訪問日:令和3年10月23日(土)
出 発:JR「四条畷駅」
到 着:JR「野崎駅」
「湊川の戦い」で敗れ自害「楠公」と称された楠木正成の嫡男で今でも「小楠公」として親しまれている「楠木正行(まさつら)」。南北朝時代、「正行」が足利軍に敗れた合戦の地「四條畷」。そこから標高314mの「飯盛山」山頂に佇む古城「飯盛城跡」を経て、元禄の時代から「のざきまいり」として多くの人から信仰を集める「野崎観音」までを歩く。低山とは言えしっかりとした足元で。2時間30分ほどの山行なので山に入る前に済ませておけば給水・トイレの心配はない。
今日のスタートはJR学研都市線「四条畷駅」。大阪駅から約30分(310円)。「四條畷市」は大阪府と奈良県の間に横たわる「生駒山地」の西麓にある人口5万5千人ほどの小さな衛星都市である。かつて「條」の略字である「条」の文字を使っていたが、平成の時代に入って「條」に変更。しかし、変更に伴う費用について市とJRの間で折り合いがつかず駅名のみ「四条畷」になっているそうだ。そればかりではない。この駅は「四條畷市」ではなく隣接する「大東市」に所在するのだ。午前9時30分、駅西出口を出発。
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駅前を南に進みパチンコ屋のある次の角を右へ。団地の間を200mほど進めば「府道162号線」に突き当たるので右へ曲がる。
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途中、左に「イオンフードスタイル」があるので飲食類の補給が可能だ(午前8時開店)。
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三井住友銀行を過ぎれば左に今日の主人公「楠木正行」の墓所である「伝小楠公墓所」。(午前9時45分)
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楠木正成の嫡男で「小楠公」として今も親しまれる楠木正行は、南北朝時代、形勢不利を知りつつ父正成の意を継ぎ、南朝の将として「四條畷の合戦」に挑む。
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この後訪れる「四條畷神社」「飯盛城」を含め、この辺り一帯が「四條畷の合戦」の戦場となり「楠木正行」はこの地で戦死。明治11年に建てられた石碑の銘は「大久保利通」の自筆と伝わる。
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「墓所」を出て左へ。信号2つを過ぎて「大阪府立四條畷高校」「平和堂」という和菓子屋さんを過ぎれば「ファミマ」のある交差点を右折、東へ進む。
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350mほど進んでJRの踏切りを渡る。
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次の四つ辻を左に曲がれば「四條畷市立歴史民俗資料館」。(午前10時10分)
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入館は無料。午前9時30分から午後5時まで開館(月曜日休館)しており、展示室の一部は国の登録有形文化財に登録されている明治時代に建造された土蔵である。
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四條畷市内の遺跡や出土品、民俗資料などの展示を行っている。
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この日は「三好長慶(みよしながよし)生誕500周年」を記念して特別展が開催されていた。
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また、この後に訪れる「飯盛城跡」は平成29年4月「続日本100名城」に選定され、そのスタンプがここでもらえるのだ。
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5分ほどで見学を終え資料館前を南へ。先ほどの四つ辻を越えていく。この細い道は「東高野街道」。
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コンビニに突き当たり左折すれば、右前方にこんもりとした森が見える。
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ここは「伝和田賢秀公墓」。(午前10時20分)
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「和田賢秀」とは「楠木正行」とともに「四條畷の合戦」で戦死した武将である。
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「伝和田賢秀公墓」を過ぎ南に進む。10分ほどで「四條畷神社前交差」。左折しよう。これより「四條畷神社参道」を進む。石組みの台座が残るが現在鳥居の再建計画中らしい。
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「参道」と言うが普通に民家や商店が並ぶ。生駒山地に向かって緩やかな坂を上って行く。
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10分ほどで「四條畷神社」の社号標と鳥居が現れる。角には「茶屋宿伊勢屋」という古そうなお店が。境内へ進もう。(午前10時40分)
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「伊勢屋」の前と境内の参拝者専用休憩所に自動販売機が境内に続くこの石段の途中にトイレがある。前半最後の給水・トイレポイントである(トイレはポットン式だった)。
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正平3(1348)年2月、「楠木正行」は南朝軍の指揮官として足利尊氏に仕えた北朝室町幕府の執事高師直(こうもろなお)に対し、劣勢を覚悟の上で勝負に挑み「四條畷の合戦」で戦死。一族24人らとともに、ここ「四條畷神社」に神として祀られている。
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正行は、その12年前の建武3(1336)年5月、父正成が足利尊氏を討つため「湊川の戦い」に赴くに際し共に戦場へ行くことを懇願。しかし死を覚悟していた正成は11歳の正行に対して現在の大阪府三島郡である「桜井駅」で「お前は国へ帰り、新しい帝に忠義を尽くせ」と諭し河内国へ帰国させた。有名な「桜井の別れ」である。境内には、その姿を現す「桜井の別れ像」が立つ。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「西国街道を山崎から高槻へ」参照)
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楠木父子の活躍は1300年代のことであるが、明治23年に創設された比較的新しい神社である。先ほどの「伝小楠公墓所」や「桜井の別れ像」もそうだが、明治新政府により南朝が正統化され南朝の将であった「楠木正成、正行」が神格化されたためだろう。今日一日の安全を祈願する。
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参拝を終え鳥居方向に戻り参拝者専用休憩所を過ぎれば突き当たりに「飯盛山登山口」がある。ここから山に入る。(午前11時)
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「飯盛山」へのいくつかあるハイキングコースのうち「四條畷神社コース」というコースを登る。
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いきなり階段が現れる。
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案内板に従い「飯盛山頂」方向へ。
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再び階段が現れる。しかも結構きつい。コースのほとんどは階段である。
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途中振り返れば素晴らしい景色が広がる。
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しかし階段は続く。
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まるでハシゴだ。
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登山口から30分ほどでこの案内表示。
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しかし容赦なく階段は続く。
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空が広がってきたぞ。
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「飯盛山史蹟碑」。大正13年「旧制四條畷中学校校友会」によって建てられたという。(午前11時32分)
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目の前には北は「比叡山」から南は「南河内」までの展望が開ける。「視界270度の眺望」と言われている。
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大阪平野すべてが見渡せる。
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そしてこの辺りが「飯盛城」の北端と見られ「飯盛山頂」を中心に「四條畷市」と「大東市」の境界にまたがって城跡が残る。少し進めば北を固める「堀切」と呼ばれる防御施設。
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私は歴史が好きなので城に興味はあるが、いわゆる「古城ファン」の方たちのような知識はない。資料の受け売りになるが南北650m・東西400mに渡って「堀切」「石垣」「郭(くるわ)」などの貴重な遺構が良好な状態で残っていると言われる。
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そのまま進んで行けば左に石垣群が現れる。「飯盛城」は京・大和・河内の国境近くに位置し、水運にも恵まれ交通の要衝とともに軍事上の重要拠点として古くから砦・出城などが築かれていたようだが最も栄えたのは永禄3(1560)年11月、近畿一円を治めた戦国大名「三好長慶」の居城となってからと言われる。
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右の小高い「郭」には「御体塚」。三好長慶は永禄7(1564)年7月城内で没したが、その死は3年間にわたって外部に秘され遺体はここに仮埋葬されたそうだ。(午前11時44分)
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元の道に戻りさらに進む。別れ道に出れば「楠公寺」方向(左)へ。
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尾根伝いに進んでいけば東側尾根筋にも石垣群が残るが道が整備されていないため立ち入ることはできない。
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しかし、道沿いのすぐ右側に「石垣跡」が保存されている。一部は崩壊防止のため補強されているようだ。
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さらに進めば道は分岐するので左の坂道を下ろう。
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すぐに「日蓮宗楠公寺」。結構、新しいお寺だな。(午前11時56分)
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寺伝によると元は正平3(1348)年、南朝の忠臣を弔うため「妙法寺」として開山されたが昭和25年「楠木正行」の菩提寺として新しく建立されたという。
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広い敷地から飯盛城の「馬場」であったと伝わる。
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先ほどの分岐まで戻り左折して今度は右の坂を登る。カーブを曲がれば正面に「堀切」跡。この奥は落差30mほどの急斜面となっている。
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ここから案内板に従い右へ。途中「堀切」があり、その上を「土橋」という通路が走る。
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そして小高い丘を登れば「高櫓郭」と呼ばれる標高314mの飯盛山頂だ。「飯盛城址」の石碑が立つ。昼時ということもあって周りでは多くのハイカーが昼食。その後、歴史ハイクと思われる団体が輪になってガイドの説明を聞いていた。しかし誰もが写真を撮りたい場所では、ある程度スペースを確保して欲しいな。正面のリュックの横でも初老の男性が食事をしていたが、私が石碑の上にモンベルのキャップを置いて写真を撮り始めると、そっと場所を譲ってくれた。
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石碑の横には城址の案内マップ。「山城」と言えば何か遠い田舎の山間部にあり、何時間も山登りをしなければならないというイメージがあるが近畿地方最大級といわれる「飯盛城跡」は大阪駅から電車で30分、その後1時間ほど山を登れば到着する。すごいな。
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山頂の右横には「楠木正行像」。ただ、先ほども述べたように「飯盛城」は三好長慶の居城であり「四條畷の合戦」でここに「楠木正行」が陣を構えたと言うわけではない。そして三好長慶がこの地を治めたのは4年あまり。その後、織田信長による「摂河平定」により「畠山秋高」の所有となったが内紛により織田信長に攻められ天正4(1576)年落城、廃城となった。
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山頂の左横には戦時中に設けられた「防空監視所」の一部が残る。
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そして山頂から一段低くなったところが「本郭」と呼ばれる。時間は午後0時7分。今日も腹時計は正確だ。
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展望台が設けられているので昼食としよう。
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今日の昼食は四条畷駅からの途中、イオンフードスタイルで購入した「彩りおむすび」(214円)。量的には少ないが山に入ってすぐに「行動食」を食べた。この後も下山するまでに「行動食」を食べるのでこれくらいで良い。山歩きは満腹・空腹を避け「腹八分目」をキープするのが原則だ。
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食後、展望台から景色を眺める。大阪平野が一望できるが三好長慶はここから眺められるすべての地を治めたと言われる。終戦前日の昭和20年8月14日、ここから大阪大空襲で真っ赤に燃える大阪の町が見えたのだろうか。
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昼食を終え「本郭」を午後0時25分出発。元の道を戻り「飯盛山頂」「堀切と土橋」「堀切」を通り過ぎると放送局の電波送信塔が立つ。
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その横を抜けて行けば「千畳敷郭」。
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城内最大面積の「郭」で居住スペースであったと見られる。
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「千畳敷郭」の奥には城南側の守りを固めた防御施設である「南丸跡」。
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「南丸跡」横の石段を下りていけば「虎口」。ここが城跡の南端になる。(午後0時35分)
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「虎口」横には石垣跡が残る。
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これで「飯盛城」の城域を巡ったがハイキングコースが整備されていない山中にも多くの遺構が残る。四條畷・大東両市による学術調査の結果「飯盛城」は今年6月「国史跡」に指定するよう答申された。このコースも本来昨年歩く予定だったがコロナ「足止め」のため「二番煎じ」の様になってしまった。
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ハイキングコースを進んでいけば分岐点に出るが「野崎観音(七曲りコース)」方向に進む。
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しばらく下って行けば「大東市立青少年野外活動センター」との分岐点に。ここから5分ほど歩けば「野外活動センター」。トイレがあるが必要なければ「野崎観音」方向へ進もう。
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市境を離れここから先は「大東市」。大東市側は「大東の杜」として整備され案内標識もたくさん立てられている。
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緩やかな坂を下って行けば左に「辻ノ新池」。(午後0時50分)
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「七曲り」と言われるようにジグザグに道が進む。このルートも結構階段があるが比較的段差は緩やかである。
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10分ほどで山道が終わり舗装道路に出る。付近には水場や廃屋が。
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5分ほど坂道を下り砂防ダムの横に案内標識。「野崎観音」方向に進む。
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渓流に沿って進む。
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5分ほどで案内標識が立つが「野崎観音」「吊り橋」方向には行かず、この階段を上って行こう。
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ここは「野崎城」の「堀切(空堀)」跡らしい。
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すぐに何やら小さな広場のような所に出る。「野崎城址」だ。(午後1時15分)
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「太平記」によると「四條畷の合戦」で「楠木正行」に対する北朝軍の「縣下野守」が陣を構えたと言うが文献が残っていないため歴史的な詳細は不明である。「飯盛城」の出城・支城的な役割を担っていたと考えられる。
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「本郭」と呼ばれる城跡は展望広場として整備されている。木々の間からは河内平野が一望できることから重要な軍事拠点だったのだろう。
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城跡からさらにハイキングコースを進む。前方には大阪平野が広がる。遠くにはあべのハルカスが。
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「野崎城跡」には4つの「郭」が残り展望台として整備されている。いくつかの展望台を見ながら高度を下げていく。
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坂を下れば案内標識が。
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そして「野崎観音」方向(右)に目をやれば何やら石造物が見える。「石造九重層塔」。鎌倉時代後期の永仁2(1294)年に建立された北河内最古の石造層塔といわれ大東市の指定文化財に指定されている。最上層と相輪を失っており現在では高さ2m80cmの八層になっている。(午後1時27分)
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先ほどの案内標識まで戻り「吊り橋」方向に進む。
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そこには小さな「吊り橋」。観光用の「吊り橋」のようだが私が小学校低学年のころ担任の先生から「まあ君ら行くことはないと思うけど野崎観音裏の吊り橋は台風で壊れたから行ったらあかんで」という指示があったのを覚えている。かなり前からあるのだろう。
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「吊り橋」を渡って右へ。個人墓なので撮影は控えるが左右に墓地が広がる。
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墓地を抜ければハイキングコースは終わりお寺の裏に出る。
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ここが「野崎観音」。ご本尊である「十一面観世音菩薩像」をお祀りする「本堂」は昭和25年に解体移築した際、棟木に元禄8(1695)年の銘があったそうだ。(午後1時35分)
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正式名は「福聚山慈眼寺」という曹洞宗の禅寺だ。天平勝宝年間(749~757年)に開かれた古いお寺で、幾多の戦乱によりご本尊を残して全焼したそうだが元和2(1616)年に再建されたという。
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本堂の右隣には「江口の君堂」。「江口の君」とは西行に見そめら仏門に入った遊女(大阪24区を歩く「東淀川区」編参照)。
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左隣には「三十三所観音堂」。ここでお参りすれば「西国三十三ヵ所巡り」の全霊場を一度に拝むことができるそうだ。ありがたいな。
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「本堂」と「三十三所観音堂」の間を入れば宝永5(1708)年鋳造といわれる「梵鐘」。
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本堂の階段前には「楼門」。禅寺らしいな。
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そして「山門」横には「牛頭天王宮」である「南條神社」。
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ハイキングコースから入ったので裏からのお参りとなったが「山門」から境内を後にする。(午後1時50分)
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先ほどの「楼門」を下から眺める。
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境内を後に住宅街を下って行けば突き当たり、角に「牛頭天王宮」と刻まれた石灯籠と「観世音菩薩」と刻まれた石碑が立つ。この道は「東高野街道」。
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右に進み1つ目の交差点に出れば「あれれ」。こちらが参道だったのか。私は「山門」を出て左に曲がっが右に曲がればここに出たんだな。しかし右に曲がれば「楼門」を下から眺めることはできなかったな。
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参道を背にして左折。住宅街を進めば「野崎交差点」。ここから先は「野崎参道」と呼ばれる商店街。毎年5月1日~8日の1週間にわたって行われる「のざきまいり」は正式には「無縁経法要」と呼ばれるすべてのものに感謝のお経を捧げる仏教行事なのだが、元禄のころより大坂商人らをはじめとした庶民の信仰を集め現在まで続く伝統行事となった。
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落語の御題にも取り上げられJR「野崎駅」までこの参道商店街には多くの屋台が並び色んなイベントが開催されるのだが、新型コロナにより昨年に続いて2年連続中止されたそうだ。来年は開催されるといいな。
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この赤い橋で350mほどの参道は終わる。「大阪府大東市」。大阪市の東に位置することから「大東市」。四條畷市の南に隣接する人口12万人ほどの衛星都市である。実は「四條畷の合戦」の主戦場は現在の大東市である「野崎」「北条」辺りだと言われる。諸説はあるが、かつてこの辺り一帯は「四條」と呼ばれ「太平記」に「四條畷の合戦」と記された。それに因み昭和7年「北河内郡甲可村」が「四條畷村」と改称。町政を施行するにあたって「四條畷町」となり現在の「四條畷市」に続くらしい。つまり「四條畷」は市の名前ではなく、この地域を指す地名のようだ。そのため「四条畷駅」が大東市にあったり四條畷・大東両市を管轄する「大阪府四條畷警察署」が大東市にあったりするのだろうか。
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そんなことを考えているうちにふと左を見れば隣にも赤い橋。そしてそこには本日のゴールであるJR学研都市線「野崎駅」。午後2時5分到着。本日の歩紀「15615歩」(10.61km)。「四条畷駅」のひとつ手前の駅である。ここから大阪駅まで約30分(310円)。もしかすれば「楠木正行」ゆかりの地は「大東市」なのかも知れないな。「飯盛城」のスタンプは「大東市立歴史民俗資料館」「大東市立青少年野外活動センター」でももらえる。
なお、四條畷神社から飯盛山までの階段はかなりきついが下りはもっと大変だろう。階段周辺の土は雨に流され各階段の段差は結構大きい。ずっと「飛び降りる」ようにして歩かなければならず、かなり膝への負担が大きいだろう。ということで「飯盛山」へは「四條畷神社」側から登り「野崎観音」側に抜けるコースをお勧めする。
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出 発:JR「四条畷駅」
到 着:JR「野崎駅」
「湊川の戦い」で敗れ自害「楠公」と称された楠木正成の嫡男で今でも「小楠公」として親しまれている「楠木正行(まさつら)」。南北朝時代、「正行」が足利軍に敗れた合戦の地「四條畷」。そこから標高314mの「飯盛山」山頂に佇む古城「飯盛城跡」を経て、元禄の時代から「のざきまいり」として多くの人から信仰を集める「野崎観音」までを歩く。低山とは言えしっかりとした足元で。2時間30分ほどの山行なので山に入る前に済ませておけば給水・トイレの心配はない。
今日のスタートはJR学研都市線「四条畷駅」。大阪駅から約30分(310円)。「四條畷市」は大阪府と奈良県の間に横たわる「生駒山地」の西麓にある人口5万5千人ほどの小さな衛星都市である。かつて「條」の略字である「条」の文字を使っていたが、平成の時代に入って「條」に変更。しかし、変更に伴う費用について市とJRの間で折り合いがつかず駅名のみ「四条畷」になっているそうだ。そればかりではない。この駅は「四條畷市」ではなく隣接する「大東市」に所在するのだ。午前9時30分、駅西出口を出発。
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駅前を南に進みパチンコ屋のある次の角を右へ。団地の間を200mほど進めば「府道162号線」に突き当たるので右へ曲がる。
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途中、左に「イオンフードスタイル」があるので飲食類の補給が可能だ(午前8時開店)。
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三井住友銀行を過ぎれば左に今日の主人公「楠木正行」の墓所である「伝小楠公墓所」。(午前9時45分)
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楠木正成の嫡男で「小楠公」として今も親しまれる楠木正行は、南北朝時代、形勢不利を知りつつ父正成の意を継ぎ、南朝の将として「四條畷の合戦」に挑む。
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この後訪れる「四條畷神社」「飯盛城」を含め、この辺り一帯が「四條畷の合戦」の戦場となり「楠木正行」はこの地で戦死。明治11年に建てられた石碑の銘は「大久保利通」の自筆と伝わる。
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「墓所」を出て左へ。信号2つを過ぎて「大阪府立四條畷高校」「平和堂」という和菓子屋さんを過ぎれば「ファミマ」のある交差点を右折、東へ進む。
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350mほど進んでJRの踏切りを渡る。
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次の四つ辻を左に曲がれば「四條畷市立歴史民俗資料館」。(午前10時10分)
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入館は無料。午前9時30分から午後5時まで開館(月曜日休館)しており、展示室の一部は国の登録有形文化財に登録されている明治時代に建造された土蔵である。
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四條畷市内の遺跡や出土品、民俗資料などの展示を行っている。
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この日は「三好長慶(みよしながよし)生誕500周年」を記念して特別展が開催されていた。
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また、この後に訪れる「飯盛城跡」は平成29年4月「続日本100名城」に選定され、そのスタンプがここでもらえるのだ。
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5分ほどで見学を終え資料館前を南へ。先ほどの四つ辻を越えていく。この細い道は「東高野街道」。
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コンビニに突き当たり左折すれば、右前方にこんもりとした森が見える。
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ここは「伝和田賢秀公墓」。(午前10時20分)
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「和田賢秀」とは「楠木正行」とともに「四條畷の合戦」で戦死した武将である。
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「伝和田賢秀公墓」を過ぎ南に進む。10分ほどで「四條畷神社前交差」。左折しよう。これより「四條畷神社参道」を進む。石組みの台座が残るが現在鳥居の再建計画中らしい。
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「参道」と言うが普通に民家や商店が並ぶ。生駒山地に向かって緩やかな坂を上って行く。
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10分ほどで「四條畷神社」の社号標と鳥居が現れる。角には「茶屋宿伊勢屋」という古そうなお店が。境内へ進もう。(午前10時40分)
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「伊勢屋」の前と境内の参拝者専用休憩所に自動販売機が境内に続くこの石段の途中にトイレがある。前半最後の給水・トイレポイントである(トイレはポットン式だった)。
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正平3(1348)年2月、「楠木正行」は南朝軍の指揮官として足利尊氏に仕えた北朝室町幕府の執事高師直(こうもろなお)に対し、劣勢を覚悟の上で勝負に挑み「四條畷の合戦」で戦死。一族24人らとともに、ここ「四條畷神社」に神として祀られている。
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正行は、その12年前の建武3(1336)年5月、父正成が足利尊氏を討つため「湊川の戦い」に赴くに際し共に戦場へ行くことを懇願。しかし死を覚悟していた正成は11歳の正行に対して現在の大阪府三島郡である「桜井駅」で「お前は国へ帰り、新しい帝に忠義を尽くせ」と諭し河内国へ帰国させた。有名な「桜井の別れ」である。境内には、その姿を現す「桜井の別れ像」が立つ。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「西国街道を山崎から高槻へ」参照)
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楠木父子の活躍は1300年代のことであるが、明治23年に創設された比較的新しい神社である。先ほどの「伝小楠公墓所」や「桜井の別れ像」もそうだが、明治新政府により南朝が正統化され南朝の将であった「楠木正成、正行」が神格化されたためだろう。今日一日の安全を祈願する。
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参拝を終え鳥居方向に戻り参拝者専用休憩所を過ぎれば突き当たりに「飯盛山登山口」がある。ここから山に入る。(午前11時)
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「飯盛山」へのいくつかあるハイキングコースのうち「四條畷神社コース」というコースを登る。
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いきなり階段が現れる。
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案内板に従い「飯盛山頂」方向へ。
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再び階段が現れる。しかも結構きつい。コースのほとんどは階段である。
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途中振り返れば素晴らしい景色が広がる。
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しかし階段は続く。
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まるでハシゴだ。
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登山口から30分ほどでこの案内表示。
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しかし容赦なく階段は続く。
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空が広がってきたぞ。
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「飯盛山史蹟碑」。大正13年「旧制四條畷中学校校友会」によって建てられたという。(午前11時32分)
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目の前には北は「比叡山」から南は「南河内」までの展望が開ける。「視界270度の眺望」と言われている。
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大阪平野すべてが見渡せる。
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そしてこの辺りが「飯盛城」の北端と見られ「飯盛山頂」を中心に「四條畷市」と「大東市」の境界にまたがって城跡が残る。少し進めば北を固める「堀切」と呼ばれる防御施設。
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私は歴史が好きなので城に興味はあるが、いわゆる「古城ファン」の方たちのような知識はない。資料の受け売りになるが南北650m・東西400mに渡って「堀切」「石垣」「郭(くるわ)」などの貴重な遺構が良好な状態で残っていると言われる。
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そのまま進んで行けば左に石垣群が現れる。「飯盛城」は京・大和・河内の国境近くに位置し、水運にも恵まれ交通の要衝とともに軍事上の重要拠点として古くから砦・出城などが築かれていたようだが最も栄えたのは永禄3(1560)年11月、近畿一円を治めた戦国大名「三好長慶」の居城となってからと言われる。
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右の小高い「郭」には「御体塚」。三好長慶は永禄7(1564)年7月城内で没したが、その死は3年間にわたって外部に秘され遺体はここに仮埋葬されたそうだ。(午前11時44分)
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元の道に戻りさらに進む。別れ道に出れば「楠公寺」方向(左)へ。
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尾根伝いに進んでいけば東側尾根筋にも石垣群が残るが道が整備されていないため立ち入ることはできない。
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しかし、道沿いのすぐ右側に「石垣跡」が保存されている。一部は崩壊防止のため補強されているようだ。
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さらに進めば道は分岐するので左の坂道を下ろう。
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すぐに「日蓮宗楠公寺」。結構、新しいお寺だな。(午前11時56分)
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寺伝によると元は正平3(1348)年、南朝の忠臣を弔うため「妙法寺」として開山されたが昭和25年「楠木正行」の菩提寺として新しく建立されたという。
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広い敷地から飯盛城の「馬場」であったと伝わる。
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先ほどの分岐まで戻り左折して今度は右の坂を登る。カーブを曲がれば正面に「堀切」跡。この奥は落差30mほどの急斜面となっている。
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ここから案内板に従い右へ。途中「堀切」があり、その上を「土橋」という通路が走る。
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そして小高い丘を登れば「高櫓郭」と呼ばれる標高314mの飯盛山頂だ。「飯盛城址」の石碑が立つ。昼時ということもあって周りでは多くのハイカーが昼食。その後、歴史ハイクと思われる団体が輪になってガイドの説明を聞いていた。しかし誰もが写真を撮りたい場所では、ある程度スペースを確保して欲しいな。正面のリュックの横でも初老の男性が食事をしていたが、私が石碑の上にモンベルのキャップを置いて写真を撮り始めると、そっと場所を譲ってくれた。
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石碑の横には城址の案内マップ。「山城」と言えば何か遠い田舎の山間部にあり、何時間も山登りをしなければならないというイメージがあるが近畿地方最大級といわれる「飯盛城跡」は大阪駅から電車で30分、その後1時間ほど山を登れば到着する。すごいな。
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山頂の右横には「楠木正行像」。ただ、先ほども述べたように「飯盛城」は三好長慶の居城であり「四條畷の合戦」でここに「楠木正行」が陣を構えたと言うわけではない。そして三好長慶がこの地を治めたのは4年あまり。その後、織田信長による「摂河平定」により「畠山秋高」の所有となったが内紛により織田信長に攻められ天正4(1576)年落城、廃城となった。
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山頂の左横には戦時中に設けられた「防空監視所」の一部が残る。
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そして山頂から一段低くなったところが「本郭」と呼ばれる。時間は午後0時7分。今日も腹時計は正確だ。
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展望台が設けられているので昼食としよう。
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今日の昼食は四条畷駅からの途中、イオンフードスタイルで購入した「彩りおむすび」(214円)。量的には少ないが山に入ってすぐに「行動食」を食べた。この後も下山するまでに「行動食」を食べるのでこれくらいで良い。山歩きは満腹・空腹を避け「腹八分目」をキープするのが原則だ。
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食後、展望台から景色を眺める。大阪平野が一望できるが三好長慶はここから眺められるすべての地を治めたと言われる。終戦前日の昭和20年8月14日、ここから大阪大空襲で真っ赤に燃える大阪の町が見えたのだろうか。
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昼食を終え「本郭」を午後0時25分出発。元の道を戻り「飯盛山頂」「堀切と土橋」「堀切」を通り過ぎると放送局の電波送信塔が立つ。
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その横を抜けて行けば「千畳敷郭」。
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城内最大面積の「郭」で居住スペースであったと見られる。
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「千畳敷郭」の奥には城南側の守りを固めた防御施設である「南丸跡」。
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「南丸跡」横の石段を下りていけば「虎口」。ここが城跡の南端になる。(午後0時35分)
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「虎口」横には石垣跡が残る。
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これで「飯盛城」の城域を巡ったがハイキングコースが整備されていない山中にも多くの遺構が残る。四條畷・大東両市による学術調査の結果「飯盛城」は今年6月「国史跡」に指定するよう答申された。このコースも本来昨年歩く予定だったがコロナ「足止め」のため「二番煎じ」の様になってしまった。
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ハイキングコースを進んでいけば分岐点に出るが「野崎観音(七曲りコース)」方向に進む。
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しばらく下って行けば「大東市立青少年野外活動センター」との分岐点に。ここから5分ほど歩けば「野外活動センター」。トイレがあるが必要なければ「野崎観音」方向へ進もう。
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市境を離れここから先は「大東市」。大東市側は「大東の杜」として整備され案内標識もたくさん立てられている。
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緩やかな坂を下って行けば左に「辻ノ新池」。(午後0時50分)
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「七曲り」と言われるようにジグザグに道が進む。このルートも結構階段があるが比較的段差は緩やかである。
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10分ほどで山道が終わり舗装道路に出る。付近には水場や廃屋が。
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5分ほど坂道を下り砂防ダムの横に案内標識。「野崎観音」方向に進む。
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渓流に沿って進む。
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5分ほどで案内標識が立つが「野崎観音」「吊り橋」方向には行かず、この階段を上って行こう。
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ここは「野崎城」の「堀切(空堀)」跡らしい。
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すぐに何やら小さな広場のような所に出る。「野崎城址」だ。(午後1時15分)
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「太平記」によると「四條畷の合戦」で「楠木正行」に対する北朝軍の「縣下野守」が陣を構えたと言うが文献が残っていないため歴史的な詳細は不明である。「飯盛城」の出城・支城的な役割を担っていたと考えられる。
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「本郭」と呼ばれる城跡は展望広場として整備されている。木々の間からは河内平野が一望できることから重要な軍事拠点だったのだろう。
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城跡からさらにハイキングコースを進む。前方には大阪平野が広がる。遠くにはあべのハルカスが。
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「野崎城跡」には4つの「郭」が残り展望台として整備されている。いくつかの展望台を見ながら高度を下げていく。
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坂を下れば案内標識が。
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そして「野崎観音」方向(右)に目をやれば何やら石造物が見える。「石造九重層塔」。鎌倉時代後期の永仁2(1294)年に建立された北河内最古の石造層塔といわれ大東市の指定文化財に指定されている。最上層と相輪を失っており現在では高さ2m80cmの八層になっている。(午後1時27分)
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先ほどの案内標識まで戻り「吊り橋」方向に進む。
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そこには小さな「吊り橋」。観光用の「吊り橋」のようだが私が小学校低学年のころ担任の先生から「まあ君ら行くことはないと思うけど野崎観音裏の吊り橋は台風で壊れたから行ったらあかんで」という指示があったのを覚えている。かなり前からあるのだろう。
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「吊り橋」を渡って右へ。個人墓なので撮影は控えるが左右に墓地が広がる。
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墓地を抜ければハイキングコースは終わりお寺の裏に出る。
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ここが「野崎観音」。ご本尊である「十一面観世音菩薩像」をお祀りする「本堂」は昭和25年に解体移築した際、棟木に元禄8(1695)年の銘があったそうだ。(午後1時35分)
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正式名は「福聚山慈眼寺」という曹洞宗の禅寺だ。天平勝宝年間(749~757年)に開かれた古いお寺で、幾多の戦乱によりご本尊を残して全焼したそうだが元和2(1616)年に再建されたという。
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本堂の右隣には「江口の君堂」。「江口の君」とは西行に見そめら仏門に入った遊女(大阪24区を歩く「東淀川区」編参照)。
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左隣には「三十三所観音堂」。ここでお参りすれば「西国三十三ヵ所巡り」の全霊場を一度に拝むことができるそうだ。ありがたいな。
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「本堂」と「三十三所観音堂」の間を入れば宝永5(1708)年鋳造といわれる「梵鐘」。
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本堂の階段前には「楼門」。禅寺らしいな。
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そして「山門」横には「牛頭天王宮」である「南條神社」。
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ハイキングコースから入ったので裏からのお参りとなったが「山門」から境内を後にする。(午後1時50分)
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先ほどの「楼門」を下から眺める。
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境内を後に住宅街を下って行けば突き当たり、角に「牛頭天王宮」と刻まれた石灯籠と「観世音菩薩」と刻まれた石碑が立つ。この道は「東高野街道」。
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右に進み1つ目の交差点に出れば「あれれ」。こちらが参道だったのか。私は「山門」を出て左に曲がっが右に曲がればここに出たんだな。しかし右に曲がれば「楼門」を下から眺めることはできなかったな。
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参道を背にして左折。住宅街を進めば「野崎交差点」。ここから先は「野崎参道」と呼ばれる商店街。毎年5月1日~8日の1週間にわたって行われる「のざきまいり」は正式には「無縁経法要」と呼ばれるすべてのものに感謝のお経を捧げる仏教行事なのだが、元禄のころより大坂商人らをはじめとした庶民の信仰を集め現在まで続く伝統行事となった。
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落語の御題にも取り上げられJR「野崎駅」までこの参道商店街には多くの屋台が並び色んなイベントが開催されるのだが、新型コロナにより昨年に続いて2年連続中止されたそうだ。来年は開催されるといいな。
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この赤い橋で350mほどの参道は終わる。「大阪府大東市」。大阪市の東に位置することから「大東市」。四條畷市の南に隣接する人口12万人ほどの衛星都市である。実は「四條畷の合戦」の主戦場は現在の大東市である「野崎」「北条」辺りだと言われる。諸説はあるが、かつてこの辺り一帯は「四條」と呼ばれ「太平記」に「四條畷の合戦」と記された。それに因み昭和7年「北河内郡甲可村」が「四條畷村」と改称。町政を施行するにあたって「四條畷町」となり現在の「四條畷市」に続くらしい。つまり「四條畷」は市の名前ではなく、この地域を指す地名のようだ。そのため「四条畷駅」が大東市にあったり四條畷・大東両市を管轄する「大阪府四條畷警察署」が大東市にあったりするのだろうか。
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そんなことを考えているうちにふと左を見れば隣にも赤い橋。そしてそこには本日のゴールであるJR学研都市線「野崎駅」。午後2時5分到着。本日の歩紀「15615歩」(10.61km)。「四条畷駅」のひとつ手前の駅である。ここから大阪駅まで約30分(310円)。もしかすれば「楠木正行」ゆかりの地は「大東市」なのかも知れないな。「飯盛城」のスタンプは「大東市立歴史民俗資料館」「大東市立青少年野外活動センター」でももらえる。
なお、四條畷神社から飯盛山までの階段はかなりきついが下りはもっと大変だろう。階段周辺の土は雨に流され各階段の段差は結構大きい。ずっと「飛び降りる」ようにして歩かなければならず、かなり膝への負担が大きいだろう。ということで「飯盛山」へは「四條畷神社」側から登り「野崎観音」側に抜けるコースをお勧めする。
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