「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

二つの継体天皇陵を訪ねる

2013-09-29 01:35:23 | 日記
訪問日:平成25年9月28日(土)
出 発:タイムズ高槻宮田町第2パーキング
到 着:タイムズ高槻宮田町第2パーキング

 以前から訪ねたかった「継体天皇陵」。しかし、場所的・距離的に中途半端であったことから、なかなか訪ねられなかった。しかし、今日、車で出かける野暮用があり、昼をはさんで5時間ほどの時間的な空白ができたので、思い切って訪ねることにした。


 今日の出発・到着は、マイカーなのでネットであらかじめ調べておいた「タイムズ高槻宮田町第2パーキング」。ここは、大阪府高槻市。ほぼ平坦な道を歩き、トイレ・給水にも困らない。パーキング前の「ファミリーマート」で給水して午前11時30分出発。しかし、都合の良い場所に、コインパーキングとコンビニがあったもんだ。「感謝」「感謝」。
 

 コンビニを出て北へ。すぐ右側に「春日神社」が。いつものように参拝して、今日一日の「安全祈願」をする。
 

 神社を出てさらに北へ数十メートル歩くと「巡禮橋」という橋が小さな川を渡り、川沿いに「西国街道」が走るので左折し、街道を歩く。
 

 以前、野里町歩紀~摂河泉をゆく~「西国街道を山崎から高槻へ」で西国街道を歩いた時は、結構、古い町並みや道標があったが、この道には街道らしい雰囲気がない。
 

 一筋、脇道に入ってみた。立派なお屋敷が並ぶ一角があった。
 

 その筋を抜けると、再度、西国街道と合流する。
 

 しかし、すぐに何でもない住宅街の道となり、途中、高槻市から茨木市に入ると左に「藍野大学」のキャンパスが現れる。
 

  そして、「東太田4丁目交差」を過ぎると、今日最初の目的地「継体天皇陵」への案内標示が立つ
 

 交差点を渡ると左側に蔵のある立派な家が見えてくる。
 

 その向かい側が「継体天皇三嶋藍野陵」。しかし、何と車寄せの鉄扉が閉まっており、拝所はおろか制札の前までも行けない。向こうに見える小山が前方部だ。
 

 仕方がないので「東太田4丁目交差」まで戻り左折、藍野短大のキャンパス前から金網越しに御陵の濠を眺める。「どうせ巨大古墳は、空でも飛ばない限り全容は望めないのだから。」とあきらめつつ写真に納める。
 

 もう一度、御陵の正面に周り、植え込み沿いに路地を入る。ここから何とか「拝所」を拝むことができた。「継体天皇」。武烈天皇が後嗣を定めずして崩御したことから「越の国(福井県)」より迎えられたという第26代天皇。古事記に「三島の藍陵」に葬られたと記載されていることから、ここ旧三島郡藍野の「太田茶臼山古墳」が陵墓と比定されている。
 

 御陵西側の路地を抜けると公民館の前に説明書が立てられていた。全長226m、幅30mの濠で囲まれた巨大前方後円墳で、発掘調査で円筒埴輪が発見されたというが、継体天皇の没年と古墳の築造年代が異なる旨記載されていた。
 

 元の道に戻り、なだらかな坂を下って行くと右にふたつの石灯籠が並ぶ。「太田神社」。天照大皇神等3神をお祀りする式内社だ。
 

 坂を下りきった「太田東芝町交差」を右折する。300mほどで名神高速道路の高架道をくぐり右折、高速道路の防音壁に沿って歩く。
 

 藍野花園病院を過ぎ、左に土室(はむろ)小学校が見えれば高槻市に入っている。そしてしばらく歩くと左に濠に囲まれた小さな古墳が見える。「番山(ばんやま)古墳」直径56mの帆立貝式前方後円墳で、被葬者は不明。
 

 古墳横の水田には彼岸花が。
 

 この辺りは小さな古墳がたくさん見られる。番山古墳のある角を左に曲がればすぐに、今日2番目の目的地「新池ハニワ工場公園」への標識が見えるが、時間は、午後0時30分、昼食の時間だ。
 

 目の前に「ピーコック」というショッピングセンターが見えたので、ここのマクドナルドで食事をしよう。
 

 今日は、朝ご飯が遅かったので、フィレオフィッシュとアイスコーヒーで軽く済ませる。
 

 そして、先ほどの標識に従って坂を上る。すぐに「新池ハニワ工場公園」の入口に着く。
 

 ここは、高層マンション住宅街の一角に近隣公園と兼ねて作られた高槻市が管理する史跡公園で、5~6世紀に作られたわが国最古・最大のハニワ製造地といわれ、継体天皇陵など付近の古墳で発掘されたハニワを製造していたと言われる。
 

 ハニワを焼く窯が復元されている。登り窯のような構造だ。
 

 その隣には、発掘状況を再現しているのだろうか、ハニワの破片とともに鋤などの道具が無造作に並べられている。
 

 また、「作業場」と呼ばれる立派な建物も復元されている。
 

 太い柱を2本束ねているのが特徴で、雨でもハニワが製造できるように建てられたものだという。
 

 この2棟のほか遺構も発見されており、3棟の作業場があったらしい。
 

 一番奥には、窯を模した「ハニワ工場館」。公園自体は、普通の近隣公園同様、24時間無料開放されているが、この施設のみ午前10時から午後5時までの開館である(入館は無料)。
 

 館内には、発掘された窯を利用して窯の構造などが展示されている。
 

 また、ここの窯で焼かれた「家型ハニワ」なども修復・複製して展示されている。
 

 屋外にも多くのハニワが並べられている。
 

 

 園内斜面の細長い植え込み。
 

 これらも単なる植え込みではなく、窯跡の場所に植えられたものだ。
 

 このような窯が18本あったと言われる。まさしく「工場」だ。もうもうと煙を上げた「大工場」だったのだろう。
 

 ここは、史跡公園であるが、子ども用の遊具や東屋、トイレなどもあり、管理人さんが常駐しているので、芝はきれいに刈り込まれ、トイレも含め園内の清掃は行き届いている。ピクニック気分で弁当を広げても良い。
 

 「新池ハニワ工場公園」を出る。先ほどの「番山古墳」の前を通り過ぎ、名神高速道路をくぐって土室から氷室の町を進む。
 

 結構、古い家が残っている。
 

 そして、今日最後の目的地「今城塚(いましろづか)古墳」へと向かう。
 

 こんな何でもない盛土も古墳なんだろうな。
 

 黄金色に輝く水田の向こうに「今城塚古墳」を望む。
 

 その前に「今城塚古代歴史館」に立ち寄って事前知識を身に付けるとともにパンフレットをもらうことにする。
 

 ここは、高槻市の施設で、公園として整備された「今城塚古墳」に関する説明や出土物の展示のほか、体験コーナーや学習室などを備える。
 

 

 

 

 見学を終え、いよいよ「今城塚古墳」へ。
 

 全長350m、幅340mの巨大な前方後円墳は、10年間の発掘調査と7年間の整備工事を経て、9ヘクタールの広大な公園となり、基本的に全区域への立ち入りが可能だ。
 

 そして何より、発掘調査の結果、今城塚古墳こそが「真の継体天皇陵」と言われている。
 

 しかし、宮内庁は「三島藍野陵」こそが継体天皇陵と比定していることから、「今城塚古墳」は宮内庁の管轄外となり、立ち入りや学術調査のための発掘が許された。
 

 つまり、天皇陵に足を踏み入れることができるということだ。後円部から前方部へと続く道。
 

 内濠の半分は、埋め立てられ、芝生公園として開放されている。
 

 前方部と後円部のくびれに突き出した「造出」と呼ばれる部分では、祭祀が行われたという。
 

 墳丘内には、排水施設の遺構や伏見地震での崩壊部分なども発見され、案内標示も設置されている。
 

 築造当時の姿を残すといわれる「南西隅部」から内濠を望む。
 

 そして、古墳の北側には埴輪祭祀の模様が再現されている。これらの埴輪が「ハニワ工場」で製造された。
 

 女性的な顔立ちだが、鷹匠なので男性だろう。
 

 発掘の結果、当時の天皇陵で行われた祭祀の姿が明らかになりつつある。
 

 200以上の埴輪が並ぶ姿は壮観だ。
 

 外濠には水を溜めず、間近で内堤を眺めることにより、巨大な御陵の威厳を示したと言われる。
 

 円筒埴輪越しに先ほど立った「南西隅部」を望む。
 

 一般公開されているとはいえ、大切な文化財であり「天皇陵」である。マナーとルール、そして「敬意」を持って見学したい。
 

 古墳南西角を出たころに「妙見橋」という橋がかかる。橋を渡って左に曲がり「女瀬川」沿いに歩く。


 300mほどで「氷室川」と交われば「西国街道」である。ここも街道的な雰囲気はない。
 

 右に曲がり3~4分で元の「巡禮橋」に戻る。
 

 最初にお参りした春日神社の前を通ってスタート地点の「タイムズ高槻宮田町第2パーキング」へ。午後2時30分に到着。本日の歩紀「14843歩」(12.76km)。駐車料金は、400円。
  





 







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大阪24区を歩く~おわりに

2013-09-21 19:24:23 | 日記
 当初「おわりに」を書くつもりはなかった。しかし、やはり「やり遂げた!」の達成感で書いてしまった。「大阪24区を歩く」。楽しんでいただけたでしょうか?
 月に1~2回のペースで歩いたのですが、ランキングを見ると、毎回、アップした後は、1位になり1週間くらいは上位にランキングされる。それを見て
  「あ~、待っててくれてはったんや。」
と感激する。そして、それを過ぎると、また元の順位に。しかし、常に上位にランキングされるページは限られてくる。それが、次の「歩紀」の励みになる。そんな「24回」でした。「生野区」編が、常にランキング上位であったのは「韓流ブーム」の影響だったんでしょうか?!
 この24回を「没」になった写真を中心に振り返ってみたいと思います。

 なお、ここで言う「他の街」とは、「東京」「横浜」「名古屋」「神戸」のこと。「京都?」。京都は、別格です。足元にも及びません。


 大阪市を歩いてまず思ったこと。「歩紀」の早い時期に神社での安全祈願を行った。どのコースも大抵すぐに「神社」がある。神社密度の高さには驚いた。
 

 

 そして、これまでの「歩紀」で、多くの郊外の神社を訪ねたが、ほとんどの神社は「手水舎」は涸れ、祭りの時にしか「神職」さんは来ないのか、社務所は扉が閉ざされていた。しかし、大阪市内の神社の多くは、水道水とはいえ「手水舎」には満々と水が張られている。
 

 

 また、奥の住居におられるのだろうが、社務所は常に開放され、「お札」「お守り」「お祓い」などに応じられるようになっていた。
 

 

 「天王寺区」編では、すぐに神社がなかったので「お地蔵さん」での祈願となったが「地蔵尊」もいたるところに祀られていた。古い、信仰の街だ。
 

 

 「神社」といえば「祭」。これだけ神社が多いのだから、いたるところでお祭りが行われる。そして、その「主役」がだんじり(地車)だ。「だんじり」と言えば「泉州」を思い浮かべるが、大阪市内にも多くの「だんじり」がある。
 

 

 これは、「大阪」という街が、他の街に比べて歴史が深いということだろう。なんたって「平城」「平安」の前から「都」があったのだから。「記紀」に出てくる地名や旧跡が方々にあるのだ。
 

 

 古いと言えば「古墳」。市内に多くの「古墳」があるのも他の街では見られない。
 

市内の「4大古墳」と呼ばれる「御勝山古墳」「茶臼山古墳」「帝塚山古墳」「聖天山古墳」。「聖天山古墳」は「円墳」。それ以外は「前方後円墳」だ。他の街で「前方後円墳」が、街の真ん中に横たわっているところがあるだろうか。
 

 そして大阪は、「古代朝鮮」とも深いつながりが。「許曽」「須牟地」は、古代「新羅」語だと言われる。
 

 

 「百済」が堂々と存在する。
 

 また、「古代朝鮮」とは直接関係はないのだろうが「在日」の存在。かつて日本が「朝鮮半島」を統治していた名残である。しかし、大阪に住んでいて感じることは、「在日」の人たちとは一定の距離を保ちながらも「共存」してきたように思う。ブームにより「接近」したり、ナショナリズムとイデオロギーで「衝突」を繰り返すのではなく、100年以上「共存」してきたことは事実だと思う。
 

 

 

 話は変わる(戻る)が、私の目的は「歩紀」。歩くことだ。その過程で多くの「街並み」と出会った。中でも「古い街並み」。
 

 おそらく日本では「米」と「漁」を中心に「まち」が発達してきたのだろう。「狩猟」「牧畜」では「ムラ」は生まれても「まち」は生まれないと思う。大阪には、多くの「新田」が開拓された。
 

 市内には「新田」に関する多くの史跡や家屋が残る。
 

 ただ、多くの水田は開発とともに失われ、今では市の周辺である「鶴見区」「東住吉区」「平野区」などにわずかに残るだけだ。
 

 

 「新田」を中心に多くの「まち(街)」が生まれた。
 

 

 そして、それらを結ぶ道が生まれる。「街道」だ。
 
 
 

 これらが「古い街並み」を形成する。
 

 

 

 時代とともに「街」は進化する。「明治」に入り大きく変貌する。これまでの木造建築に変わって多くの「煉瓦」「石」造りの建物が生まれる。それらは、時が過ぎ「レトロ」建築物と呼ばれる。
 

 「横浜」「神戸」同様、大阪市にも多くのレトロ建築物が残る。
 

 明治から大正時代にかけ多くの西洋式建造物が大阪市に建てられた。
 

 

 

 「登録有形文化財」と呼ばれる歴史的な建造物は、全国で大阪が最も多いと言われる。
 

 そして多くの「企業」が大阪市に誕生する。東京には行かず大阪市に本社を置く企業も多い。
 

 

 また、多くの「学校」も誕生した。ただ、少子化の影響だろうか「共学化」「進学に特化した特進科の設置」「短大の4年制化」などにより名称が変わり、今の校名ではかつての校名がわからない。特に受験生の子どもを持たない私たちの年代では。
 

 古代から脈々と歴史を刻む大阪市だが、私の「歩紀」は、どちらかといえば「昭和発見の旅」だったかも知れない。
 

 「昭和」。つい最近の時代だ。歴史的な価値は少ないかも知れないが、なぜか心を揺さぶる。歴史的な建造物や明治時代の建物よりも「昭和」に哀愁を感じる。
 

 特に「昭和」を演出するのは「お米屋さん」「酒屋さん」「散髪屋さん」「お風呂屋さん」「タバコ屋さん」など個人経営のお店たちだ。

 

 

 
 
 

 

 

 それに加えて「町家」と呼ばれる家屋。まだまだ大阪市にはたくさん残る。
 
 
 

  

 特に「長屋」。

 

 

 そして「アパート」「文化住宅」と呼ばれる集合住宅。




 結構、見逃せないのが大阪府警の「警ら連絡所」や「交番」。
 

 

 そして「消防署」。
 

 近代の象徴であったにもかかわらず「街」から消えていった「鉄道」の跡。
 

 
 
 そして、毎回の「歩紀」で楽しみにしていた「昼食」。私の好みではあるが、多くの「洋食屋さん」を訪ねた。
 

 

 「食い倒れ」と呼ばれる大阪であるが、伝統的な料理だけではない。たくさんの「洋食」をたべたなぁ。みな「昭和」の味だ。
 

 

 

 

  そして「お好み焼き」。大阪では「こんなところに?」というような町中に「お好み焼き屋さん」が存在する。喫茶店よりも多いのではないだろうか?
 

 

 というよりも、大阪では「お好み焼き屋さん」と「喫茶店」の違いは、非常に「曖昧」だ。
 

 

 「うどん屋さん」との違いも「曖昧」なようだ。
 

 大阪では、「お好み焼き」だって「洋食焼き」と呼ばれる。ソースをかければキャベツでも何でも「洋食」になる。コテコテの「昭和」だ。
 

 一方、地理的に見た大阪市は、東京が「四谷」「渋谷」「世田谷」というように「谷間」に発達したの街であったのに対し、「難波」「浪速」と呼ばれるように「波」つまり海辺に発達した街であるということだ。
 

 特に「淀川」「大和川」という2つの川の「中洲」に発達した街だ。
 

 そのため「八百八橋」。最近では「東洋のベニス」などと呼ばれる。今でも多くの橋が渡り、「渡し船」が市民の足として運行されている。
 

 「漁港」もいくつか存在する。市内には、統計上76人の「漁業従事者」が存在する。
 

 

「漁業協同組合」もある。
 

 しかし、沿岸漁業ではなく「漁場」は専ら「淀川」だ。
 

 沖積平野に発達した「街」であるため、他の街に比べ「坂」というものがほとんどない。唯一「坂」があるのは、「上町台地」と呼ばれる高台くらいだ。
 

 

 ここは、かつての海ではなく「半島」であった。
 

 

 

 そのような地理的条件のため、ちょっとした「盛土」があれば「山」と呼ばれる。「低山」が多いのも大阪市の特徴だ。
 

 先ほど紹介した「古墳」でさえ、大阪市では、「塚」ではなく「山」と呼ばれるのだ。
 

 色々と歩いてきたが「負」の産物も多い。「防潮扉」。高度成長に痛めつけられた大阪市の痛々しい姿だ。海よりも低いところで多くの人が暮らす。
 

 「あいりん地区」。このような地域は他にはないだろう。
 

 「戦跡」。「慰霊碑」や「供養塔」ではなく、実物が戦争の歴史を後世に伝える。
 

 

 



 「疎開」などという言葉も残る。ただ、これらは後世(未来)に伝える重要なメッセージ。決して「負」ではないのかも知れない。
 

 そして「旧遊郭」。かつての「赤線」は、「風俗街」として現在も全国に残る。しかし、これほどの大きな規模で「堂々」と残るのは大阪市くらいだろう。
 

 

 「街娼」という言葉が残る街が他にあるだろうか。
 

 しかし、大阪市の人々は元気に暮らしている。その象徴が「アーケード街」だ。
 

 

 どこのアーケードでも見られた「練り物屋さん」。
 

 残念ながら不況に押されて「シャッター街」になっているところも多く見られた。
 

 しかし、「スーパー」や「百貨店」「ショッピングモール」ができようとも「アーケード」は続く。 
 

 

 

 そして、そこには「昭和」が息づく。あの厳しくも華やかな時代「昭和」が。
 

 平成25年7月の「旭区」から平成27年3月の「西成区」まで。この間に失われたものも多い。例えば、貨物線と併走する「赤川仮橋」。城東貨物線の複線化に伴い、平成25年10月、姿を消した。
 

 そして平成26年3月7日早朝の大火により消滅した「ションベン横丁」。
 

 この他にも多くのレトロ建造物や町家が消えているのだろう。ただ、維持費も大変だと思う。そんなことにはお構いなしの勝手な感想で申し訳ない。
 

 しかし、新しいものもどんどんと生まれている。「あべのハルカス」もそうだ。大阪は、どんどん成長しているのだ。
 

 某紙の朝刊や夕刊で同じようなシリーズをしていて若干焦った。が、私の目的は「観光」でも「歴史探訪」でもない。「歩紀」。これからもどんどん歩き続けるぞ。

 ほな、さいなら。

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大阪24区を歩く~労働者の町「西成区」

2013-09-20 21:41:23 | 日記
訪問日:平成27年3月7日(土)
出 発:地下鉄「玉出駅」
到 着:南海「新今宮駅」

 今回のテーマを「労働者の町」としたが、日本国憲法で国民は勤労の義務を負い、おおよそ国民のほとんどは「労働者」だ。しかし、ここでいう「労働者」とは「日雇い労働者」のことである。西成区の北部、JR環状線と南海本線、旧南海天王寺線に囲まれた三角地帯。かつては「釜ケ崎」と呼ばれた「あいりん地区」。1k㎡に満たない地区に2万人を超える「日雇い労働者」「失業者」「路上生活者」があふれている。
 数十回におよぶ暴動事件、昼間から道路に寝込む泥酔者、白昼堂々の路上賭博・覚醒剤の売買など治安的に大きな問題があり、また人口12万人のうち3分の1の世帯が生活保護受給者であるなど社会的な問題も多い。
 私のページでは、社会問題や政治的なテーマは取り扱わない。また「あいりん地区」は、観光客が物見遊山や興味本位で立ち入る場所ではない。しかし、現実の問題として「西成区」と言えば「労働者の町」をイメージするのは事実であることから、今回のテーマとした。
 西成区は、大正14年の区編制により誕生したが、かつての大阪市は「西成郡」「東成郡」「住吉郡」の3郡に分かれており、本来、「西成」とは古い地名である。「西成区」の違った一面を求めて歩いてみた。


 地下鉄四つ橋線「玉出駅」。「国道26号線」と「南港通」が交差する「玉出交差点」の地下にある。交差点南端が「住之江区」との区境であるが、駅自体は「西成区」に所在する。「住之江区」編の終着点でもある。午前9時40分、5番出入口を出発する。
 

 「玉出交差点」から「国道26号線」を北へ。リニューアルしたようだが「喫茶白樺」の前を過ぎ、銀行の手前を左へ。
 

 「玉出西2丁目」の町を抜ける。
 

 路地を進めば「生根神社」が現れる。元々は「住吉大社」の分社だったらしい。
 

 「少彦名命」「蛭児命」「菅原道真」を祀る。今日一日の安全を祈願する。
 

 境内を通り抜けると…。こちらが正面だったのか。失礼しました。
 

 参拝を終え「玉出中1丁目交差点」で「国道26号線」を渡る。そこには「玉出本通商店街」。
 

 230mほどのアーケード街が続く。
 

 途中から左に「玉二商店街」。
 

 ええ雰囲気やな。
 

 続いて「玉新本通商店街」のアーケード。
 

 ここもええ雰囲気。
 

 次ぎに「玉出東商店街」。アーケード街が続く。
 

 アーケードを抜ける。
 

 「南海本線」のガードをくぐり更に東へ。
 

 「玉出東交差点」に突き当たる。大阪唯一のチンチン電車「阪堺電車阪堺線」。
 

 右には「日本キリスト教団玉出教会」。
 

 「阪堺線」に沿って北上する。すぐ右に「南海電車玉出変電所」。
 

 明治44年築の煉瓦造り。今も現役だ。
 

 目の前の「南海高野線」ガードをくぐり北へ。阪堺電車もガードをくぐる。
 

 2つ目の信号を左へ入ると「天下茶屋跡」。
 

 豊臣秀吉が「住吉大社」参拝の折、休憩した茶屋があったという。今は石碑と蔵跡が残るだけだ。
 

 その裏には、レトロなアパート。もう閉鎖しているのだろうか。
 

 元の道に戻る。目の前には「紹鴎の森」。
 

 天神社があるため「天神ノ森」とも呼ばれる。
 

 そして森の奥に「天神森天満宮」。菅原道真を祀る。
 

 梅がほころんでいた。
 

 現在の社殿は、元禄15(1702)年に建てられたものを昭和12年に再建したものである。ただ、境内の大楠は、樹齢400年を越えることから、それ以前から祀られていたのだろう。
 

 境内を抜けると何やら立派な蔵が。
 

 先ほどの「阪堺線」に沿って北上する。ここは、路面電車ではなく専用路線を走る。
 

 線路の東には「天神の森公園」。
 

 公園内を通り抜け、再度「阪堺線」を渡って西に進めば、正面に「天下茶屋公園」。
 

 公園内には付近を治めた豪族阿部氏の菩提寺「阿部廃寺」の礎石が残る。大阪府の「指定有形文化財」に指定されている(「阿倍野区」編参照)。
 

 公園からNTTの横を北上し「松虫通」を越えて進んで行く。所々古い民家が残る。
 

 さらに進んで行くと右に「梅谷歯科医院」。
 

 大正時代に建てられ「登録有形文化財」に指定されているレトロな歯医者さんだ。
 

 そのまま北に進みコンビニのある角を右に曲がって「天水湯」というお風呂屋さんの前を通りすぎる。
 

 突き当たりを左に折れれば「天下茶屋駅前商店街」前に出るのでアーケードに入る。
 

 「天下茶屋駅」へ続く150mほどの商店街。
 

 「グンゼ」「レナウン」。昭和やね。
 

 アーケードを抜けると「天下茶屋駅」。南海本線・高野線と地下鉄堺筋線が乗り入れる、結構、大きな駅だ。
 

 高架の駅舎をくぐる。時間は午前11時。食事にしよう。「デイリーカナート」を過ぎて左に曲がり、フットサルインドアコートなどを備えたスポーツ施設の前に「REVO(レボ)」。和牛専門の洋食店だ。ただし、まだ「準備中」。
 

 ここへは何回か来たが、結構、有名な店で行列ができる。時間調整をして午前11時30分のオープンと同時に入店。3人目だった。その後、あっと言う間に満席に。「元祖塩とんかつ(1000円)」を注文。この前にコンソメスープが出る。
 

 食事を終え、一旦、南に下り「西成区役所」の南角を右折。
 

 「国道26号線」の「岸里交差点」を渡る。
 

 「南海汐見橋線」のガードをくぐる。
 

 「3軒長屋」を右に見ながら進む。
 

 「大黒湯」。雰囲気からしてもう閉店しているようだな。
 

 すぐ右に「中央通商店会」というアーケード街。
 

 活気のあるアーケード街を進んで行く。
 

 途中で左からのアーケードと交差し「西天商店会」と名を変える。
 

 アーケードの西には「いさみ温泉」というお風呂屋さん。西成区はお風呂屋さんが多いな。
 

 ちょっと東へそれて見る。「文化住宅」と呼ばれる集合住宅も多い。
 

 商店街に戻りさらに北へ進むと突き当たる。
 

 左に曲がれば「銀座商店街」と名を変える。60mほどの短い商店街だ。
 

 アーケードを抜け、次の一方通行路を右へ。すぐに「あさひ湯」というお風呂屋さん。
 

 路地を抜け、次の交差点に交われば、とりあえず右へ曲がる。そこには「南海汐見橋線」の「西天下茶屋駅」。レトロな駅だ。線路を挟んで駅舎が並ぶ。
 
 
 「南海汐見橋線」は、難波から高野線が延びる前に高野山への出発口として作られた路線で、始発である「汐見橋駅」には何回か訪れた。大阪市内を走るローカル私鉄線だ(「浪速区」編。野里町歩紀~摂河泉をゆく~「浜寺から『織物の町』『小栗街道』を経て『信太の森』へ」参照)。
 

 先ほどの道を西に戻る。
 

 工場横を抜ける。
 

 高速の高架をくぐって右へ進む。
 

 「地蔵堂」のある角から小さな路地を入る。
 

 モータープールの間を抜けて行く。
 

 「津守幼稚園」を過ぎれば「新なにわ筋」に出るので右へ。次の信号の角に「津守神社」が。江戸時代に開墾された「津守新田」の守り神として勧請されたそうだ。
 

 「天照大神」や「住吉さん」「お稲荷さん」などを祀る。
 

 神社の北側からポンプ場の横を西に進めば突き当たるので右へ。この道は「木津川」沿いの道だ。
 

 少し進めば左に「落合下渡船場」。市内に8つ残る大阪市営の「渡し」のひとつだ。今日は、予報では夕方から小雨のはずだったが、昼過ぎから雨が降ってきた。
 

 「大正区」との間を結ぶ(「大正区」編参照)。
 

 川沿いを右に「下水処理場」「浄水場」や「西成公園」「府立西成高等学校」を見ながら、さらに進んで行く。
 

 この辺りには造船所もある。
 

 

 そして「落合上ノ渡交差店」を左に入る。
 

 先ほどの「落合下渡」の上流で「大正区」との間を結ぶ渡し船である(「大正区」編参照)。
 

 渡船場から東へ進み路地を抜ければ「南海汐見橋線」に突き当たるので右に曲がる。
 

 「府立西成高等学校」前の「津守駅」を過ぎて踏切を渡れば「津守商店街」。
 

 「新なにわ筋」を渡った所からアーケードが現れる。
 

 すぐに「阪神高速」に突き当たる。
 

 「阪神高速」をくぐった所から新たにアーケード街が。東西約1kmの大阪でも有名な商店街「鶴見橋商店街」である。結構、雨が強いのでアーケードは助かる。
 

 商店街は「8番街」から始まる。アーケードに入ってすぐ右に「桑原医院」という古い病院。
 

 商店街内には「将棋クラブ」。この辺りは「7番街」。
 

 まるで「じゃりんこチエ」の世界やね。
 

 「6番街」は、宝石店があったりして結構明るい雰囲気が。
 

 「6番街」を過ぎれば「鶴見橋2丁目交差点」で一旦、アーケードが途切れる。
 

 交差点を越えれば「5番街」。
 
 
 「スーパー玉出」を過ぎれば左に「荻野産婦人科」。
 

 もう廃業しているのだろう。
 

 その角を南へ。大衆演劇の「鶴見橋鈴成座」。
 

 隣には「関西ニューアート」というヌード劇場。かつての「鶴見橋ミュージック」というストリップ小屋だ。
 

 商店街に戻る。左に「千成温泉」が見えれば「4番街」。大阪では「お風呂屋さん(銭湯)」を「温泉」という。「富士山」ええね。
 

 「3番街」に入り、薬局横の路地を入る。
 

 突き当たりに「八開荘」という古いアパート。お地蔵さんが建つ。
 

 入ってええのかな?西成らしいなぁ。
 

 商店街に戻り「2番街」に入る。「越前屋」というスーパーを過ぎれば、狭い路地を右へ。
 

 突き当たりに「丸美質舗」。古い質屋さんだ。
 

 「2番街」に戻る。「1番街」に入る四つ角を右へ入ろう。60mほどで「旭温泉」というお風呂屋さん。手前の看板には「焼増し」。デジカメの時代に。これも西成らしいなぁ。
 

 路地に入り、文化住宅の前を北に。すごい密集度。
 

 北に戻れば「1番街」。
 

 アーケードは、国道26号線「鶴見橋交差点」で終わる。
 

 国道を渡れば「花園中央商店街」。ちょっと見えにくいが、正面には「あべのハルカス」。すぐに「南海本線・高野線」のガードに突き当たるので右折しよう。
 

 次の角に「大阪府西成警察署萩ノ茶屋交番」。この辺は、十数年に1度の割合で暴動が起きる土地柄。交番も機動隊バス並みに金網で「完全武装」している。
 

 目の前は南海「萩ノ茶屋駅」。
 

 暗いガードをくぐれば「萩ノ茶屋本通商店街」。
 

 この辺りは、昼間から酔っ払いがフラフラと歩く「デンジャラスゾーン」だ。
 

 安い店も多いが一見ではなかなか入れない。
 

 まあ。そう言うことですね。
 

 この商店街を中心にした1k㎡にも満たない地域が「あいりん地区」と呼ばれる。一旦、アーケードが途切れた南北の大通り。すぐ北に「大阪府西成警察署」。暴動が起きたときは、ここで「西成警察」を守る機動隊と暴徒との間で攻防戦が繰り広げられる。ここは、観光客が物見遊山で立ち入る場所ではない。例えばカメラを構えてトラブルとなり、恐怖を感じて逃げたとしよう。それを追いかける者が1人、2人と増え、それが「暴動」に発展するおそれが十分にある地域である。昔は、タバコ欲しさに郵便配達人が襲われたという。さっさと通り過ぎることにする。
  

 さらにアーケードに入る。左に「阪堺線今池停留場」。入口前には「立小便禁止」の大きな看板。
 

 「阪堺線」のガード下の「飲み屋」では昼間から「酒盛り」。ちょっと「小便臭い」な。
 

 「堺筋」を越えた所からは「今池本通」と名を変える。
 

 アーケードは「飛田本通南商店街」に突き当たるので右折する。
 

 アーケードを抜けて左に曲がったところに「大阪府西成警察署飛田交番」。ここも機動隊バス並みの重武装だ。
 

 そして、ここから東に進み「阪神高速」の高架をくぐると………。そこは、日本最大の遊郭「飛田新地」。ここも1k㎡に満たない地域に150軒ほどの「料理屋」と呼ばれる店がひしめく。
 

 「料理屋」の中で行われているのは、仲居と客の「自由恋愛」である。ここは写真撮影禁止であり、もし撮影をしていると「料理屋」の婆さんから「写真撮影禁止やで。」と注意され、それを無視して撮影し続けていると、知らない間に「怖いお兄さん」たちに囲まれるかも。警察以上に「監視カメラ」が街を見張っている。
 

 「飛田新地」の南端にある料亭「鯛よし百番」。大正7年築で国の「登録有形文化財」に指定されている。
 

 そして、ここは「本物」の料亭であるので、この建物に限っては、写真撮影をしていてもトラブルに巻き込まれることはない(と思う)。
 

 東の突き当たりにある土手に沿って北に進む。
 

 ここは「阿倍野区」との境界だ。一応、地域外の「阿倍野区」側から撮影した。かつてここは「刑場」だったらしい。多くの人たちの「怨念」がさまよっているのかも知れない。
 

 「飛田新地」の北を東西に走る「新開筋商店街」。このアーケードが遊郭と住宅地の境界である。
 

 なつかしい「コクヨ」「たばこ」の看板。ここで右へ進む。
 

 途中から右の路地に入ってみる。ここのお好み焼き屋さんは、お好み焼きの煙を流すための煙突が。
 

 「山王2丁目」の街をさまよう。「日之出温泉」。
 

 「阿倍野区」へと続く階段。「上町台地」とは、かなり「標高差」がある。
  
 
 路地を抜ける。「和光浴場」。「浴場」だって……。
 

 ここの交番も完全武装。やはり「普通の地域」とは違うのだな。
 

 道は「国道25号線」から続く大通りと交わり、ここから北は「JR大阪環状線」を挟んで「天王寺区」だ。左に曲がる。「阪神高速阿倍野入口」の進入路手前の路地を左に折れると古い旅館。
 

 そしてその前には、金網に囲まれているが「てんのじ村記念碑」。「てんのじ村」とは、戦前からあった小さな演芸小屋に「あそこであれば仕事にありつける」と多くの芸人が集まり、いつしか200人を越える芸人たちが暮らすようになったといわれる「上方演芸発祥の地」と言われた場所である。
 

 しかし、そんな華やかさではなく、姿を消していった多くの芸人たちを偲んで、昭和52年、有志により建てられたのが、この記念碑である。
 

 大通りに戻り「阪神高速」をくぐる。
 

 今は「ビジネスホテル」と言うが、かつては「ドヤ」と呼ばれた「簡易宿泊所」。
 

 低料金であることから、一般観光客、特に外国人観光客が利用するようだ。
 

 「太子交差点」を過ぎれば、阪堺電車阪堺線「新今宮駅前停留場」。以前の「南霞町停留場」で、平成2年10月の暴動の際、放火により全焼した。ここは「あいりん地区」の北の端にあたる。
 

 暴動があった後は、完全武装の機動隊員が10人くらいでパトロールをする。今でも命がけのパトロールだろう。
 

 環状線のガードから向こうは「浪速区」。しかし「労働者の町」は、しばらく続く。
 

 さらに西へ進んでいく。左には「あいりん地区」が広がる。
 

 右側には、いくつか古いアパートが残る。
 

 

 道路越しに「あいりん労働公共職業安定所」。毎朝、ドヤ(簡易宿泊所)や段ボール小屋(路上生活)から溢れ出た「日雇い労働者」たちが職を求めて集まる。そしてマイクロバスに乗せられ各地の現場へと散っていく。
 

 目の前には南海本線・高野線のガード。そこは本日のゴールである南海「新今宮駅」。午後3時着。本日の歩紀「21668歩」(18.63km)。アーケードとお風呂屋さんの多い、ちょっと「セピア」な街だった。
 

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大阪24区を歩く~町ぐるみ博物館「平野区」

2013-09-20 21:40:49 | 日記
訪問日:平成26年10月19日(日)
出 発:地下鉄「出戸駅」
到 着:JR「加美駅」

 大阪市の南東角に位置する。戦国時代に入り「摂津」「河内」「和泉」の要衝にあり、水運にも恵まれたことから木綿の商いなどで強大な経済力を有し、「環濠」で囲まれた自治都市は「平野郷」と呼ばれた。今も当時の町割りが残る古い町であるが、区自体は昭和49年、東住吉区から分区して誕生。人口約20万人は、24区中最多である。
 また、国道25号線南側の「平野本町」を中心とした1km四方ほどの地区が「町ぐるみ博物館」と呼ばれている。これは、特に博物館という建物があるわけではなく、喫茶店が「珈琲屋さん博物館」、新聞舗が「新聞屋さん博物館」などとして趣向を凝らし、一般に公開されているのだ(公開日はそれぞれ異なる)。
 融通念仏宗総本山「大念仏寺」や「杭全神社」などの旧跡を訪ねながら「平野郷」と「町の博物館」を歩く。


 地下鉄谷町線。大阪市を南北に縦断して「大日駅(守口市)」から「八尾南(八尾市)」を結ぶ。つまり、「河内国」を出て「摂津国」を縦断し、再び「河内国」に戻るのだ。終点から2駅手前の「出戸駅」。「でど」と読む。1番出口を午前9時20分、西に向かって出発。
 

 自転車屋さんの角を左に曲がると、何やら鐘や太鼓、笛の音が。
 

 真っ直ぐ進めば「成本天神社」。秋祭りのようだ。子どもたちがたくさん集まっていた。創建は定かでない。菅原道真を祀るが、孝徳天皇期(大化年間)の645年から649年に「天神」が現れ、社殿を造営したことから「天神社」と呼ばれる。
 

 しかし、菅原道真誕生前であるから「天神」とは、「菅原道真」ではなく「天の神様」と言うことだろう。今日一日の安全を祈願する。
 

 そのまま南に進むと、金網に囲まれた小さな丘。石標には「花塚山古墳」と書かれている。直径25mの円墳であるが、本格的な発掘調査が行われていないので、内部構造や被葬者は不明である。
 

 そして、その背後には広大な「瓜破霊園」が広がる。「うりわり」と読む。日本一の「関東平野」が広がる東京では、「多磨霊園」「小平霊園」など平地に大きな霊園があるが、大阪では「霊園」は、山地に造成されるというイメージがあり、「瓜破霊園」のように平地に広がる霊園は珍しい。
 

 個人墓の撮影は控えるが広大な敷地。空が広い。
 

 メインストリートから霊園の中央を東西に走る通りを抜け園外へ。この辺りには、わずかに水田が残る。
 

 南に進んだ突き当たりに「小松神社」。かつて瓜破の地に住む源氏の一族「宗光」が「安元の戦い」で「平重盛」に一命を救われ、その後、「重盛」が熊野灘で入水したことを知った「宗光」が、「重盛」への報恩のため「小松大明神」として祀ったのが起源と伝わる。
 

 この辺りの氏神として信仰を集めていたが、この後訪れる「瓜破天神社」に合祀された後、昭和22年、この地に遷座した。ここも祭りのようだ。
 

 「小松神社」から「瓜破東5丁目」の町に入る。この辺りには立派な旧家が並ぶ。
 

 「真宗大谷派敬正寺」。
 

 この辺りにも古い街並みが残る。
 

 お祭りのため、軒先には「献燈」の提灯がさがる。
 

 さらに旧家の間を抜けて行く。
 

 良い感じの街並み。
 

 このお屋敷は、すごいな。
 

 この屋敷は国の登録有形文化財に登録されているようだ。
 

 南北の筋に出れば右(北)へ。そこには「瓜破天神社」。孝徳天皇期、当地に居住した高僧「道昭」が「天神」を祀ったのが起源と伝わる古社。
 

 ここも祭りのようだ。
 

 その後、「牛頭天王(素戔嗚尊)」「菅原道真」、先ほど参拝した「小松大明神」などを合祀した。
 

 しばらく住宅街を歩く。
 

 「喜連住宅前」の交差点を渡る。「喜連(きれ)」と読む。この地下には、先ほど乗った「地下鉄谷町線」が走る。平野区には珍しい地名が多い。これは、漢字が伝わる前の地名に漢字を充てたからだといわれる。それだけ歴史が深いのだろう。
 

 「市立喜連小学校」の西側を抜ければ「馬倉地蔵尊」。この辺りにも古い街並みが広がる。
 

 「融通念仏宗専念寺」裏の筋を北へ。ここは「中高野街道」らしい。
 

 「旧屋敷小路」の風景。「お見事!」
 

 ここを右に折れる。
 

 「楯原(たてはら)神社」。延喜式に記された古社である。
 

 兵火・天災に見舞われ転々とし、合祀・分祀を繰り返しながら、明治以降、建御雷命(タケミカズチノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀り、昭和26年、当地に遷座、現在に至る。
 

 神社の前も良い感じだ。
 

 神社前から「馬倉地蔵」方向に戻る。
 

 「馬倉地蔵尊」の前を左に曲がり「喜連6丁目」の町へ。この辺りにも古い街並みが残る。
 

 「尻矢口地蔵尊」。
 

 「喜連」の村もかつては濠に囲まれた「環濠集落」であり、集落の北東、つまり「鬼門」を守るために建てられたという。
 

 ぐるっと回って「真言宗如願寺」の前を抜ける。摂津国の霊場「札所」になっているようだ。
 

 「如願寺」の北側を抜けると、交差点の角には「北口地蔵尊」。かつて環濠の周囲に設けられた「木戸」と呼ばれる番所に祀られたものだろう。
 

 「喜連3丁目」の町を抜けていく。
 

 路地を抜けさらに北へ進む。「大阪教育大学附属平野中・高等学校」前を過ぎる。
 

 道を隔てて「附属小学校」。今は使われていないのだろう「通用門」跡。
 

 間もなく「南港通」に出る。右に曲がれば道路沿いには、何でもない自転車屋さんが。「スポーツ車の店・田川」。実は、このお店は「自転車屋さん博物館」なのだが、今日はお休みのようだ。もう博物館に「入館」している。
 

 先ほどの信号で「南港通」を渡る。「自転車屋さん博物館」と「南港通」を挟んで向かい側の「珈琲苑茶坊主」。ここも「珈琲屋さん博物館」。
 
 
 オーナーが集めた100年以上前のミルやカップが展示されている。
 

 「南港通」を東へ進む。信号が見えれば左の路地に入る。立派な「長屋」。
 

 ここは「お米屋さん」のようだ。
 

 「南港通」の南側は「流町」という。そこからの入口に立つ「流口地蔵尊」。
 

 立派な「町家」だな。
 

 再度「南港通」へ。ここは「歴史の散歩道」。
 

 路地を北に入ると「田畑口地蔵尊」。
 

その向かいには「野堂南地車庫」。
 

 路地を抜けていくと「出屋敷口地蔵尊」。
 
 
 「浄土宗櫻井寺」の前を過ぎる。
 

 北隣には「赤留比賣命(あかるひめのみこと)神社」。地元では「三十歩さん」と呼ばれている。
 

 御祭神である「赤留比賣」とは、新羅から逃れてきたと「記・紀」に記された女神で「比賣許曾(ひめごそ)命」とも言われる(「東成区」編参照)。
 

 神社の北から「平野公園」へ入る。公園内には「平野郷」を囲んだ「環濠」の名残り。
 
 
 野球場横を抜け、公園の北東角へ。
 

 かつて「平野酒」という銘酒にも利用された「平野の黄金水」と呼ばれる良質の井戸の跡碑が建つ。
 

 公園の北側の路地を北に抜ける。「市立平野図書館」の手前に古い石の「道標」が。隣の店は「お休み処くろせ」という茶店。お休みのようだ。
 

 一旦、「国道25号線」に出て左折。次の辻を左に折れ、さらに左へ進むと「野堂北地車庫」。
 

 次の四つ辻を左に曲がれば、先ほどの「平野公園」北西角に出る。交番の前には「平野郷」に13あったと言われる木戸のひとつ「樋尻口門跡」。今は地蔵尊だけが立つ。
 

 その隣には「野堂東地車庫」。
 

 筋向かいには、大坂夏の陣徳川方の武将「安藤正次」の墓所。
 

四つ角を南へ。古い街並みが。
 

 誘われるまま町中へ。良い感じの街並みが続く。
 

 

 古い街並みを抜けながら北へ。2つ目の四つ辻を左折すると、目の前には「平野中央本通商店街」のアーケード。
 

 その手前を右に曲がる。ここからは、道を引き返したり、同じ道を通ったりと縦横にさまよう様に歩く。
 

「町家」の前を抜けていくと、先ほどの「国道25号線」に出る。「旧奈良街道」だ。角にある眼科医の横には、当時の「道標」が立つ。
 

 道を戻り、四つ辻を右に曲がれば「京政食堂」。
 

 玄関横には、へっつい(かまど)が置かれている。「へっついさん博物館」だ。ここもお休みのようだ。
 

 次の路地を左に曲がれば、先ほどの「平野中央本通商店街」のアーケードへ。突き当たり斜め左には「和菓子屋さん博物館」。酒饅頭やきんつばなどを扱う「和菓子処梅月堂本店」という老舗だが、ここもお休み。
 

 「昭和」な商店街だな。
 

アーケードを西に進めば、すぐ左に「新聞屋さん博物館」。「小林新聞舗」という明治22年創業の新聞屋さんだ。石造りのレトロな建物。
 
 
 次の辻で左に曲がりアーケードからはずれる。すぐ左に「高野山真言宗全興寺」。聖徳太子の開祖と伝わる古刹である。
 

 山門をくぐれば、すぐ右に「地獄堂」。
 

 閻魔大王が睨みを効かす。
 

 こんなのもある。
 

 境内に入れば「小さな駄菓子屋さん博物館」。
 

 昭和20~30年代の駄菓子屋さんに並んでいたおもちゃなどを展示する。
 

 また「平野の音博物館」も併設されており、昔の電話機に耳を当てれば「昔話」などが聞ける。
 

 境内から出て左へ。「おもろ庵」という茶店。「おもろ」とは、大阪弁で「おもしろい」という意味。
 

 左に折れる。
 

 さらに右へ。ここにも古い街並みが残る。
 

 右へ曲がる。古い酒屋さん。
 

 「真宗大谷派専念寺」の前を抜ける。
 

 次の交差点を右に曲がり、アーケード方向に戻る。ここは「流門筋」と言われるらしい。
 

 アーケードを越えてさらに北へ。ここにも古い町家。空襲を免れた「平野郷」には、結構、古い街並みが残っている。
 

 
 
 子どもたちは、この医院につれて行かれたら泣き叫んだんだろうな。
 

 「亀乃饅頭」という古い饅頭屋さんの角を左へ。
 

 2つ目の四つ辻を左折すれば、角に呉服屋「まつや」。ここは、店主が撮影した昔の平野の映像や古い幻灯機が展示(第4日曜日)され「平野映像資料館」と呼ばれる。
 

 辻向かいには「かたなの博物館」。三代続く「刀剣研師」だ。
 

 アーケードに戻り西へ。区民の生活を支える活気ある商店街だ。
 

 町家を利用した喫茶店。角には「道標」が。左に曲がろう。
 

 「光源寺」の霊園を過ぎ、次の辻を右に曲がり「浄土宗観音寺」の前を進む。
 

 「堺口地蔵尊」と「脊組地車庫」が並ぶ。
 

「堺口地蔵尊」の前の路地を北に入り、道なりに進んでいく。四つ辻の角には「西脇口地蔵尊」。かつての「木戸」跡だが、今は「子安地蔵」として親しまれている。
 

 突き当たりを左に折れると「プロムナード平野」。後ほど訪れるとして、時間は午後0時30分。昼食にしよう。今日は「洋食花園」。しかし、何と「準備中」の表示。日曜日は休みの店が多かったので嫌な予感はしたのだが。
 

 他に店はないかと南に進めば「成金堂」というお好み焼き屋さん。景気の良い名前が気に入った。
 

 「豚玉(550円)」を注文。やっぱ大阪人は「お好み焼き」やね。
 

 食事を終え、先ほどの「プロムナード平野」へ。 大正3年から昭和55年まで「今池」~「平野」間を走った「南海平野線」の跡らしい(「東住吉区」編参照)。
 

道路には「線路」の絵が描かれている。
 

 「緑の電車みち」を進み「市立平野西保育所」の角を右折。道なりに進んでいくと、広い通りに出るので右へ。すぐに細い道になるが、そこには「大福稲荷大明神」が祀られている。
 

 古い街並みを東へ進んでいくと左角に「本屋さん」のある四つ角に出るので左折。
 

 次の角を右に曲がれば、ここにも古い街並みが。
 

 左の建物は、江戸後期建築の農家「今野家」。「町家博物館」だが、現在もお住まいのようだ。
 

 突き当たりを右に曲がり、ぐるっと「高野山真言宗長寶寺」と「本門法華宗本妙寺」の間を進み、次の四つ辻を左に曲がり北上する。古いアパートや町家が並ぶ。
 

 

 「三井住友銀行」の裏に突き当たれば左に折れ、路地を進んで行く。ここのお屋敷も立派だな。「登録有形文化財」のプレートが。
 

 「真宗大谷派浄永寺」と「融通念仏宗大融寺」が並ぶ角を左へ。
 

 先ほどの四つ辻を右に曲がって、次の辻をさらに右に折れる。ここにも「虫籠窓」の立派な町家が並ぶ。「浄土真宗本願寺派永福寺」の前を過ぎる。
 

 

 そのまま北へ進めば「融通念仏宗総本山大念仏寺」の山門前に出る。自分が唱えた念仏の効力が周りの人にも及ぶ。つまり「融通が利く」ということから「融通念仏宗」と呼ばれるようになった。
 

 大治5(1130)年、鳥羽上皇の勅願により、この地に開山されたと伝わる。幾度かの兵火や明治時代の火災により衰退したが、「大阪大空襲」を免れた昭和13年建築の本堂は、大阪府下最大の木造建築物といわれる。
 

 また、当寺は、多数の「幽霊画」を所蔵しており、毎年7月第4日曜日に「幽霊博物館」として公開される。
 

 「大念仏寺」の北東角には「馬場口門地蔵堂」が建つ。13木戸のひとつ「馬場口」に建つ地蔵堂。「平野郷」の北口にあたる。
 

 そのまま真っ直ぐ北に進めば、「国道25号線」の「平野元町交差点」。ここは「旧奈良街道」。国道沿いだが、多くの古い町家が並ぶ。
 

 

 

 「宮前交差点」で「国道25号線」を渡り、「杭全神社」の石鳥居をくぐる。「杭全(くまた)」と読む(「東住吉区」編参照)。
 

 今日はお祭りのようだ。屋台が並び多くの人が。
 
 
 「二ノ鳥居」をくぐると左には樹齢800年を越える「大楠」。大阪府の天然記念物に指定されている。ここにも「地車」と子どもたちが、たくさん集まっていた。
 

 神門をくぐると、多くの人が河内音頭に合わせて盆踊りを踊っていた。
 

 

 「拝殿」の後ろには「素戔嗚尊」「伊弉諾尊」「熊野権現」を祀る3つの本殿。いづれも国の重要文化財に指定されている。毎年7月には勇壮なだんじり祭り「杭全祭り」が行われる。「勇壮」というより「けんか祭り」だ。
 

 神社一帯は「鎮守の森博物館」である。
 

 参拝を終え「二ノ鳥居」をくぐり、左の「杭全公園」にある「お茶池橋」を渡る。これも「環濠」に架かっていた橋なのだろう。
 

 そして、その奥には「平野郷環濠跡」。
 

 かつての「環濠」の名残り。
 

 

 公園の北側から周り「市町地車庫」の角を右に曲がる。
 

 路地を抜ければ、300年にわたって両替商を営んできた「阪井家」が、所蔵の民具等を展示する「平野郷民俗博物館」。
 

 突き当たりには、立派な「二戸一家屋」。
 

 「国道25号線」に戻り左へ。すぐに「含翠堂跡」。享保2(1717)年に創設された郷塾で、明治の学制公布まで約150年存続したと言われる。今は、石碑と碑文が残るだけだ。
 

 路地を入った民家の玄関横にも「含翠堂址」碑。
 

 さらに国道を東に向かって歩こう。200mほどで左に「市ノ口門地蔵堂」。13木戸のうち「奈良街道」の出入口にあった「市ノ口」跡である。
 

 「享保21丙辰(1736年)2月24日」と刻まれた「石燈籠」が並ぶ。
 

 さらに東へ。「韓国民団」前を過ぎると「百済橋」で「平野川」を渡る。この辺りも「百済野」の一部だ(「東住吉区」編参照)。
 

 旧大和川の支流。かつて「百済川」と呼ばれた「平野川」は、これまでも何回か訪れたが、高いコンクリートの堤防に囲まれた「運河」だった。しかし、この辺りでは「川」の雰囲気を残している(「生野区」「東成区」「城東区」編参照)。
 

 次の「平野東1交差点」で国道と分かれ「府道(左)」へと進む。
 

 「加美鞍作(かみくらつくり)交差点」を過ぎる。古代、馬具である「鞍」を作る渡来人集団が住んでいた所と伝わる。やはり、古い土地なんだな。
 

 右には「平野消防署加美出張所」。
 

 そして左には「がんこ平野郷屋敷」。
 

 関西では有名な「がんこ寿司チェーン」の店であるが、江戸初期の豪農「辻本家」の蔵を利用している。
 

 ここもかつての民具を展示する「くらしの博物館」となっている。
 

 自由に見学ができるようになっており、トイレや休憩所も設けられている。
 

 国道を挟んで向かいには「浄土真宗本願寺派善正寺」「真宗大谷派真證寺」と二つの寺院が並ぶ。
 

 「子安地蔵尊」の前には「道標」。
 

 路地をに入れば、大きなお屋敷が。
 

 約1000坪の敷地に建つ江戸初期の豪農「奥田家住宅」。第1・3日曜日のみ公開される(要予約)。国の重要文化財に指定されている。
 

 大門の前には、江戸時代の「高札」。昭和30年、加美村が大阪市に編入されるまで、当時の加美村役場(現区役所加美出張所)前で使用されていたものを移転したもの。
 

 「奥田家」から路地を東に進んで行く。
 

 「ガード?」。かつて国鉄関西線から阪和線を結んだ「阪和貨物線跡」だ。
 

 土手から上に登ってみると、まだ線路が残っている。
 

 

ガードをくぐりぐるっと回ると、今は鳴ることのない「踏切跡」が。
 

 住宅の中を「鉄路」が進む。
 

 金網越しだが、いい風景だな。また「鉄道草」を歌いたくなった(「港区」編参照)。
 

 そのまま北に進み、左に見える歩道橋で「府道」を渡る。歩道橋の階段を下りれば「菅原神社」。
 

 その名の通り「菅公(菅原道真)」を祀る「天神さん」だ。
 

 最後に「天神さん」に参拝し、午後3時20分、すぐ西側のJR大和路線「加美駅」にゴール。本日の歩紀「29608歩」(25.46km)。「平野郷」は国内だけではなく、遠く「安南(ベトナム)」「シャム(タイ)」など海外との貿易でも栄えたという。
 
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大阪24区を歩く~百済野をゆく「東住吉区」

2013-09-20 21:39:56 | 日記
訪問日:平成26年9月28日(日)
出 発:近鉄「河内天美駅」
到 着:JR「東部市場前駅」

 「旧住吉郡」から成る広大な「住吉区」から昭和18年分区され発足。その後、人口増加などから昭和49年、東半分をさらに「平野区」として分区し、現在に至る。かつての農地は市街地化が進み、人口約13万人。区西部には、「2002FIFAワールドカップ」「2007世界陸上」が開催された「長居スタジアム」や「セレッソ大阪」の本拠地がある「長居公園」が広がり、市民の憩いの場となっている。
 また、区内には、日本書紀にも登場する古い地名が残る。仏教・漢字など多くの文化をわが国に伝え、その後、唐・新羅連合軍の侵攻を受け、日本(倭)と同盟を組んで戦ったものの「白村江(はくすきのえ)の戦い」で敗北。日本に逃れ亡命政権を形成した「百済(くだら)」。そんな「百済」ゆかりの地を歩く。


 「大阪阿部野橋駅」と「橿原神宮前駅」を結ぶ近鉄南大阪線「河内天美駅」を午前9時50分出発。ここは「大阪府松原市」。
 

 「松原市」をスタート地点にした理由は?それは「大和川」を越えた松原市内に、今日、訪れる「東住吉区」の飛び地が存在するからだ。
 

 駅から北西に約10分ほど歩くと「出雲大社前交差点」。ここが「東住吉区」への入り口である。
 

 この道路の両脇は「松原市」。そして、南北約600mの道路上のみが「東住吉区矢田7丁目」なのだ。これより「東住吉区」を歩く。
 

 この立派な旧家も松原市である。
 

 10分ほどで「阿麻美許曽神社」に突き当たる。「あまみこそ」と読む。「東成区」編で「比売許曽神社」を訪れたが「許曽」とは、意味はよくわからないが「古代新羅語」に由来するらしい(「東成区」編参照)。
 

「素盞嗚命」「天児屋根命」「事代主命」の三神を祀る。今日一日の安全を祈願する。
 

 由緒の詳細は不詳であるが「延喜式」に載る古社で、境内の楠は、樹齢800年といわれる。
 

 参拝後、すぐ北の「下高野橋」で「大和川」を渡る。「東住吉区矢田」は、宝永元(1704)年の大和川開削により分断され、神社のある場所が飛び地となった。そして、先ほど歩いた細い道は、同社の参道であり、境内とみなされた事から道路のみ「東住吉区」に属するのである。「神社」の存在とは大きいものだ。
 

 「大和川」を渡り、「矢田6丁目」の町に入る。
 

 「六地蔵尊」と「宝神神社」という小さなお社に出れば右へ曲がる。
 

 先ほど乗ってきた「近鉄南大阪線」のガードをくぐり、府営上大和川住宅の角を左折し北上する。
 

 「住道本通商店街」というアーケードに入る。「住道」と書いて「すんじ」と読む。
 

 駅前でもない町中の商店街だ。
 

 アーケードを抜け、この「河内駿河屋」前の信号を右折。
 

 400mほどで「中臣須牟地神社」。「なかとみすむち」と読む。
 

 中臣鎌足の子、藤原不比等の勅命により創建されたという。「須牟地(すむち)」が、現在の地名「住道(すんじ)」の由来になった言われる。「住吉区」編で「神須牟地神社」を訪れたが「須牟地」も「新羅語」らしい(「住吉区」編参照)。
 

 神社東側の道路の更に1本東の筋を北へ進む。筋に入ったのは、この辺りには少なからず水田が残るからだ。
 

 5~6分ほどで「大阪総合保育大学」の校地に出る。
 

 左に曲がれば「城南学園高・中学校」。「城南学園」は、幼稚園から大学までを運営する学校法人で、同校は昭和10年に開校した女子校である。先ほどの「大阪総合保育大学」は、同法人が平成18年に開校した4年制大学(+大学院)だ。
 

 再度、「近鉄南大阪線」のガードをくぐり「大阪芸術大学短期大学部」を過ぎれば右へ。
 

 「長居公園通」を渡り、北へ進めば「素戔嗚尊神社」。延徳元(1489)年の創祀と伝わる。
 

 「日本書紀」仁徳天皇四三年秋九月条に、百済から帰化した「酒君(さけのきみ)」という「鷹匠」が「鷹甘部(たかかいべ)」として、この地を治めたとあることから、この辺りの地名が「鷹合(たかあい)」となった。そのため同社は、別名「鷹合神社」とも呼ばれる。もうここは「百済野」の一角である。
 

 神社の前には、古い瓦葺きの木造の建物が。農協の「農業会館」らしい。
 

 そう言えば結構、畑も残っている。
 

神社の前を西に進み、団地の緑道を抜け、押しボタン式信号を渡って左折。「長居公園通」の角には「長居公園南東口」。「長居公園」は、昭和29年から造成が始まった大阪市内でも有数の都市公園である。植物園、博物館を中心とした「文化区」と陸上競技場、サッカースタジアムなどを中心とした「スポーツ施設区」に分かれた緑豊かな公園だ。
 

 外周道路を西へ。10分ほどで右に大きな競技場が見える。
 

 「長居第2陸上競技場」。15000人収容のスタンドとナイター設備のある本格的な陸上競技場だ。「ヤンマー」が命名権を取得していることから「ヤンマーフィールド長居」と呼ばれる。向こうに見えるのは「長居陸上競技場」。
 

 「長居陸上競技場」の真横を通る。かなり大きい。こちらは、50000人収容のスタンドがあり、「2002FIFAワールドカップ」「2007世界陸上」などが開催された。Jリーグ「セレッソ大阪」のホームスタジアムでもある。ここも「ヤンマー」が命名権を有し「ヤンマースタジアム長居」と呼ばれる。
 

 その向かいには「長居球技場」。こちらは20000人収容。ここも「セレッソ大阪」のホームグランドである。命名権は、殺虫剤・蚊取り線香で有名な「大日本除虫菊」が取得しており「キンチョウスタジアム」と呼ばれる。そう、あの「金鳥」。
 

 外周道路を渡る。今日は、「市民マラソン」が行われているようだ。みんなタイムを競うことなく自由に走っている。
 

 公園の東半分は「市立長居植物園」になっており、24.2haの広大な敷地には「大阪自然史博物館」と「花と緑と自然の情報センター」がある。こちらは「有料エリア」で、入園料は200円(博物館との共通券は300円)だ。
 

 植物園の入場券(200円)を購入して園内へ。
  

 大きな池を中心に多くの花や木が植えられており、四季折り折りに楽しめる。
 

 「大阪自然史博物館」。入口には大きなナガスクジラの骨格標本が。
 

 とりあえず池の周りを一周することにしよう。
 

 

 

 

 駆け足での見学となったが「植物園」を後にし「郷土の森」を抜ける。
 

 公園北東口から「長居公園」を後にし、目の前の「鷹合1交差点」で右折、東へ進む。
 

 300mほどでここにも「百済」。
 

 「大橋」というが「駒川」に架かる小さな橋だ。
 

 次の信号の左には「こまがわ商店街」。後ほど歩くが、時間は午後0時10分。ちょっと商店街に入り、昼食にしよう。
 

 アーケードに入り、すぐ右の路地を曲がれば「洋食の庄屋」。
 

 「特製オムライス(800円)」を注文。
 

 食事を終え、先ほどのアーケード入り口まで戻り、商店街とは反対の南方向へ進む。
 

 すぐに角に交番がある小さな公園に出る。
 

 「酒君塚公園」。ここは「酒君塚古墳」跡であり、先ほど説明した「鷹甘部」の墓といわれる。
 

 塚頂上の石碑は、明治34年に建てられたものである。
 

 この交番、結構レトロだな。
 

 公園をさらに東へ進み、「近鉄南大阪線」を越える。突き当たりには「市立南百済小学校」。明治7年創立の古い学校だ。そして、その名のとおり付近は「百済野」の南部に位置する。
 

 学校の一角に「日露戦没記念碑」と「戦病死斎碑」。
 

 学校の少し南には、何やら古い街並みが。
 

 ここは「庚申街道」というらしい。
 

 そう言えば街道らしい雰囲気が。
 

 小学校前を北に上がり、信号を左折して「近鉄針中野駅」の前を過ぎる。
 

 先ほどの「こまがわ商店街」前に出る。改めて商店街を歩く。
 

 南北540m、東西190mのエリアに200以上の店舗が並ぶ大阪でも有名な商店街だ。
 

活気があるな。
 

 

 アーケードを抜ければ「阪神高速」が通る。地下には地下鉄谷町線「駒川中野駅」。
 

 右に曲がり、近鉄南大阪線のガードをくぐり、狭い路地を東に入る。「針中野1丁目」。
 

 素晴らしい街並みが残る。引き込まれるように歩いていると道に迷ってしまった。しばし、風景をお楽しみ下さい。
 

 

 

 

 

 

 

 

 地図を頼りに2丁目に入れば「真宗仏光寺派仏願時」「浄土真宗本願寺派林覚寺」が並ぶ。
 

 その南隣には「中井神社」。
 

 境内には立派な楠が。
 

 この辺りも良い風景だ。
 

 そのまま真っ直ぐ進むとタバコ屋さんの前に道標。
 

 路地を斜めに入っていくと、ここにも道標。「でんしゃのりば」「はりみち」。「でんしゃのりば」とは、大正時代に走っていた南海平野線の「中野駅」のことらしい。
 

 そして「はりみち」の方へ。そこは「中野鍼療院」。
 

 「中野家」は、弘法大師から鍼治の秘法を伝授されたという桓武天皇の時代から続くという鍼医者。今で言う「鍼灸師」である。そこから「針中野」という地名になった。
 

 大きな裏門の庇の下にも「鍼」の字が。
 

 正面の門も大きな蔵に挟まれ立派だ。
 

 路地を東に抜けていくと「南百済会館」。
 

 突き当りを北に戻って「平等橋」という橋で「今川」を越えれば「南百済公園」。
 

 川に沿って「今川緑道」が続く。
 

 1300年以上続く流れだ。
 

 「今川」や「百済大橋」が架かる「駒川」は、かつて「百済野」を流れた「百済川(今の平野川)」の名残りである(「生野区」編、「東成区」編参照)。
 

 「今川」は、ここで二手に分かれる。右は「鳴戸川」。
 

 途中、彼岸花が咲いていた。
 

 コンクリートと鉄板に囲まれた味気ない川だが、下水処理水が流れているのか、結構、きれいな水で小魚も泳いでいる。
 

 「今川」と「鳴戸川」は、ここで再度、合流する。
 

 桁下1.5mの「櫨橋」をしゃがみながら抜け、2つ目の「蜆橋」。この先は「水門」で塞がれている。水門から北は「平野川」となる。
 

 橋を渡って西へ。「駒川」を渡る。
 

 地図を頼りに路地を進む。ここは「桑津3丁目」。ここにも古い街並みが残る。
 

 「桑津」は、「日本書紀」応神天皇条に「髪長姫を日向國から摂津國桑津に召した」と記される古い地名だ。かつて、この地には桑の木を植え「養蚕」が行われたことから「桑村」と呼ばれるようになり、さらに「百済川」の船着き場があったことから「桑津」と呼ばれるようになったという。
 

 

 街並みを抜けると右には「真言宗御室派京善寺」。大坂夏の陣で焼失し、承応2(1652)年、再興されたという。「桑津の不動さん」とも呼ばれる。
 

 その向かいには「桑津天神社」の鳥居。
 

 境内の半分は公園になっており「地車庫」が。ちょうど秋祭りに備えて「地車」の手入れが行われていた。
 

 道を挟んで境内が。社伝によれば、仁徳天皇妃である「髪長媛(かみながひめ)」が病を患ったことから「少彦名神」を勧請して創建されという。
 

 裏に回ると拝殿の後ろにも柏手を打つところが。
 

 さあゴールも近い。神社裏から北に進む。この辺りにも何やら古い建物が。
 

 国道25号線に出れば右へ。
 

 国道を東へ進む。
 

 途中、「蜆橋」から見えていた水門を北側から眺めながら、さらに東へ。
 

 5分ほどで陸橋が渡る大きな「杭全交差点」。「くまた」と読む。国道25号線と大阪内環状線(今里筋)が交わる大阪でも有名な交差点だ。氾濫を繰り返していた旧大和川の改修のため打たれた「杭」に因んで付けられた地名のようだが諸説あり。「生野区」から「平野区」にまたがる地域で、平野区の「杭全神社」は有名。
 

 「杭全交差」には、横断歩道がないので「陸橋」で交差点の北東角へ渡る。そのまま北へ進めば、本日のゴールとなるJR大和路線の「東部市場前駅」があるのだが、その向かいには「JR百済貨物ターミナル駅」。
 

 駅の西側が「テラス状」になっており、構内が見渡せる。昭和38年、貨物専用の「百済駅」として開業。その後、JR貨物駅の再編により、現在の名称に改められた。「百済」と冠する施設で最も大きなものだろう。
 

 

 駅前の交差点は昔のままだ。
 

 そしてその北側には「大阪市東部中央卸売市場」。福島区の「中央卸売市場」を補完するため昭和39年、開場。早朝から活気あるせりの掛け声が飛び交う。
 

 ここも一般向けの食堂がある。
 

 先ほどのJR「東部市場前駅」に戻る。午後3時ちょうどに到着。本日の歩紀「23643歩」(20.33km)。
 

 平成元年に開業した比較的新しい駅だ。この辺りは、ちょうど「百済野」の中央。ここから「百済川」に沿って北にも「百済野」が広がる。そこに位置する「生野区」「東成区」が「在日コリアン」だけでなく「古代朝鮮」ともゆかりが深い由縁である。
 
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大阪24区を歩く~すみよっさんとあびこさんの町「住吉区」

2013-09-20 21:39:23 | 日記
訪問日:平成26年6月15日(日)
出 発:JR「長居駅」
到 着:JR「杉本町駅」

 「摂津國住吉郡」。明治11年の郡区町村編制法施行により「大阪府住吉郡」として「西成郡」「東成郡」とともに誕生。その後、「東成郡」に併合されるが、大正14年の区編制により「住吉区」となる。そして、昭和18年、「阿倍野区」「東住吉区」を分区した際、当時の住吉区役所があった「阿倍野区」が「住吉区」の名を継承し、「住吉区」は「住之江区」と名乗る予定であった。しかし、住民らの反対により引き続き「住吉区」と称することとなる。その後、昭和49年、西部を「住之江区」として分区、その結果、面積10k㎡にも満たない小さな区となった。
 そこまで住民たちがこだわってきた「住吉」の名。それは、やはり「住吉大社」の存在だろう。また、区南部には「我孫子(あびこ)」と名の付く駅が東西に4つ並ぶ。「すみよっさん」と「あびこさん」とともに歩んできた人口約15万6千人の町を歩く。


 午前9時55分、JR阪和線「長居駅」を出発。サッカーワールドカップ、世界陸上が開催された長居公園のすぐ西に位置するが、長居公園は、昭和18年の分区の際、東住吉区となった。「東住吉区」編で訪ねる。
 

 出入口は、駅北側にあるので駅舎に沿って南へ。「池田泉州銀行」の角を西に進んでいくと「長居商店街」というアーケード街前に出る。
 

 「長居(ながい)」というが、180mほどの短いアーケードだ。
 

 途中、2つの通りと交わるが、それぞれ東(駅側)に向かってアーケードはないが商店街になっている。
 

 アーケードを出て左へ行く。このアパート横の路地を入る。
 

 「西長居公園」と、その南に小さな杜が現れるので、ぐるっと回って正面に向かう。「神須牟地神社」。そのまま素直に「かみすむち」と読む。
 

 創建は定かではないが、延喜式に記載された2000年以上の歴史を持つ古社で、神産霊大神(カミムスビノオオカミ)、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)、少名彦命(スクナヒコナノミコト)を御祭神とする。今日一日の安全を祈願する。
 

 「西長居公園」まで戻って左折し、「大領(だいりょう)」という町を辻を折れながら進んで行く。
 

 この辺りは、田んぼがあるんだ。井戸水を汲み上げているのだろうか、結構、きれいな水が引かれていた。
 

 「府立急性期・総合医療センター」という大きな病院が現れる。以前、「大阪府立病院」があった所だ。
 

 病院の前は、公園として整備されている。
 

 病院の前を走るのは「あべの筋」。住吉区も南北に「あべの筋」「あびこ筋」、東西に「南港通」「長居公園通」という「筋」と「通」が走る(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「コラム『チンチン電車』『筋を通す』」参照)。
 

 「総合医療センター前交差点」から「あべの筋」を50mほど北に上ったところを左折して路地に入る。古い病院が。
 

 100mほどで「万代池公園」に出る。
  

 周囲700mほどの池の真ん中には3つの島があり、1つの島を渡って向かいまで橋が架かるので対岸へ。
 

 この池の歴史は、聖徳太子の時代までさかのぼるらしい。明治時代までは灌漑池として利用されていたが、その後、公園として市民の憩いの場となっている。
 

 公園の前の道は「熊野街道」らしい。
 

 公園の西側には大阪で唯一のチンチン電車が走る。この線路は「天王寺駅前」から「住吉公園」まで4.6kmを結ぶ「阪堺電車上町線」だ。
 

 線路沿いに右に曲がり「帝塚山三丁目」の乗降場に出れば左折する。
 
 
 すぐ左に「帝塚山学院」。大正5年に創設された私立学園で、ここには幼稚園から高校までがある。奈良にも帝塚山学院があるが、法人は別らしい。
 

 校舎を過ぎれば南海高野線「帝塚山駅」前で踏切を渡る。
 

 突き当たりには「帝塚山古墳」。5世紀初頭に造られた全長約88mの前方後円墳で大和朝廷の高官大伴金村の墓と伝わる。かつて「大帝塚」「小帝塚」と呼ばれる2つの古墳があり、それが「帝塚山」という地名のルーツになったという。
 

 現存するのは「小帝塚」で、「御勝山古墳(生野区)」「茶臼山古墳(天王寺区)」「聖天山古墳(阿倍野区)」とともに大阪市内に残る4大古墳のひとつらしい。今回の「歩紀」ですべての古墳を巡ったことになる(「生野区編」「野里町歩紀~摂河泉をゆく~陰陽師ゆかりの地『阿倍野』」「上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」参照)。
 

 「帝塚山西2・3・4丁目」と下って行く。高台の「帝塚山」は、大阪市内でも高級住宅街として知られる。
 

 「市立住吉中学校・小学校」の間を抜け、細街路を進んで行く。この辺りには、蔵のある大きな屋敷や町家が残る。
 

 

 町家を利用したカフェもある。
 

 坂道を下って行くとタコの足には1つ足りない7つの道が交わる「辻」に出る。ここは「六道の辻」と呼ばれ、仏教でいう死後、前世での善悪によって行きめぐる「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の6つの世界への分岐点とされる。今では1つ道が増え、「七」道の辻となっている。
 

 角には「閻魔地蔵尊」。
 

 これから進む道は、どこへ続くのだろう。
 

 「地蔵尊」前を50mほど進み「阪堺電車上町線」の踏切を渡る。ここは、路面ではなく「専用路線」を走る。
 

 すぐ左に鎮守の森が現れるが正面に回る。途中、「旧東成郡西成郡境界」碑が立つ。
 

 その角を曲がれば「生根神社」。
 

 式内社で、明治時代までは住吉大社の摂社であったが、住吉大社の鎮座以前から当地に鎮座すると言われ「少彦名命」を祀る。
 

 神社前を右に進む。「上町線」の踏切を渡れば、すぐにもう一つのチンチン電車が現れる。これは「恵美須町」から堺市の「浜寺駅前」までの14.1kmを結ぶ「阪堺電車阪堺線」だ。
 

 住吉警察署を右に見ながら進むと「住吉」で「上町線」と「阪堺線」がクロスする。
 

 「住吉」の乗降場の側に建つ「待合所」。阪堺線は「駅」とは言わないようだ。
 

 「上町線」は次の「住吉公園」で終着となり、「阪堺線」は「住吉鳥居前」となる。
 

 その真ん前には「住吉大社」。「摂津一の宮」であり、全国の「住吉神社」の総社。そして住吉区民が最後まで区名にこだわった元となった神社である。
 

 鳥居をくぐれば「太鼓橋」。「反橋(そりばし)」とも呼ばれる。正月3が日には200万人を越える人たちがお参りをする。
 

 古事記には、「黄泉の国」から戻った「伊邪那岐命(イザナギノミコト)」が禊ぎ払いした際、瀬の中から「底筒之男(ソコツツノオ)」「中筒之男(ナカツツノオ)」「上筒之男(ウワツツノオ)」が誕生し、住吉の社に祀られたと記されている。これが「住吉三神」。その後、「神功皇后」が加わり「住吉四神」といわれ、航海・海・水・戦さなどの神として崇められている。四角い柱の鳥居は「住吉鳥居」と呼ばれる。
 

 奥から「第一本宮」「第二本宮」「第三本宮」と縦に並び、それぞれ「底筒之男命」「中筒之男命」「上筒之男命」が祀られる。
 

 そして「第三本宮」の右に「神功皇后」が祀られた「第四本宮」が並列する。いずれも文化7(1810)年に建造された「住吉造」と呼ばれる建築様式で、国宝に指定されている。
 

 結婚式があったようだ。
 

 神苑を時計方向に回る。境内東側には「石舞台」。毎年5月の「卯之葉神事」では、舞楽が奏でられるそうだ。
 

 一旦、神苑の外に出ると「御田(おんだ)」。約600坪の田んぼで、ちょうど昨日(6月14日)、「御田植神事」が行われ、苗が植えられている。
 

 ここの稲は「鴨農法」により育てられ、新嘗祭には神様に新米が捧げられる。
 

 もう一度、太鼓橋を渡り境外へ。道路に沿って全国から寄進された約600基の石灯籠が並ぶ。
 

 南海本線「住吉大社駅」前までの参道に店が並ぶ。
 

 手前の小さな三角屋根の建物は、阪堺電車上町線の終点「住吉公園」駅舎。南海本線から西は「住吉公園」。かつて住吉区内であったことから、このように呼ばれるが分区後は「住之江区」となった。「住之江区編」で訪ねる。
 

 門前らしい店が建つ。この路地を北に入る。
 

 阪堺電車上町線の踏切を越え、スーパー「玉出」の前を右に曲がれば「洋食やろく」。時間は、午前11時45分。昼食としよう。
 

 昭和10年創業。ということは80年ほど続く店ということだ。「やろく定食(1080円)」を注文。
 

 食事を終え、再度、通りに出て、住吉大社とチンチン電車の間を歩く。
 

 阪堺線と分かれ「住吉税務署」前を左に。先ほど訪ねた「御田」前を過ぎて更に進む。高灯籠が建つ池に出れば右へ。
 

 橋で「細井川」を渡れば、左に「大歳神社」。
 

 「天台宗地蔵寺」というお寺を過ぎれば右に「左あびこ観世音」と刻まれた道標。
 

 「長居公園通」を越え、次の角を右に曲がれば「住吉行宮跡」。「行宮(あんぐう)」とは仮宮のこと。
 

 南朝「後村上天皇」が、行幸の際の「行宮」とした所と伝わる。後村上天皇は、正平23(1368)年、この地で崩御したという。
 

 「住吉行宮跡」の南側の路地を進み「市立墨江小学校」(左)と「清明学院」(右)の間を抜ける。「墨江(すみえ)」と読む。清明学院は、昭和16年、「大阪住吉女学校」として創立された私立高校である。現在は、共学校。
 

 この道も「熊野街道」のようだ。
 

 市立墨江丘中学校の横を抜け右折、西に進むと「阪堺電車阪堺線」の「安立町」。「安立(あんりゅう)」と読み、住之江区側の地名だ。
 

 阪堺線にそって南に進む。
 

 10分ほどで阪堺電車阪堺線「我孫子道」に着く。最初に訪れる「我孫子」と名乗る駅だ。
 

 すぐ南には「阪堺電車我孫子道車庫」があり、本社もここにある。
 

 そして駅前から続く「あびこ道商店街」。
 

 160mほどのアーケード街だ。
 

 アーケードを抜けても、しばらく商店街が続く。
 

 商店街の東端には「出世地蔵尊」。一応、「出世祈願」をしておいた。
 

 地蔵尊を過ぎれば「あべの筋」に出るので信号を渡り、小さな階段を上って「遠里小野」の町に入る。「おりおの」と読む。
 

 町家が残る。
 

 ここは、150m四方ほどの間に4つの寺院が建つ。まず、突き当たりに「真宗本派安養寺」。
 

 南に下れば「浄土宗西方寺」。
 

 次の角を左折すると「熱海温泉」というお風呂屋さんがあるので、その右の路地を北に戻ると、先ほどの「安養寺」の東に出る。
 

 突き当たりを右折すれば「浄土宗安楽寺」。
 

 その向かいには「極楽寺」。この寺には、聖徳太子と縁のある「毘沙門天」が祀られているそうだ。
 

 古い建物は「質屋さん」。
 

 その南には、大きな屋敷が2邸並ぶ。一つは洋風に建てられているが、もう一つは板塀の良い雰囲気だ。
 

 さらに古い酒屋さん。
 

 一旦、府道を渡り、さらに南に進むと「市立遠里小野小学校」の北西に「農神社」という小さな社があり、狭い境内に「遠里小野編入紀念碑」が建つ。村が大阪市に編入されたのを記念して建てられたものらしい。
 

 小学校の角には「熊野街道」碑。やはり、街道筋だったんだな。
 

 「遠里小野小学校」の前を東に進む。
 

 大阪市内で良く見られる「長屋」。
 

 「南海高野線」に突き当たるので左折。先ほどの府道で踏切を渡り、「南海高野線」に沿って北に約200m進む。2つ目の「我孫子」を名乗る南海高野線「我孫子前駅」。「前」を名乗るには、少し無理があると思うのだが。
 

 さらに南海高野線に沿って北上すると「あべの筋」に出る。道路の向こうに神社が見えるのだが、中央分離帯があり渡れないので、一旦、北に進み「殿辻交差点」で信号を渡る。
 

 「止々呂支比売命神社」という長い名前の神社だ。「とどろきひめのみこと」と読む。
 

 創建は不詳であるが、延喜式に載る古社で、素戔嗚尊と稲田姫尊の夫婦神を祀る。また、後鳥羽天皇が境内の松林に行宮(あんぐう)~仮宮~を置いたことから「若松神社」とも呼ばれる。
 

 参拝を終え「殿辻交差点」まで戻り「あべの筋」を渡って真っ直ぐ東へ。右に「住吉区役所」の立派な建物が見えてくる。
 

 区役所の隣にある「沢之町公園」を通り抜ける。ここには、図書館や区民センターがあるので、ちょっと「トイレ休憩」。
 

 公園を横切り南側の通りを左折して東に進む。10分ほどでJR阪和線に突き当たるので右折。すぐ左に3つ目の「我孫子」を名乗る「我孫子町駅」。
 

 駅は高架になっているのでガードをくぐって東へ。左手に元祖厄除饅頭「あびこ餅本舗」が現れれば右の路地に入る。
 

 地図を頼りに細い道を抜けて行く。
 

 すると「あびこ観音」の門が見えてくるが、正面から参拝するため、一旦、右に曲がる。
 

 「あびこ観音」の土塀脇を抜ける。
 

 右に大きな木造2階建ての建物が現れる。
 

 「我孫子会館」というらしい。
 

 そして、その前に「我孫子」の元となる「観音宗総本山あびこ観音寺」。通称「あびこ観音」が現れる。
 

 「厄除け」に御利益があり、特に2月節分の「厄除大法会」「護摩加持祈祷」には、多くの人が参拝する。
 

 546年創建と言われる古い寺院で「我孫子」のほか「安彦」「吾彦」とも呼ばれる。
 

境内には、高さ19.5m、幹回り4.8mの「観自在楠」。戦国時代、大坂夏の陣、近代に入っては太平洋戦争と戦火にまみれた大阪の町を見守り続けて来た、樹齢700年を越える「くすのき」である。
 

 境内を後にし、「あびこ観音」東側の塀沿いに歩き「デイリーカナート」の手前を右折。
 

 すぐに「あびこ筋」に出る。もちろん「あびこ観音」に因んで名付けられた「筋」だ。そして「筋」の地下には、4つ目の「あびこ駅」。地下鉄御堂筋線の駅だ。この駅だけがひらがなで表記される。
 

 駅名は「ひらがな」だが、交差点名は漢字。「地下鉄我孫子南交差点」を左折、東に進む。
 

 この道は「歴史の散歩道」となっているようだ。
 

 「大阪府住吉警察署苅田警ら連絡所」を過ぎて信号を渡り、次の四つ角を右折する。
 

 ここも細い道なので地図を頼りに進んで行くと「真宗大谷派安楽寺」。寺の前には「庭井地蔵尊」。
  

 この辺りは「庭井」という集落らしい。古い民家があった。電柱が「非常に邪魔」だ。
 

 地蔵尊の横を南に進むとすぐに「大和川」の堤防が現れる。堤防上に上がる道があるので上がってみよう。「大和川」から向こうは「堺市」だ。下流方向を眺めると「吾彦(あびこ)大橋」が見える。「あびこ」には色々な漢字が充てられる。
 

 すぐに下る道があるので堤防下へ。下りたところには「大依羅神社」。「依羅(よさみ)」と読む。やはり古い町なのだろう、普通では読めない地名が多い。
 

 「社号標」も「制札」も茂みに隠れていた。
 

 

 この付近で勢力を誇った豪族「依羅吾彦」の祖神「建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケノキミ)」と住吉三神を御祭神とする。
 

 本殿横には、多くの御祭神の名前が掲げられていた。
 

 鳥居の前まで戻る。そこには「庭井2号公園」という小さな公園があるが。公園内に「依網池址」碑が建つ。「依網池(よさみいけ)」とは、「記紀」にも出てくる古代史上の人工池である。
 

 この辺りにも田んぼが残る。かつて「依網池」の水を引いていたのだろう。
 

 そう言えば「農協(JA)の支店」があったな。
 

 神社西の「府立阪南高校」「市立苅田南小学校」前を通りながら西進。
 

 「大和川」を越えるため高架となった「あびこ筋」をくぐる。かつて、ここには、JR阪和線「杉本町駅」からJR関西本線に連絡する全長11.3kmの「阪和貨物線」が走っていた。その跡が今も残る。
 

 「杉本町公園」を過ぎて南に進む。信号を渡ると左右に何やら大きな建物が。
 

 「大阪市立大学」だ。明治13(1880)年創設された「大阪商業講習所」を前身とし、昭和24年、新制大学として発足した。大阪では「市大(いちだい)」と呼ばれている。「市大」角の町内地図には「阪和貨物線」が描かれている。
 

 「市営浅香第一住宅」前の信号を右折。「市大」校地の間を西に進んでいく。
 

 300mほどで踏切を渡り、右に曲がると本日のゴールJR「杉本町駅」。午後3時15分到着。本日の歩紀「24031歩」(20.66km)。「すみよっさん」と「あびこさん」。「神仏」に守られた古い町だった。
 
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大阪24区を歩く~競艇の町「住之江区」

2013-09-20 21:38:42 | 日記
訪問日:平成26年10月11日(土)
出 発:地下鉄「北加賀屋駅」
到 着:地下鉄「玉出駅」

 かって一帯は「墨江」「住吉」「清江」と称し、「記紀」「万葉集」などでは、いずれも「すみのえ」と呼ばれていた。昭和18年、かつての「住吉郡」が大部分を占めた旧住吉区が「住吉区」「阿倍野区」「東住吉区」と分区された際、当時の住吉区役所があった阿倍野区が「住吉区」の名を引き継ぎ、住吉区は「住之江区」と名乗る予定であった。しかし、住吉大社周辺の住民らの反対に遭い、そのまま「住吉区」の名を引き継ぐ。そして、区西部が住吉区から分区される昭和49年まで「住之江区」の誕生を待たなければならなかった。
 区の西に広がる大阪湾が「大阪南港」として埋め立てられ、現在では「咲洲(さきしま)」と呼ばれる広大な埋立地が誕生し、面積20.8k㎡は24区中最大である。約12万6千の人口のうち3万人近くが海上都市「咲洲」で暮らすといわれる。
 区西部については、以前、「野里町歩紀~摂河泉をゆく~『みなとOSAKA』」で歩いた。そして大阪人が「住之江」と聞いて最初に思いつくのは「競艇」だろう。「住之江競艇場」では、連日、モーターボートの爆音が轟く。今回は「住之江競艇場」から区東部を歩く。


 地下鉄四つ橋線「北加賀屋駅」を午前9時50分発。
 

 4番出入口を出て「南港通」を西へ。目の前の「北加賀屋交差点」を渡り右折すると「加賀屋天満宮」が現れる。
 

 由緒は不詳であるが、住之江区のホームページによれば、後ほど触れる「新田開発」された江戸時代にまでさかのぼるらしい。一時荒廃し、昭和26年に再建されたそうだ。今日一日の安全を祈願する。
 

 「天神さん」なので「神牛像」がある。
 

 再度、「南港通」を東へ戻る。右に団地が並ぶので、11号棟と12号棟の間を右折しよう。
 

 左に「中加賀屋公園」を過ぎる。
 

 すぐにアーケードが現れる。「加賀屋商店街」。通称「ハイハイかがや」。
 

 脇にそれると、大阪独特の長屋が残る。
 

 「うだつ」のある長屋も。
 

 活気があるな。朝から酒屋さんも全開だ。
 

 途中、通りを渡れば「加賀屋本通商店街」と名を変える。「センターロード」と呼ばれているようだ。
 

 区民の生活を支えているという感じがする。450mほど続くアーケード街だ。
 

 アーケードを通り抜け、突き当たりまで進み左折。次の角を右折し「姫松橋」を渡る。
 

 横の説明文を見ると「古今集」にも読まれたほどの名所で、「住吉浦」と呼ばれた松原は、春になると潮干狩りで賑わったという。
 

 下を流れるのは「住吉川」。川と名前が付くが大阪湾に流れる水路である。
 

 お風呂屋さんの前を通りすぎる。
 

 住吉川を越えれば「御崎(みさき)」の町に入る。2つ目の信号を右折すれば、すぐ左側に「御崎警ら連絡所」。引き違い戸の小さな連絡所だ。
 

 赤い門灯が町を守る。
 

 警ら連絡所を過ぎると突き当たりに「住之江公園」が現れるので右に曲がり、公園入口に向かう。
 

 北の端には、「大池」と呼ばれる池や花壇などがある。
 

 

 ナイター設備と観客席のある立派な野球場。
 

 その他、グランドやテニスコート・温水プールなどがあるスポーツ公園だ。
 

 公園を通り抜け、一旦、「住之江通」に出て右に曲がると「大阪護国神社」の大鳥居の前に出る。
 

 護国神社は、「靖国神社」同様、戦没者を祀る神社であるが、靖国神社が単立宗教法人であるのに対し、護国神社は「神社本庁」に属し、東京都を除く各道府県に1社(一部複数)ずつある。
 

 かつての部隊の慰霊碑が並ぶ。
 

 神社前の「住之江公園前交差点」を歩道橋で渡る。この交差点下にある「住之江公園駅」が地下鉄四つ橋線の終点である。
 

 ここから高架の新交通システム「ニュートラム」がポートタウンと呼ばれる「咲洲」まで続き「コスモスクエア駅」で地下鉄中央線と連絡するが、詳細は「野里町歩紀~摂河泉をゆく~『みなとOsaka』」参照。
 

 そして、すぐ右側には「住之江競艇場」。「住之江」の名を全国区にしているのは、この競艇場だろう。「水上の格闘技、モーターボートレース」。私は、賭け事はまったくしないので、競艇がどのようなシステムで運営されているのか知らないが、自治体により結成された「組合」によって昭和31年6月に開設された公営ギャンブル場らしい。
 

 入場料100円を払えば誰でも場内に入れるそうだ。年間2/3以上レースが開催されており、訪問日は「堺市制125周年記念競走」開催日だったが、ナイターということで、まだレースは始まっておらず、開場は午後2時とのこと。「センタープール」と呼ばれるレース場も閉まっていた(歩道橋上から撮影)。
 

 無料のエントランス部分では、既に「舟券」の販売(投票?)が始まっており、多くの人が並んでいた。なんか「殺気」立っているな。
 

 片隅には食堂もある。「アタリ屋」とは縁起が良い名前だな。
 

 私は、ギャンブル場(賭場)の雰囲気が苦手なので、早々に競艇場を後にし「住之江公園前交差点」を南下する。
  

 ここから次の「南加賀屋4交差点」までの約500mの間には、左右にファーストフードやファミレス、チェーン系列の多くの飲食店が並ぶ。
 

 ハンバーガー・和食・洋食・中華・牛丼・寿司・焼肉・餃子・お好み焼き……。
 

 「南加賀屋4交差点」を渡って左折し「大和川通」を東に5分ほど歩く。左にコンビニと回転寿司店が見えれば、右に小さな路地があるので右折、南へ進むと古い街並みが見えてくる。かつて海だったこの辺りは、宝永元(1704)年、河内国今米村の庄屋「中甚兵衛」が大和川を付け替えたことから、「新大和川」が運ぶ砂による沖積平野となり、新田が開発されるようになった。
 

 「加賀屋緑地」。延喜2(1745)年、加賀屋甚兵衛という人物が、この辺りに新田を開発し、その拠点として設けられた「加賀屋新田会所」跡だ。大阪平野には多くの「新田会所」に関する史跡が残る。
  

 数寄屋風の屋敷や「愉園」と呼ばれる庭園が残る。入場は無料。
 

 

 大阪市有形文化財・史跡に指定されているそうだ。
 

 「会所跡」を出て南へ。一つ目の四つ角を右に曲がると左に何やらコンクリート造の屋根のようなものが。
 

 戦時中に造られた「防空壕」らしい。個人の所有で今は倉庫として使用されているそうだ。
 

 

 防空壕から西に進むと、ここにも古い町家が。井戸跡もある。
 

 そして、突き当たりに「高崎神社」。宝暦5(1755)年、加賀屋甚兵衛が水分神を勧請して建立。
 

 その後、天照大神・柿本人麻呂を合祀した。
 

 そしてすぐ南には、新田開発の元となった「大和川」が流れる。大和川は、淀川に次ぐ大阪第二の大河である。奈良県貝ケ平山を水源とし、「河内平野」に出た後、幾筋にも分かれて北に流れ、内海だった「河内湖」に注いでいた。その後、先の「中甚兵衛」が西へと開削し、大阪湾へと流れる(3つの柏原を訪ねる2「河内柏原」~高安山麓を東高野街道に沿って~参照)。
 

 堤防沿いに歩くと左に鎮守の森が見えてくるので堤防を下りる。
 

 「高砂神社」。同じく、加賀屋甚兵衛が、元文2(1737)年、水分神を勧請して建立した。
 

 火災により焼失し、天保6(1835)年に再建され、菅原道真ら多くの神々を祀る。
 

 その東側には「浄土真宗本願寺派祐貞寺」。御本尊は阿弥陀如来で、歌人・与謝野鉄幹が14歳までここで学んだという。
  

 その前には、今にも崩れそうな民家が。いずれ建て替えられる運命なのだろう。
 

 東には、現在の「国道26号線」。旧「紀州街道」が南北に走る。古代は、この辺りまで海だったと言われる。「阪神高速」の出口があり、向こう側には渡れないので、一旦、左折し、高架下を歩く。
 

 次の「北島交差点」で右折し、阪神高速の高架をくぐれば、大和川で大坂と奈良を結んだという「剣先船」が繋がれていた「十三間川せせらぎ」跡。昭和45年の高速道路建設により失われたが、昭和58年、遊歩道として再現された。
 

 「大和川通」を東に進む。かつて、ここには「西住之江温泉」という銭湯跡があったのだが、取り壊し中のようだ。
 

 こんな建物だったんだが。多くの古い建物がなくなっていくな。残念。(平成22年7月18日撮影)
 

 南海本線高架下の「三宝地蔵尊」前を通り、さらに東へ。
 

 この建物は酒屋さんなのだが、「薄切りのチーズ」のようだ。
 

 そして酒屋さんの向こうを右に曲がる。時間は午後12時15分。今日の昼食は「味の洋食とん助」。隣には町家を利用した「酒仙坊九十九」が。
 

 「トンカツ定食大(1000円)」を注文する。
 

 「とん助」の向かいにも古い町家が。
 
 
 「大和川通」を挟んで向かい側にアーケードが見える。「安立本通り商店街」。「安立」と書いて「あんりゅう」と読む。
 

 付近住民の生活を支えてきた商店街は「旧紀州街道」だ。
 

 「うなぎ」は、どうなるんだろう。
 

 街道らしい建物が残る。
 

 アーケードを出たところにも「虫籠窓」の立派な町家が。
 

 

 信号を渡るとすぐに小さなお社が現れる。
 

 「霰松原神社」。周りは小さな公園になっている。この辺りは、江戸時代まで白砂青松の海岸だったらしい。松原が「霰(あられ)」を吹き付けるように轟いたことから「霰松原」と呼ばれたそうだが、今は住宅街の真ん中だ。
 

 「安立町役場」があったようだ。後ろの「大木」も「土蔵」も立派だ。
 

 良いね。このパーマ屋さん。
 

 ここは町家を利用したカフェのようだ。
 

 もうしばらく街道を行く。
 

 「安立1交差点」で「長居公園通」を渡る。
 

 ここにも古い町家。
 

 100mほどで「細井川」という水路に架かる「御祓橋」に出る。「お祓い?」。なんか「神道」チックな名前だな。そう、川の向こうは「住吉大社」。橋を渡れば「住吉区」になるので、橋の手前を左折、川沿いに歩く。
 

 この川は、旧淀川の支流で、下流部分が今朝渡った「住吉川」である。
 

 南海本線をくぐり150mほどで「江川橋」という橋に出る。橋を渡れば「住吉公園」へと続く。
 

ここの角にも古い町家が。
 

 「住吉公園」。明治6(1873)年に指定された府営公園。分区前の「住吉区」に属したことからこのように呼ばれるが、今は「住之江区」に位置する。
 

 かつて「住吉大社」の境内であったが、今は「心字池」という池を中心に野球場や体育館などを備えたスポーツ公園になっている。
 

 

 

 かつては海辺だったのだろう。松の木が多い。
 

公園西の「国道26号線」の向こう側には「住吉高燈籠」。
 

 鎌倉時代に創建されたという高さ16mの常夜灯で、わが国最初の灯台と言われる。元は約200mほど西にあったものが、台風で倒壊した後、昭和49年、この場所に移転・再建された。内部は、史料館になっているが、第1・3日曜日のみの開館のため見学はできなかった。
 

 公園は「住吉大社」の参道でもある。石燈籠が並ぶ。
 

 公園東の南海本線「住吉大社駅」のすぐ東は、摂津一の宮「住吉大社」である(「住吉区」編参照)。
 

 そして「住吉大社駅」西口から続く「粉浜商店街」。
 

 「粉浜」と書いて「こはま」と読む。住吉大社の門前でもあり、活気あふれる商店街だ。
 

 お地蔵さんの隣には、ちょっと良い感じの喫茶店。
 

 ここで商店街は二手に分かれる。
 

 再度、合流したところで約630mのアーケードは途切れる。「粉浜街道」というらしい。
 

 「市立粉浜小学校」の庭には「二宮金次郎」の像。
 

 さらに「粉浜街道」を進む。この交番も良い感じだな。
 

 ここにも古い民家が残る。
 

 ほどなく国道26号線と合流し、午後1時50分、本日のゴール「玉出交差点」に到着。交差点下には、地下鉄四つ橋線「玉出駅」。今朝スタートした「北加賀屋駅」の1つ手前の駅だ。西成区との区境になっており、駅自体は「西成区」になる。
 

 今日は早めのゴールだったな。本日の歩紀「18190歩」(15.64km)。3番出入口前には「大阪府住之江警察署玉出交通警察官詰所」。
 
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大阪24区を歩く~日本一からの眺め「阿倍野区」

2013-09-20 21:37:55 | 日記
平成27年2月14日(土)
出 発:南海「岸里玉出駅」
到 着:JR「寺田町駅」

 かつての「摂津國住吉郡」として広大な地域を管轄していた「住吉区」が、昭和18年4月1日の区編制により分区。「東住吉区」とともに誕生した「阿倍野区」。旧住吉区役所が「阿倍野」の地にあったことから、そのまま「阿倍野区」が「住吉区」という区名を名乗る予定であったが「住吉大社」周辺の住民らから反対に遭い断念。以前は「東成郡天王寺村大字阿部野」という地名であったことから区名となる。陰陽師「安倍晴明」ゆかりの地として、また、かつてこの地を治めた「阿部氏」に因み地名になったなどの諸説があり「阿倍野」「阿部野」「安倍野」あるいはひらがな・カタカナで「あべの」「アベノ」などと表記される。
 区北部は、天王寺駅南側に位置する繁華街であり、平成26年6月には、地上60階、高さ300m、日本一の超高層ビル「あべのハルカス」がオープンした。区西部の「上町台地」は高級住宅街として開け、区東部にはちょっとレトロな旧市街地が残る人口約10万1千人の住宅街である。「東西南北」「高さ日本一」と立体的に歩くぞ。「野里町歩紀~摂河泉をゆく~陰陽師ゆかりの地『阿倍野』」もよろしく。


 南海「岸里玉出駅」。南海本線と高野線、そして超ローカルな支線である汐見橋線の3線が交わる。かつては、それぞれ別の駅だったようだが、統合されたため駅舎は東西に分かれている。
 

 駅舎自体は「西成区」だ。午前9時15分出発。
 

 駅を出て南へ。モータープールの角を左折すれば信号に出る。そこに「阿部野神社」の看板。向こうを走るチンチン電車の「阪堺電車阪堺線」を越えれば7~80mで「阿倍野区」に入る。
 

 「阿部野神社」。南北朝時代、南朝方についた「北畠顕家(きたばたけあきいえ)」とその父「北畠親房(ちかふさ)」を祀る神社である。付近の地名も「阿倍野区北畠」という。
 

 この階段を真っ直ぐ進めば境内なのだが、正面から参拝するため南に回る。
 

 ここは、北畠顕家が足利軍との戦いで敗れた古戦場跡と伝わるが、神社自体は明治15年創建の比較的新しい神社である。
 

 境内に入れば「北畠顕家像」が建つ。
 

 今日一日の安全を祈願する。
 

 高級住宅街を東に抜ける。
 

 税関宿舎を過ぎれば右に「府立住吉高校」。大正11年創立。当時の「住吉郡住吉村」にあることから「住吉」という名が冠されている。古い学校なので多くの著名人を輩出している。
 

 グランドとの間を東へ。チンチン電車「阪堺電車上町線」の「北畠停留所」。
 
 
 少し北に上り、大きなマンション前で阪堺線と分かれ右へ。
 

 すぐに「浄土宗源正寺」。
 

 寺の角を右折し、次の突き当たりを右に曲がって、先ほどのマンション角で左折。「あべの筋」を左に曲がる。
 

 目の前の信号で「あべの筋」を渡ると「北畠公園」。
 

 公園の一角には、先ほど訪れた阿部野神社の御祭神「北畠家」の墓所がある。
 
 
 「あべの筋」をひとつ南の信号まで戻り、左折すれば「あべの王子商店街」の入口に出る。「あべの筋」に並行して南北に走る約400mのアーケード街だ。
 

 まだ、午前中なので人通りは少ない。
 

 商店街から路地に入ると「播磨湯」というお風呂屋さん。
 

 商店街に戻る。
 

 お好み焼き屋さんもまだ鉄板に火は入っていないようだ。
 

 北端で左に曲がり「王子本通商店街」として「あべの筋」まで続く。
 

 商店街出口から「あべの筋」を挟んで正面には「阿倍王子神社」の鳥居が。
 

 「熊野三山」へと続く「熊野街道」に建てられた「九十九王子」のひとつで、大阪府下で唯一現存する「九十九王子」である。
 

 御祭神は、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」「素戔嗚尊」「品陀別尊」の四柱。
 

 神社の隣には「印山寺」。曹洞宗の寺院であるが、先ほど訪れた「阿倍王子神社」の宮寺として造営されたことから、かつては「神宮寺」と呼ばれたらしい。明治時代の神仏分離令を経て現在に至る。山門前の碑によると「五代目桂文枝之墓所」のようだ。
 

これまで訪れた「阿倍(部)野」は、かつてこの地を治めた豪族「阿部氏」に因むものと伝わる。「印山寺」前の道は「熊野街道」。右(北)に曲がる。すぐ右手に「安倍晴明神社」。
 

 そう、あの陰陽師「安倍晴明」である。「阿倍野区」という地名のもう一つの由来である。安倍晴明は、安倍保名という人物が和泉國「信太の森」で助けた白狐との間に生まれたと伝わるが、詳しくは「野里町歩紀~摂河泉をゆく~」の「能勢、3つの伝説を訪ねる」「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~」「浜寺から織物の町、小栗街道を経て信太の森へ」を参照。
 

 境内には、安倍晴明が産湯をつかったという「産湯井」が残る。
 

 「清浄水」という手洗舎の水は、井戸水らしく温かかった。夏は冷たいのだろう。
 

 参拝を終え「熊野街道」を北へ。
 

 すぐに「阿倍野保名郵便局」。完全に安倍晴明の世界である。
 

 「熊野街道」を北に歩く。街道らしい街並みだ。
 

 すぐに「松虫交差点」で「松虫通」を渡り左(西)へ進む。
 

 この道は「歴史の散歩道」。
 

 チンチン電車を渡る。
 

 すこし歩けば右に「松虫塚」。
 

 後鳥羽上皇の官女「松虫」が庵を結んだなどいろいろな説がある。
 

 さらに西へ進む。
 

 「市立松虫中学校」を通り過ぎれば、右にこんもりとした山が現れる。
 

 路地を右折し、階段を登れば「天下茶屋聖天正圓寺」。付近の住民からは「天下茶屋の聖天さん」と呼ばれているそうだ。
 

 山門の前に「不動明王」。
 

 真言宗の寺院であるが、本堂の前には「聖天山山頂」の標柱が。そうここは標高14mの「聖天山」と呼ばれる「低山」なのである。
 

 参拝後、先ほどの「不動明王」まで戻り右へ。この道は「西成区」との区境である。
 

 ぐるっと回って階段を上る。そしてここは「御勝山古墳」「帝塚山古墳」「茶臼山古墳」と並ぶ「大阪市四大古墳」のひとつ「聖天山古墳」でもあるのだ(「生野区」編、「住吉区」編、『野里町歩紀~摂河泉をゆく~「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~』」参照)。
 
 
 今は公園になっている。土器や刀剣などが発見されたそうだが被葬者は不明。公園の一角に古墳の一部が保存されている。
 

 「聖天山公園」から北に住宅街を抜ける。かなり高低差があるようだ。
 

 そのまま進んで行けば「大阪キリスト教短期大学」。
 

 明治38(1905)年に創設された伝道所に建てられた神学校を母体に昭和27(1952)年に開学した短期大学だ。
 

 そのすぐ北には「大谷学園」。親鸞を祖とする「真宗大谷派」が設立。創立は寛文5(1665)年までさかのぼる。その後、真宗伝道所から学校へと発展し、明治42(1909)年、大谷女学校として開学。ここには、中学・高校と東大谷高校が置かれている。キリスト教から仏教。いろいろあるな。
 

 住宅の間を抜け「あべの筋」に出れば左折。
 

 「阪神高速道路」の高架をくぐれば「阿倍野交差点」の角に「あべのベルタ」という17階建ての高層マンション。交差点を左折する。
 

 高架の向こうには「市設阿倍野墓地」。
 

 右には「あべのクオレ」という14階建ての高層マンション。
 

 「あべのベレーザ」という、これも14階建てのマンションを過ぎれば「あべのグラントゥール」という40階建ての高層マンションが。
 

 左に「大阪市大病院」を見ながら北へ。
 

 「あべのルシアス」という16階建てビルを過ぎれば突き当たるので右へ。
 

 道路を挟んで北側には「旧阿倍野ホテル」。昭和6年建築のレトロビルだ。
 

 その後「浪速郵便局阿倍野橋分室」を経て「大手前看護専門学校」という学校になったようだが、現在は空き家になっている。
 
 
 そして随分と前から視界に入っていたのだが、目の前には、平成26年6月、日本一の超高層ビルとしてオープンした「あべのハルカス」。地上60階建て。「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」の新アトラクション「ハリー・ポッター」とともに大阪名物となり、国内外から多くの観光客が訪れる。
 

 時間は午前11時30分。今日は「あべのハルカス展望台」のチケットをインターネットで予約した。チケットの引き換え時間が午後0時15分なので、12階の「あべのハルカスダイニング」に上がり「ピッコロ」で昼食とする。
 

 「オムライス(トマトソース)」(907円)を注文。景色を眺めながら食事をとる。
 

 食事を終え、16階で入場券(2000円)と引き換え、エレベーターで地上60階、高さ300mの「展望台」に向かう。大阪市内が一望できる。「よおっ、日本一!」。「ミナミ」から「キタ」への高層ビル群を望む。手前は「天王寺公園」。
 

 先ほど「見上げ」ながら通り過ぎた高層ビル群を300mから「見下ろす」。
 

 「四天王寺」を「上空?」から眺める。一直線に建物が並ぶ「伽藍配置」の様子がよくわかる(「天王寺区」編参照)。
 

 多くの観光客が「日本一」の眺めを楽しんでいた。
 

 

 59階は吹き抜けで、58階は「屋上庭園」になっている。天井がないので少し寒い。
 

 見学を終え16階へ。ここもちょっとした展望台になっている。
 

 かなり眺めは良いのだろうが、30階と比べると雲泥の差だ。
 

 「日本一」から下りたところには、阪堺電車「天王寺駅前」停留所。「上町線」の出発点だ。
 

 「あべのハルカス」の南側は「あべの」の繁華街。すぐ西に労働者の町「西成」が控えているため「キタ」や「ミナミ」に比べると若干地味だが、近年、上町台地というしっかりとした地盤であることから、先ほど眺めた高層ビルを中心としたショッピング街を経て、現在の「あべのハルカス」へと続いている。
 

 この道は「庚申街道」。
 

 南へ進むと「カトリック阿倍野教会」。大正10(1921)年に「望之門教会」としてスタートした「日本キリスト教団」の教会である。
 

 「庚申街道」をさらに南下。
 

 路地を右に入れば「日本キリスト教団大阪常磐教会」。
 

 ネットで調べると信号を渡ったところに昭和35年築の「一富士荘」というレトロなアパートがあるはずなのだが「取り壊し」の真っ最中であった。「残念」
 

 すぐ前には、まだ古い長屋が残っていた。
 

 そのまま進み「阪神高速道路」の高架を迂回し、路地を進んで行けば「玉菊稲荷神社」の小さなお社。久しぶりに日本の神様に出会った。
 

 「庚申街道」に戻り南へ進めば「末日聖徒キリスト教会」。いわゆる「モルモン教」の教会である。
 

 さらに南へ進めば「南大阪教会」。「日本キリスト教団」の教会である。
 

 この塔は、昭和3(1928)年に建てられたそうだ。
 

 南へ進み「阿倍野郵便局」のある信号を過ぎて、次の角を左に入れば何やら立派な木造家屋が。
 

 「寺西家阿倍野長屋」。昭和8年に宮大工により建てられた四軒長屋で登録有形文化財に指定されている。
 

 ここには「町家レストラン」として4軒のお店が入る。
 

 すぐ東の「昭和町駅前交差点」で「あびこ筋」を渡る。地下鉄御堂筋線「昭和町駅」の真上にあるので「駅上交差点」か?
 

 交差点を東へ。次の信号で北を見れば「文の里商店街」のアーケードが見えるが、反対方向を見れば、こちらにもアーケード街が見えるので入ってみよう。
 

 ここも「文の里商店街」の延長だろう。
 

 アーケードを抜けた所のアパート跡も更地になっている。
 

 しかし、所々、古い木造家屋や長屋が残る。
 

 

 突き当たりを右に曲がり「あべの筋」に出て、南へ曲がれば左手に「桃山学院高等・中学校」。明治24(1891)年開校した英学校を母体とする「日本聖公会」系の私立学校である。
 

 校舎横には「聖アンデレ教会」。かつて「川口居留地」にあったキリスト教の宣教学校が明治45(1912)年、桃山中学の礼拝堂として移転。その後、昭和2年、「日本聖公会大阪聖アンデレ教会」として発足したという(「西区」編参照)。
 

 ここから「昭和町3・4・5丁目」と南に進む。
 

 「街並み」とまでは行かないが、結構、古い建物が残る。
 

 ここにも。
 

 向きを変えてもう1枚。
 

 「昭和」という地名が良い。
 

 下調べの段階では良くわからなかったが、「昭和町」という町は、結構、古い家、特に「長屋」がたくさん残っている町だな。暫し、長屋の風景をお楽しみください。
 

 

 

 

 これは「千鳥湯」というお風呂屋さん。
 

 さらに古い家が続く。
 

 

 

 

 

 

 

 立派だと思えば、これは「天理教会」。
 

 しかし、この長屋は立派だ。
 

 二戸一クラスは、結構、残っている。
 

 「美園ビル」と掲げられた古いビル。
 

 「南港通」に出れば左折。すぐに「シャープ本社」。明治45(1912)年、東京で早川徳次という人が創業したベルトのバックル業が前身といわれる。その後、発明した「早川式繰出鉛筆が「シャープペンシル」としてアメリカでヒットした。
 

 関東大震災で被災、大阪に移りラジオ製造業として再起。ついには世界的に有名な総合家電メーカーとなる。
 

 社屋とJR阪和線の間には「長池公園」。
 

 「長池」。この後、訪れる「桃ヶ池」とともに「旧大和川」の支流といわれる「猫間川」に連なる湖沼の名残と言われる。
 

 JR「南田辺駅」の前を通りすぎる。駅から東は「東住吉区」だ。
 

 旧川筋に沿って北へ進み、「市立昭和中学校」の西側を通り抜ければ、自然と大きな公園に続く。「桃ケ池公園」だ。
 

 古くから「ももがいけ」と呼ばれる池があり「百ケ池」「股ケ池」「腿ケ池」「脛ケ池」などの漢字が当てられていたそうだが、昭和に入り「桃ヶ池」に改められたという。
 

 かつて聖徳太子が大蛇を退治したとの伝説が残る場所らしい。池に浮かぶ「蛇島」と呼ばれる島。退治された大蛇の屍を埋めたところと言われる。
 

 池の畔には「股ケ池明神」と呼ばれるお社が祀られている。この大蛇に因むのだろう。
 

 一つの大きな池なのだが、複雑に半島が入り組み、池は3つに分けられている。それぞれ橋でつながっている。
 
 
 一番北の部分には大きな島が浮かび公園になっている。一角には「国威宣揚」の碑。昭和13年の建立で、戦前の名残だ。
 
 
 公園を通り抜けところの大通りは「松虫通」。
 

 左(西)へ進めば、右に先ほど見えた「文の里商店街」のアーケード入口が現れる。
 

 300mほどのアーケード街だ。
 

 突き当たりを右に曲がれば「明浄通商店街」と名を変える。
 

 一旦、「阪神高速道路」の高架で途切れる。地下には、地下鉄谷町線「文の里駅」。
 

 50mほどでアーケードは終わる。
 

 商店街を抜ければ「明浄学院高校」。大正10(1921)年、日蓮宗系の女学校として設立されたそうだ。法人経営の短大が、平成18年「大阪観光大学」という4年制大学に改称された。
 

 「明浄学院高校」の北西角には「天明湯」というお風呂屋さん。
 

 この角を左折し、立派なお屋敷が見えてくれば右折する。
 

 突き当たりを左折し、ぐるっと回れば「市立(第二)工芸高校」。
 

 大正12(1923)年に創立された工業デザイン・美術系の古い公立学校だ。
 

 レトロな校舎は、大阪市の有形文化財に指定されている。
 

 高校の北側にも立派な「長屋」が。
 

 同じ筋には「旭湯」というお風呂屋さん。
 

 次の辻を左折し、通りに突き当たれば右へ。次の信号を北に入ると「府立天王寺高校」。明治29(1896)年開校の歴史ある公立高校で多くの著名人を輩出している。
  

 通りに戻り、そのまま東に進めばJR阪和線「美章園駅」。
 

 ガード下に多くの店が並ぶ。
 

 

 裏に回れば。
 

 人の営みも行われているようだ。
 

 近鉄「河堀口駅」のガードをくぐる。「こぼれぐち」と読む。
 

 「あべの翔学高校」。昭和4年創立の「大阪女子商業学校」を前身とする。
 

 長らく「大阪女子高校」と呼ばれていたが、昨年(平成26年)、男女共学となり改称された。大阪の私学は、近年、共学化や短大の4年制への移行等によりどんどん名前が変わるなぁ。
 

 学校の北側は「国道25号線」。歩道橋横に古いたばこ屋さんが見えれば、信号で国道を渡る。
 

 国道を渡れば、すぐ左に「八反田地蔵尊」。長い間、お地蔵さんとして信仰を集めてきたが、専門家による調査の結果「地蔵菩薩」ではなく「阿弥陀如来」であることが判明した。しかし、長らく信仰されてきた「お地蔵さん」を引き継ぐため、わざわざ新たに「地蔵菩薩」が建立された。
 

 正面が、お地蔵さんとして信仰されてきた「阿弥陀如来」。左が、新たに建立された「地蔵菩薩」。
 

 JR関西本線のガードをくぐり、アーケードではないが「寺田町南商店街」へと進む。ゴールも近い。
 

 看板に従い右折すれば「黄金湯」。お風呂屋さんがあるということは「下町」ということだ。
 

 建て替えられ「新旧折衷」の長屋が多く見られる。
 

 長屋の前を東へ進んでいく。
 

 突き当たりを右折し、次の信号の前には商店街の入口。
 

 「アプロ」というスーパーの前を過ぎれば「源ケ橋商店会」へと続く。
 

 真っ暗なアーケードの中にポツリポツリと電灯が灯っている。
 

 「昭和」の臭いがプンプンするな。
 

 120mほどでアーケードは終わる。
 

 アーケードを抜ければ「国道25号線」。目の前は「生野区」編で歩いた「ほんどーり商店街」の出口「源ケ橋交差点」である。ここからは、以前歩いた同じコースでJR大阪環状線「寺田町駅」を目指す(「生野区」編参照)。
 

 午後4時15分、JR「寺田町駅」に着。本日の歩紀「29010歩」(24.94km)。神社・仏閣・キリスト教会・お地蔵さん。「古い町」と言うより「古くから開けた町」なのだろう。
 
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大阪24区を歩く~大阪市に残る河内野「鶴見区」

2013-09-20 21:37:18 | 日記
訪問日:平成26年5月24日(土)
出 発:地下鉄「今福鶴見駅」
到 着:JR「放出駅」

 鎌倉時代、付近には鶴が多く住んでいたことから「鶴見」と呼ばれるようになったといわれるが諸説あり。長らく「城東区」の一部であったが、昭和49年の分区により発足。市北部の「守口市」との境界に「鶴見緑地」という広大な緑のオアシスがある。戦前から造成が続く緑地であるが、平成2年、ここで「国際花と緑の博覧会(花博)」が開催され、緑地は「花博記念公園鶴見緑地」と呼ばれるようになった。
 区の西側は「城東区」「旭区」に接するが、それ以外は「守口市」「門真市」「大東市」「東大阪市」に囲まれた「衛星都市」的な位置関係にある。
 実は、人口約11万2千人の区は、大阪市に編入されているが、かつての「河内国茨田郡」。そんな大阪市内に残る「河内野」を歩いてみた。


 地下鉄長堀鶴見緑地線は、元々「花博会場」へのアクセス「鶴見緑地線」として、「鶴見緑地駅」から「京橋駅」間が平成2年に部分開通。その後、現在の「門真南駅」から「大正駅」まで延伸され、平成9年に全線開通された。大阪の地下鉄でも新しい路線であり、車両も若干コンパクトだ。ホームが低いため、自分が「巨人」になったような錯覚に陥る。
 

 「今福鶴見駅」は、「鶴見通」と「大阪内環状線」が交差する「鶴見3交差点」の下にある。内環状線から西は「城東区」だが、交差点の南東角にある4番出入口は「鶴見区」である。午前10時、4番出入口を出発。
 

 鶴見3丁目の町を進む。「真宗大谷派願正寺」というお寺を過ぎると神社の裏手に出るので、ぐるっと回って正面に向かう。
 
 
 「鶴見神社」。この地は、かつて近江国(滋賀県)の人により開墾されたらしい。そのため、比叡山峯八王子の分霊を勧請したのが当社の始まりで、かつては八王子社と呼ばれていたとか。
 

 平安末期、先ほども述べたように、鶴が舞う姿が見られたことから「鶴見」と呼ばれるようになり、鶴見神社と呼ばれるようになったと伝わる。いつもの通り、今日一日の安全を祈願する。
 

 神社から東へ。「市立横堤小学校」の南側路地を過ぎる。
 

 信号を渡り、中央が緑道になった道を左折。正面には、鶴見緑地の「いのちの塔」が見える。
 

 150mほどで右にモータプールがあり、斜めに入る道があるので横堤2丁目の町へと入る。
 

 「五色温泉」。大阪ではお風呂屋さん(銭湯)のことを「○○温泉」という。これは、温泉法にいう温泉ではなく、昔から屋号として使う習慣があったことの名残らしい。湯上がりにまっすぐ帰れないように店が並ぶ。
 

 横堤の町から諸口1・2丁目へと進む。かなり建て替えが進んでいるが、所々古い家が残る。
 

 「真宗大谷派圓満寺」「諸口郵便局」を過ぎると信号のある交差点に出るので左折。北へ進む。200mほどで先ほどの鶴見通に出る。ちょっと西に戻ると「関西鐵工所」という工場。社屋だろうか古い大きな建物が建つ。
 

 表札は個人名のようだが………
 

 そして鶴見通を渡ると「鶴見緑地」へと入る。南側に飛び出た部分は、スポーツ公園になっており、右側には立派なスタンドとナイター設備がある「鶴見緑地球技場」。
 

 左の木々に囲まれたところは、地下鉄検車場の屋上を活用したテニスコート。
 

 競技場の北には「グランド」があり、その向こうは室内の「鶴見緑地プール」とスポーツ施設が並ぶ。フットサルのコートもあるようだ。
 

 右手には地下鉄「鶴見緑地駅」が見えてくる。
 

駅北側の「花博通」。
 

 「花博記念公園前交差点」を渡れば鶴見緑地へのエントランスだ。
 

 右には「生き生き地球館」という建物があり、花博協会事務局などが入る。噴水では、子どもたちが水遊びをしている。
 

 突き当たりには「大池」という池があり、緑地の中心に位置する。花博開催当時は、この池外周で「テクニカルパレード」があったり、「モーゼの奇跡」のように池が二つに分かれるようなアトラクションがあったように思う。私もまだ幼かった娘2人を連れて来たことがある。
 

 中央入口から園内に。ゲートはあるが無料である。
 

 緑豊かな公園になっている。
 

 これは「韓国館」跡。
 

 かつてのパビリオンの一部が残されている。
 

 「中国館」跡越しに「いのちの塔」を望む。高さ90mのこの塔は、18歳以下の子どもを対象とした「100万人会員」の出資により花博のシンボルとして運営され、出資者はプレートに名前が刻まれ、永久に残されるはずだったが、資金繰りが付かず平成22年3月、閉館された。私も2人の娘の名前で出資したのだが………。
 

 さらに進んで行く。右には階段が。これは「鶴見新山」と言われゴミを埋め立てて造られた人工の山だ。造成当時、“山腹”の排気口からメタンガスが流れ“ゴミ臭い”山と報道されていたが、年月を経て緑豊かな山となった。
 

 完成当時は標高45mだったらしいが、地盤沈下で今は39mに。それでも「大阪市の最高峰」らしい。
 

 最高峰からの眺め。
 

 山を下ると「風車の丘」。赤い花が美しい(すみません。私は花の名前を全然知らないんです)。
 

 公園の西半分は「守口市」だ。公園の東半分を一周し、園外へ。花博公園前交差点を渡り、花博通を左折。次の「迎賓館前交差点」で右折し、マンションを抜けると公園の横に「古宮神社」。
 

 かつて、北東150mの地にあったが「花博通」の造成にあたり当地に移転したと言われる。御祭神は、「誉田別命」「住吉四神」「菅原道真」であることから「八幡さん」「住吉さん」「天神さん」ということだろう。
 

 参拝を終え、「浜集落」へと進む。
 

 かなり建て替えが進んでいるが、迷路のような道は昔のままだ。
 

 そして、所々に「河内野」の面影が残っている。
 

 

 集落のほぼ中央に建つ「真宗大谷派宗圓寺」。
 

 網の目のような狭い道を抜けていく。
 

 左に「市立茨田北小学校」。この辺りは、最初に述べたように大阪市に編入されているものの「旧河内国茨田郡」。「茨田」と書いて「まった」と読む。
 

 かつては「茨田郡(まむたのごおり)」と呼ばれたようだ。「播磨国風土記」に記述が見られ、「旧北河内郡」に属する。河内湖跡の湿地帯であり、頻繁に水害に見舞われたことから「古事記」「日本書紀」に書かれた日本最古の堤防「茨田堤」伝承地が隣の門真市に残る。ここにも蔵のある立派な旧家が残る。
 

 茨田北小学校第2グランドの南から水田の横を抜け、一旦、鶴見通に出て左折する。
 
 
 「古宮橋」で「古川」という川を渡り、すぐに左折。「安田」の集落に入る。
 

田植え前の水田。
 

 古川を挟んで東側に広がる「安田」「茨田大宮」の集落も「河内野」の面影を残す。
 

 

 「真宗大谷派専立寺」を過ぎて右に入ると「大宮神社」。お伊勢さんの来社として天照大神を御祭神とする。
 

 「茨田大宮」という地名の由来となる神社である。境内には、高さ17m、幹回り5m超のくすのき。
 

 神社からさらに進むとすぐに大きな道と高架が現れる。大阪の大動脈「大阪中央環状線」。その上を「近畿自動車道」が走る。「茨田大宮1交差点」から「茨田大宮2交差点」へと渡る。1回の信号では渡れなかった。
 

 高速をくぐり中央環状線の東側へ出ると、目の前に大きな建物が。鶴見花き地方卸売市場に平成7年「鶴見はなぽーとブロッサム」として開業したが、平成20年4月、「三井アウトレットパーク大阪鶴見」と改称された。今も看板には当時の名称が残る。
 
 
 上空から見ると「月下美人」の形をした地上5階地下1階の建物で、大型遊具や「スヌーピータウン」などが併設され子ども連れの家族で賑わっていたが「スヌーピータウン」は、平成18年閉鎖された。本当に「バブル崩壊」後の日本は、元気がなくなった。と言うよりバブルの頃はすごかったなぁ。
 

 いくつか飲食店が入っているので昼食にしよう。時間は午後0時15分。「手打ち花鶴」に入る。
 

 今日は、ちょっと二日酔い気味なので「カレーうどん(780円)」を注文した。
 

 食事を終え、館内をブラブラ。
 

 ここには、私が愛用する「mont-bell」のショップもある。
   

 「三井アウトレットパーク大阪鶴見」から中央環状線を南に進む。200mほどで長い歩道橋が現れる。100mを超える「茨田歩道橋」で高速道路を頭上に見ながら、今度は「茨田大宮2丁目」から「茨田大宮1丁目」へと戻る。
 

 そして道は「浜水路」と呼ばれる小さな川に突き当たる。
 

 この辺りにも水田が残る。
 

 ここにも古い家が。
 

 「浜水路」。かつて「河内野」には、旧大和川の「流れ跡」と思われる小さな水路が田の中を幾筋も北上していたようだ。この辺りは、かつて「水郷地帯」で、隣の「門真市」には、今も「レンコン畑」や畑を往き来した「田舟」、「バッタリ」と呼ばれる閘門跡が残る。
 

 水路前には「安田住吉神社」。
 

 由緒は不詳であるが「住吉」というから航海・水運の神様なのだろう。ここもかつては「河内湖」。
 

 神社の前には「宮前橋」。水路沿いに旧家が残る。
 

 「安田中の橋」。この辺りは、まさに「河内野」だ。
 

 

 水路には「サギ」だろうか(鳥の名前もほとんど知りません)。
 

 「浜水路」が「下八箇荘水路」と交わった所にかかる「安田小橋」で鶴見通に出るので左に曲がり、次の「安田2交差点」で横断、安田1丁目に進む。
 

 すぐに「府立茨田高校」に突き当たる。昭和50年開校の比較的新しい高校だ。これまでの「歩紀」で「島上」「豊島」など古い地名を冠された高校を見てきたが、統廃合等により消えつつある。付近には、古事記にも出てくる「盾津」という名前の高校もあったが、今は統廃合され「府立かわち野高校」になった。どうか「茨田」の名も残って欲しい。
 

 茨田高校の南側で「下八箇荘水路」が古川と交わる。
 

 その先にちょっとした通りがあるので左折し「中茶屋1丁目」の町を進む。この辺りまで来ると「集落」から「町」という雰囲気に変わる。「いこいのみち」と呼ばれるグリーンベルトを進む。
 

 しかし、突然、暗渠だった水路が顔を出す。この道は、水路を埋め立てて作られたのだろう。かつては、この辺りも「河内野」の水郷地帯が広がっていたんだな。
 

 そのまま進むと「徳庵2丁目」に入る。目の前には「寝屋川」の堤防が。「徳庵(とくあん)」とは、かつて付近にあった「徳庵」という寺名に由来すると伝わる。寝屋川から向こうは「東大阪市」。東大阪市側にも「徳庵」という地名が残る。
 

 堤防に沿って歩く。
 

 寝屋川に架かる「徳庵橋」。ここで先ほどの「古川」と東大阪市方面から流れてきた「五箇井路」「六郷井路」という水路が交わる。ここから東に1.5kmほど行ったところに「鴻池新田会所」という史跡が残る。この辺りは、江戸中期「三代目鴻池善右衛門」という人物により開墾された新田なのだ。徳庵橋付近の案内図が掲げられていた。水路が複雑に交わるのがわかる。
 

 ポンプ場の横には河川改修の記念碑だろうか。
 

 「徳庵橋」で寝屋川を渡り「今津北」の町へ。ちょっと東に入ると、そこは市境。道の右が「鶴見区」左は「東大阪市」。この辺りは、JR「徳庵駅」の駅前に当たるのだが、駅自体は「東大阪市」に所在する。
 

 「徳庵商店街」という短いアーケード。
 

 アーケードを抜け右に曲がると「比枝神社 」。
 

 元禄元(1691)年、この地を開墾した近江国の人々により日吉大社の分霊を勧請したと言われる。
 

 ただ、本殿前には延宝8(1680)年寄進の灯籠が残ることから、それ以前にお祀りされていたと思われる。
 

 神社を抜け次の信号を右に曲がり、寝屋川方向に戻ろう。「今津諸口橋」という人道橋で寝屋川を再度渡る。遠方には生駒山地が見える。
 

 この辺りは、寝屋川に沿った工場街とマンションや住宅が混在する。
 

 

 「ビープレイス」という大きなマンションの前から、午前中に歩いた「横堤」の町に入る。「横堤八幡宮」という小さなお社に出る。
  

 延文5(1360)年、京都・石清水八幡宮から分霊を勧請したと伝わる。境内には「地車庫」。
 

 横堤の町を西に進み、児童公園を過ぎたところで通りに出るので左折する。
 

 そこにはグリーンベルト。実は、この道は午前中「いのちの塔」を見ながら歩いた道の延長である。鶴見区は、このようなグリーンベルトが多い。と言うことは。
 

 「西三荘抽水所」を過ぎると「三荘橋」というところで暗渠から水路が現れ「寝屋川」と交わる。そう、この道路もかつては「河内野」を流れる水路だったのだ。
 

 300mほど寝屋川に沿って歩く。
 

 次の信号で左に曲がると、そこには「放出大橋」が架かる。「放出(はなてん)」。以前「城東区編」でも歩いた。ここは、「内環状線」を挟んで広がる「放出」の町の「鶴見区」側なのだ(「城東区編」参照)。
 

 かつて「放出大橋」南詰に「改修記念碑」が立っていたが、今は西に70mほど行った児童公園の中に移動されている。
 

 「放出大橋」南詰まで戻り南へ進む。この道は、かつて「放出街道」と呼ばれたらしい。
 

 街道らしい街並みが残る。
 

 道がカーブすると右に「真宗大谷派正因寺」という寺院があるので路地に入る。次の四つ角を左に折れ「融通念仏宗道音寺」という寺の前を通る。この辺りにも古い家が残る。トタンで囲まれているが、形からすれば茅葺き屋根なのだろう。
 

 改装中で全容は望めなかったが、この立派な屋敷も茅葺きだ。
 

 特にこの屋敷はすごい。
 

 屋敷前の路地。
 

 この屋敷の間を通り抜け「放出街道」に戻る。信号を越え、さらに南へ進むと、この辺りにも古い街並みが残る。
 

 そしてスイミングクラブの前に「阿遅速雄神社」。「あちはやお」と読む。鳥居ではなく「神門」が建つ。
 

 門の横には「お陰燈籠」。江戸時代に流行した「お伊勢参り」を記念して慶應4(1868)年に建立されたもので、大阪市内に現存する「お陰燈籠」は、この1基のみらしい。
 

 「神門」をくぐると鳥居が。天智天皇6(668)年、新羅の僧が「草薙剣」を盗んで国へ帰る際、嵐に巻き込まれ、これを「神罰」と恐れ、放り投げられた剣が、この地に奉納されたことが起源と伝わる古い神社だ。
 

 社号標は「神門」の左脇に明治39年に建立されたものがひっそりと建っていた。
 

 参拝を終え、拝殿の横を見ると、江戸時代に建立された小さな社号標石が。右には「放出村」と刻まれている。大阪市の有形文化財に指定されている。
 

 参拝を終え、一旦、神社裏から北上し、神社の西側へと進む。大阪市内を歩いていると、時々見かける「長屋」。
 

 路地を抜けると、そこには「放出みゆき通り商店街」。
 

 170mほどのアーケード街だ。
 

 「1号館」は、見つけられなかった。
 

 そこそこ賑わっている。
 

 しかし、アーケード出口手前の左側に「放出栄町南通」。「シャッター街化」している。淋しいなぁ。
 

 この筋は、完全に閉鎖され「立入禁止」に。
 

 古い中華料理店の向こうには高層マンション。どんどん街並みは変わっていくのだろうな。
 

 アーケードを抜けるとJR「放出駅」。今日のゴールだ。かつて「片町線」と呼ばれた「学研都市線」と平成20年に入って「城東貨物線」が旅客線化した「おおさか東線」が乗り入れる。午後3時20分着。本日の歩紀「26837歩」(23.07km)。
 
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大阪24区を歩く~城の東の八社詣り「城東区」

2013-09-20 21:36:38 | 日記
訪問日:平成25年9月2日(月)
出 発:JR「京橋駅」
到 着:JR「京橋駅」

 「どうしよう。」このコースを歩くのにテーマを何にするか。大阪市「城東区」。住宅と町工場が並ぶ、これと言った名所旧跡やビュースポットがない町だ。とりあえず大阪府神社庁のホームページを開く。区内には、神社本庁系の神社が区を取り囲むように8社ある。そこで神社を訪ねながら歩くことにした。
 文字通り大阪城の東側にある。城を擁した町では一般的な地名かと思ったが、日本では大阪市のみにあり、海外では韓国ソウル市と中華人民共和国西寧市に城東区があるようだ。昭和18年、東成区、旭区から分離。その後昭和49年、区東部が分区し「鶴見区」となる。人口約16万5千人。最近ではマンションが建ち並び、政令指定都市では、全国一の人口密度だとか。
 今日は、朝から雨。Tシャツに短パン、素足にクロックスという「濡れる気、満々」のいでたちで、片手に傘を持ち、カメラを守りながら出発した。


 地下鉄と京阪電車の京橋駅は、大阪市都島区にあるが、JR京橋駅は、ホームが都島区と城東区の境界であり、飛び出た分、南口のみが城東区に位置する。繁華街に続く北口、西口とは異なり、南口は国鉄時代の面影を残している。午前10時30分、JR京橋駅南口を出発する。
 

 駅の東側の道を北に進む。JR東西線の踏切を渡り、京阪電車のガードをくぐって「桜小橋」交差で国道1号線を渡って野江1丁目から4丁目までを歩く。いきなり味のある建物が現れる。
 

 これは、東野田抽水所。実は、今歩いている道は、都島区との区境であり、これらの建物は「都島区」になる。
 

 二叉路に出れば区境は左に流れ、路地をまっすぐ2丁目へと進む。
 

 すぐに古い街並みが現れる。
 

 道沿いも素晴らしいが、路地に入っても昭和の街並みが残る。
 
 
 3丁目に入ると、結構、古い街並みになる。
 

 土蔵が二つ並んだ屋敷。
 

 野江4丁目交差点で再度、都島区との区境に出るが大通り(都島通)には進まず、「バーミアン」の手前を右に折れる。
 

 160mほどで今日最初の神社「水(すい)神社」だ。地元では「野江神社」「野江水神社」と呼ばれている。いつものように一日の安全祈願をする。
 

 「水波女大神」という水の神様を祀る。「厄を洗い流す」ということで、厄除けの神様としてご利益があるとか。
 

 お参りを終え、榎並小学校の横を抜ける。ここは、戦国時代「三好政長」が居城とした「榎並城」の伝承地とされる。
 

 校門の前にも古い住宅が残る。
 

 さらに進むと、先ほどの都島通(国道163号線)に。国道の向こうに見えるアーケードは都島区側にある「野江国道筋商店街」。
 

 城東貨物線をくぐると左側は「旭区」になる。以前、旭区側に「旭国道筋商店街」というアーケードがあったのだが、今は見当たらない。城東区側には、「nex」というスーパーの前にアーケードが設置されている。歩道上には「大阪のおばちゃん」仕様の傘立て付き自転車が。
 

 国道沿いにも古い建物が現役として残る。
 

 旭区との区境を300mほど進むと右に、今日2社目の「関目神社」。
 

 正式名は「須佐之男尊神社」といい、豊臣秀吉が大坂城築城の際、北の守りとして「スサノオノミコト」を祀ったのが始まり。かつて、この辺りには関所があり、「目で見張る関」ということから「関目」という地名になったとの記念碑が立つ。
 

 神社の前を南に進むと何とも良い雰囲気の五叉路が。ここらは空襲には遭わなかったのだろう。(写真は、南からの眺め)
 

 一方通行の狭い路地を左に「成育5丁目」を進む。
 

 国道1号線を越えると京阪電車「関目駅」だ。この辺りの京阪電車は、高架ではないが土手の上を走っており、線路の向こうには踏切ではなく、アンダーパスで抜ける。
 

 改札横のアンダーパスをくぐって東側に。この先には「大阪信愛女学院」というキリスト教系の女学校(幼稚園~短大)があるが、敬虔な学校らしく、女子大生も制服を着用しており、制服での店への立ち寄りは禁じられているのか学生街は形成しない。
 

 駅の南側にアーケードが見える。80mほどの「関目商店街」を抜け南へ。
 

 「関目」の町を歩く。この辺りも空襲を免れたのだろう、木造の住宅が続く。
 

 

 ただ、かなり建て替えも進んでいるようだ。
 

 しかし、公園の端には、地元の人たちに守られたお地蔵さん。
 

 ここは、元「めし屋」だったんだな。
 

 「今福西」の町に出るが、この辺りは昔「鯰江(なまずえ)」と呼ばれていたのだろう。「鯰江公園」のすぐ隣には高層マンションが。
 

 鯰江小学校、幼稚園の横を抜けると「鶴見通」という大きな通りに出る。このすぐ西側に国道1号線が西から北に左折する「蒲生(がもう)4丁目交差点」がある。大阪では「がもよん(蒲4)交差」で通り、渋滞スポットとして道路交通情報でもお馴染みだ。
 

 交差点の下で地下鉄長堀鶴見緑地線と今里筋線が交わる。「蒲生4丁目駅」があり「鶴見通」の向こうにアーケードが見える。「城東商店街」だ。
 

 商店街の中には「城東市場」という市場があり、市場の東側には「地蔵院行者神変大菩薩」が祀られた小さなお堂が。
 

 時間は、午前11時45分。この商店街で昼食としよう。そば処「ひらの」という店に入る。
 

 えびカツ丼(800円)を注文した。エビ天とトンカツがのっているのかと思ったが、一つの衣の中に海老とカツがくるまれていた。
 

 食事を終え、約170mのアーケードを抜ける。アーケード街だが、古い町家が並ぶ。
 

 このタバコ屋さんも立派な「昭和造り」だ。
 
 
 鯰江保育園の前で右折すると、すぐに先ほどの「がもよん交差」に続く今里筋に出るが、中央分離帯があるので、ひとつ北にある信号で今里筋を東から西に渡ろう。
 

 蒲生4丁目の町を抜ける。結構、古い街並みだ。「若宮地車蔵」。この辺りの秋祭りは、だんじりが巡行するのだな。
 

 正福寺というお寺を過ぎると3社目の「若宮八幡大神宮」。大神宮と言うが小さなお社だ。
 

 こういうことらしい。
 

 神社の前には小さなお堂があり、たくさんの仏様が祀られていた。
 

 神社前の風景。
 

 そして向かって左のお屋敷は、なんと「茅葺き」。大阪市内で茅葺き屋根の家が見られるとは思わなかった。
 

 ひとつ南の信号を左折し東方向へ。この道も結構、古い家が残る。
 

 蒲生4丁目の街並み。難波から野崎観音や大和へ続く街道だったらしい。大阪市内とは思えない。
 

 町家も続く。何か良い感じだな。
 

 「新喜多大橋」北詰で今里筋を西から東に渡り、ひとつ東側の「新喜多橋」北詰に出る。
 

 橋を渡った所にも古い町家が。何かお店をしているようだ。
 

 「新喜多(しぎた)」とは、昔この辺りの新田開発に携わった「新十郎」「喜七」「多兵衛」という人の頭文字から取った地名らしい。橋の北詰めから「今福南」の町を進む。
 

 この道も結構、古い家が残っている。
 

 360mほどで左に4社目の「皇大神宮」。伊勢の内宮同様、天照大神をお祀りする。
 

 平安時代末期に創祀されたとか。
 

 鳥居の横には「地車庫」が。
 

 皇大神宮の前を南に進む。この辺も古い街並みが残る。
 

 

 今福小学校を抜けた所で「極楽橋」という橋で「寝屋川」を渡る。城東区は、東西に「寝屋川」「第二寝屋川」が、南北に「城北川」「平野川分水路」という4本の川が流れる。区の南西部には「平野川」も。川と言っても工業用水と下水、水運のための「運河」で、かつては巨大な「どぶ川」として悪臭を放っていた。今では区内に4カ所の下水処理場ができ、かなり水質も改善されたようだが、やはり川というよりは「水路」だ。寝屋川を渡り東へ。歩行者専用橋から寝屋川を下流方向に望む。右(北)から城北川が、左(南)から平野川分水路が十文字に交わり「川の交差点」となっている。
 

 川の南側には「放出小学校」。これから「放出」の町を歩く。雨がきつくなってきた。
 

 「放出」。大阪でも珍名中の珍名だろう。「ほうしゅつ」と書いて「はなてん」と読む。町工場と住宅が続く、何でもない町だ。
 

 「放出」は、昭和49年の分区により、大阪内環状線をはさんで西側が城東区に東側が鶴見区となった。主な施設として鶴見区側には「JR放出駅」が、城東区側には小学校の他「放出中学校」「放出幼稚園」などがある。
 

 放出幼稚園の横を過ぎ、平野川分水路を東から西に渡る。
 

 新喜多東2丁目の町を抜ける。
 

 いくつかのアンダーパスがあるので、地図を頼りにJRの南側に出よう。本日5社目の「八劔神社」。村人らが夢でご神託を受け、応永3(1396)年に小さな祠を建てたのが始まりとか。
 

 裏に出れば地車庫がふたつ並ぶ。
 
 
 神社西の城東小学校校門横には「大坂冬の陣・鴫野古戦場跡碑」が立つ。ここは、大坂冬の陣最大の激戦地で、湿地帯であったことから合戦には不向きなため銃撃戦が行われたという。日本に鉄砲が伝わったころは戦国時代。鉄砲は、またたくまに 新兵器として広まり、当時の日本は、世界一の銃保有国となり、17世紀に軍隊同士の銃撃戦が行われていたのだ。碑はフェンスに囲まれていたので、隙間からカメラを差し入れ撮影する。
 

 再度、東に進み「天王田」の町を抜ける。
 

 地車庫の横に「八坂神社」というお社があるが、今日の「八社」には含まない。
 

 今度は西から東に平野川分水路を渡り、すぐ右へ。ここも第二寝屋川と平野川分水路が十文字に交わる「川の交差点」。
 

 下水処理場の北側を東に、「左専道公園」と「諏訪小学校」の北側を進む。「佐専道」の由来は後ほど。
 

 大阪内環状線高架下の公園を抜けて右へ、一つ目の辻を左に曲がり「諏訪」の町へ入る。
 

 「諏訪」の町にも古い街並みが残る。素晴らしい道だ。小雨が似合う。
 

 懐かしい「散髪屋さん」。今も営業しているのだろうか。
 

 路地に突き当たり右折する。この路地は「東大阪市」との市境。東大阪市は、かつての「河内國」。つまりこの路地は「摂津」「河内」の国境ということだ。
 

 すぐ右側に6社目の「諏訪神社」が現れる。境内の石灯籠には、承和3(836)年の銘があり、平安時代前期にはあったといわれる古社。「建御名方刀美命(たけみなかたとみのみこと)」を祀り、長野県・諏訪大社の分社。
 

 境内には天神様(菅原道真)が祀られ、その前には、かつて太宰府に左遷配流される菅原道真が腰掛けたという石が。そのため、この道は「左遷道」と言われ、その後「佐専道」と呼ばれるようになったとか。後ろには地車庫。
 
 
 参拝を終え、路地を右に。しばらく「国境」の道を歩く。
 

 マンションのある角を右折、西に進む。大阪府立成城高等学校の前を過ぎると、そこには「あれ」が。「あれ」とは? 先ほど「放出」の町を歩いたが、放出(はなてん)の名を全国区にしたのは、やはりこれだろう。「ハナテン中古車センター」。
 

 看板の「8710」の下には、あのセリフが。
   女:「あなた 車 売る?」「私 高く買うわ!」
   男:「あんた 一体 誰?」
   女:「私? ハナテン中古車センターよ」
   ♪:「ハナテン中古車センター~~~。」
 大阪では、「京橋のグランシャトー」と並ぶ、有名なコマーシャルだ。地名は「城東区諏訪」だが、ここに「(株)ハナテン」の本社がそびえる。
 

 城東中学校の前を過ぎ、さらに西へ。永田大橋で平野川分水路を渡ると「東中浜」。ここから、アーケードはないが商店街が続く。「東中浜商店街」。


 結構、古い家が残る。民家右のポールは、紀元2600(昭和15)年を記念して建てられた「国旗掲揚台」のようだ。
 

 交差点を渡り、ペイント舗装に代われば「緑橋商店街」と名を変える。
 

 ここも古い町家が残る。
 

 「本町湯」。レトロというより重厚な銭湯だ。
 

 この辺りから「緑橋西商店街」となる。
 

 信号で今里筋を渡れば「中浜本町商店街」に。
 

 名前を変えながら800mほどの商店街が続く。
 

 

 本屋前の小さな路地を入る。7社目の神社「稲荷神社」。地元では「東本(とうほん)稲荷神社」と呼ばれる。家と家にはさまれた小さな神社だ。創建は不明だが、天正4(1576)年に兵乱で焼失したとのことであるから、それ以前からあったのだろう。
 

 北に上り「中浜」の町を抜ける。
 

 

 そして、今日最後の神社「白山(しらやま)神社」。
 

 菊理媛神(くりひめのかみ)を祀り、創建は不明だが応永時代(1400年代)から付近の氏神様だったといわれる。境内には大イチョウがあり、高さ約23m、大阪市内一のイチョウは、大阪府天然記念物に指定されている。
 

 神社前の「衛門橋」で平野川を渡り右(北)へ。
 

 「城見橋」で第二寝屋川と平野川の合流点を渡り「鴫野」の町へ。
 

 「鴫野湯」。これもレトロなお風呂屋さん。営業中の現役だ。
 

 「そば一番」。そば屋さんだが、オムレツもあるようだ。
 

 さらに北へ上り「鴫野橋」で寝屋川を渡る。
 

 午後3時30分、今朝出発したJR京橋駅南口に到着。本日の歩紀「22922歩」(19.71km)。何の特徴もない町だと思っていたが、やはり町には町の顔があり、どれも「良い顔」をしている。
 

 南口横のガード脇には、終戦の前日である昭和20年8月14日、大阪大空襲により爆撃された京橋周辺の被災者の霊をなぐさめるお地蔵さんが祀られていた。京橋は、大阪砲兵工廠の直近だったため、激しい爆撃があったようだ。「合掌」。
 
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大阪24区を歩く~ダイエー発祥の地「旭区」

2013-09-20 21:35:56 | 日記
訪問日:平成25年7月20日(土)
出 発:地下鉄「太子橋今市駅」
到 着:地下鉄「千林大宮駅」

 大阪市旭区。東成区からの分区により昭和7年に誕生。「日出る朝日」をイメージして「旭」区と命名されたとか。同名の区が横浜市にもある。大阪市の北東に位置し、北には淀川が流れる。人口約9万2千人。国道1号線や京阪本線が横切り、大阪~京都の途中にある住宅街だ。空襲を免れたため、昔の区割りがそのまま残り、大規模な都市開発はされていない。

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 今日のスタートは、地下鉄谷町線「太子橋今市駅」。谷町線は、大阪市営地下鉄だが大阪府八尾市の「八尾南駅」から大阪府守口市の「大日駅」までを結ぶ。この辺りは、国道1号線の真下を走り、国道に面した二つの町名を駅名に冠しているため「野江内代」「関目高殿」「千林大宮」と若干長い駅名が続く。やはり、駅名に町名が反映されると「駅前」として地価等に影響するのだろうか。9時50分出発。
 
 
 6番出入口から地上に出ると真ん前が国道1号線、通称「京阪国道」。左に進むと、すぐに「太子橋」交差に出る。交差点の10mほど手前に大阪府守口市との市境があるので、ここは守口市だ。角には、タイル貼りの古い建物が建つ。
 

 交差点を左折して市境の道に沿って歩くと、すぐに小学校の前に出る。この学校は「大阪市立太子橋小学校」。この校舎の端っこが大阪市旭区に引っかかるため、そこで住所を取っているが、校舎の大部分と校庭の全ては大阪府守口市緑町にある変わった学校だ。
 

 小学校北側の阪神高速道路下にある信号を渡って進むと、途中、二戸一の古い住宅。旭区にはこんな住宅がたくさん残っている。遠くに見える堤防の階段を目指す。
 

 堤防の中ほどに石垣で台座が組まれている。
 

 そして、その台座には「平太(へいた)の渡し跡」の石碑が。かつて、ここには民営の「平太渡し」という渡し船があったそうだ。しかし、豊里大橋の開通により昭和45年3月、淀川最後の渡しが290余年の歴史を閉じた(最下流の安治川に天保山渡しがあるくらいかな)。
 

 堤防を上ると目の前には淀川の流れ。ここら辺りは、川幅が500m以上あるだろう。今は、平太の渡しに代わって開通した「豊里大橋(全長561.4m)」が大阪市東淀川区へと続く。
 

 右に淀川を見ながら下流に向かって歩く。しばらくすると左手の堤防下に大きな建物が現れる。これは、大阪工業大学と常翔学園と呼ばれる附属の中学・高校の校舎群。常翔学園高校は、旧大工大附属高校で、高校ラグビーの強豪校だ。
 

 左側に、後ほど訪れる「城北公園」の緑を眺めながら大阪一の大河「淀川」に沿って進む。
 

 「菅原城北大橋(全長1355.7m)」という橋をくぐる。この橋は有料橋で、通行料金が100円であることから「100円橋」と呼ばれている。
 

 橋をくぐると左は、ちょっとした休憩スペースになっており、小さな祠と石碑が立つ。「千人つか」。昭和20年6月「大阪大空襲」での死者数万人のうち、身元が分からなかった数千体の遺体がこの淀川河川敷で荼毘に付され、その犠牲者の冥福を祈るために建立されたものだといわれる。
 

 そして「菅原城北大橋」を過ぎたころから右側に「わんど」が見られるようになる。「わんど」とは、川の水深を確保し、流れを緩やかにするため、川に突き出された「水制」と呼ばれるT字形の工作物に、永年、土砂や水草、藻などが溜まりできた小さな「湾」のことをいう。特にこの辺りに多く見られる。
 

 本流の流れに影響されないため独特の生態系が生じ、天然記念物の「イタセンパラ」という小魚などが繁殖するそうだが、最近では、外来魚に駆逐され絶滅の危機に瀕しているとか。
 

 「わんど」を見ながら進んで行くと左手の堤防下に小さな神社が見えてきた。堤防の階段を下りていくと途中に「赤川廃寺」。かつてこの辺りに「大金剛院(赤川寺)」という寺があったそうだが、大坂夏の陣で兵火により炎上し廃寺となった。そして明治32年の淀川大改修により伽藍の位置もわからなくなったとか。今は小さな石碑が残るだけだ。
 

 細い道を抜け神社の前に。横には古い屋敷が残る。神社は「日吉神社」といい、近江「日吉(ひえ)大社」の御祭神「大山咋神(オオヤマクイノカミ)」を祀る。今日一日の無事を祈願する。
 

 お参りを終え、古い屋敷前の路地を入り、ぐるっと回って再度堤防に登ると目の前には白い鉄橋が。
 

 JR城東貨物線の「赤川橋梁(全長610.7m)」だ。この鉄橋は、本来、複線用に作られているが、城東貨物線が単線のため、上流側を大阪市が借り受け、歩行者・自転車専用の「赤川仮橋」として使用されている。
 

 もしかすれば列車とすれ違えるのではと思い、線路横の歩道を歩く。
 
 
 対岸(東淀川区)に着く。時間は、午前10時50分。そこには踏切があり、JRの人が工事をしていたので、何時頃に列車が通過するのか訪ねたところ「12時20分」とのこと。
 

 どうしようかと迷ったが、今日は「急ぎの旅」ではないので待つことにした。ちょうど鉄橋の下が影になっていた。暇つぶしに川を眺める。遠方に見えるのは「大阪キタ」のビル群。
 

 待つこと1時間30分。踏切の音と共に吹田(北側)方面から貨物列車がやってきた。
 

 貨物専用のため「駅すぱあと」では検索できないが日に数本運行されている。運が良ければ至近距離で貨物列車とすれ違うことができる。
 

 しかし、あくまでも「仮橋」。城東貨物線は複線化され「おおさか東線」として平成30年に生まれ変わるため、今年(平成25年)秋で約80年の歴史に幕を閉じるそうだ。今回が見納めだろう。
 

 赤川鉄橋から先は「都島区」になる。堤防を下り、淀川を後にする。途中、「福助湯」という銭湯。普通、大阪では「お風呂屋さん」という。大阪市内には銭湯が多い。まだ、家風呂がないお宅が多いのだろう。
 

 赤川3丁目と4丁目の間の道を進んでいくと10分ほどで「城北公園通」という大きな道に出るので左折する。
 

 前方に先ほどくぐった「菅原城北大橋」の高架橋が見えてくれば、すぐ左に「城北公園」が。
 

 旧淀川の河川敷を利用して昭和9年5月に開園された古い公園だ。戦時中は、空襲時の避難場所になっていたと言われる。公園は「菅原城北大橋」の橋脚により分断されており、西側には大きな池がある。
 
 
 ここは花菖蒲が有名で花の時期(5月下旬~6月下旬)には「城北菖蒲園」が開園(午前9時30分~午後5時、200円)される。今は閉園時期なのだが、工事用のフェンスで囲むのは、ちょっと「粋じゃないね。」
 

 公園の遊歩道を抜け、東口へ向かう。
 

 東口から城北公園通に出て左折(東)する。阪神高速の高架をくぐり「中宮4東」交差を左折する。途中には古い住宅が残る。そしてこの道は、先ほど堤防上から眺めた大阪工業大学へ続く通りだ。
 

 大阪工業大学は、大正11年に創設された専修学校を母体とした大阪でも古い私立大学である。著名な建築家である初代校長・片岡博士が設計、中之島の「中央公会堂」をモチーフした正門は「片岡メモリアルゲート」と呼ばれている。
 

 大阪工業大学を後にして南へ進む。城北公園通を過ぎてさらに進むと「中宮中公園」という児童公園に突き当たる。公園の奥には神社が見えている。
 

 一旦左折。次の角には「錦水湯」という銭湯が。レトロな雰囲気である。しかし、銭湯自体が昭和に隆盛を極めた産業であり、今残っている銭湯が「昭和の雰囲気」を醸し出しているのは当然のことだろう。
 

 先ほど公園の奥へ見えた神社方向へ回る。この辺りは、結構、古い住宅が残っている。特に切妻屋根の玄関だけが独立し、奥でつながっている長屋がいくつか残る。
 

 神社横には、蔵の残る大きなお屋敷も。
 

 「大宮神社」。由緒によると応神天皇、神功皇后らをお祀りする、いわゆる「八幡宮」であったが、明治に入り近隣の神社を合祀し「大宮神社」と改め、現在に至る。
 

 境内社である「行者社」。背景の長屋が良い。
 

 拝殿前のモチの神木は「いぼ大神」として信仰が厚く、木肌と身体を交互に撫でれば病が治るといわれる。
 

 神社前のカラフルな路面は、アーケードではないが「千林大宮商店街」と呼ばれ、古い建物が残る。国道1号線を越えた所で、後ほど訪ねる「千林商店街」につながる。
 

 旭区は、空襲を免れたため大規模な都市開発はされておらず旧来の住宅街が続くが、結構、住宅の建て替えが進んでおり、所々古い建物が残るものの街並みを形成するまでには至らない。
 

 真っ直ぐ進むと「旭消防署」交差に出る。消防署としては大きい方だが、屋上に望楼が残る旧式のスタイルだ。こういうのは、立て替えられる前に撮影しておかなければ。
 

 この交差点を右折すると「欧風料理イスタンブール」という小さなお店がある。以前、テレビで放映された頃は行列ができていたが、現在は落ち着いているようだ。午後1時30分。赤川鉄橋で1時間30分、時間潰しをしたため少し遅くなったが、昼食とする。
 

 トルコライスとランチが定番である。前回来たときはトルコライスを注文したので、今回はランチ(950円)にした。ここの海老フライは丸ごとではなく、頭を落とし鯵のフライのように開いて揚げられている。一手間加えているということだ。
 

 食事を終え、旭消防署交差を右(南)へ。前方に見える阪神高速道路の手前にお地蔵さんがあり、その向こうから下へ下りられるようになっている。
 

 阪神高速の下には「城北川(城北運河)」が流れる。戦前、開かれた運河で旧淀川と寝屋川を結ぶ。
 

 運河沿いはランニングコースになっている。
 

 3つ目の「城北橋」で国道1号線をくぐり、次の「古市橋」からスロープで上の道に上がる。この道は、大阪の京橋口から京都へ向かう「京街道」と呼ばれる道だ。
 

 春日湯という銭湯裏の児童公園に「京かいどう」の案内碑が建てられている。
 

 また、この道は「森小路京かい道商店街」となっている。
 

 ほとんどは新しく建て替えられているが、所々古い店も残る。
 

 有名なアイスモナカの店なのだろうか行列ができていた。
 

 そして、アイスモナカの店を過ぎると目の前にアーケードの入口が見えてくる。「日本一安い」と言われる千林商店街だ。
 

 ここは、「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組で「大阪のおばちゃん」のインタビューの地であるとされ「千林商店街のおばちゃん」の意見が大阪の標準であると紹介されていた。
 

 掲げられている看板も「昭和チック」だ。
 

 表はきれいに改装されているが、元の店舗は結構古いようだ。
 

 商店街自体は活気にあふれているが、ちょっと路地に入ると古い建物が残る。
 

 立派な蔵のある屋敷。 
 

 この屋敷の母屋は、トタンで覆われているが藁葺き屋根だ。
 

 商店街に戻り、さらに進んで行くと右に京阪電車「千林駅」が現れる。エントランスはアーチ状になっており、切符売場と改札口があるので、何か劇場の入口のような雰囲気がする。
 

 京阪千林駅を過ぎるとアーケードも終わる。商店街を出たところは大阪府守口市になる(京阪ガード下からの眺め)。
 

 一旦、商店街に戻り、すぐ右の路地に入ってみよう。細い道を進み千林会館(公民館)という建物を左に曲がる。するとそこには「千林長屋」と呼ばれる古い住宅が並んでいる。
 

 先ほど見た玄関だけが独立し、裏は長屋でつながっている建物だが、ここの長屋はひときわ立派だ。2棟で10軒以上の長屋が並んでいる。一部、町家カフェとなっている家もある。
 

 千林長屋を過ぎると、すぐ左に「123」というパチンコ屋さんがある。昭和32年、ここに「ダイエー」1号店が開店したとか。そのため千林商店街は「ダイエー発祥の地」とも言われている。
 ただ、元々の店は「主婦の店ダイエー薬局」という薬局であり、ダイエー創始者の中内功氏の祖父が創設した前身の「サカエ薬局」は神戸市兵庫区東出町というところにあったことから、そこに「ダイエー発祥の地」碑が建っているらしい。しかし、ダイエーを名乗ったのが、ここ千林商店街であるのなら、ここが「ダイエー発祥の地」と言って良いのでは。しかし、今は跡形もない。
 

 パチンコ屋さんを過ぎ、千林商店街北側の路地を縫っていく。この辺にも古い建物が残る。
 

 「朝日地蔵」というお地蔵さんが祀られていた。
 

 地蔵尊前にも板塀が続く。
 

 古い質屋さん。大阪弁は、なぜか店を「さん」付けで呼ぶ。
 

 そのまま進んで行くと、再度「千林商店街」のアーケードが見えてきた。実は、一番最初にアイスモナカの店を過ぎたところから入ったアーケードは、向こうに見えるアーチで、ここから右(西)に140mほど、まだアーケードが続いているのだ。アーケード入口右にはレンガ造りの「珈琲屋さん」が。
 

 右に曲がり残りのアーケードを歩く。このきらきらお目々の学生さんは、下に並んでいるどこの学校の学生さんだろうか?
 
  
 国道1号線に出たところで全長570mの「商店街の旅」は終わる。
 

 国道を渡り、午後2時35分、本日のゴールである地下鉄「千林大宮駅」の2番出入口に到着。本日の歩紀「16015歩」(13.77km)。
 



 
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大阪24区を歩く~在日コリアンの町「生野区」

2013-09-20 21:35:19 | 日記
訪問日:平成26年3月29日(土)
出 発:近鉄電車「鶴橋駅」
到 着:JR「寺田町駅」

 昭和18年の区編制により「東成区」から分区。人口約13万2千人のうち約4分の1の人が韓国・朝鮮にルーツを有する人たちといわれる「在日コリアン」の町である。これは戦前、区中央を南北に流れる「平野川」の工事に朝鮮半島出身者多数が携わり、彼らの「飯場」が生野区周辺に点在したからと言われる。その子孫たちは「特別永住者」と呼ばれ、東京の上野や新大久保などのように「ニューカマー」と呼ばれる人たちで構成される「コリアタウン」とは本質的に異なる。
 しかし、生野区は「日本書紀」にも登場する古代朝鮮半島ともつながりが深い地で「百済野」と呼ばれた地域の一部でもある。「イデオロギー」や「ナショナリズム」を離れ、多くの史跡を訪ねながら、桜には2,3日早い「在日」の町を歩いてみよう。


 午前10時「近鉄鶴橋駅東口」を出発。鶴橋駅は、地下鉄の他、南北に走るJR大阪環状線とクロスするように近鉄電車が交わり「大阪線」と「奈良線」が併走する。東口は、ちょうど近鉄ガード下に位置するが、近鉄線が東成区との区境になっており、ここは「生野区」だ。
 

 駅から右(南)に進むと「赤い(キムチ)世界」に突入する。
 

 鶴橋駅前は「東成区」「天王寺区」「生野区」との境界となっているが、「東成区」「天王寺区」側が観光客や遠方からの買い物客を相手とした商店街・飲食店街であるのに対し、「生野区」側は、駅のすぐ前から住宅地であるのが特徴だ。多くの「在日」の人たちが暮らす。
 

  

 そのため肉屋にしてもキムチ屋にしても、どちらかと言えば地元の人たちを相手にした店が多いようだ。
 

 

 ただ、やはり駅前なので韓国料理店なども多い。
 

 そして、もう一つの特徴は、駅を出たところに「大阪鶴橋鮮魚市場」通称「鶴橋卸売市場」が広がる。
 

 マグロなど鮮魚を専門に扱う店が40以上並ぶ。なお、近鉄電車は、伊勢方面からの鮮魚行商人専用列車を毎朝運行しており、電車の行き先表示には「鮮魚」と表示されているという。いろいろなブログで紹介されているので興味のある人はどうぞ。
 

 

 卸売市場から続く「鶴橋本通商店街」に進む。特に「コリアタウン」というわけではなく、普通の肉屋さんや乾物屋さんなどが並ぶ。
 

 

 この辺りは昔、「鶴橋警察署」という古い警察署の跡があったのだが……。私も昭和の終わりころに訪れたことがあるが、当時はアパートに改装されており、古い門のような入口をくぐると中庭を囲むように居室が並んでいたように記憶する。
 

 その他、NHK連続ドラマ「てっぱん」のロケが行われたというレトロな銭湯もあったのだが、今は駐車場になってしまった。赤いレンガ塀だけが当時の姿をとどめる。
 

 ただ、場所柄、韓国系の店も多い。
 

 

 韓国系の仏教寺院も。
 

 

 「在日のまち」らしい風景①
 

 300mほどのアーケードは、突然、大きな通りに出る。「通り」といっても、どんな都市計画だったのだろうか、4車線に中央分離帯、広い歩道に街路樹が並ぶ立派な道路が東西に300mほど走るが、両端とも細街路に突き当たる。
 

 その通りを横断し、さらに進むと「桃谷2丁目」。
 

 古い屋敷や街並みが残る。
 

この辺りは、生野区では珍しく日本人が「密集」する地域だ。
 

 その一角に「弥栄神社」がある。
 

 旧牛頭天王社で素戔嗚尊(スサノオノミコト)等を祀る。今日一日の安全を祈願する。
 

 神社の前を東に進めば、すぐに「コリアタウン」に出るのだが、後ほど訪れることにする。とりあえず南の方向に進もう。
 

 市立鶴橋小学校の横を通り、さらに南へ進むと路地は大きな道路と交わる。やたらだだっ広いこの道は、戦時中、空襲時の延焼防止と避難路を確保するため開かれた「疎開道路」と呼ばれる道だ。まだ「疎開(そかい)」という言葉が残る町「生野」。
 

 疎開道路を横断し、前に見えるコンビニの裏に向かう。「つるのはし跡」。日本書紀には「猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」と記され、この橋が文献上、日本最古の橋と言われる。後に付近にはたくさんの鶴が舞っていたことから「つるのはし」と呼ばれるようになり、それが「鶴橋」という地名の由来であると言われる。
 

 今は、明治時代に付け替えられた橋の親柱4本とともに記念碑が建てられている。
 

 さらに路地を進むと「猪飼野保存会」。この辺りは「猪甘の津(いかいのつ)」あるいは、猪を飼育する技術(養豚?)を持った渡来人が多く住んだという言い伝えから「猪飼野(いかいの)」と呼ばれていた。長らく住居表示として使われてきたが、昭和48年の住居表示変更により行政区名から「猪飼野」の名が消え、今はバス停や団体・施設等の名称に名をとどめるだけだ。会館前には慶應2(1866)年に建てられた道標が残る。「右、八尾・久宝寺・信貴山」「左、大阪」と掘られている。路地を大阪方面(北)に進む。
 

 南下した分200mほど進むと、再度、疎開道路と交わる。そこには「御幸森神社」。正式には「御幸森天神宮」という。
 

  仁徳天皇などを御祭神とする。その他、境内社として「菅原神社」や「御幸森戎」などが祀られている。
 

 今でも天皇が外出することを「行幸(ぎょうこう)」と言うが、またの呼び方を「御幸」とも言い、仁徳天皇が見聞の際、度々この地で休憩されたことから「御幸の森」と呼ばれるようになったのが社名の由来と言われる。
 

 そして神社の北から東に450mほどの商店街が延びる。「御幸森商店街」と言うが、今では「コリアタウン」と呼ばれている。かつては「朝鮮市場」と呼ばれ「在日」以外の者は近寄り難い雰囲気があった。今では横浜や神戸の「中華街」ほどではないが、カラー舗装され「宮廷門」風のゲートなども設けられるなど観光地としての雰囲気を盛り上げている。
 

 お店も観光客向けの店が多い。
 

 

 

 「韓流ブーム」に乗り、韓流スターのブロマイドなどを売る店もできている。
 

 韓国疑似体験を楽しむ女性や修学旅行生の姿も見られるようになった。
 

 この角を左(北)に曲がる。
 

この南北の筋は「一条通商店街」と呼ばれる。ちょっと道をそれてみよう。
 

 230mほどで左に「韓国会館」。韓国民団生野西支部などが入る。この先、一条通商店街は近鉄ガードまで250mほど続くが、ここでUターンする。
 

 コリアタウンを過ぎ、今度は一条通商店街を南に進む。路地を右に入れば「東大阪朝鮮第4初級学校」。総連系の民族学校だ。
 

 「在日のまち」らしい風景②
 

 一条通商店街に戻り、さらに進めば「市立御幸森小学校」。ここは公立の学校だが児童の半数以上が在日コリアンと言われる。しかし、日の丸・君が代で入学式や卒業式が挙行されている(はずだ)。
 

 御幸森小学校の斜め向かいには「大阪朝鮮会館」。朝鮮総連生野西支部などが入る。会館の斜め向かいには「明生座」という大衆劇場。昔はなかったのだが。新しくできたようだ。
 

 コリアタウンまで戻る。
 

 ここがコリアタウンの最東端。
 

 目の前には「平野川」に架かる「御幸橋」。平野川は、古代、旧大和川から北に向かって幾筋にも分かれて流れれていた川のひとつで、一帯が「百済野」と呼ばれていたことから「百済川」とも呼ばれた。大正時代、曲がりくねった川が改修されたことから運河のようになっている。実は、この改修工事に多くの朝鮮半島出身者が従事したことから生野区周辺が「在日」の町になったといわれる。
 

 中川西2丁目の町を抜ける。かつて韓国済州島と大阪の間に定期船が運航されていたことから大阪の「在日」の大半は済州島出身者で占められる。済州島は離島であることから言葉に独特の訛りがある。韓国内での標準語教育と情報伝達手段の発達により方言が廃れたため、生野区までわざわざ済州島方言研究のため韓国の学術調査団が来たことがあったと言われる。
 

 こんな所にも「猪飼野(イカイノ)」の名が残る。
 

 今里筋という大きな通りに出たところに「韓国大阪教会」。近鉄電車からも見える大きなキリスト教会だ。
 

 「在日のまち」らしい風景③
 

 今里筋を渡り南へ。時間は午前11時40分。ちょっと早いが昼食にする。せっかく生野区に来たのだから今日は韓国料理にしよう。観光客でも気兼ねなく入れる店も多くなった。今里筋沿いにある「冷麺館」に入る。
 

 「ビビンバ定食」(1200円)を注文する。この後「ミニ冷麺(といっても結構大きい)」が出てきた。
 

 食事を終え、冷麺館から少し南へ。斜めに入る路地の入口に「北向子育地蔵尊」。
 

 そのすぐ南に「韓国民団生野中央支部」。
 

 「北向子育地蔵尊」の先まで戻り路地を東へ。中川4丁目を抜ける。
 

 結構、古い建物が多い。
 

 町工場。生野区も「東成区」や「東大阪市」同様、「ものづくりの町」である。
 

 市立中川小学校の横を北に進む。
 

 300mほどで大きな通りに出るので交差点を右(東)に曲がろう。
 

 この通りにも古い建物が残っている。
 

 150mほどで左に大きな公園が、「新今里公園」だ。
 

 そしてその南に「今里新地」が広がる。
 

 ここは、いわゆる歓楽街となっている。場所柄、韓国クラブやラウンジが多い。
 

  しかし、韓国料亭や高級クラブも多い。ちょっと一見で入れるようなところではない。
 

 いわゆるコリア系の歓楽街といった趣がある。ただ、日本の料亭なども多い。
  
 
 

 なぜなら、ここは「新地」の名からもわかるとおり「旧赤線地帯」なのだ。
 

 今も多くの「料理店」が並ぶ。ちょっとDEEPな地域だ。
 

  

 今里新地の東端に大きな天理教教会がある。私は小さい頃、詳しい知識はなかったが、漠然と「韓国には大きな門(南大門?)がある」という印象があった。そして、近鉄電車から見える、この天理教会の大屋根を中心に生野の町は広がってると勝手に思っていた。
 

 その教会裏から「平野川分水路」を渡る。この川は、平野川を補完する治水対策で昭和4年に開削された運河だ。平野川とともに「城東区編」「東成区編」でも幾度か渡った。この工事にも多くの朝鮮半島出身者が従事したと言われる。
 

 高い堤防が「下町感」を漂わせる。
 

 運河沿いに北上。市立東生野中学校を過ぎたところで右折し東へ。200mほどで「小路」の町へ入る。この辺りは「片江」と呼ばれる地域らしい。
 

 古い町だ。
 

 市立小路小学校を過ぎる。
 

 左に「清見原神社」が現れる。
 

 「古事記」編纂を命じた天武天皇等を祀る。由緒の詳細は不詳だが、天武天皇が飛鳥浄御原(きよみはら)宮から大阪に行幸される際、しばしば休憩されたことが社名の由来と言われる。
 

 神社前の路地を西へ。何でもない町を抜けるが、結構、興味をそそるような古いアパートや工場が並ぶ。
  

 市立東生野中学校の角を左折する。次の角に「生野東朝鮮会館」。朝鮮総連生野東支部などが入る。
 

 会館前の「東中川公園」は、桜が満開だった。公園の横には、何か古い建物が。
 

 東中川公園東側の道を南へ。突き当たりを左折し、2つ目の路地を右に折れると「翠岩頌徳記念会館」。「釈翠岩の墓所」と「頌徳碑」が記念館の敷地内あるようだが、門は閉まっていた。
 

 鉄扉からカメラを差し入れ、「釈翠岩墓所」を撮影する。翠岩とは「住吉屋太郎右衛門」というこの村出身の篤志家で、私財を投じ橋の架設や道路工事、社寺への寄付などで功績がある人物だという。
 

 ここからしばらくの間、特に旧跡等はない。旧川筋だろうか、蛇行した道が続く。
 

 10分ほどで「中西朝鮮会館」前を通過する。朝鮮総連中西支部などが入る。
 

 西に進むと、結構古い家が残る。
 

 

 「西足代青年会館」横には「宮跡碑」と「だんじり庫」が並ぶ。
 

 「下丁ノ田橋」で平野川分水路を渡る。
 

 「在日のまち」らしい風景④
 

 左手に「巽公園」という大きな公園がある。
 

 その北には「ロート製薬本社」。明治32(1899)年、胃腸薬や目薬を扱う「信天堂山田安民薬房」として創業。昭和24(1949)年「ロート製薬株式会社」と改組。「アップダウンクイズ」というクイズ番組のスポンサーとして放映されたコマーシャル、
  「ロート、ロート、ロート。
    ロート、ロート、ロート。
     ロートせ~いや~く(製薬)。」
というのは、ここである(建物は建て替えられている)。
 

 公園で「朝鮮囲碁」に興じる老人。生野ではよく見られる風景だ。
 

 巽公園南東角から南へ400mほど歩く。この辺りも町工場が多い。
 

 右に「生野朝鮮初級学校」。
 

 その南に少しおいて「東大阪朝鮮中級学校」と総連系の民族学校が並ぶ。
 

 中級学校から2本南の道路を西へ。結構、古い家が残っているな。
 

 突き当たると「市立田島中学校」前に出る。ちょうど鋭角上に校門がある。
 

 そのすぐ前にも古い住宅。
 

 校門前を北に進み、郵便局の横から路地に入る。この辺りには、古い街並みが残る。
 

 

 

 そして、その北側には「田島神社」。由緒は不詳だが地元では「天神さん」と呼ばれる。鳥居の横には「めがね屋さん」。
 

 この辺りが、わが国の「眼鏡レンズ発祥之地」らしく、境内には石碑が建てられている。
 

 菅原道真も祀られ境内には「御神牛」像も見られるが、主祭神は「少彦名命」だ。
 

 神社を出て、大池商店街という路地を北に歩いて行く。商店街というが、半分くらいは店を閉め、一般の住宅になっている。お風呂屋さんを過ぎれば左へ。
 

 「生野南朝鮮会館」。朝鮮総連生野南支部などが入る。インターネットで調べると生野区内には朝鮮総連の支部が4つ、韓国民団の支部が3つあるようだ。
 

 北に進むと道は自然と今里筋に交わる。その角に「御幸森天神宮御旅所」。
 

 そして、すぐ目の前は、今里筋と勝山通りが交わる「大池橋交差点」。大阪国際女子マラソンは、ここで直角に曲がる。
 

 大池橋交差点から「勝山通り」を西に進む。280mほどで右側に「大阪府生野めん食会館」。何年頃の築だろう。結構、レトロな建物だ。
 

 勝山通りを挟んで向かいには、よく見かける古い住宅。ただ、ここは3階建てだ。
 

 その端には「韓国人会館」。韓国民団生野南支部などが入る。
 

 民団の筋向かいにも立派な3階建ての住宅が残る。
 

 「在日のまち」らしい風景⑤
 

 さらに進む。次の信号を渡れば「御勝山古墳」。全長約150mの前方後円墳だが、勝山通りが中央を横切り「前」「後」が分断され歩道橋が渡る。
 

 勝山通北側の「後円部」は、史蹟として保存されている。
 

 一説では中臣氏の祖「大小橋命」の墓と言われているが、大阪夏の陣の際、徳川秀忠がここで勝宴を催したことから「御勝山」と呼ばれるようになった。茶臼山古墳(天王寺区)、帝塚山古墳(阿倍野区)、聖天山古墳(阿倍野区)と並ぶ大阪市内4大古墳のひとつである。
 

 歩道橋から望むと後円部の中腹に「大阪府立農學校址」の碑。
 

 御勝山公園脇に建つ「赤煉瓦」の門柱は、その名残だろうか。
 

 南側の「前方部」は崩され「御勝山公園」となっている。
 

 御勝山公園から路地を南に進む。古い家並みが残る。
 

 200mほどで「舎利尊勝寺」。1400年前、聖徳太子により創建されたと伝わる。
 

 現在は黄檗宗の寺院だ。
 

 本尊は「聖観世音菩薩」。脇仏として「聖徳太子」「韋駄天像」を祀る。
 

 その南隣には「生野神社」。旧牛頭天王社であり素戔嗚尊を祀る。
 

 鳥居には「宝永7(1710)年」の刻銘がある。
 

 400mほど南下し、市立生野小学校を通り過ぎて路地を右に入る。
 

 すぐに「地蔵尊」が見えてくる。「林智地蔵尊」。屋根の部分を入れると3m四方はある大きな地蔵尊だ。
 

 その先に見えるのは「生野八坂神社」。正面に回る。
 

 ここも八坂の名のとおり「素戔嗚尊」を祀る。
 

 そして、ここから900mほど「生野本通商店街」という長いアーケード街が続く。
 

 「イクノ銀座街」「ベルロード中銀座」「IKUNOセンター街」と名を変えながら続く。
 

 

 結構、賑やかな商店街だ。
 

 「スーパー玉出」の手前で路地を左に曲がってみよう。「林寺温泉」。レンガ造りの門柱があるだけで、特に何でもない「お風呂屋さん」であるが……。
 

 公衆電話が「売り」というのが気に入った。
 

 疎開道路が横切るため、一旦、アーケードが途切れるが、すぐにアーケードが現れる。「ほんどーり」と名を変える。
 

 アーケードに入ってすぐに路地を左折。そこには「源ケ橋温泉」。昭和12年築のレトロなお風呂屋さんだ。屋根には「シャチホコ」。
 

 「自由の女神像」。「ニューヨーク」と「入浴」のダジャレらしい。
 

 平成10年、銭湯として全国で初めて登録有形文化財に指定されている。
 

 5~6分でアーケードは終わる。そこは、国道25号線「源ケ橋交差」。源ケ橋とは、かつてこの辺りを流れていた旧大和川の支流「猫間川」に架かっていた橋のことらしい。
 

 国道から南(左)は「阿倍野区」だ。目の前にJR大阪環状線のガードが見える。
 

 JR環状線沿いに「猫間川公園」。今は、このように公園や路地に名をとどめるだけだ。
 

 午後3時30分、ゴールである「JR寺田町駅」に到着。JR大阪環状線から西は「天王寺区」。ここも3区の接点になるが駅舎は天王寺区に所在する。鉄骨むき出しのガード下駅がレトロ感を漂わせる。本日の歩紀「24280歩」(20,88km)。
 
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大阪24区を歩く~もの作りの町を進む古道「東成区」

2013-09-20 21:34:27 | 日記
訪問日:平成26年2月15日(土)
出 発:JR「鶴橋駅」
到 着:JR「玉造駅」

 かつて摂津國のうち大阪市の部分は、「西成郡」「東成郡」「住吉郡」の3郡で構成されていた。そして大正14年の区編制により「旧住吉郡」の地域を除く広大な地区が「東成区」として発足した。その後、昭和18年、「旭区」「城東区」「生野区」を分区し、現在の「東成区」となる。人口約8万人。区内には多くの町工場が並ぶ。
 町工場の技術だけでロケットを打ち上げた「東大阪市」と隣接し、基本的にはここも「もの作りの町」である。映画「E・T」の空飛ぶ自転車は「MADE IN 東成」だそうだ。そんな「もの作り」の町は、生野区に次ぐ「在日コリアンの町」でもあり、また、大坂から奈良・伊勢を結ぶ「暗越奈良街道」が横切る歴史の町でもある。


 午前10時、JR大阪環状線「鶴橋駅西口」を出発。JRのほかに地下鉄千日前線と近鉄電車の「鶴橋駅」がある。南北に走る大阪環状線から西は「天王寺区」。東西に走る近鉄電車から南は「生野区」。つまり鶴橋駅は3区の接点に位置する。
  

 「東成区」「生野区」「天王寺区」それぞれの駅前にはそれぞれ異なった顔があるが、共通する点は「在日コリアンの町」への玄関口ということだ。鶴橋駅の北東に位置する東成区側には「鶴橋市場」。別名「国際マーケット」と呼ばれるが、国際とは「コリアン」のことである。
 

 ガード下のような暗い「戦後のヤミ市」風の商店街。ここは、焼肉店やキムチなどの韓国食材、チマチョゴリ、韓国日用品などを扱う店が集まる「コリアタウン」だ。
 

 

  

 最近では「韓流ブーム」により一般観光客を相手にした韓国食材店やチヂミ・トッポギなど韓国ファーストフードを売る店も増え、隣接する生野区のコリアタウンと合わせて「韓国疑似体験ツアー」をする女性観光客や修学旅行生らの姿も見られるようになった。
 

 

 市場のすぐ北側は「千日前通」。信号を渡ると立ち飲み屋などが並ぶ下町風の繁華街だ。
 

 通りを東へ進み「玉津3交差点」の手前を左に入ると鳥居が見える。「比売許曽(ひめこそ)神社」。
 

 「古事記」「日本書紀」に「新羅から来た阿加流比売(あかるひめ)が難波の比売許曽の社に坐す…」とあるが、祭神は阿加流比売ではなく下照比売(しもでるひめ)。諸説があるようだ。東成は在日コリアンだけでなく、古代朝鮮半島とも関係が深い場所なのだろう。今日一日の安全を祈願する。
 

 玉津3交差点の角には「胞衣塚(えなづか)」。比売許曽神社とゆかりの深い中臣氏の祖「大小橋命(おおおばせのみこと)」の胞衣を埋めた塚と伝えられる。胞衣とは胎盤のことらしい。
 

 しばらく千日前通を東に進む。結構古い建物が残る。
 

 信号で通りを渡って「玉津3丁目」の町に入る。
 

 平野川を越え「大今里西3丁目」に入る。
 
 
 近鉄電車のガードに突き当たる。ガードの向こうは生野区だ。
 

 そして、交番の前から北に入る商店街が見える。「新橋通商店街」。以前は、アーケード街だったが、老朽化によりアーケードは取り除かれている。
 

 「婦人倶楽部」。昔のままの看板が残る。
 

 300mほどの商店街を抜けると千日前通に戻る。角には古いタバコ屋さん。
 

 すぐ左には大阪市バスの車庫。かつて、ここには「大阪市電」と呼ばれた路面電車の車庫があり、あずき色のチンチン電車が多く往来していた。昭和40年代のことである。
 

 そのすぐ前には「今里交差点」。5本の道路が放射線状に伸びることから「今里ロータリー」と呼ばれている。大阪でも有名な交差点だ。今里筋に沿って北(左)へ曲がる。交差点が複雑なので分かり難いが、三菱東京UFJ銀行とローソンの間を進めばよい。
 

 150mほどで東成消防署を過ぎ、一旦、左折する。東成警察の手前に「日本キリスト合同東成教会」。壁には大きなステンドグラスが。
 

 今里筋まで戻り信号を渡る。すぐ北の路地を右に入る。ここからは、かつて高麗橋から生駒山地の暗峠を越えて奈良・伊勢を結ぶ「暗越奈良街道」を歩く。
 

 案内板も掲げられている。
 

 新しいが石の道標も。
 

 街道らしい街並みが残る。
 

 600mほどで千日前通と交わるが、手前の案内標識に従って左折。そこには「熊野大神宮」。1000年以上の歴史があるそうだが詳細は不詳。「熊野」の名のとおり神仏習合時の熊野権現。北側に隣接する「妙法寺」の鎮守社であったようだが、明治の神仏分離により現在の名称に改められた。
 

 伊弉諾尊等多くの神様を祀る。
 

 神社の隣には「真言宗妙法寺」。聖徳太子創建と伝わる古刹。
 

 近世国学の祖と呼ばれる「契沖」がかつて住職を務め、境内には契沖の供養塔と慈母の墓がある。
 

 街道をさらに進むとすぐに千日前通と交わる。角には石灯籠と碑文。石灯籠は道標にもなっているようだ。
 

 信号で千日前通を渡るが、ちょっと右折して寄り道をしよう。「大今里南3丁目」の町を進む。古いアパート。
 

 市立片江小学校を過ぎると古い散髪屋さんがあるのでここを左に曲がる。
 

 片江小学校通用門前に「株式会社桑原インターナショナル」。元々は自転車部品の卸商だったらしいが、こここそが映画「E・T」の空飛ぶ自転車を製造した会社だ。
 

 片江小学校の向こう(東)へ回りたいのだが道が突き抜けていないので、一旦、近鉄ガードをくぐって生野区へ。左折してすぐにガードをくぐれば東成区へ戻れる。「もの作り」を支える町工場①。
 

 「大今里南2、3、4、5、6丁目」を東に進む。古いお米屋さん。
 

 集会所だろうか「防犯」提灯のかかった木造の建物。
 

 大阪内環状線という大通りの手前で左折する。町工場②。主役はフォークリフト?。
 

 町工場③。
 

 町工場④。金切りくずが詰まったドラム缶の横には昨日の大雪の名残。昨日は、記録的な大雪で大阪市内でも積雪が見られた。
 

 何やらオフィスビル街のような雰囲気に。
 

 「コクヨ」本社ビルだ。「コクヨ」は、明治38年、黒田善太郎という人が「黒田表紙店」として帳簿の表紙を扱う店として創業。その後、大正6年、国の誉れ「國誉(こくよ)」と名を変え、昭和11年、この場所に本社を移転。文具・事務機器の一大メーカーとなり、昭和36年、社名を「コクヨ株式会社」と改めた。
 

 この和風建築は、コクヨの迎賓館らしい。
 

 国道を東に進む。町工場⑤。
 

 「新深江交差点」で大阪内環状線を渡りさらに東へ。
 

 町工場⑥。しかし強そうな歯車だな。
 

 道路が左にカーブする。通りの向こう(南)は東大阪市。
 

 郵便局を越えたところに石灯籠と道標が立つので左折する。
 

 すぐに「人間国宝角谷一圭生家」。角谷家は代々宮大工の家系だったそうだが、一圭が小学生の時に茶の湯釜職人に転職。以来、94歳まで湯釜作り一筋。昭和53年、人間国宝に指定されたそうだ。
 

 生家のすぐ前には「深江稲荷神社」。
  

 由緒は垂仁天皇の時代までさかのぼる古社であり、慶長8(1603)年、豊臣秀頼が社殿を改めたと伝わる。
 

 深江稲荷神社の門前に建つ「深江菅笠ゆかりの地」「摂津笠縫邑跡」碑。「深江」とは、まだ、河内平野が内海であったころ、その名のとおり「入江の奥深く」にあった集落で、代々皇祖の御神鏡を守護した「笠縫氏」という一族が住んでいたと伝わる古い集落であったらしい。「笠縫」とは、元々、伊勢神宮があった場所といわれ、そのようなことから皇室と関係が深かったのだろう。
 

 神社の北側には「人間国宝角谷一圭記念深江郷土資料館」。
 

 この辺りは古い深江集落の面影を残している。
 

 とても大阪市内とは思えない。
 

 「融通念仏宗法明寺」。「雁塚」という二基の石塔が残されている。
 

 さあ昼食にしよう。今日は深江稲荷神社の一本西を走る一方通行路沿いにある「手作り洋食、三起(みき)」で昼食をとることにする。時間は正午、1分の違いもない。ところが…。店のシャッターが下りている。定休日は日曜日のはずなのだが。
 

 ……。しかし、この先はアーケード街を歩く。食べるところはいくらでもあるだろう。気を取り直して先に進む。
 

 すでに廃業しているようだが古い医院(耳鼻咽喉科)跡。
 

 大阪内環状線を渡るため信号待ちをしていると何やら「行列」が。「かじわ屋」というラーメン屋さんのようだ。よし今日の昼食はここにしよう。行列に並ぶ。
 

 塩ラーメン(650円)を注文。午後12時20分、昼食にありつく。おにぎり2個は、ランチタイムのためサービス。
  

 大阪内環状線を渡って西へ。「宝徳湯」というお風呂屋さん。「お風呂屋さん」「タバコ屋さん」「散髪屋さん」「お米屋さん」「酒屋さん」などが古い街並み作りに貢献しているようだ。
 

 アーケードが見えてきた。「神路(かみじ)本通商店街」。
 

 150mほどの短いアーケードだが結構古い店が残る。
 

 

 平野分水路手前で一旦、アーケードは途切れる。
 

 しかし、すぐにアーケードが現れ、ここから「神路しんみち」「神路銀座」「今里1番街」「今里新道筋」と名を変えながら700mほどのアーケードが続く。
 

 区民の生活を担っているのだろう。
 

 この喫茶店も「年代物」だな。
 

 アーケードから路地をのぞく。
 

 宝石店もある。ママチャリで宝石を買いに来るなんてすごいなぁ。
 

 結構長いアーケード街だ。
 

 アーケードを抜ければ「今里筋」。そう午前中に「暗越奈良街道」に入った路地のすぐ北側に出る。
 

 今里筋を北に上り、次の信号で右折。まったく区画整理されていないクネクネ道を東に進む。「楠通」というらしい。
 

 途中、路地を左に入ると「八王子神社御旅所」。本宮は後ほど訪れる。元は「八劔神社」といったらしい。大阪夏の陣の兵火に見舞われたそうだ。そういえば城東区を歩いた時にも大阪冬の陣戦跡碑の前に「八劔神社」というお宮さんがあったなぁ(「城東区」編参照)。
 

 そして境内には高さ25m、幹周り11mのくすのき。この通りが「楠通」といわれる由縁だ。
 

 隣には「地車庫」。ここも祭りでは地車が駆け巡るようだ。
 

 本当にこの道は曲がりくねっているな。
 

 先を見通すことができない。
 

 さらにクネクネ道を東へ進む。信号を渡ったところに「熊野大神宮御旅所」。午前中に参拝した「熊野大神宮」の御旅所だ。
 

 ここにも「地車庫」。
 

 御旅所の前には大きな旧家が。
 

 町工場⑦。古い水槽が良い雰囲気だ。
 

 町工場⑧。
 

 路地を抜け、平野川分水路に突き当たり運河沿いに北上。「日本気象協会」こんなところにあるんだ。
 

 町工場⑨。特にこの辺りは町工場が多いようだ。
 

 「祢宜橋」という橋で運河を渡る。町工場⑩。ここは結構大きな工場だ。以前、製造業は土曜日も仕事をしていたが、やはり不況の影響だろうか、ほとんどの工場が閉まっていた。町は、本当に静かだ。道にはゴミひとつ落ちていない。
 

 次の信号を左折。市立宝永小学校校門前に「スタジオデコ」。午前中に立ち寄った「日本キリスト合同東成教会」のステンドグラスの製造元だ。あちこちのステンドグラスを作っているらしく、テレビでも放映された有名なステンドグラス工房だ。
 

 「大門橋」という人道橋で平野川分水路を渡る。
 

 ここからは進路を西に戻す。「東中本」「中本」の町を進む。「神路公園」を過ぎれば左折。
 

 市立本庄中学校の角を右折。「東中本公園」に出れば左に。
 

 公園の南側には「中大阪朝鮮初級学校」。総連系の民族学校である。「在日の町」らしい風景だ。
 

 別に商店街ではないようだが店の続く路地を西に歩く。
 

 町工場⑪。木の玄関が良い。
 

 西に進み「今里筋」を渡る。この辺りも古い街並みが残る。
 

 市立中本小学校。明治40年創立の古い小学校だ。
 

 突き当たりを右に。中本小学校の通用門を過ぎると「八王子神社」。先ほど参拝した御旅所の本宮である。
 

 由緒は不詳だが、多くの神々をお祀りする古社だ。高さ20mのくすのき3本とむくのき1本が保存樹に指定されている。
 

 「地車庫」が並ぶ。境内にたくさんの自動車が駐車していたので参拝客か神社関係者の車かと思ったが、境内をモータープールにしているようだ。幼稚園や保育所を経営するなど神社も大変だなぁ。祭りの時はどうするのだろう。
 

 中本小学校の通用門まで戻り路地を右折。中本橋で平野川を渡る。
 

 こういうのも「在日の町」らしい風景だ。
 

 橋を渡ると左側に「生駒温泉」というお風呂屋さん。
 

 次の三叉路突き当たりに小さなアーケードが。「元町銀座街」というらしい。
 

 アーケードも破れ、廃れた感じがする。
 

 立派な酒屋さんもあるが廃業しているのだろうか。
 

 売りに出されている店も。
 

 「キムチ屋さん」は健在だ。ここは「韓流ブーム」前からある古いキムチ屋さんだ。「大森食料品店」。私も何回か買いに来たことがある。
 

 三叉路まで戻り南へ。途中、左折し路地を抜ける。そこには「八阪神社」。
 

 「八阪」の名の通り「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」をお祀りする。
 

 「地車庫」の奥には「戎社」と「稲荷社」が祀られている。
  

 境内隅にある「石垣」。最後に訪れる「二軒茶屋」跡にかつて架けられていた「黒門橋」という石橋の一部らしい。
 

 神社の南側の通りにも古い街並みが残る。
 

 町工場⑫。
 

 工場の中では職人さん(おそらく経営者)が一生懸命ガスバーナーで金属を加工していた。
 

 ちょっと方角を間違えたらしい。ところがそこにも古い街並みが。
 

 

 「怪我の功名」だな。
 

 通りの出口に「暗越奈良街道」の道標。裏側には「明治35年7月」の刻字。高麗橋の里程元標から1里。
 

 大通りに出れば、すぐ右に「玉津1交差点」。正面に見えるカラオケボックス南側の脇道に進む。
  
 
 玉造駅東商店街というらしい。カラー舗装されている。
 

 そしてカラーペイントの路地が終わるころ左側にレトロな建物が立つ。「大阪府東成警察署中道本通警ら連絡所」。
 

 大阪府警の中でも超一級のレトロ建造物だろう。署員や地域住民らの手で守られている(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「愛しき警ら連絡所たち」参照)。
 

 目の前は国道308号線。国道脇には、かつて流れた「猫間川」に慶安3(1650)年「黒門橋」という石橋が架けられ、橋のたもとには二軒の茶屋があり、奈良・伊勢に向かう旅人たちで賑わったという。今は、二つの石碑が残るだけだ。右の石碑は昭和5年、左は昭和52年に建立された。
 

 そして、すぐ前には今日のゴールJR大阪環状線「玉造駅」。ここは天王寺区と中央区との3区の境界になっており、駅舎自体は「天王寺区」にある。午後2時30分、到着。本日の歩紀「20220歩」(17.38km)。スタートした「鶴橋駅」から一つ大阪駅寄りの駅。わずか500mの間をぐるっと回って来たわけだ。結構古い建物なのだろうか。写真左端の窓の上、ちょうどガードの下に彫り物が見える。
 

 (拡大写真)
 
 
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大阪24区を歩く~大阪のみずがめと菅原道真ゆかりの地「東淀川区」

2013-09-20 21:33:51 | 日記
訪問日:平成27年1月24日(土)
出 発:JR「東淀川駅」
到 着:阪急電車「下新庄駅」

 「東淀川区」。淀川3区の最東端。大正14年の区編制により誕生し、人口の増加から昭和49年7月、西半分を「淀川区」として分区、その後も大阪への利便性から住宅街として発展した。人口約17万7千人は、「平野区」に次いで2番目。
 区内には、「菅原道真」ゆかりの地も多く、また、区西部の阪急京都線と千里線にはさまれた54万㎡に及ぶ広大な「柴島浄水場」は、創建当時、東洋一の浄水場として名を馳せた。
 東西に長い区を「大阪のみずがめ」から多くの寺社を訪ね、そして、大阪市の最北端を目指して歩く。


 JR東海道線「東淀川駅」。かつて、ここは「東淀川区」のど真ん中であったが「淀川区」との分区により最西端となった。オレンジ瓦屋根のかわいい感じの駅舎であるが、線路が区境となっており、駅舎自体は「淀川区」に所在する(「淀川区」編参照)。
 

 小さな駅だが、日本の大動脈「JR東海道線」と「梅田貨物線」が併走し、幅の広い踏切を多くの列車が通過する。
 

 駅敷地を出たところから「東淀川区」である。午前9時、駅前を出発する。
 

 踏切を渡った所から真っ直ぐ進み、信号に出れば左に曲がる。300mほどで左に「須賀森公園」。
 

 公園内には「須賀神社跡」。元徳3(1331)年、京都から戦乱を逃れてきた刀鍛冶一族が創建したと伝わるが、明治43(1910)年、この後、訪れる「中島惣社」に合祀された。
 

 ご神木の楠。楠木正成の子、正行が河内國四條畷の合戦で足利尊氏に敗れ、逃げ落ちた兵が主君を偲び植えたと伝わる。樹齢600年、天然記念物に指定されている。
 

 すぐそばに小さなお社が。「愛宕神社」らしい。ここで今日一日の安全を祈願する。
 

 先ほどの信号まで戻り通りを渡る。アーケードはないが「東淀川駅」から続く「東淀川駅東商店街」というらしい。結構、古い建物が残る。
 

 「市立淡路小学校」と墓地の間を抜ければ左へ。
 

 何やらコンクリートに囲まれた古い建造物が建つ。ここには戦前、陸軍の「高射砲陣地」があったそうだ。その跡地である。対空砲のことを陸軍では「高射砲」、海軍では「高角砲」という。
 

 元は6基あったそうだが、今は1基のみが残り、個人の住宅になっている。
 

 南に進み、突き当たりを左へ。すぐに「東海道新幹線」の高架下に出る。ここは、かつて「中島大水道」という水路であったらしく、当時の水門が残されている。
 

 「中島大水道」は、度重なる水害と水はけの悪さに苦しめられた農民たちが延宝6(1678)年に自らの普請で開削したといわれる。その跡が遊歩道として整備されている。
 

 新幹線高架の北側に沿って歩き、「市立西淡路小学校」を過ぎたところで高架を南側にくぐる。この近距離に小学校が2つ並ぶとは、やはり人口密度の高さを感じる。
 

 次の信号で左へ入る。左には、最初に訪れた「須賀神社御旅所之跡」碑。
 

 信号で大きな通りを渡り、斜め右に入っていくと角に「愛宕神社」。
 

 神社から路地を抜けて行くと白壁が現れる。
 

  そのまま真っ直ぐ進んでいくと「曹洞宗崇禅寺」の裏門前に出る。
 

 この道は「歴史の散歩道」になっている様だ。
 

 戦国の世。足利6代将軍「義教(よしのり)」の首がこの地に埋葬されたと伝わる。その後、「義教」の子「義勝」が、嘉吉2(1442)年、建立したのが「崇禅寺」と言われる。
 

 本堂に向かって左側の通路を抜けていく。分譲霊園の奥に「義教の首塚」。その横には、明智光秀の三女でキリシタン「細川ガラシャ」の墓が建つ。「ガラシャ」はキリシタンなのに仏教寺院に葬られているのか。
 

 裏門を出て右へ。寺の南側にある門の前には「摂津県・豊崎県県庁所在地」碑が立つ。おそらく位置的には、こちらが山門かも知れないが、普段は閉まっているようだ。明治維新で設置された「摂津県」は、その後、すぐに「豊崎県」と改名され、兵庫県に合併されるまでの約5ヶ月間、この地に県庁があったという。
 

 「崇禅寺」の西側を抜けていくと「中島惣社」。稲荷神である「宇賀御魂大神」らを祀る。
 

 由緒は不詳だが「孝徳天皇」が「長柄豊碕宮」遷都の際、五穀豊穣を祈願したと伝わることから、古くから祀られていたのだろう。
 

 鳥居前を西に進み、大きな通りに出れば左(南)へ曲がる。道路の向こうには大阪市立青少年センター、通称「ココプラザ」。ここにある「新大阪ユースホステル」は、過去、ユースホステルの世界ランキング1位に選ばれたそうだ。
 

 アンダーパスの側道を800mほど進み「阪急京都線」の踏切を渡り「柴島1交差点」の左突き当たりに「大阪市水道局柴島浄水場」の正門。「柴島」と書いて「くにじま」と読む。明治28年に造られた「桜宮浄水場」を補完するため、大正3年に建造された。当時は、「東洋一」の規模を誇った。
 

 その手前には「水道記念館西門」。
 

 しかし、市の「財政難」を理由に閉館されている。
 

 浄水場はしっかりとした石組みで囲まれている。
 

 敷地沿いに進み、道路は「淀川」堤防下で大きく左にカーブする。車の切れ目を狙って目の前の淀川堤防に上る。前方には「長柄橋」。
 

 右には「JR東海道線」の鉄橋が渡る。
 

 堤防上から浄水場方向に目をやると赤煉瓦の巨大な建造物が。
 

 大正3年に建造されたポンプ場で、平成7年からは「水道記念館」として生まれ変わった。国の有形文化財に登録されている。しかし、先ほど述べた様に閉館中だ。
 

 しばらく「柴島浄水場」の広大な敷地を左に眺めながら淀川堤防上を歩く。
 

 「長柄橋」で堤防上の道が途切れるので川辺に下り、「阪急千里線」をくぐって堤防上に戻れば、前に「淀川大堰」。対岸は「毛馬閘門」だ(「北区」「都島区」編参照)。
 

 左の道路に歩道橋があるので歩道橋を渡り右へ。そしてすぐ左の路地に入る。
 

 「市立柴島中学校」前に「薬師堂」。ここでウィンドブレーカーを脱ぐ。今日は気温は低いが、晴天で風がないので歩いていると汗ばむ。
 

 「曹洞宗法華寺」「浄土真宗本願寺派萬福寺」と過ぎ、「市立柴島中学校」北東角を左に。
 

 

 地図で見ると突き当たりに「柴島湯」というお風呂屋さんがあるのだが、取り壊し作業中の様だ。雰囲気からレトロっぽい様に感じる。残念だが家風呂の普及により、お風呂屋さんは、どんどん廃業している。
 

 トタン板に覆われているが、こんなところに茅葺き家が残っているんだな。
 

 「金光教」の教会前に出れば、一旦、左折して「阪急千里線」を渡る。「淀川キリスト教病院」と「柴島浄水場」の間の歩道を進む。
 

 

 「阪急京都線崇禅寺駅」の手前「柴島浄水場」の角に、何やら「塀」の一部が保存されている。昭和20年6月7日の大阪大空襲の際、米軍の機銃掃射を受けたときの弾痕らしい。
 

  同じ道を戻り「金光教」の前から再度「柴島2丁目」の町を進み突き当たりを左へ。
 

 駐車場の奥には「虫籠窓」の立派な屋敷が。
 

 その手前を右に曲がり、突き当たりを左へ。住宅街の真ん中に「柴島神社」。「八幡大神」「天照皇大神」「春日大神」を祀る。
 

 鎌倉時代の創建と伝わるが「新淀川」の開削に伴い、明治41年、現在の場所に遷座し、その際「仲哀天皇」が合祀された。
 

 神社西の公園前には「柴島晒ゆかりの地」碑と説明板。江戸時代から大坂周辺で盛んに栽培されていた綿花で作られた木綿を淀川の水で洗い、堤防上で乾かす「晒業(さらしぎょう)」が明治時代末期まで行われていたという。
 

 公園を抜け右に。阪急電車と交わる手前に「十一面観音菩薩」と「子安地蔵尊」のお堂。
 

 右に曲がり、次の踏切で「阪急千里線」を渡り、「柴島浄水場」を左に見ながら線路に沿って北に進む。
 

 この辺りは阪急電車の高架工事中で迂回路が続く。
 

 左には「浄水場」の施設。「水道記念館」前からずっと続く「柴島浄水場」。その広大さがわかる。
 

 踏切を渡り、すぐ左折して線路沿いに進もう。この辺り一帯は高架工事中だ。
 

 左から「阪急京都線」が交わり「千里線」の踏切と並ぶ。そう言えば、さっきから踏切の警報音が鳴りっぱなしだ。阪急の高架が急がれる理由だ。
 

 左に曲がれば工事現場前に「随宏会館」という古い麻雀屋。右の古い建物は、もう廃業しているようだ。ここもいつかは、取り壊されるのだろう。
 

 現在、この辺りは高架工事中で多くの古い建造物が取り壊されている。
 

 合流した「京都線」と「千里線」は「淡路駅」で交わる。ガードマンの誘導に従って進んで行くと「東淡路商店街」。ところがアーケードだけで店がない???
 

 これは、補助金が出る平成26年度中にアーケードのみを先に完成させたためらしい。「空(から)」の商店街を抜ける。
 

 突き当たりを左に曲がれば「阪急電車」をガードでくぐる。
 

 ガードの出口左側には「阪急淡路駅」。
 

 その前には「淡路本町商店街」。昔、太宰府に流された菅原道真が「中洲」であったこの地に立ち寄り「淡路島」と間違えたことから、この辺りが「淡路」と呼ばれるようになったと言われるが諸説あり。
 

 アーケードに入ると左に「地蔵市場」という一角が。いい雰囲気だな。
 

 280mほどのアーケード街であるが、駅周辺には飲食店等が集まり、結構、賑やかな駅前商店街だ。
 

 

 映画館があるということは「すごい」ことなんだ。
 

 古くからの店もあるようだ。
 

 アーケードを通り抜けて右に曲がり、アーケードの北側をさまよう。古い建物が残っていた。
 

 駅方向に戻り、地下道で再度、阪急電車をくぐる。地下は、自転車置き場になっているようだ。
 

 そこには先ほどの「東淡路商店街」。ここら辺りは「商店」街の体をなしているようだ。
 

 路地を抜けていくと工事中の道路に出る。この辺りは「高架化」で大きく姿を変えるのだろうな。
 

 道を左に500mほどで「JR城東貨物線」に突き当たる。
 

 ガードをくぐると「菅原1交差点」。
 

 交差点の東に小さな路地があるので入って行こう。すぐに大きな木を擁した立派なお屋敷が目に入る。
 

 門の前に大木が。
 

保存樹に指定されている「くすのき」は、高さ22m、幹回り4m。
 

 「真宗仏光寺派光台寺」が右に見えれば左折。屋敷前に立つ「瑞光寺道」の石標に出会えば右へ。
 

 細い路地を道なりに進む。結構、古い屋敷が残っている。
 

 突き当たりに「菅原天満宮」が見えてくる。
 

 寛永年間(1624~1643年)に勧請されたといわれるが、淀川改良工事により明治35(1912)年、当地に遷座された。もちろん「菅原道真」を祀る。
 

 境内には「神牛」のほか、天満宮らしく「北野天満宮」「太宰府天満宮」「湯島天神」から拝領したという「梅」の木が植えられている。
 

 ご神木の「くすのき」は、高さ23.9m、幹回り4.6m。ただ、大阪では結構、有名な天満宮なのだが、境内は狭い。
 

 時間は、午後0時15分。一旦、府道に出る。そこには「久太郎食堂」。ラーメンやうどん等の単品のほか、おかずを一品ずつ取る「めし屋」方式の食堂だ。
 

 「ご飯(小)、貝汁、サバの塩焼き」を注文。630円で昼食をとる。この店は、この後、グルメ番組の撮影が行われたようだ。放映されれば、当分、行列ができるのだろうな。
 

 食事を終え「菅原天満宮」と「菅原天満幼稚園」の間まで戻り、細い道を進んでいく。立派なお屋敷が残る。
 

 大きな屋敷前を通り過ぎる。先には「堤防」が。
 

 「淀川スーパー堤防」に突き当たり左折。
 

 ホームセンター「コーナン」南出入口横には、以前、昭和2年に建てられたという「飯田繊工株式会社」の洋風社屋と町家風住宅が残っていたのだが取り壊されしまったようだ。古い「門柱」だけが残る。
 

 そのまま真っ直ぐ進み「菅原城北大橋」に突き当たれば左へ。
 

 「市立新東淀中学校」前の信号を渡り、「北淀公園」を抜け、
 

 「府立北淀高校」を過ぎて突き当たりを左折。
 

 辻を右に入り、ぐるっと回れば、左に古い街並み。
 

 この建物は立派だな。
 

 その先には「浄土真宗定専坊」。天平年間(729~748年)、行基が開基したと伝わる。
 

 山門前に「蓮如上人遺蹟」碑が建つ。
 

 「定専坊」から路地を東に進み「豊里中央公園」「市立豊里小学校」横を抜けて行く。
 

 豊里小学校の校門横には「土俵」が。相撲が盛んなのだろうか。
 

 「大阪内環状線」に出れば、右に見える信号(又は歩道橋)を渡り、そのまま進む。
 

 少し歩けば左に「大宮神社」が現れる。
 

 「日本書紀」によると「安閑天皇」が度々当地に行幸されたということから「安閑天皇」を御祭神とする。
 

 境内には、大きな桜の木が。満開になれば美しいだろうな。
 

 神社の前で一旦「大阪内環状線」を渡り、南に進めば「豊里大橋」。
 

 側道を通って「淀川」の堤防に上がる。
 

 そこには「平田の渡し跡」碑が立つ。昭和45年3月の「豊里大橋」開通まで約300年に渡って活躍した渡し船の船着場跡である。対岸の「旭区」にも同様の石碑が建つが「旭区」側の石碑には「平太の渡し」と記されている(「旭区」編参照)。

 

 「豊里大橋」が「淀川」を越え「旭区」へ続く。
 

 しばらく「淀川」堤防を歩こう。
 

 水道の「取水橋」のところで堤防を下る。
 

 「東大道公園」という小さな公園の脇から「大桐4丁目」の町に入る。
 

 「ボンカレー」か懐かしいな。「大道南」という町と「大桐」という町が隣接し、いずれも「だいどう」と読む。ややこしいが「南」が付けば「大道」だ。
 

 高層マンションや住宅、工場が混ざる町を抜けていく。
 

 右側に「大隅神社」。かつて入江に浮かぶ「大隅島」と呼ばれた中洲に「応神天皇」が離宮を造営。「大隅宮」と呼ばれた。天皇の崩御後、住民らにより社殿が建てられたのが始まりと伝わる。
 

 拝殿前には「祓串」が置かれてあり「ご自由に左右左とふり祓い清めて下さい」と書かれてあった。
 

 ここは拝殿の左右に「狛犬」が5基づつ計10基が並ぶ。みんな、こっちを見ている。
 

 向かって右の狛犬は、左足に布切れが巻かれている。
 

 参拝を終え、先ほどの高層マンション前まで戻り左へ。
 

 「大桐5丁目」を抜けると目の前に「淀川」の堤防が見えてくる。
 

 堤防下の道路を歩いても良いのだが、歩車道の区別がなので堤防に上がる。
 

 堤防下に信号が見えれば階段があるので下り、二叉を左に入る。
 

 すぐに左に「日蓮宗寂光寺」という寺院が現れる。「江口の里」という碑が。
 

 ここは、別名「江口の君堂」と呼ばれる。
 

 平家没落により「君」という遊女に落ちぶれた平資盛の姫君「妙」は、その後、当地を訪れた「西行法師」との出会いにより仏門に入り、元久2(1205)年、ここに庵を結んだのが始まると伝わる。
 

 「江口の君堂」から北に進み「南江口3丁目」の町を抜けていく。
 

 7~8分で「神崎川」に突き当たるので、すぐ左に見える「江口橋」で「神崎川」を渡ろう。
 

 「江口橋北詰」で道が二手に分かれるので「ガスト」前の筋へ進む。
 

 「東海道新幹線」の高架をくぐる。
 

 ここからしばらく「大阪府摂津市」との市境を歩く。
 

 途中、左手に「大隅神社御旅所」が建つ。
 

 右(東)は、「摂津市別府」の町だ。「別府」と書いて「べふ」と読む。
 

 道は市境を離れ左にカーブする。
  

 「市立井高野小学校」前を過ぎる。
 

 「高層マンション」や「市営住宅」前を過ぎる。
 

 

 住宅街の真ん中に「大阪市交通局井高野営業所」。この辺りが、ほぼ大阪市の「最北端」だ。
 

 「府営住宅」を左に見ながら歩き、途中、路地を右に入る。
 

 「新旧」混じる住宅街を抜ける。
 

 ここらは「海抜4m」か。
 

 「井高野公園」前を過ぎると突き当たりに「番田井路(ばんだいじ)」という水路が流れる。
 

 高層マンション街を左に見ながら進む。
 

 「井高野橋」で「番田井路」を渡る。
 

 「相川」の町に入ればすぐ北を流れるのは「安威川」。「大阪府茨木市」の山中を水源とする。
 

 すぐに左側に大きな建物が見えてくる。「大阪成蹊大学」だ。
 

 昭和8年創設の「高等成蹊女学校」が女子短大を経て、平成15年に開学した。
 

 「大阪成蹊大学」の西側には「私立大阪高校」。昭和2年、現在の「近畿大学」である「日本大学大阪専門学校」内に「日本大学大阪中学校」として設立されたそうだ。
 

 本館は、昭和12年に建築された。
 
 
 「大阪高校」から南に進み通りを右折すると阪急京都線「相川駅」の前に出る。
 

 駅舎を中心に扇状に道が広がる。
 

 その角に「大阪府東淀川警察署相川警ら連絡所」。オレンジ瓦屋根の可愛らしい建物だ。
 

 「相川警ら連絡所」南側の道を進む。途中、古い「歯医者さん」。
 

 五叉路に出れば南に進路を取る。分かり難いが、堤防の土手が見える方に進めば良い。
 

 すぐに「神崎川」に突き当たるので「小松橋」で川を渡る。「神崎川」は、淀川から別れた小さな水路であるが、すぐに「安威川」と合流。本流である「安威川」を名乗らず「神崎川」となって大阪湾に注ぐ。
 

 辺りには「資生堂」の工場が並ぶ。次の信号を左折。
 

 左に木造の工場が見えれば「市立小松小学校」の角を右に折れる。
 

 次の角を左折すれば「松山神社」。
 

 延喜元(901)年、菅原道真が太宰府に配流された際に立ち寄った場所に祠が建てられたのが始まりと言われる。ここも「菅原道真」ゆかりの地ということだ。
 

 神社南側の「松山公園」を過ぎる。公園入口に鳥居が立つので、この公園も神域だったのだろう。
 

 公園を出て右の路地を進めば「浄土真宗瑞松寺」や古い家が並ぶ。
 

 

 この塀を過ぎ、左に曲がれば・・・。
 

 「浄土宗専念寺」と寺院が続く。
 

 「専念寺」山門前から南に歩くと「瑞光寺公園」に出るので公園内を縦断しよう。
 

 公園の前には「東海道新幹線」の高架。
 

 公園西側にある「臨済宗瑞光寺」へ詣る。聖徳太子が創建したと伝えられるが火災で焼失。その後、寛永20(1643)年、天然和尚が再興したと言われる。
 

 弘済池と呼ばれた池に、欄干が鯨の骨で作られた「雪鯨橋」という珍しい橋が架かる。宝暦6(1756)年、当時の住職が「南紀太地」を訪れた際、漁師らに請われ豊漁祈願をし、その礼として送られた鯨の骨で鯨を供養するため架けられたという。
 

 参拝を終え、すぐ南の「大阪内環状線」を右(西)へ。「関西スーパー」の角で一本北の路地に入り西へ進む。250mほどで左に「稲荷商店街」。
 

 90mほどの小さなアーケード街だ。商店街名の由来となった「稲荷神社」がアーケード中ほどに。
 

 アーケードを抜け右へ。この道も「歴史の散歩道」らしい。
 

 阪急「上新庄駅」前で「大阪内環状線」を渡る。向こうには立派なお屋敷。
  

 「阪急京都線」の高架に沿って歩く。
 

 この駅は、「大阪内環状線」を挟んで、「北口」と「南口」が大きく離れており、高架に沿って歩くと「南口」が入る「上新庄阪急ビル」が現れるのでビルの下をくぐる。そこにも立派なお屋敷。
 

 路地を抜けていくと「春日神社」。
 

 春日神社であるから「中臣氏」を祖とする「藤原家」の祖神「春日四神」つまり「天児屋根命」「建甕槌命」「経津主命」「比大神」を祀る。ご神木と思われる3本の楠の影が長く伸びる。
 

 神社の前にも古い家や街並みが残る。
 

 

 ここにも茅葺きの家が。
 

 神社西側の「浄土真宗本願寺派信覚寺」前を通り、次の一方通行路を右折。再度、「大阪内環状線」の信号を渡り、左折する。すぐに歩道橋が架かる「上新庄交差点」に出るが、その北角に「常徳地蔵尊」。そして地蔵尊のすぐ裏、駐車場は「大阪府吹田市」になる。
 

 「上新庄歩道橋」を渡り、細い一方通行路に進んで行く。
 

 右の建物の裏は「吹田市」だ。
 

 真っ直ぐ進むと新しいが「亀岡街道」と刻まれた石標が。
 

 街道沿いらしく角には「地蔵尊」。
 

 地蔵尊南側の路地から「下新庄5丁目」の町へ入る。ここにも古い街並みが残る。
 

 「浄土真宗本願寺派明教寺」の路地を入る。
 

 この辺りにも古い街並みが残っている。
 

 このお屋敷も立派だな。
 

 裏に回る。
 

 

 古い街並みの裏では新たにマンションが建設されている。
 

 「庄栄温泉」。良い雰囲気のお風呂屋さんだ。
 

 ちょっと暖簾越しに中をのぞかせてもらった。
 

 タバコ屋兼お米屋さんの跡。「政府登録」の文字が。
 

 「下新庄駅」北側の踏切を渡る。
 

 ここにも古い街並みが残る。
 

 「下新庄駅」西側をウロウロと歩き駅西口へ向かう。
 

 

 塀の上では「鍾馗様」が睨みを効かす。
 

 阪急「下新庄駅」。地下鉄堺筋線も乗り入れる「千里線」の駅だが、ややローカル線ぽい雰囲気がする。午後5時ちょうど着。本日の歩紀「37768歩」(32.48km)。大阪の人でもあまり訪れることのない町であるが、結構、色々なものがあった。しかし、よく歩いたな。
 
コメント
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大阪24区を歩く~13番目の渡し「淀川区」

2013-09-20 21:33:12 | 日記
訪問日:平成25年11月9日(土)
出 発:地下鉄「東三国駅」
到 着:阪急電車「十三駅」

 昭和39年10月、東海道新幹線が開通。当時の東淀川区に「新大阪駅」が開業した。駅前は、オフィスビルやビジネスホテルが建ち並ぶ大阪の副都心となった。そして、昭和49年7月、新大阪駅を含む区西部が東淀川区から分区し「淀川区」として誕生。また、区内には「東海道本線」「阪急宝塚線」「阪急神戸線」「阪急京都線」「地下鉄御堂筋線」が縦横に走る。大阪から至近距離であることと交通の便の良さから多くのマンションが立ち並び、人口17万人を超える町となった。
 そして「淀川区」といえば何と言っても「十三(じゅうそう)」。淀川を行き来する「渡し」のうち13番目の渡しが発着したことから「十三」と呼ばれるようになったとか。今では、淀川以北最大の繁華街というよりも男性向けの歓楽街となり、
   ♪ 十三の ねえちゃん ♪
という歌まで流行ったほどだ。


 日没後に「十三」に着くようちょっと遅めの午前10時30分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」を出発する。
 

 大阪市から北に上る地下鉄御堂筋線は「中津駅」を出たところで地上に上がり新御堂筋とともに「新淀川大橋」で淀川を渡る。「新御堂筋」とは、戦前から計画されていたそうだが、その後、「千里ニュータウン」造成や新幹線の開通などを機に、大阪市内と結ぶための大動脈として開通した全長約15kmの大阪を代表する道路だ。大阪では「新御(しんみ)」と呼ばれている。その中央部を地下鉄御堂筋線が走る。
 

 駅真下の「東三国2交差点」を東に進むと、すぐに「蒲田神社」という神社に出る。宇賀御魂大神(ウカノミタマ)等を祀る。今日一日の安全祈願をしよう。
 

 社殿裏の大木には「蒲田千年樟」という札が掛けられていた。
 

 神社南側の出口から出て左折。消防署前を過ぎて次の信号で道路を渡る。蔵のある大きな屋敷がある。
 

 そのまま進み、アンダーパス出口の横に右へ入る路地があるので進む。すぐに「長柄人柱巌氏碑」が立つ。推古天皇の時代、洪水の度に流される長柄の橋を強固なものとするため巌氏という長者が自ら人柱となったとの伝説に基づき、その徳を讃え霊を慰めるため、昭和11年に建立されたものである。
 

 そのまま進むとJR東海道線に突き当たり、線路に沿って緑道があるので右折する。すぐにJR東海道線「東淀川駅」が現れる。オレンジ瓦の可愛らしい駅舎だ。
 

 開業当時は、東淀川区の中央にあったが、淀川区との分区により東海道線が東淀川区との境界となった。踏切を渡る。
 

 踏切を渡った所にも同じような駅舎が立つ。ここまで淀川区だ。
 

 昭和39年、駅の南側約500mを東海道新幹線が横切ったため、「東淀川駅」のすぐ目の前に「新大阪駅」が横たわる。
 

 新大阪駅北側の宮原1丁目。高層マンションが林立する。
 

 マンション群の真ん中に立派な屋敷が並ぶ。
 

 新御堂筋に架かる歩道橋で東から西に渡る。そこには「大阪府立東淀川高等学校」。淀川区は、かつて東淀川区であったため、今でも「東淀川」と冠された施設が多く残る。
 

 東淀川高校前の歩道橋から「西宮原」方向を眺める。駅西側は、オフィスビル街となっている。
 

 歩道橋は、そのまま新大阪駅への通路となっている。新幹線「新大阪駅」。駅周辺は、ビジネス中心の町であり、駅自体は乗り換え駅であることから、駅前商店街・繁華街は形成しない。周辺にビジネスホテルがある他は、駅構内で自己完結する様になっている。今日は、急ぎの旅ではないので駅構内を散策してみよう。
 

 駅西側を走る新御堂筋と地下鉄「御堂筋線」が併走しているため、西口は地下鉄と連結している。
 

 地下鉄連絡口は2階にあり、このフロアーには、お土産屋さんやファーストフード店などがある。「ユニクロ」やドラッグストアは改装工事中だった。その他、くつ修理店や理髪店、郵便局など「通りすがり」の人を相手にした店が多い。
 

 また、北側には「味道筋(みどうすじ)」という飲食店街がある。
 

 3階に上がってみよう。3階がメインフロアーであり、駅南側には新御堂筋からの誘導路が車寄せとなっており、タクシー乗り場になっている。
 

 この階の西端(新御堂筋側)に交番がある。
 

 3階にはみどりの窓口や土産物店など旅の出発・到着点になっている。
 
 
 

 また、改札の真ん前であるため、ちょっと落ち着いて食事ができる店もある。
 

 主な待ち合わせ場所は「中央口」「南口」の改札前のほか「千成びょうたん」前が有名だ。改札内に入ろうと思うが、その前に1階に下りてみよう。
 
 
 1階南側は、一般駐車場、バスターミナルや駅レンタカーなどがある。
 

 エスカレーター横には「大動輪」。たしか以前は3階にあったと思うのだが・・・。奥は、以前「団待ち(団体待合所)」があった。今はないが広いスペースが残っており、修学旅行生たちが並んでいた。
 
 
 そして屋内に入ると・・・。「味の小路」という飲食店街になっている。
 

 若干、目立たない場所にあり観光客は少ないが、仕事帰りや付近のサラリーマンらを相手にした飲み屋街となっており、夜遅くまで賑わっている。さあ、3階に戻ろう。
 

 自動券売機で入場券(120円、2時間有効)を購入し、改札内へ。
 

 エントランススペースには、広告代わりに自動車が展示されていた。
 

 東側は、在来線である東海道線との連絡口になっている。
 

 改札内は、完全に旅人のスペースだ。お土産屋さんや駅弁を揃えたお店が並ぶ。
 

 大阪名物は「たこ焼き」「お好み焼き」「豚まん」が有名(いずれも冷凍)。
 

 「よしもと」も大阪名物なんだ。
 

 最上階のホームへ。世界に誇る「新幹線」。新大阪駅は、全列車停車するので多くの新幹線が並ぶ。時間が短縮されたとはいえ、東京、九州と直結するホームには旅情が漂う。本当に1分の誤差もなく発着を繰り返している。
 

 もちろんホームにも売店はある。
 

 午後0時30分。スタートが遅かったので昼食時間となった。今日は、ちょっと旅気分を味わおうと、駅の売店で「なにわ満載弁当(1000円)」+お茶を購入。待合スペースで食事をとる。
 

 一息ついて「さぁ出発だ。」駅の南側には、旅行者・ビジネスマンのためのホテルが並ぶ。
 

 新御堂筋に沿って南へ。地下鉄で1駅「西中島南方駅」の周辺は、新大阪駅とは異なり、飲食店・飲み屋・パチンコ屋などが並ぶ。
 

 そして「風俗店」も。新大阪駅前のビジネスホテルから歩いて5分ほど。仕事を終えホテルにチェックインしたビジネスマンらの「癒し空間」となっているのだろうか。
 

 地下鉄と交差する阪急京都線の踏切を渡り、路地を過ぎると目の前は淀川の堤防。
 
 
 新大阪駅を出たJR東海道線が貨物線とともに淀川を越える。
 

 堤防を下りて河川敷を歩くことにしよう。この辺りはバーベキュー広場になっており、炭火の良い臭いがする。
 

 琵琶湖を源流とする淀川は、毛馬閘門で旧淀川と別れ、明治になって開削された大阪湾までの約10kmを「新淀川」と言うのだが、通常、大阪では、旧淀川を「大川」と呼び、新淀川は単に「淀川」と呼ぶ。
  

 阪急電車の京都線・宝塚線・神戸線の3線が渡る鉄橋。
 

 ちょっと堤防上に上がってみよう。「十三大橋」で国道176号線が淀川を渡る。かつてこの辺りに淀川の13番目の渡し船が通ったことから、ここを「十三」と呼ぶようになった。ただ、新淀川は、明治43年に毛馬閘門から新たに切り開かれた川筋であり、古地図などによると、ここを流れていたのは「中津川」という川であったらしい。
  

 そして橋の北詰には、当時の旅人を相手にした茶店だったのだろう、小さな餅屋があったのだが移転したようだ。街中に移転した新しい店へ行く。「今里屋久兵衛(淀川区新北野2-1-18)」。
 

 創業280年。「十三餅」という焼き餅一筋の老舗だ。「営業中」の札が出ていたが扉には鍵が。扉の横に「御用の方はインターホンを」と書いてあったが、わざわざ店を開けてもらうまでもないので、外のサンプルを撮影させてもらう。なお、十三駅西改札口の真ん前に出店があるので、ご入り用の節はそちらで。
 

 もう一度、淀川に戻る。河川敷には下りず堤防上を歩く。この辺りは毎年8月第2土曜日に「なにわ淀川花火大会」という花火大会が開かれ50万人の観客が訪れる。
 

 さらに進むと鉄橋。実は、先ほど新大阪駅を出て淀川を渡ったJR東海道線が「大阪駅」を経てUターンし、再度、淀川を渡って淀川区を走る。つまり東海道線は、淀川区を2度走るのだ。線路から向こうは「西淀川区」。
 

 堤防から下りて町中へ。古い長屋が。
 

 奥行きがあり、裏に「物干台」がある大阪の町家特有の造り。
 

 JR東海道線の「塚本駅」前を過ぎる。
 

 「塚本駅前通商店街」。
 

 全長約80mの小さなアーケード街だ。
  

 アーケードを出れば左へ。途中、公園を横断し、自動車学校の前を通り過ぎ、ちょっと広い道に出る。左に緑道が見えるが、これは西淀川区を東西に走る「大野川緑陰道」の延長だ。
 

 中小の工場街を抜ける。
 

 ここで「北方貨物線」が二叉に分かれており、アンダーパスと踏切で越える。その向こうには新幹線の高架線が走る。新大阪駅から西は「山陽新幹線」だ。
 

 新幹線橋脚に沿って歩く。新幹線の高架は、結構高い。
 

 右に「三津屋中央公園」が見えてくれば右折。公園に沿って歩く。
 

 その先には「大阪市立東淀工業高等学校」。淀川区の西の端っこにあるのだが、これも「東淀川区」時代の名残だ。
 

 この辺りは、新幹線と東海道線の間で北方貨物線が分岐し、4本の線路が走る。
 

 しばらく新幹線に沿って歩き、阪神高速道路をくぐって加島駅との分岐点に出ると右折。「十三筋」という大通りを越える。古いお米屋さんが残る。
  

 そして2~3分で「香具波志(かぐはし)神社」。959年、倉稲魂神らをお祀りしたのが始まりであり、昭和34(1959)年、鎮座千年祭を挙行したという古社だ。鳥居の後ろに門が建つ。
 

 路地を抜けて北に進むと神崎川に出る。この川で兵庫県尼崎市と大阪府吹田市・豊中市との境界を成す。つまり、淀川区は東西をJR東海道線、北を神崎川、南を淀川に囲まれているのだ。
 神崎川に架かる「毛斯倫(モスリン)大橋」。「モスリン」とは薄地の生地のことで、かつて対岸の尼崎市戸ノ内に「毛斯倫紡績」という工場があり、その工場が社用に架けた橋であったことから「毛斯倫大橋」と呼ばれている。
 

 河川敷に下りるタイミングを失ったので歩車道の区別のない道路を歩く。休日の交通量は少ないが、車に気をつけて歩こう。
 

 「大豊橋南詰」で阪神高速道路をくぐり900mほどで右に坂道が見えるので、下りて工場と工場の間を歩く。
 

 先ほど渡った「十三筋」に出るので左折し、10分ほどで左に「和食さと」が見えれば、その手前の路地を左に。
 

 三津屋中2丁目。この辺りは、古い街並みが残っている。
 

 長い板塀と白壁の塀。
 

 大きな門。
 

 立派な土蔵。
 

 これは「香具波志神社御旅所」。
 

 ここにも板塀が。軒下は石畳になっていた。
 

 浄土真宗蓮正寺の塀。
 

 真っ直ぐ歩くと分離帯のある道に出るので左折。すぐ左に「三津屋商店街」のアーケードが見える。
 

 幅の狭い商店街だが、地元の人たちの生活を支えているのだろうシャッター街化はしていない。
 

 450mほどのアーケードを抜けると神崎川に突き当たり、右折すれば「阪急神戸線神崎川駅」まで店が続く。
 

 「神崎川駅」のガードをくぐる。
 

 この道は、昔の川筋に沿っているのだろうかヘビのようにクネクネと曲がる。
 

 直線部分がないので向こうを見通せない。
 

 「ヘビ道」を抜けると国道176号線と阪急宝塚線「三国駅」を越える。ガード沿いに歩けば駅前のロータリーに。
 

 駅の東側には「三国商店街(サンティフルみくに)」。
 

 ここも結構、賑わっている商店街だ。
 

 古い建物は「質屋さん」。
 

 450mほどでアーケードは終わる。右(南)に曲がり、そしてすぐに右折する。つまり、商店街の一本南の筋を元の方向に戻ることになる。ここには、何となく「昭和」を感じさせる店が並ぶ。結構、飲み屋さんも多い。
 

 途中で左に曲がり三国本町2丁目の町を抜けるが、ここも結構古い家が残っている。
 

 「三国本町公園」という都市公園に出れば斜めに横断する。やっぱり、大阪市内の公園は人が多いなぁ。
 

 公園を抜け左折するとすぐに「北方貨物線」の踏切。「JR宮原操車場」へと引き込み線が続く。
 

 「宮原操車場」。平成19年、ここの仮設ホームに昭和30年代の東京駅を再現し、ビートたけし主演の映画「点と線」のロケが行われた。高架線は、山陽新幹線。
 

 宮原操車場前を越えると角に大きな屋敷がある。幼稚園を経営しているようだ。
 

 阪急京都線を越え「十三」へ向かう。「大阪市立十三小学校」。大正時代に開校した古い学校らしい。
 

 小学校前は、アーケードはないが商店街になっている。
 

 古い酒屋さんと呉服屋さんの間を左折する。
 

 外観は洋風だが、大阪市内でよく見られる、玄関だけ独立し奥でつながっている長屋があった。
 

 すぐに神社の裏手に出るので表にまわる。神津(かみつ)神社だ。付近の多くの神社を合祀し「八幡さん、天神さん、住吉さん、お稲荷さん」などを祭る。
 

 特に有名なのは「えべっさん」。「十三」と「富」をかけて「十三(とみ)えびす」と呼び、毎年盛大に行われる。特に地元出身のラジオパーソナリティー「桜井一枝」さんが大活躍する。
 

 神社の前は、十三駅前通商店街。立ち飲み屋さんやパチンコ屋がある。以前は、成人向けの映画館もあったが、今はなくなっているようだ。
 

 
 
 アーケードを出たところが阪急「十三駅東改札口」。阪急梅田駅を出発した神戸線・宝塚線・京都線の3線は、ここ「十三駅」まで併走し、ここで扇のように神戸・宝塚・京都へと分かれる。
 

 東改札口と西改札口を結ぶガード下の通路。身長180cm以上の人は、頭上に注意して歩きましょう。
 

 今日のゴール「十三駅西改札口」を一旦通り過ぎる。「十三トミータウン」と呼ばれる短いアーケード街には「喜八洲総本舗」という和菓子屋が立つ。行列ができていた。
 

 昭和23年の創業と比較的新しい店だが酒饅頭やみたらし団子が有名で主要ターミナルに出店がある。
 

 アーケードを抜けた所は「十三ロータリー」と呼ばれる「十三交差点」。国道176号線が通り、深夜になれば客待ちタクシーが並ぶ。
 

 信号を渡って「十三フレンドリー商店街」へと進む。240mほどのアーケードが一旦、十三バイパスのガード下で途切れ、その先は「もといまロード」というアーケードが続く。
 

 道頓堀「かに道楽」の出店もある。
 

 ここは、商店や飲食店が並ぶ「普通」の商店街である。
  

 しかし、一つ南の「十三本町商店街」へ入ると・・・。この辺りは、ラウンジやクラブ、キャバレーが並ぶ「夜の街」。
 

 

 いわゆる「風俗店」も並ぶ男性向けの歓楽街だ。
 

     ♪♪ ネオン 渦巻く 十三よ やけに淋しい夜もある
           ねえちゃん ねっちゃん 十三の ねえちゃん ♪♪
 バブル絶頂期は、目が眩むほどのネオンが輝き、その風景を撮影するためビデオカメラを抱えた外国人観光客が押し寄せたほどだが、今は半分ほどに。一時は、客引きの外国人女性が出没し、治安が悪化したこともある。しかし、他の地区同様、バブル崩壊とともに落ち着きを取り戻し、古き良き盛り場へと戻りつつあるようだ。
 

 国道176号線を渡り「波平どおり」と呼ばれる裏道を通り抜け「十三駅西改札口」へ。改札に向かって左側には「小便横丁」と呼ばれる狭い路地が線路に沿って2筋並ぶ。この風景を見るため、わざわざ日没の早いこの時期を選び、日没に合わせて出発時間を設定したのだ。
 

 昭和20年6月の大阪大空襲で焼け野原になった跡地にできたこの飲み屋街には、かつてトイレがなかったため酔客が立ち小便をし、付近には小便の臭いが漂っていたことから、こう呼ばれるようになったとか。まず、線路沿いの筋を歩く。
 

 100mほどで突き当たる。今はここに公衆便所が出来ている。そして、これまでと違い各店にトイレが設けられているので、今では立ち小便をする者はいない。ただ、かえってトイレがあることで若干「小便臭」が漂う。これも「演出」か?しかし、女子トイレのないトイレとはすごいなぁ。まさに「立ち小便」専用トイレだ。
 

 ここで折り返し、もう一つの筋を歩く。ここもネオンというよりも赤提灯や立て看板の電飾が並ぶ。
 

 いったい何軒の店があるのだろうか。そしてどの店もほぼ満席だ。まだ、土曜日の夕方5時過ぎだぞ!
 

 

 

 先ほどの「喜八洲総本舗」向かいにある銀行の前には、小さな「小便小僧」の像が立つ。小便横丁に因んで平成20年2月に立てられたものだ。「見返りトミー君」という。帽子を被らせてもらっている。
 
 
 午後5時30分、今日のゴールである阪急「十三駅(西改札口)」に到着。本日の歩紀「35763歩」(30.75km)。寄り道せず真っ直ぐ帰ろうか、それともちょっと身体を温めて帰ろうか。
 

 なお、先ほど紹介した「今里屋久兵衛」の出店です。改札の3歩ほど前にあります。
 

追記:「小便横丁」は、平成26年3月7日早朝の大火で、大部分が焼失してしまいました。謹んでお見舞い申し上げます。
 
                                 (平成26年3月15日撮影) 

 
コメント
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