玉菊稲荷神社」の小さなお社。久しぶりに日本の神様に出会った。
「庚申街道」に戻り南へ進めば「末日聖徒キリスト教会」。いわゆる「モルモン教」の教会である。
さらに南へ進めば「南大阪教会」。「日本キリスト教団」の教会である。
この塔は、昭和3(1928)年に建てられたそうだ。
南へ進み「阿倍野郵便局」のある信号を過ぎて、次の角を左に入れば何やら立派な木造家屋が。
「寺西家阿倍野長屋」。昭和8年に宮大工により建てられた四軒長屋で登録有形文化財に指定されている。
ここには「町家レストラン」として4軒のお店が入る。
すぐ東の「昭和町駅前交差点」で「あびこ筋」を渡る。地下鉄御堂筋線「昭和町駅」の真上にあるので「駅上交差点」か?
交差点を東へ。次の信号で北を見れば「文の里商店街」のアーケードが見えるが、反対方向を見れば、こちらにもアーケード街が見えるので入ってみよう。
ここも「文の里商店街」の延長だろう。
アーケードを抜けた所のアパート跡も更地になっている。
しかし、所々、古い木造家屋や長屋が残る。
突き当たりを右に曲がり「あべの筋」に出て、南へ曲がれば左手に「桃山学院高等・中学校」。明治24(1891)年開校した英学校を母体とする「日本聖公会」系の私立学校である。
校舎横には「聖アンデレ教会」。かつて「川口居留地」にあったキリスト教の宣教学校が明治45(1912)年、桃山中学の礼拝堂として移転。その後、昭和2年、「日本聖公会大阪聖アンデレ教会」として発足したという(「西区」編参照)。
ここから「昭和町3・4・5丁目」と南に進む。
「街並み」とまでは行かないが、結構、古い建物が残る。
ここにも。
向きを変えてもう1枚。
「昭和」という地名が良い。
下調べの段階では良くわからなかったが、「昭和町」という町は、結構、古い家、特に「長屋」がたくさん残っている町だな。暫し、長屋の風景をお楽しみください。
これは「千鳥湯」というお風呂屋さん。
さらに古い家が続く。
立派だと思えば、これは「天理教会」。
しかし、この長屋は立派だ。
二戸一クラスは、結構、残っている。
「美園ビル」と掲げられた古いビル。
「南港通」に出れば左折。すぐに「シャープ本社」。明治45(1912)年、東京で早川徳次という人が創業したベルトのバックル業が前身といわれる。その後、発明した「早川式繰出鉛筆が「シャープペンシル」としてアメリカでヒットした。
関東大震災で被災、大阪に移りラジオ製造業として再起。ついには世界的に有名な総合家電メーカーとなる。
社屋とJR阪和線の間には「長池公園」。
「長池」。この後、訪れる「桃ヶ池」とともに「旧大和川」の支流といわれる「猫間川」に連なる湖沼の名残と言われる。
JR「南田辺駅」の前を通りすぎる。駅から東は「東住吉区」だ。
旧川筋に沿って北へ進み、「市立昭和中学校」の西側を通り抜ければ、自然と大きな公園に続く。「桃ケ池公園」だ。
古くから「ももがいけ」と呼ばれる池があり「百ケ池」「股ケ池」「腿ケ池」「脛ケ池」などの漢字が当てられていたそうだが、昭和に入り「桃ヶ池」に改められたという。
かつて聖徳太子が大蛇を退治したとの伝説が残る場所らしい。池に浮かぶ「蛇島」と呼ばれる島。退治された大蛇の屍を埋めたところと言われる。
池の畔には「股ケ池明神」と呼ばれるお社が祀られている。この大蛇に因むのだろう。
一つの大きな池なのだが、複雑に半島が入り組み、池は3つに分けられている。それぞれ橋でつながっている。
一番北の部分には大きな島が浮かび公園になっている。一角には「国威宣揚」の碑。昭和13年の建立で、戦前の名残だ。
公園を通り抜けところの大通りは「松虫通」。
左(西)へ進めば、右に先ほど見えた「文の里商店街」のアーケード入口が現れる。
300mほどのアーケード街だ。
突き当たりを右に曲がれば「明浄通商店街」と名を変える。
一旦、「阪神高速道路」の高架で途切れる。地下には、地下鉄谷町線「文の里駅」。
50mほどでアーケードは終わる。
商店街を抜ければ「明浄学院高校」。大正10(1921)年、日蓮宗系の女学校として設立されたそうだ。法人経営の短大が、平成18年「大阪観光大学」という4年制大学に改称された。
「明浄学院高校」の北西角には「天明湯」というお風呂屋さん。
この角を左折し、立派なお屋敷が見えてくれば右折する。
突き当たりを左折し、ぐるっと回れば「市立(第二)工芸高校」。
大正12(1923)年に創立された工業デザイン・美術系の古い公立学校だ。
レトロな校舎は、大阪市の有形文化財に指定されている。
高校の北側にも立派な「長屋」が。
同じ筋には「旭湯」というお風呂屋さん。
次の辻を左折し、通りに突き当たれば右へ。次の信号を北に入ると「府立天王寺高校」。明治29(1896)年開校の歴史ある公立高校で多くの著名人を輩出している。
通りに戻り、そのまま東に進めばJR阪和線「美章園駅」。
ガード下に多くの店が並ぶ。
裏に回れば。
人の営みも行われているようだ。
近鉄「河堀口駅」のガードをくぐる。「こぼれぐち」と読む。
「あべの翔学高校」。昭和4年創立の「大阪女子商業学校」を前身とする。
長らく「大阪女子高校」と呼ばれていたが、昨年(平成26年)、男女共学となり改称された。大阪の私学は、近年、共学化や短大の4年制への移行等によりどんどん名前が変わるなぁ。
学校の北側は「国道25号線」。歩道橋横に古いたばこ屋さんが見えれば、信号で国道を渡る。
国道を渡れば、すぐ左に「八反田地蔵尊」。長い間、お地蔵さんとして信仰を集めてきたが、専門家による調査の結果「地蔵菩薩」ではなく「阿弥陀如来」であることが判明した。しかし、長らく信仰されてきた「お地蔵さん」を引き継ぐため、わざわざ新たに「地蔵菩薩」が建立された。
正面が、お地蔵さんとして信仰されてきた「阿弥陀如来」。左が、新たに建立された「地蔵菩薩」。
JR関西本線のガードをくぐり、アーケードではないが「寺田町南商店街」へと進む。ゴールも近い。
看板に従い右折すれば「黄金湯」。お風呂屋さんがあるということは「下町」ということだ。
建て替えられ「新旧折衷」の長屋が多く見られる。
長屋の前を東へ進んでいく。
突き当たりを右折し、次の信号の前には商店街の入口。
「アプロ」というスーパーの前を過ぎれば「源ケ橋商店会」へと続く。
真っ暗なアーケードの中にポツリポツリと電灯が灯っている。
「昭和」の臭いがプンプンするな。
120mほどでアーケードは終わる。
アーケードを抜ければ「国道25号線」。目の前は「生野区」編で歩いた「ほんどーり商店街」の出口「源ケ橋交差点」である。ここからは、以前歩いた同じコースでJR大阪環状線「寺田町駅」を目指す(「生野区」編参照)。
午後4時15分、JR「寺田町駅」に着。本日の歩紀「29010歩」(24.94km)。神社・仏閣・キリスト教会・お地蔵さん。「古い町」と言うより「古くから開けた町」なのだろう。
今から、あべのハルカスへ行ってきます。
知識や健脚振りなどとても尊敬しています❕
からだに気をつけて下さいね。
野里町歩紀
以前、あきんど村の近くに住んでいて、とっても懐かしいです。
ありがとうございます。廣岡精肉店は有名なんですよ
先日18/4/29に どっぷり昭和町 を開催していて
、時間がなかったので桃ヶ池公園だけ回って
廣岡さんでヘレカツ盛りと串カツ盛りを買って帰りました。自慢のコロッケは売り切れ
桃ヶ池も思い出の地で以前はボート乗り場もあり、池ももっと大きかったのですが…
あと、王子神社や商店街にも母とよく行きました。生まれてから成人するまで住んでいましたし…
じーんときました。昭和町駅前なども変わりましたが、あきんど村の雰囲気などはほとんど変わってなくて 私にとって懐かしい写真をたくさん見せていただいて、ありがとうございます。
他の写真、知らないところが多いですね