「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

神戸9区を歩く~兵庫県はじまりの地「兵庫区」

2021-11-21 13:05:27 | 日記
訪問日:令和3年11月21日(日)
出 発:神戸高速「新開地駅」
到 着:JR「兵庫駅」

 平安の時代である承安3(1173)年、大阪湾に開かれた船溜まりのひとつ「大輪田泊(おおわだのとまり)」に平清盛が「経ケ島」を築き「日宋貿易」の拠点となる。その後、鎌倉時代に入って「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれるようになり要港として栄えたこの地に慶應4(1868)年、初代兵庫県庁が置かれた。北は日本海から南は瀬戸内海まで本州を一周すれば二度通らなければならない全国12位の面積を誇る「兵庫県」は、この小さな津(港町)から始まったのだ。
 まず区北部の土木産業遺産2ヶ所を訪問した後、西国街道と運河が走る約2km四方の小さなエリア「兵庫津」を歩く。


 今日のスタートは神戸高速「新開地駅」。「神戸高速鉄道」とは、神戸市内を走る「阪急電鉄」「阪神電鉄」「神戸電鉄」「山陽電鉄」を結ぶため「線路」と「駅」の施設だけを保有し、「車両」は各社が乗り入れて鉄道使用料を支払うというちょっと変わった鉄道会社らしい。阪急神戸線も直通で乗り入れており「大阪梅田駅」から約35分(450円)。隣のホームには山陽電鉄の車両が停まっている。前半坂道が多いのでちょっと早めの午前9時スタート。


 地下駅から駅北側の2A出口(神戸信用金庫前)で地上に出れば「大開通」と「湊町線」が交わる「新開地交差点」。右折車線も含めれば5車線もある大きな通りだ。


 神戸信金を左に見ながら進み1つ目の信号で左にある「Sinkaichi2」というアーケード商店街に入る。


 地元の生活を支えるというよりも飲食店が多い、いわゆる「繁華街」的な商店街である。


 道幅の広い商店街だ。ちょっと時間が早いので閉まっている店が多い。


 300mほどのアーケードを抜ければ正面に武士像が立つ大きな公園が現れる。


 この大きな武士像は楠木正成こと「大楠公像」。兵庫区と隣の中央区にまたがるここ「湊川」で建武3(1336)年、京から九州に追われ巻き返しを図る足利尊氏の軍勢とそれを迎え撃つ新田義貞、楠木正成の軍勢が激しくぶつかり、敗退した正成が自害した「湊川の戦い」が繰り広げられた。(午前9時11分)


 先月正成の嫡男である楠木正行(まさつら)終焉の地「四條畷の合戦」ゆかりの地を歩いたが何か因縁のようなものを感じるなあ。死を覚悟した武人としての精悍な顔つき。しかし、心の中では常に息子のことを案じているんだろうな。「正行さん。お父さんのところへ来たよ。」


 ここは「湊川公園」。きれいな緑地なのだが、この時間帯は携帯電話を握りながら私が聞いたことのない国の言葉で口喧嘩をしている若者、朝からワンカップで喉を潤す老人、連れているワンちゃんより髪の毛が茶色いお姐さまたちの憩いの場のようだ。


 公園を入って左側に平成7年1月17日早朝神戸を襲った「兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)10周年記念碑」が立つ。兵庫区では555名の方が亡くなっている。「合掌」


 200mほどの公園を抜けると正面には「兵庫区役所」。兵庫区は人口約10万人。人口・面積は長田区に次いで2番目に少ない。公園入口に立つ「大楠公像」は以前ここにあったものが区役所の新築により移転したそうだ。


 区役所前の湊町線をさらに進み、次の信号角に「東山商店街」というアーケードが見えるので入って行こう。


 この商店街は道幅が狭い。


 八百屋さんや魚屋さんなど地元の方々の台所を支えるといった庶民的な商店街だ。


 400m近いアーケードを抜ける。「あっ」やっぱり「台所」だったんだ。(午前9時25分)


 信号と橋で「新湊川」を渡りアーケードのない「新湊川商店街」に進む。アーチの右足元には「夢野厄除八幡神社」の石標が立つ。


 お風呂屋さんの横を通る。


 商店街のアーチをくぐれば小さな五叉路に出るので正面の一方通行路(出口)に進む。


 狭い道は徐々に坂道になる。正面には小高い山が見える。


 初めての信号を渡り正面の一方通行路(出口)に入る。カーブを曲がりどんどん坂を上って行く。


 マンション敷地に突き当たれば道は大きく鋭角に左折する。


 坂も少々きつくなってきた。


 左の路地角に「烏原貯水池」と掘られた小さな石標が見えてくれば間もなく坂道も終わりだ。


 坂を上りきれば右に「背山散策路案内図」。ここは神戸市の水源として造られた「烏原(からすはら)貯水池」の畔にある「亀の甲広場」という公園。トイレがある。(午前9時45分)


 明治38年に完成した日本で4番目の水道専用ダムだそうだ。元あった烏原村は日本最初のダム水没村らしい。


 堤高33m、堤長122mのアーチ状重力式粗石コンクリートダムは「立ケ畑(たちがはた)堰堤」と呼ばれる。


 土木産業遺産として国の登録有形文化財に登録されている。


 堰堤の上は遊歩道になっている。


 公園を後にして坂道を戻り先ほどの小さな石標のある細い道に入る。墓地を抜けると住宅街に出るので道なりに坂を下る。


 いい景色だな。「海が見えるぞ」


 「氷室公園」という防火水そうの上にある小さな公園を過ぎれば右に「氷室神社」への階段。上って行こう。


 「氷室神社」。平清盛が治承4(1180)年の福原遷都に際し、辨財天である市杵島比売(イチキシマヒメ)らを勧請して創建したと伝わる。


 若い女性が多いなと思ったら「えんむすび」の神様のようだ。私は今日一日の安全を祈願する。


 参拝を終え先ほどの階段からまっすぐ下って行く。


 これから先は何の目印もない街中を抜けていくのでグーグルマップを添付しておきます。


 10分ほどで「湊川隧道」。湊川の付け替えにより明治34(1901)年に完成した河川トンネルの遺構だ。貴重な土木産業遺産として国の登録有形文化財に登録されている。(午前10時25分)


 毎月第3土曜日の午後1時から午後3時まで内部が公開され(変更あり)、いろいろなイベントも開催されるそうだ。今日は外部から坑門入口を撮影する。


 すぐ下には平成12(2000)年12月に開通した「新湊川トンネル」。少し後ろに下がれば新旧のツーショットが望める。なお下流の長田区側には隧道の出口がある。「長田区」編で訪れる。


 隧道前から下り次の信号を右折し2分ほどで左に「神戸電鉄有馬線」のアンダーパスが見えるのでくぐる。さらに2~3分で左に公園への入口があるので曲がりコンクリートの坂道を上って行く。


 1つ目のヘアピンカーブを過ぎ2つ目のカーブ突き当りに階段があるので上っていく。


 階段を上れば広場に出る。ここは「会下山(えげやま)公園」。現在は公園として整備されているが「湊川の戦い」で楠木正成が陣を構えた標高85mの小山である。トイレがある。(午前10時33分)


 広場内には海難事故等で受難した海員の霊を慰める「海員萬霊塔」。昭和5年に建立されたそうだ。


 その向かいには「大楠公湊川陣之遺蹟」碑。先ほどの「海員萬霊塔」ともに日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った連合艦隊司令長官東郷平八郎の揮毫である。東郷元帥は昭和の時代まで生きていたんだな。


 「大楠公湊川陣之遺蹟」の後ろには「湊川の戦い」が繰り広げられた戦場が見渡せたせる。


 「大楠公湊川陣之遺蹟」碑裏の道を左に下りていくと「天台宗善光寺」の通用門から境内に入って行くことができる。境内には「平業盛(たいらのなりもり)之塚」。平清盛の弟である平教盛の三男にあたり17歳で「一ノ谷の戦い」で戦死した少年武将だという。


 塚の横にある山門から境内を後にする。


 右に曲がったところの階段を上れば公園に戻ることができる。


 公園のメインストリート(?)を下っていく。


 公園の南側出入口から出て左に曲がる。「神戸市立神港橘高校」前を通れば道は間違っていない。


 この道を一直線に下り「上沢通7交差点」「大開通8交差点」を過ぎてひたすら進む。


 「会下山公園」から15~6分で今日のゴールとなるJR「兵庫駅」の北側に突き当たるが取りあえず通過して右に進む。なお、昭和5年竣功のちょっとレトロな駅舎は、2014(平成26)年度「日本におけるモダン・ブームメントの建築」に選定されているそうだ。(午前11時2分)


 JR「山陽本線」沿いに450mほど進めば1つ目の信号で左折しJRをくぐる。このガード下は「昭和」だな。


 さらに「和田岬線」をくぐれば右に「兵庫駅南公園」。トイレがある。


 真っ直ぐ進めば阪神高速道路と幹線道路が走る高架道に突き当たるので右に曲がり高架をくぐる。そのまま進み次の信号を右折。2つ目の辻である神戸市バス車庫手前を右折する。そのまま進み「コーナン」横で「和田岬線」の踏切を渡ろう(先にある「コーナンPRO」と間違わないように)。


 右にある大きな工場は「川崎重工神戸工場」。列車の製造工場であるため構内をJRの引き込み線が走る。車両専用出口があるこの四つ角を左に曲がろう。


 ちょっと歩けば左に「株式会社デンソーテン本社」。大正末期から昭和初期ころに建てられた「旧川西機械製作所本社社屋」らしい。


 三叉路に出れば右折。「兵庫運河」にかかる「材木橋」を渡る。


 左を見れば「和田岬線」の小さな鉄橋。「和田旋回橋」と呼ばれかつては運河を往き来する船が通過する時は旋回したそうだが今は固定されている。


 「材木橋」を渡り真っ直ぐ進んで行くと前方に巨大な建物が見えてくる。そちら方向に向かって歩いていくと「御崎公園」の前に出るので公園に入る。(午前11時35分)


 右の大きな建物は「ノエビアスタジアム神戸」という競技場。Jリーグ「ヴイッセル神戸」のホームグラウンドらしい。 


 「ノエビアスタジアム神戸」を通り過ぎれば左に「神戸市電1103号車」。昭和29年、長田車両工場で神戸市電最後の車両として製造され、昭和46年の市電廃止後は広島電鉄車両として活躍。廃車後、平成15年3月かつて神戸市電和田運輸事務所があったこの地へ里帰りし展示されている。


 そのまま公園を抜ければ「和田岬線」の線路に突き当たるので右に曲がり線路沿いに進む。「和田岬線」は「兵庫駅」から「和田岬駅」までの1駅を結ぶ「山陽本線」の支線だ。


 「和田岬駅」。ホームがあるだけで駅舎や改札口はない。小さな階段からホームに入ることができる。運賃精算は「兵庫駅」でするようだ。ただ付近の工場への通勤用なのか休日は朝夕の2本しか列車は走らない。


 ホームを歩く。前方には「終着点」が見える。国鉄の風景だな。そのまま進んで行くと自然に駅構外に出る。


 そこは「高松線」という大きな通りの「和田岬駅前交差点」。この先には安政5(1858)年の日米修好通商条約により「兵庫(神戸)港」が開港された際に設けられた「和田岬砲台」が残る。今は「三菱重工神戸造船所」の敷地であるため見学するには事前申し込みが必要だが、造船所は自衛隊の潜水艦を建造するなど防衛機密があることから砲台を含め構内の写真撮影は禁止されているそうだ。「湊川の戦い」においても陣を張る新田義貞軍を打ち破った足利尊氏の水軍が上陸するなど昔から軍事上の要衝だったのだろうか。


 「和田岬駅前交差点」の角には神戸市営地下鉄「和田岬駅」の出入口。そう「高松線」の地下には神戸市営地下鉄海岸線が走っているのだ。ほとんどの人はこちらで通勤するだろう。


 地下鉄出入口横を左に曲がる。100mほどで左に「和田神社」の大鳥居が見える。(午前11時48分)


 大鳥居をくぐった左側には、これから訪ねる「兵庫運河」の開削工事などで功績があった神田兵右衛門の顕彰碑が立つ。


 「蛭子伝説」の地に承安3(1173)年、平清盛が市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を勧請し、その後万治元(1658)年に天御中主大神(アメノミナカヌシノミコト)を主祭神として祀られたという。


 参拝を終え大鳥居を背に進み「高松線」の「和田岬交差点」を渡ってから左折し、カーブしながら進む。


 次の「今出在家町交差点」の信号を渡ってから右に曲がる。3つ目の辻を左に曲がればすぐ右に「南浜公園」という小さな公園があり、そこには「兵庫生簀跡(ひょうごのいけすあと)碑」。


 「摂津名所図会」には京都御所に献上する海産物の生け簀として描かれているそうだが、生きた魚が見られることから多くの見物人が集まったそうだ。まるで水族館だな。


 「いけす」。鯛や鮃が踊っていたんだろうな。「タイ」「ヒラメ」。そんなことを考えていると「腹が」


 「減った」


 「もう3時間も歩いている。飯にしよう」


 「高松線」まで戻り右に曲がる。途中、色んな物が目に入ってくるが無視してとにかく歩くのだ。「孤独のグルメ」の井之頭五郎になったつもりで。


 5分ほど歩けば右に「神戸市中央卸売市場本場」。神戸市民の腹を満たす台所だ。


 これまでいくつかの卸売市場を訪ねたが、どこにでも新鮮な食材を売りにした飲食店街があった。ここにもある。


 時間は午後0時8分。今日もピッタリだな。


 今日のオレの腹を満たすのは「海鮮丼の駅前 中央市場店」。


 「地魚海鮮丼~限定20食」(1078円)を注文。奮発したなあ。私は海鮮が大好物なのだ。


 食事を終え午後0時35分。地下鉄「中央市場前駅」前から「昼の部」をスタート。「兵庫津」の中心部を歩く。


 目の前に見える「イオンモール兵庫南」へ向かう。


 どこにでもあるイオンモールだが3階の「namco」前にちょっと小さいが「発掘されたみなとまち兵庫津」という展示スペースが設けられている。この日は「新型コロナウィルスワクチン集団接種会場」として椅子が並べられていた。


 へ~え。そうなんだ。


 1階まで下りて奥の出入口から出れば目の前には「兵庫運河」。プロムナードになっておりイベントなども開催される。ライトアップもされるようだ。「兵庫津」は「運河のある街」を売りにしている。


 イオンモールを右に見ながら進み目の前の「入江橋」で「兵庫運河」を渡ろうと思うが横断歩道がないので一旦右へ。そこには「兵庫城」の石垣が復元されている。イオンモール建設に先立ちここで発掘調査が行われたそうだ。


 イオンモール前の信号を渡り左へ「入江橋」を渡ってすぐ右に曲がる。


 運河に沿って道が直角に曲がるがその角に「古代大輪田泊の石椋(いわくら)」が展示されている。昭和27年運河の浚渫工事をした際に出土したもので「兵庫津」の前身である「大輪田泊」が築造されたときの基礎として使用された石であるといわれる。


 運河に沿って右に曲がれば大きな水門の前に「浄土宗来迎寺」。またの名を「築島寺」という。この辺りが平清盛が築いたといわれる「経ケ島(築島)」の中心だったのだろうか。


 「高松線」に戻り左へすぐの信号を渡る。道の向こうに赤煉瓦のレトロビルが見える。


 「石川ビル(石川株式会社本社)」といい、明治38年、三菱倉庫の前身である「旧東京倉庫兵庫出張所」として建築されたそうだ。


「石川ビル」先の突き当たりを左に折れ次の四つ辻を右に曲がる。小さな波止場だが神戸港の一部である。


 途中左にはちょっとレトロなビル。


 波止場に沿って右に曲がり次の辻を左に入る。100mほどで左に「竹尾稲荷神社」の赤い鳥居が立つ。小さな神社だ。(午後1時5分)


 境内には「高田屋嘉兵衛顕彰碑」。高田屋嘉兵衛とは淡路島で生まれ「兵庫津」の廻船問屋で船乗りをしていたが才覚を表し後に「高田屋」を設立。遠く「ロシア」との貿易などで名をはせた廻船業者である。この顕彰碑は昭和28年に建立されたものである。


 「竹尾稲荷神社」前から見える信号を渡り右に進めば「高田屋嘉兵衛本店跡記念碑」。嘉兵衛はここに「高田屋」の本店を置いたと伝わる。


 そのまま真っ直ぐ進んでいけば左に白壁の「まちなか倶楽部」と看板が掲げられた建物。


 次の信号で左に曲がる。この後訪ねる「松尾稲荷神社」への案内表示が立つ。角には味のある建物。


 郵便局を右に見ながら進んで行けば「松尾稲荷神社」の鳥居前に出るのだが、そのちょっと手前の空き地に何やら白いフェンスに囲まれた青い柱が立っている。


 フェンスでよく見えないが「サカヱ薬局跡地(ダイエー発祥の地)」と書かれている。ここは「スーパーダイエー」の創始者である「中内功」氏の実家があったところで、ここで同氏の祖父が開業した「サカヱ薬局」がダイエーの前身であることから「ダイエー発祥の地」といわれている。「ダイエー1号店」が開業した大阪市旭区の「千林商店街」と「発祥の地」を巡ってホットな争いがあったそうだ。(大阪24区「旭区」編参照)


 すぐ先には「松尾稲荷神社」の赤い鳥居。


 この神社にはたくさんの提灯がかかる。


 そして本殿左奥には大阪「新世界」の守り神として有名な「ビリケン」の像が奉納されている。大正時代に食堂の店主から奉納されたもので現存日本最古の「ビリケン像」といわれている。


 先ほどの鳥居を出て左に見える信号方向に進み、その手前で路地を覗き込む。以前、神社のすぐ北側に「稲荷市場」というアーケード商店街があり、その後長らく廃墟として放置されていたそうだが今では整地されているようだ。


 交差点を左折する。この道は「中央区」との区境だ。


 250mほど歩いて阪神高速道路下の「湊町1交差点」で国道2号線を渡り左へ。2~3分歩けば右に「西出町鎮守稲荷神社」の赤い鳥居。両脇には「高田屋嘉兵衛献上燈籠」。


 右端には「一ノ谷の戦い」において18歳で討ち死にした平経俊(たいらのつねとし)の「五輪塔」が立つ。


 さらに2号線に沿って進み「七宮交差点」で右折。グリーンベルトの左側の道を進んでいけば「湊八幡神社」前に出るが、境内手前に「湊口惣門跡碑」。「兵庫津」の東口にあたり番所や札場が置かれていたそうだ。(午後1時30分)


 境内には「迷子のしるべ石」。迷子の特徴を紙に書いてここに張りつけ迷子を捜したという。


 「湊口惣門跡碑」まで戻れば碑に刻まれているとおりここは「西国街道」。南(右)に進もう。途中「西国街道」は国道2号線に分断されるので右に曲がり、次の「西宮内町交差点」で迂回して「西国街道」に戻る。ただ「街道」の面影はない。


 マクドナルドを過ぎ「本町公園」まで来れば右に「岡方倶楽部」というレトロなビルが建つ。


 昭和2年に建てられたもので、今でいう自治会館のような役割をしていたそうだ。空襲や震災を乗り越え国の登録有形文化財に登録されている。


 「本町公園」を過ぎ次の辻で「西国街道」は直角に右に曲がる。かつて札場があったことから「札場の辻」と呼ばれるそうだが、今ではビルの横に小さな道標と案内板が立つだけだ。


「西国街道」には曲がらずこの辻を真っ直ぐ進む。突き当たりを左に曲がれば先ほど通ったイオンモール前の「入江橋」西詰に出る。角には「清盛くん」。ご愛敬だな。


 「兵庫運河」に沿って「キャナルプロムナード」という遊歩道になっているので歩いて見よう。


 途中「兵庫城跡碑」が立つ。「兵庫城」は天正8(1580)年、池田恒興が「花隈城」を攻め落とした翌年から築城が始まったが豊臣秀吉の直轄領になったことから建設は中断、後に「大坂町奉行所兵庫勤番所」が置かれ、慶應4年(=明治元年)兵庫県が設置されると碑にも書かれているようにここが「最初の兵庫県庁」となったそうだ。そして今の「兵庫県」に続く。県庁については後ほど説明する。(午後1時52分)


 「兵庫運河」に沿って行けば「県道489号線」に突き当たりその角には「兵庫住吉神社」。


 境内には「清盛塚」が建つ。立派な十三重石塔は当初平清盛の墓と伝えられていたが、大正12年の発掘調査の結果、墓ではなく弘安9(1286)年、清盛の没100年を記念して建てられた供養塔であるといわれている。


 隣には平清盛の甥にあたる平経正(たいらのつねまさ)の墓と伝わる「琵琶塚」が並ぶ。


 神社を出てすぐ左には「兵庫運河」にかかる「大輪田橋」。運河の畔からはコンクリート造3連アーチ橋の美しい全容が望める。


 橋を渡って振り返ればレトロな雰囲気の親柱が。横たわっているのは阪神淡路大震災で倒壊した反対側の親柱。震災のモニュメントとして保存されている。


 親柱には「大正13年6月竣功」と刻まれている。


 そのまま県道を50mほど進めば左に川岸に続く歩道が現れるので入ってみよう。「大輪田橋」のたもとには「戦災殉難者慰霊碑」。


 昭和20年3月17日の神戸大空襲の際、炎から逃れ水を求めて「大輪田橋」の今は塞がれている暗渠に避難した多くの市民が炎にまかれて犠牲になった。こんな小さな港町を焼夷弾で焼き尽くす必要があったのだろうか。「合掌」


 県道に戻り少し進めば左に「浄土宗阿弥陀寺」。


 境内の庭園にある池には「湊川の戦い」で足利尊氏が、自害した楠木正成の首を改めるために使ったという「楠公供養石」が残る。過去の怨恨を水に流すため池に奉納されたそうだ。


 そして「阿弥陀寺」の隣には何やら大きな木造建造物が。今月11月3日(文化の日)にオープンしたばかりの「初代県庁館」。白壁が眩しい。(午後2時9分)


 先ほど訪れた「兵庫城跡」に建てられ、その後最初の県庁となった「大坂町奉行所兵庫勤番所」を復元したものである。


 「仮牢」いまでいう留置場や


 「吟味場(お白洲)」


 そして初代県知事である伊藤俊介のちの「伊藤博文」が事務を執った部屋などが再現されている。


 開館時間は午前9時から午後5時30分(10月~3月は午後4時30分)。月曜日が休館日で入館料は無料だ。 


 実は1年半ほど前イオンモールに買い物に来たときイベント広場で「兵庫津」の特別展が開催されており、その時のパンフに同館が令和3年度にオープンすると書かれていたのでこの日を待って訪れたのだ。結構前から「歩紀」を練っていたんだぞ。


 そして東隣には建設中の「ひょうごはじまり館(仮称)」。こちらは令和4年度の遅い時期(令和5年始めころかな?)にオープン予定。完成すれば近代的な博物館になるそうだ。


 そしてすぐ東の「中の島交差点」の信号を渡り右へ曲がる。100mほどで「新川橋」。昼食前「兵庫生簀跡碑」から「神戸中央卸売市場」まで脇目も振らずに渡った橋だ。よく見ると赤い欄干の手前に「昭和御大禮記念碑」が立つ。昭和天皇の「即位の礼」を記念して建てられたものだ。


 ここでは橋を渡らず手前の信号に戻り、道路の向こう側に渡ってから「新川橋」を渡る。ここから「兵庫運河」に沿って歩いてみよう。


 真っ直ぐ進めばお寺に突き当たるので左からぐるっと回って正面に行く。ここは「時宗薬仙寺」。


 境内には平清盛が後白河法皇を幽閉したという「萱の御所蹟碑」や


 「神戸大空襲慰霊碑」


 後醍醐天皇が島流しされていた「隠岐」からの還幸(都に戻ること)途中病床に伏した際、当時の住職が献上したという霊泉「後醍醐天皇御薬水跡碑」などが並ぶ。


 道路を挟んで向かい側には「御崎八幡神社」。


 境内右奥には力比べに使われたという「力石」。石を撫でれば願いが叶うというのでお賽銭を奮発し「健康(健脚)祈願」した。


 その先の「清盛橋」で運河を渡る。由緒ある橋かと思ったが市民からの公募で命名されたそうだ。


 橋を渡れば先ほどの「兵庫住吉神社」前に出るので交差点を渡り真っ直ぐ進む。すぐ左には「時宗真光寺」。(午後2時40分)


 「兵庫津」で最も大きなお寺ではないだろうか。無縁仏の墓石がピラミッドのようにそびえる。


 その横には「一遍上人御廟」。


 鎌倉時代後期の高僧「一遍上人」が生涯を終えた場所といわれ立派な「五輪塔」が立つ。


 境内を出て「真光寺」北側の須佐野公園内には鎌倉時代初期に藤原為家が詠んだ「和田の笠松歌碑」が立つ。


 そのまま北に上り3つ目の信号を過ぎれば左に「天台宗能福寺」。延暦24(805)年、伝教大師最澄が開山したと伝わる。


 平清盛が出家した清盛ゆかりの寺である。平清盛死後、各地に清盛の墓処といわれる塚や石塔ができたようだが、ここにも十三重石塔が立つ「平清盛公墓所・平相國廟」が。


 その他にも多くの碑が並ぶが何よりも目を引くのはこの大仏だろう。


 明治24年寄進により建立され戦時中に金属供与のため解体されたそうだ。その後平成3年に再建。「兵庫大仏」と呼ばれる高さ18mの巨大な大仏様だ。


「能福寺」からさらに北に進んだ次の交差点が先ほど「札場の辻跡」から直角に曲がった「西国街道」の延長線上になるので左に曲がり「西国街道」に進む。右に「神明神社」。ちょっと「街道」の雰囲気が残るかな。


 阪神高速道路が走る国道2号線を渡り、ちょっと左に曲がって右折すれば二又の左側が「西国街道」。


 真っ直ぐ進めば左に「柳原蛭子神社」。


 いわゆる「えべっさん」である。今日最後の神社でお参りをし、裏の立派な赤い「大鳥居」を出て右へ進む。


 ここは「兵庫津」の西の出入口でもある。神社の西角には「柳原惣門跡碑」が立つ。


 西の惣門から「兵庫津」を後にし、目の前の信号を渡って線路沿いに150mほど進めば午前中に通過したJR「兵庫駅」の南口。ここが本日のゴール。午後3時15分着。本日の歩き「28945歩」(19.68km)。


 駅構内やガード下にもレトロな雰囲気が残る。ここから「大阪駅」まで約35分(560円)。よく歩いたな。しかし「兵庫運河」周辺と「初代県庁館」だけであれば1時間半ちょっとのコースだ。「兵庫津」の歴史がぎっしりと詰まっているのでイオンモールでのショッピングや中央卸売市場での食事がてらにちょっと歩いて見てはいかがでしょうか(イオンモール内にも海鮮を出す店がありますよ)。




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神戸9区を歩く~はじめに

2021-11-06 13:02:26 | 日記
 「神戸市」。大阪市とともに関西圏の中核を成す人口約152万人を有する政令指定都市である。「北区」「西区」「東灘区」「灘区」「中央区」「兵庫区」「長田区」「須磨区」「垂水区」の9区から構成される。以前「大阪24区」を歩いたように月1回のペースで1日かけて1区を歩いてみよう。


 まずは簡単に神戸市の概略を説明しよう。神戸市は兵庫県南東部の大阪湾沿いに位置し、遣唐使の時代にはすでに港が開かれていた。各都道府県庁所在地の大部分が「城下町」として栄えてきたのとは異なり、現在に至るまで「港町」として発展してきたところは「横浜市」や「長崎市」と同じである。市の大部分は旧摂津國に属するが「北区」「西区」「須磨区」「垂水区」の一部は旧播磨國に属する。
 慶應年間に外国への開港場となり、明治22(1889)年の市制施行により「神戸市」となる。以後、国際都市「KOBE」として発展してきた。また大阪市とともに「阪神工業地帯」の一画としてわが国の近代化に貢献してきたが、他の都市同様、第二次世界大戦では米軍の空襲を受け焦土と化するとともに、最近では平成7年1月17日早朝に発生した「阪神淡路大震災」により大きな被害を受けている。
 地理的には標高931.3mの「六甲山」を最高峰とする「六甲山地」を境として北に「北区」「西区」の2区があり、南側に残りの7区がそれぞれ大阪湾まで続いている。
 区の順番は北部の2区と南部の7区に分け、それぞれ東側から記したが訪問日は順不同である。

(神戸市ホームページより)

 六甲山地の麓に開けた神戸市は基本的に坂道が多い。市街地といってもこれくらいの高低差は覚悟しなければならない。しかし足元はしっかりしているので履きなれた靴で大丈夫だ。


 また何といっても「政令指定都市」である。いたるところにスーパー、コンビニ、商業施設、公園、公衆トイレ等があるので給水・トイレにはまったく困らない。


 今回の「歩紀」では各区を俯瞰的に把握するため昭文社の都市地図「神戸市」。詳細を把握するために同じく昭文社の「らくかるマップル神戸阪神」を使用。その他はこれまでどおりネットやグーグルマップを活用した。


 なお、私の「歩紀」は関西テレビ系列のニュース番組「報道ランナー」の「兵頭大樹の今昔さんぽ」とよくかぶる。おそらく番組制作者と私の目線が同じなんだろう。

「神戸におってでない方も よーわかるようにしとーで」(下手な神戸弁ですみません)

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わが町を歩く~「豊能町ときわ台・東ときわ台・光風台・新光風台」

2021-11-06 12:00:00 | 日記
 令和2年の「コロナ禍」以来、「不要不急の外出」や「府県を跨いでの移動」に対する自粛要請が断続的に続き「歩紀ニスト」としては商売あがったりでした。そのため合間を縫って自宅周辺を歩き回り、季節を追って歩いた1年間をまとめてみました。
 大阪市で生まれ東大阪市で育った私が念願の「一戸建てマイホーム」を手に入れ「この町」に引っ越してきたのは平成2年の春。30年以上が過ぎ、すでにローンも完済した私にとってはまさに「安住の地」であり、ここで幼稚園から大学まで卒業し、就職・結婚を経て「町」を出た2人の娘にとっては「故郷」そのものです。
 大阪府の北の果て「豊能郡豊能町」の西地区に開発されたニュータウン「ときわ台・光風台」。40年以上勤めた職場を定年退職し、じっくり眺めてみると「この町」は本当に素晴らしい町です。ということで「この町」を紹介するのですが、これまでの「紀行」ものではなく、少子高齢化が進み大阪府有数の「高齢自治体」「限界都市」と言われる「この町」の発展を願い、どうか「この町」に移り住んでいただきたいという思いを込めて歩きました。そのため良い所ばかりではなく、田舎ゆえの「負」に対する部分も含めてまとめています。
 なお文中で「田舎」的な表現もありますが、これは決して「農村地域」や「地方」を見下したり、馬鹿にしているわけではありませんので誤解のないようお願いいたします。


 大阪府「豊能(とよの)郡」。明治時代の郡制施行により、かつての「豊島(てしま)郡」と「能勢(のせ)郡」が合併し、それぞれの頭文字である「豊」と「能」をとって明治29年に発足しました。
 大阪府北部。「京都府」と「兵庫県」にくさびを打ち込んだように食い込み、標高150mから700mの山間部にあるため、ウイキペディアでは「大阪のチベット」「大阪の軽井沢」とも呼ばれていると書かれいますが、私はそのような言葉は聞いたことがありません。ただ、大阪市内より気温はおよそ5~6度低く、「田舎度満点」であることには間違いないでしょう。天気予報では「近畿中部」に属するものの「山間部では…」の「山間部」に位置し、天気図でも「豊能郡」の部分だけ雨雲や雪雲がかかっていることがよくあります。場所にもよりますが、極寒期には10~40cmほどの積雪が見られることもあります。天気図の雨が降っているところが「豊能郡」です。


 しかしかつての「豊島郡」に属する「豊中」「箕面」「池田」「吹田(一部)」がそれぞれ市政に移行したため、現在では「能勢郡」に属していた「能勢町」「豊能町」の2町だけで構成されています。それならば元の「能勢郡」に戻れば良いのでしょうが、かつての郡役場が「旧豊島郡」である池田市に設置されていたことなどから、そううまくはいかないのでしょう。昭和52年、町政に移行した「豊能町」の旧名称が「東能勢村」だったので、今でも「豊能郡」全体を指して「能勢」と呼ばれることがよくあります。しかし、自治体としての「能勢町」と「豊能町」はまったく別です。


 郡北部に位置する「能勢町」はさらに「奥地」にあるものの面積的には郡の75%近くを占め、広大な盆地が開けていることから農村地帯として栄え、すでに昭和31年から町政に移行していました。しかし「豊能町」は600m級の「妙見山塊」で東の「余野」「高山」と西の「吉川」という狭隘な3つの盆地が東西に分断されていたため、現在でも大阪府唯一の「村」である「千早赤阪村」とともに昭和52年まで「村」だったのです。そして、その中心は比較的平坦な盆地が開けている東地区の「余野」であり、現在の「豊能町役場」も「余野」にあります。


 しかし西地区の「吉川」は「能勢の三黒」と呼ばれた「黒牛」「炭」「栗」や木材の輸送手段として「一の鳥居駅」まで開通していた現在の「能勢電鉄(通称:のせ電)」が、「能勢妙見」「能勢の妙見さん」として有名な「妙見山」参拝者の便宜のため、大正12年「妙見口駅」まで延伸されたことにより、かつての「能勢郡」で唯一「鉄路」が開けたのです。頑張れ「のせ電」。


 そして高度成長期に入り、阪神地区郊外に多くのニュータウンが開発されていく中、昭和43年から50年にかけて「吉川」地区の山間部に「ときわ台」「光風台」の住宅地が造成されたのに伴い、能勢電鉄「ときわ台駅」「光風台駅」が開業。さらに「東ときわ台」「新光風台」と町が広がるにつれ、豊能町の人口約19,000人のうち約75%にあたる14,400人の人が暮らす大阪のベッドタウンとして成長したのです(令和3年3月末現在)。
 なおブログの文中に出てくる「町」とは、注釈がない限り「豊能町」全体ではなく「ときわ台」「東ときわ台」「光風台」「新光風台」を指しています。


 大阪方面から鉄道での「わが町」への入口として最も一般的なのが阪急宝塚線「川西能勢口駅」です。ここで能勢電車に乗り換え「大阪梅田駅」から終点の「妙見口駅」まで約1時間(600円)です。すべての列車が停車する阪急電車と能勢電車との合同駅舎であり、大阪方面へは同一ホームで乗り換えることができますので朝はとても便利です。また朝夕の通勤時間帯には、途中の「山下駅」で「大阪梅田駅」と「日生中央駅」を直通で結ぶ「日生エクスプレス」という通勤特急に乗り換えることもできます。


 余談になりますが「出発進行。良し!」という言葉は、電車の運転手さんが「出発信号。良し!」と「指差呼称」したのをホームにいた人が聞き間違えてできた「造語」だということを国語学の講義で聞いた覚えがあります。


 駅改札内にはコンビニをはじめいくつかのお店があります。


 阪急宝塚線や能勢電車の沿線には、大規模ニュータウンやマンションがたくさんありますので、賑やかな駅前には「アステ」「モザイクボックス」といったショッピングモールや「阪急百貨店川西店」のほかスーパー、大手銀行、携帯電話ショップ、病院、パチンコ屋、カラオケ店、飲み屋さんなど何でもあります。「のせ電」唯一の繁華街です。





 
 鉄道でのもう1つの入口がJR宝塚線「川西池田駅」です。


 駅前にはバス・タクシー乗り場のほか何もなくJR特有の「廃れた感」は否めませんが、「川西能勢口駅」とは「アステ」「阪急百貨店」を挟んで専用陸橋で結ばれており、阪急電車と競合するため最近ではサービスも向上し、快速に乗れば「妙見口駅」から「大阪駅」まで乗り換え時間を含め約1時間(660円)で結びます。沿線の兵庫県伊丹市や尼崎市にお勤めの方、またJR京都線・東西線とも連結していますので、多くの方が利用しています。


 「みどりの窓口」がありますので、新幹線をはじめJR全線の乗車券や特急券が買えるのも魅力ですね。


 続いてバスでの入口は北大阪急行・大阪モノレールの「千里中央駅」です。北大阪急行は大阪メトロ「御堂筋線」が乗り入れていますので、「新大阪」「梅田」「本町」「なんば」「天王寺」と大都市「大阪」に直結しています。


千里中央阪急バス乗り場の最後尾、ちょうど千里中央駅(南口)のガード下から「箕面森町中央公園」行きのバスが出ています。


 ここから阪急バスに乗れば、隣の箕面市である「箕面森町地区センター」まで約25分(420円)。そこからさらに阪急の循環バスに乗り換える不便さはあるのですが、数分(220円均一料金)で「わが町」に着きます(420円区間定期があれば、それ以下の区間は無料で乗車できます)。


 「箕面森町地区センター」には無料の駐輪場があるので、アシスト自転車やミニバイクを使って通勤されている方も結構多いようです(コインパーキングもあります)。雨や雪の日はちょっと大変ですが。


 最近では「箕面森町」に24時間スーパー「トライアル」ができたので、行き帰りの買い物にも便利です。


 次ぎに車での入口です。大阪方面からであれば「阪神高速道路池田線」の「池田木部第2出口(能勢方面)」から国道173号線に入り、渋滞がなければ10分ほどで国道477号線の分岐点となる「一の鳥居交差点」に出ます。ここが入口です。正面に見えるお城の天守閣を模した「大阪青山歴史文学博物館」と「ニッサン」が目印です。


 交差点横には能勢電車「一の鳥居駅」があります。「わが町」から車で10分かからないことと能勢電車を3~5駅ショートカットできるので、ご家族に送迎してもらっている方も多いようです。私も仕事や飲み会で夜遅くなったときなどは、この駅まで向かいに来てもらいました。


 かつて「能勢街道」と呼ばれた国道173線から明治に入って開かれた国道477号線の元となる「花折街道」を通って「能勢妙見」へと続く参拝口であり、かつて駅前には大きな石の鳥居が立っていました。「一の鳥居駅」の駅標も「鳥居」と「参拝者」があしらわれています。


 「一の鳥居駅」から国道173号線を大阪方面に下って行くと、大阪府池田市に至るまでの間に「ホームセンター」「ファミレス」「自動車ディーラー」や大手スーパーなどが並びます。








 大阪に行くまでにほとんどの用件が完結します。私もマイカー、携帯電話は兵庫県川西市で購入・契約していますし、娘も川西市内の産婦人科で出産しました。生活圏は完全に川西市です。大阪「県民」です。


 「一の鳥居駅」前から国道477号線に入れば、すぐに「能勢カントリー倶楽部」というゴルフ場の入口横に石の鳥居が見えてきます。これが「一の鳥居」です。かつて「一の鳥居駅」前にあったものが、平成7年1月の「阪神淡路大震災」で倒壊し、この場所に移されたのです。あの日は「わが町」もかなり揺れ、ガス・水道が復旧するまで1ヶ月ほどかかったと思います。わが家は実家のお世話になったのですが、ここのクラブハウスの浴場が被災者に無料開放されていました。


 「塩川」という渓流に沿って、途中2つほど公園墓地を見ながらクネクネとした山道が続きます。この道は、季節によってシカやイノシシが出没するので、ぶつからないように注意してください。


 そして5分もかからない間に兵庫県との府県境を越えて「豊能町」に入ります。私もこのコースで初めて「この町」を訪れたのですが、「一体どんな山奥に連れて行かれるのだろうか?」と不安で一杯だったところ、突然、目の前に青空をバックにしたニュータウンが開け、感激したのを今でも鮮明に覚えています。


 国道477号線は「わが町」の真ん中を通り抜け「能勢町」を経て京都・亀岡方面に続きます。


 次ぎに箕面有料道路「箕面トンネル」です。大阪の大動脈「新御堂筋」の延長線上にあり、先ほどの「千里中央駅」からの阪急バスも通行する有料トンネル(普通車410円~ETC料金)で平成19年5月30日に開通しました。トンネルに入れば「箕面森町地区センター」を経て15分ほどで「わが町」に到着します。このトンネルができて本当に便利になりました。大阪まで阪神高速道路・一般道を利用するよりも時間的・料金的にかなり削減できます。


 そして「箕面トンネル」を出たところには、平成30年3月に開通した新名神高速道路「箕面とどろみインター」があります。ここは「わが町」への入口と言うよりも「日本全国」に続く「旅」の出発点でもあります。特に西日本方面へは魔の渋滞路線である「宝塚トンネル」を通過することなく、神戸JCTで「中国自動車道」「山陽自動車道」に乗り入れできるのでとても便利になりました。
 「阪神高速道路池田線」の「池田木部第1出口(亀岡方面)」で国道423号線を北上すれば「箕面トンネル」を利用することなく10分ほどでここまで来ることもできます。


 ダラダラと前置きが長くなり申し訳ありませんでした。やっと「わが町」に到着です。町内なので歩いて訪れていますが、1年間かけて歩きましたので特にコースはなく、訪問日もばらばらです。また、一部過去に訪れた際の画像や交通機関を利用して撮影した画像も含まれています。


 第一歩はやはり「春」。そしてなんと言っても「桜」です。ここは「箕面森町」へ行く途中の「光ヶ谷」。立っている場所は「箕面市」ですが見えている谷は「豊能町」です。正面は「妙見山(660m)」。今見えている桜は「エドヒガン」と呼ばれる山桜です。ここは四季折々の姿を見せてくれるので、これからも度々登場します。


 「町内」にはたくさんの桜(ソメイヨシノ)が咲いていますが、最も美しいのは「ときわ台駅」前の高台にある「ときわ台1丁目公園」の桜ではないでしょうか。


 公園横の「ときわ台自治会館」周辺もとてもきれいです。


 ここは、ランドセルを背負った新一年生の記念撮影にもってこいです。


 そして「東ときわ台小学校」前から約450m続く桜並木。


 「ユーベルホール」前の桜も見事です。


 「ユーベルホール」は町立の文化ホールで、豊能町の成人祭のほか寄席やソロまたは少人数の楽団によるコンサートなどが定期的に開かれています。


 遅咲きの「山桜」が散ったころ野山では若芽が吹き出し「山笑う」季節になります(光ケ谷)。


 春雨の合間、新緑が美しい「高代寺山(489m)」の眺めです。


 桜が満開だった「ときわ台1丁目公園」は新緑も美しい公園です。


 国道477号線の「吉川交番前交差点」。ここが町の中心部として最も相応しいと思いますので時間や距離の起点はここにしました。


 角には「大阪府豊能警察署吉川交番」があります。本署は国道477号線をさらに北上し、兵庫県川西市を通り抜けた隣町の「能勢町」にあります。免許更新などの時は本署まで行く必要がありますが、車で10分ほどの距離ですし、交通安全協会の広い駐車場があるので大丈夫です。


 その隣には「箕面市消防本部豊能消防署」。豊能町は平成28年、隣の箕面市と消防業務を統合しました。豊能町は治安もよく火災も年数回あるかないかくらいです。新しく開かれたニュータウンでは、「交番」や「消防署」の誘致を自治体に行っているようですが、予算や人員の関係で難しいそうです。こんな静かな「町」に交番と消防署があるというのはとても心強いですね。


 消防署の向かいには「ふれあい広場」。毎年いわゆる市民(町民)祭である「ふれあい祭(盆踊り)」や「農業祭」などが行われます。隣にはテニスコートがあります。


 このあたりには豊能町の公共施設が集まっています。「ユーベルホール」前の階段を上れば、そこには「図書館」。レンガ造り風のしゃれた建物で、毎週月曜日と最終金曜日が閉館日。午前10時から午後6時まで開館しています。私は「図書館」がある街が大好きです。何か心が豊かになりますね。


 その裏には「西公民館」。選挙の時には、いつもここまで期日前投票に来ます。


 図書館の前には「健康福祉センター」。医療機関ではありませんが、町民健診や予防接種、健康相談などが行われています。新型コロナワクチンの集団接種もここで行われました。


 健康福祉センター前には「第2総合駐車場」。「田舎」はどこに行っても広い無料駐車場があるので助かりますね。ただ、町の財源確保のため「有料化」される動きがあります。


 そして駐車場を抜ければ「豊能町役場吉川支所」。各種届出や印鑑証明などはすべてここで申請できますので「余野」の本庁まで行く必要はありません。実際、私も本庁へは一度も行ったことがありません。


 消防署の前には阪急バスの「支所前」バス停。町内を阪急バスが運行しており、「新光風台」を循環する便と「光風台」「東ときわ台」から「箕面森町地区センター」を回る便が交互に発着しています。それと平日の朝のみ「妙見口駅」までの便があります。坂の多い町ですので本当に助かりますね。


 「支所前」バス停の前には「ときわ壱番地」。阪急沿線に展開する「阪急オアシス」の「ときわ台店」を中心にいくつかのお店がありますが、「ショッピングモール」というほどの規模ではありません。


 「トライアル」が開店してからは経営も厳しいようですが、豊能郡唯一の「オアシス」として能勢町方面からのお客さんもあり「町のスーパー」として頑張っています。


 周りにはドラッグストアーや学習塾、眼科医院、整骨院などがあります。


 鬱陶しい「梅雨」。ただ私は結構「雨」が好きです。特にどこに行く当てもない休日。ずっと家に閉じこもる言い訳になりますからね。令和3年は5月16日に梅雨入り。大阪では統計史上もっとも早い梅雨入りだったそうです(光ケ谷)。


 「町」は山を切り開いて造成された住宅地ですが、「ときわ台駅」近くと「妙見口駅」の手前に「田んぼ」があり田植えが行われます。カエルが大合唱し、私の大嫌いなヘビもたくさんいます。


 このあたりは6月に入ると「ゲンジボタル」が舞います。この他にも「ゲンジボタル」が棲むポイントがいくつかあるのですが「自然保護」のためそれは「内緒」です。


 新緑の季節を過ぎると町のあちらこちらで「サツキ」が咲き始めます。


 私は花にはあまり詳しくないのですが、「サツキ」は「ツツジ科」の植物で、まず最初に4月ころから「ツツジ」が咲き、続いて5月ころから「サツキ」が咲くそうですね。この町は桜もそうですが、「下界」よりちょっと寒いので時期がズレます。今年は「サツキ」の季節より梅雨入りの方が早かった見たいですね。


 町内には公園や街路樹のほか個人宅の庭先など、たくさんの「サツキ」が植えられています。春には「町」の方々で「ホトトギス」や「ウグイス」の鳴き声が聞かれます。


 ちょっと「町」から外れて「妙見口駅」までやってきました。ここは旧集落である「吉川」の中心部です。盆地というよりほぼ山間部です。私のほかのページでもいろいろ紹介していますのでご覧になってください。


 大阪府最北端の駅ですが時刻表を見て頂ければわかるとおり、早朝から深夜まで10数分おきに電車が発着しています。便利ですよ。決して「田舎の駅」ではありません。トイレは改札の外にきれいな水洗トイレがあります。


 「妙見山」への拠点であり休日には参拝客やハイカーで賑わいます。駅前には「観光案内所」のほか観光客相手のお土産屋さんと食堂があります。「町」には「飲み屋さん」が1軒もないのでアルコール目当ての常連さんも結構いるようですよ。


 次の駅が「ときわ台駅」です。能勢電車は「山下駅」~「妙見口駅」は単線ですのでホームは1本しかありません。当然なのですが「無人駅」です。改札内にトイレが改札を出たところに自動販売機があります。


 駅前には「ときわ台駅前」のバス停。これは豊能町が阪急バスに委託している「豊能町リレー便」といういわゆるコミュニティーバスで、「ときわ台」を回った後「箕面森町地区センター」を経由して箕面市の「箕面病院前」までと「箕面森町地区センター」止まりが交互に走っています。駅前には中層のマンションが1棟あります。


 1時間に2本のマイクロバスですが「支所前」も通過しますので、通勤用というよりは「町内」に住むお年寄りにとって買い物や通院に助かるバスですね。ただ、財政難により運行は厳しいようです。


 夜は迎えの車で渋滞しますので、最近、移転した駐輪場跡に送迎用のロータリーができました。


 駅前にはちょっとした商店街があったのですが、今ではシャッター街化しています。何でも屋さんとバイク屋さん、電器屋さん、新聞舗、パン屋さん、歯医者さんがあるくらいです。パン屋さんは予約制で即完売らしいですよ。さすが「北摂」ですね。

 
 マンションの前には「豊能ときわ台郵便局」。


 この駅の特長は駅前に「京都タクシー」の営業所があるということです。いつも数台待機しており、ほとんどの方が1~2メーターで自宅までの足代わりとして利用しているようです。電車が着けばほとんど出払い、次の電車が着くまでに戻ってくるという感じです。雨の日やお年寄り、深夜帰宅の女性にとっては強い味方です。


 駅前の「初谷川」にかかる「ときわ大橋」から「妙見山」を望む。妙見山頂には「星嶺」という変わった形の信徒会館が建っているので、すぐにわかります。


 最後は「光風台駅」です。もちろん「無人駅」です。改札内にトイレと自動販売機があります。改札外にも自動販売機そしてコインロッカー、宅配ボックス、証明用写真機、公衆電話があります。


 駅前には2棟の高層マンションと阪急バスの「光風台駅前」バス停。


 駅は「谷底」にありますので駅前には「エスカレーター(上り専用)」があります。「妙見口」「ときわ台」「光風台」この3駅が能勢電車で大阪府に所在し「わが町」への「扉」となりますが、「駅前」とはいえ夜になれば真っ暗です。


 「光風台駅」のエスカレータを上がったところに「デイリーカナートイズミヤ光風台店」があります。「オアシス」とともに新聞に折り込み広告が入る「2大スーパー」です。


 そのほか「新光風台」に組合員専用になりますが「こうべコープ新光風台店」。その周りに中華レストランなどがあります。


 「コープ」の前には町立スポーツセンター「シートス」。体育館や屋内温水プール、アスレチックジム、テニスコートなどがあります。


 「バブル期」各自治体には「箱物」と呼ばれる立派なスポーツセンターや文化ホールが建設されましたが、ここもその1つで今では「東京ドーム」の運営会社に経営委託されています。ここも「ユーベルホール」とともに町の財政を圧迫しているそうです。


 「梅雨」が過ぎれば「新緑」から「深緑」へと移り「山滴る(したたる)」季節に。町は緑に包まれます。


 「ときわ台」は最も早く開かれた住宅街で「ときわ台駅」を除いては公共施設や大きな公園・遊歩道もなく「こぢんまりとした住宅街」という感じです。


 山の斜面を造成したことから場所によっては高い石垣に囲まれている住宅も多いようです。


 続いて開発された「光風台」は山の斜面と緩やかな頂上部を造成した住宅街です。


 山の斜面部分はいわゆる「掘り込み式車庫」のある家が多いです。


 令和2年の集中豪雨で裏山の法面が崩落しましたが、幸い人的被害はありませんでした。


 「デイリーカナート」の隣には「光風台2丁目公園」。


 ちょっと狭いですが、バックネット付きの野球場があります。ちょうど少年野球用ですね。


 豊能郡から兵庫県川西市、猪名川町にかけては「銀」「銅」の鉱脈が走り「デイリーカナート」北側の「初谷川」沿いにある崖には、今でも「間歩(まぶ)」と呼ばれる鉱山への入口跡が残っています。以前、台座の上には小さな祠があったのですが、台風で倒壊したそうです。


 「ときわ台」から国道477号線を越えると「東ときわ台」。山の斜面ではなく頂上部を切り開いて造成されたのでしょうか比較的坂も緩やかです。




 中央には造成前の山をそのまま活かした「東ときわ台6丁目公園」があります。


 能勢は「松茸」の産地。松の木が残っています。ただ、ここでは松茸は採れません。


 ここにも小さな野球場。


 周回道路には阪急バスが走っています。

 
 「東ときわ台」の真ん中を南北に抜ける「けやき通り」。


 ニュータウンらしい街づくりです。


 それと十字に交わるように「ときわ壱番地」から遊歩道が東西に走っています。


 「町内」には結構、個人経営のお店も見られます。酒屋さんやクリーニング屋さん。




 散髪屋さんやパーマ屋さん。




 バイク屋さんに自動車屋さん。




 珈琲店や北摂らしく「ベーカリーショップ」。




 「カフェ」もあります。


 古い「町」ですので、ところどころに「公衆電話」があります。


 携帯電話が当たり前の時代ですがこれは大事ですよ。以前、私は終バスが終わった「箕面森町地区センター」のバス停で雨に遭ったのですが「箕面森町」には公衆電話がなく、携帯電話を職場に忘れてきたことから、雨の中、歩いて帰ったことがあります。「田舎」で携帯電話を忘れたり、バッテリー切れになると「生死」にかかわりますよ。

 
 国道477号線沿いには「町内」唯一のコンビニ「セブンイレブン東ときわ台店」。ここは私が引っ越してきた当時は「酒屋さん兼何でも屋さん」で、その後「ローソン」を経て「セブンイレブン」になりました。24時間営業でATMもあり本当に助かります。


 本格的な飲食店と言えば「吉川支所」前の国道477号線沿いにある「かめたにときわ台店」だけです。「妙見口駅」前にある「かめたに本店」の出店です。


和食、洋食、丼物、めん類、すし、喫茶、スイーツ、アルコールなど中華以外の料理と出前、宴会、仕出し料理まで「食の何でも屋さん」です。


 「この町」の夏は涼しいです。そして夏が過ぎればあっという間に「山粧う(よそおう)」秋が訪れます(光ケ谷)。


 「ときわ壱番地」前のいちょう並木も色づいてきました。


「桜」「新緑」が美しい「ときわ台1丁目公園」は「紅葉」もきれいです。


 「ときわ壱番地」のすぐ近くに「豊能東ときわ台郵便局」。


 その前の筋はお医者さんを相手に分譲されたのでしょう。耳鼻咽喉科、整形外科、歯科が並びます(内科は閉院されました)。


 豊能町には町立病院などの公立病院や総合病院と呼ばれる大きな病院はありません。救急や入院・手術を伴う場合は、隣接する兵庫県川西市や大阪府池田市にある大きな病院に頼るしかありませんが、「町内」には内科・耳鼻咽喉科・整形外科・歯科・眼科など17の開業医と組合員専用の生協診療所があります。




 その他、鍼灸院や獣医さんもいくつか開業されています。




 「新光風台」は一番最後に分譲された住宅街です。「光風台駅」からエスカレーターを上り左に曲がって「光風台大橋」という橋で深い「初谷川」の渓谷を渡ります。山の向こうに「ときわ台」の町が見えます。


 この坂道を上れば「新光風台」です。


 坂の途中には「豊能光風台郵便局」。「町内」にはこれまで紹介したものを含め3つの郵便局があります。いわゆる「本局」といわれる郵便局はありませんが、箕面郵便局の管理下にある「地黄郵便局」が「能勢町」にあり、不在郵便物はそこに集約されているようです。ただ今は携帯で再送手配ができるので大丈夫ですね。


 この筋には整骨院や喫茶店、学習塾などが並びます。


 新しい街らしく各住宅や街並みもおしゃれな感じがします。




 街の中央には「しらかば公園」。


 ハイキングの昼食ポイントにもなっているようです。


 ここにも野球場。今は「サッカー」ですが、野球は当時の「花形スポーツ」ですからね。


 街の入口には「光風台小学校」。


 以前「吉川支所」の隣にあった「吉川幼稚園」と「光風台幼稚園」との統廃合によりできた「ひかり幼稚園」が併設されています。


 「町内」にはもう1つ「東ときわ台小学校」があります。


 旧集落の「吉川」には「吉川小学校」。旧集落と「ときわ台」の子どもたちはここに通います。以前、近くで熊が出没したので、子どもたちは「熊鈴」を鳴らしながら通学しています。


 国道477号線の沿いには「吉川保育所」。


 そして3つの小学校の卒業生が通うのが「町」の中心部である「吉川支所」隣の「吉川中学校」です。「この町」は非常に教育熱心な「町」で、以前は「第一学区」に属し大阪府立高校で最も偏差値の高い「北野高校」への進学率が最も高い中学校でした(今は学区制度はありません)。


 しかし少子化に伴い、現在、豊能町内の小学校統廃合と中学校の小中一貫教育が論議されており住民説明会なども開かれています。隣の「能勢町」では既に小学校統廃合と小中一貫教育が実施されています。


 「吉川交番前交差点」から入った所に「池田泉州銀行ときわ台支店」。「町内」で唯一の銀行です。北摂地方には池田市に本店がある「旧池田銀行」がたくさんあり、ここも「旧泉州銀行」と統合前は「池田銀行」でした。


 「デイリーカナート」の隣には「光風台出張所」があったのですが、今では窓口業務は終了しATM専用店舗になっています。


 高齢化に伴い「豊能町」は町民の45%以上が65歳以上という「超高齢自治体」になっています。そのため「町内」でも「高齢者介護施設」ができ始めました。


 娘や娘の同級生たちも「町外」に出て行き、今では私たち親世代だけが残っています。時代の流れですね。今は小さな子どもたちの声も聞かれなくなりました。あちこちに「空き家」や「更地」も見られます。




 しかし最近新しい家が建ち始め、若い世代の入居も見られるようになってきました。




 この「町」を守ってくださる「氏神様」は「妙見口駅」から歩いて10分ほどのところにある「吉川八幡神社」です。


 古い「村の鎮守の神様」ですが、若い宮司さんが来られてからは、いろいろ趣向を凝らされたり、伝統的な神事も精力的に行われています。


 新しく建築中のお社を抜ければ「高代寺山」へのハイキングコース入口になっています。途中「吉川城」という戦国時代の山城址があります。


 「山枯れる」冬がやってきました。「この町」の冬は本当に寒いです(光ケ谷)。


 今日は未明から雪です。今年は例年より雪は少ない冬でした。


 どこもひっそりと雪の中に佇んでいます。


 「ときわ台1丁目公園」の桜のつぼみもまだまだ固いようです。しかし、寒い冬が終わり、もうすぐ春がやって来ます。なお、桜の木は2列ほど伐採されました。


 しばらくは家の中でゆっくりと過ごしましょう。これは、隣町の豊能郡能勢町に蔵元がある地酒「秋鹿」です。「町内」の酒屋では普通に売られています。


 小学校社会科の地図のように何でも1つはある「箱庭」のような「町」ですが、皆さん、特に若い世代の皆さん。どうかこの素晴らしい「町」に来てください。
 私のように老後をゆっくり過ごすにはまったく問題はないのですが、若い世代の方は通勤や子育てなどいろいろあるかも知れません。しかし私も30年以上ここから大阪市内の職場に通勤し、2人の娘も「町外」の高校を経て京都・滋賀の大学に自宅から4年間通いました。自然豊かで子育て・教育にはとても良い環境の町です。新型コロナウィルスのためテレワークなど生活様式も随分と変わってきました。大阪市内まで電車・車で1時間なのにシカ・イノシシ(時々クマ)も走る「都会」でもなく「田舎」でもない、星空と空気のきれいな「この町」で暮らしてみませんか。

追:光風台の土砂崩れ現場も復旧工事中です。

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