「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

町をさ迷いました

2024-01-28 10:01:05 | 日記
 あの「変な夢」をまた見ました。「鉄道編」そして一部「職場編」です。

 週末でしたので昨晩はブログの下書きなどをしながら夜更かしをし、日が変わった午前1時半ころ床に着きました。

 私は毎日午前5時10分に起床し出勤しますので、休日でも体内時計により朝5時前後に一度目が覚めます。今日も時計を見れば午前5時3分に目が覚めました。「今日は日曜日。二度寝をしよう」と思いそのまま床の中に。最終的に床を出たのは午前8時30分ころでしたので「軽い目覚め」と「軽い睡眠」を数回繰り返した3時間ほどの間に「変な夢」を見たことになります。

 さっそくブログに編集しようと思いましたが、私は毎朝神棚と仏壇のお世話をした後、高野山真言宗の仏前勤行をしますので起床から30分ほどしてパソコンの前に座っています。布団の中でグズグズしていた数分の間いろんな事が頭の中に残っていたのに、この30分ほどでほとんど忘れてしまいました。一生懸命記憶をたどりましたが思い違いもあると思います。また所詮「夢」ですので矛盾もたくさんありますが………。


 ここはどこでしょう?私は朝の出勤時間帯に知らない町を歩いています。8時には出勤しなければなりません。ただ結構町に出てきているので感覚としては30分ほどで会社に到着できそうです。取り敢えず「大阪方面」への電車を探します。

 しばらくして何やら駅前のような所に着きました。そして今回の夢の特徴は何となく場所が特定されているのです。ここは京都の「伏見区」あたりのようです。もちろん私にはまったく土地鑑のないところですが以前「酒蔵巡り」で訪れたことがあるので、その記憶が蘇ったのかもしれません。関西の方であればご存じだと思いますが、伏見区は京阪電車と近鉄電車、JRが複雑に交わるところです。特に具体的な地名が出てくるわけでもなく実際の風景とも異なりますが、私はいくつか高架が交わる薄暗いガード下を歩いています。この風景はなぜか鮮明に頭に残っています。ここで私は必死に大阪方面への電車を探しているのです。そして色は覚えていませんが(仮にここでは赤色としておきます)、「赤色の1番」と書かれたところが大阪方面のホームでした。「赤1」の表示を求めて知らない町をさ迷います。

 川でしょうか道路でしょうか高い土手の向こうに「赤1」が見えました。急いでそちらに向かいます。しかしいつの間にかさっきのガード下に戻ってしまいました。そしてまた土手の向こうに「赤1」の看板が見えます。どうしてもたどり着けないのです。

 途中、建物の入り口に以前職場で一緒だった女性が立っていました。私が「久しぶりですね。元気にしていますか」と声をかけると「病気がちで会社に行ったり休んだりの繰り返しです」みたいな会話を交わしました。この情景も鮮明に覚えているのですが、その女性はその後一切夢には出てきません。後で考えればその女性に会社の場所を聞けばよかったのですが、私はまださ迷い続けています。

 そして私の感覚では「京阪カラー」と思うのですが電車を見つけました。なぜか終着駅で電車に乗るときは側面のドアではなく正面の運転席から入りました。そして車両内は何と喫茶店だったのです。中では出勤途中と思われるたくさんのサラリーマンがモーニングを食べていました。今では考えられませんが、みんなタバコを吸い車内は煙だらけです。タバコが嫌いな私は外に出て振り返るとそれは喫茶店の扉でした。土手の向こうにはあのガード下が見えています。私はこの道筋を歩き続けるのでしょうか。目が覚めました。変な夢でしょ。いくら思い出しても記憶はどんどん消えていくだけです。読み返しもしないままブログをアップします。
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「 放送大学 」キャンパスライフ10

2024-01-24 20:28:02 | 日記
 平成10年度第2学期は、
  放送授業  7科目 14単位
  面接授業  2科目  2単位
  合  計  9科目 16単位(累計 60単位)
を修得しました。2年間でほぼ半分。結構頑張ったと思います。「発達と教育」というコースですが、人間は成長していくもののある時期になると成長は止まります。しかし、人生経験を積めば積むほど発達し続けるように私も「発達中」です。その背景には「教育」というものがあります。そんな学問です。

中国語Ⅰ
 またしても外国語でつまずきました。追試で「中国語Ⅰ」を落としてしまったのです。外国語は年をとればとるほど難しいですね。
 ただ面接授業で「中国語Ⅰ」を履修しました。放送授業のように日本人の教授が講義をするのではなく、ネイティブの中国人女性が講師でした。5コマの授業の前半で徹底的に「声調」を叩き込まれます。その後、簡単な作文を作成し、講師から文法的なチェックを受け合格すれば最終日に講師の前でその作文を読み上げます。講師がその言葉を理解できれば合格です。
 私のたどたどしい中国語でしたが、講師の先生からたどたどしい日本語で「ウン、ワカルナ」と言っていただき、何とか合格することができました。外国語科目を4単位修得したことになります。あと1科目2単位です。が、この2単位で最後まで泣かされるのです。

私の勉強法
 私の放送授業の勉強方法ですが、テキストが送られて来た時点で数日かけて一読し、ピンクのラインマーカーで私なりに重要だと思ったところに線を引きます。その後、放送授業が始まれば授業を聞きながら黄色のラインマーカーで線を引きます。ご存じの方も多いと思いますが、ピンクと黄色のインクが混ざれば化学反応によりオレンジ色に変色します。つまり黄色い部分とオレンジ色に変色した部分が重要なところです。その後、試験前に復習をし、ボールペンで添え書きをします。それを繰り返し暗記するのですが、その時点で印刷教材は手垢と手書きでヨレヨレになっています。  つづく
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「 放送大学 」キャンパスライフ9

2024-01-18 21:36:05 | 日記
 平成10年度第1学期は、
  放送授業  8科目 16単位
  面接授業  3科目  3単位
  合  計 11科目 19単位(累計 44単位)
を修得しました。まずまずの調子です。しかし、ここでも外国語でつまずいています。私は到底「英語Ⅱ」のレベルに進めるとは思っていなかったので、残りの外国語科目は英語以外の科目を履修しようと思いました。なぜなら英語以外であればほとんどの人が初学者であるため、みんなスタートラインは同じだと考えたからです。そして当時の放送大学では、英語以外の外国語科目として「ドイツ語」「フランス語」「中国語」「ロシア語」「スペイン語」が準備されていました。私自身、どの外国語も習ったことはありません。そこで選択したのが「中国語Ⅰ」でした。しかし………。声調(四声)と呼ばれる中国語の発音はとても難しいです。同じ漢字の国なのに、あの漢字はまったく別物です。文法も日本語とはまったく違います。中国語って本当に難しい言語ですよ。案の定、落としてしまいました。次学期頑張りましょう。

ある日の単位認定試験
 各学期末に行われる単位認定試験は、原則所属する学習センター私の場合であれば文京区にある東京第二学習センターで受験しなければなりません。しかし、東京は学生数が多いということで3つのブランチ試験場が設けられていました。さすが「大東京」。こんなに交通機関が発達しているのに恵まれていますね。地方では泊りがけで受験しなければならない所もあるでしょう。そして私はJR中央線の「国立駅」前にあった「国立ブランチ試験場」を選択しました。ここなら社宅の玄関から試験場の机まで30分。とても便利です。


 この試験場は、コンピューター系専門学校の教室を借用しており、キャンパスの中庭はちょうど円形劇場のように階段で囲まれていました。ある日のことです。私は次の試験時間まで間がありましたので、その階段に座りテキストを開いて試験勉強をしていました。その時、見るからに「家庭の主婦」という感じの中年女性が息子と思われる小学校3~4年生くらいの男の子に自動販売機で買った紙パックのジュースを与え、試験場内へと入って行ったのです。おそらく主婦業の傍ら放送大学で学び、子どもひとりを家に置いておくわけにもいかないので連れてきたのでしょう。まだスマホのない時代、その子は漫画の本を見ながら時間を潰していました。お母さんは試験に集中できたでしょうか?みんな苦労して勉強しているんだな。放送大学のキャッチフレーズではありませんが「学びの尊さ」というものを感じました。そしてあの子は、お母さんのそんな姿を見て今では立派な青年になっていることでしょう。  つづく
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龍田古道~「山越え」「川越え」河内・大和の往復歩紀

2024-01-15 00:45:01 | 日記
訪問日:令和6年1月14日(日)
出 発:JR「高井田駅」
到 着:近鉄電車「河内国分駅」

 あけましておめでとうございます。

 かつての二大都市「難波」「奈良」を結ぶルートはいくつかあったようですが、直線的に最短距離で結んだ「暗越奈良街道」は標高500m近い暗峠を越える厳しい道のりであったため、ちょっと遠回りになるものの生駒山地が大和川に落ち込む平坦なルートが重宝されたそうです。途中に「龍田大社」という古社があったことから「龍田越奈良街道」と呼ばれたそのルートは、古(いにしえ)の道として今では「龍田古道」と呼ばれ、令和2年6月、日本遺産に認定されました。
北側の「三室山」を越えて「大和」の国に入り、「王子」で折り返し「亀の瀬」と呼ばれる大和川に沿って「河内」の国に戻ってきます。今では手ごろな歴史ハイキングコースとして整備されていますが、後半トイレがありません。


 今日のスタートは、大阪第二の大河「大和川」の北岸に位置するJR「高井田駅」です。以前「高井田横穴古墳群」を訪れた際に駅前を通りました。天王寺駅から約25分(230円)で来られます。午前9時、今日もニコニコ出発です。ここは大阪府柏原市。駅構内と駅前ロータリーにトイレがあります。


 駅のすぐ西隣に小さな神社がありました。「白坂神社」で今日一日の安全を祈願しましょう。神社って本当に身近な存在ですね。365日・24時間、誰でも受け入れてくれます。こんな完全開放の空間にもかかわらず一切荒れていないなんてすごいですね。


 目の前の「大和川」を右に見ながら東へ進みます。すぐ先にセブンイレブンがあるので給水も可能です。


 さて龍田古道はいくつかのルートがあるようですが、今歩いている道は「府道183号線」。前半は山越えのこの府道を歩きます。府道はやがて先ほど乗ってきたJR大和路線(関西本線)をくぐります。大和川を越えるこの鉄橋はかつて単線だったのでしょうか、上下線2つに分かれているようですね。(午前9時16分)


 途中、大和川は右に大きく蛇行し、道路も右にカーブしますが府道はそのまま真っ直ぐです。


 ここから上り坂になりますが今日の標高差は200mちょっとです。今日は寒いですね。


 「谷尻地蔵尊」の前で坂道はカーブします。室町時代である元亀3(1572)年の銘刻があるそうですよ。


 さらに府道はカーブし「青谷」という集落に入りました。旧家の前には「大門所地蔵尊」。鎌倉末期である正和2(1313)年の造像だそうです。


 その先のお寺の前には「大池」。


 大池を過ぎれば正面に神社が見えてきました。「金山彦神社」です。式内社ですので1000年以上の歴史がある古社です。(午前9時36分)


 金山毘古神を御祭神としますが、金山毘古は金属や鉱山の神様です。かつてこの地で何か金属が採取されたのでしょうか。


 参拝を終え坂道を上って行きましょう。右に駐在所が見えてきました。大阪で駐在所は珍しいですね。(午前9時42分)


 さらに進んで行くと中学校が見えてきました。「柏原市立堅上(かたかみ)中学校」です。


 「堅上小学校」「堅上幼稚園」と続きます。先ほど子どもたちが描いた看板に「8年生」と書かれていたので、小中一貫校として統合されたのでしょうね。


 幼稚園を過ぎれば案内板に従い左に曲がりましょう。


 そこには「金山媛神社」。「彦・媛(姫)」は、男女平等(もしかして女尊男卑?)の神道では一対の神様です。(午前9時56分)


 先ほどの金山彦神社と当社の由緒によるとやはり付近は製鉄業で栄えていたようです。日本という国はみんな神様に守られているのです。というか神様の下で生活を営んでいるんですね。


 府道に戻りさらに坂を上って行くと「堅上」の集落に入ります。山の斜面に開かれた集落なので、家々は石垣が組まれています。


 農協(JA)の支店がありました。付近には市役所の出張所や郵便局もあり、この地区の中心地なのでしょうね。


 府道から外れてここを左に入りましょう。50mほどで真宗大谷派の「光徳寺」というお寺があります。(午前10時6分)


 平安時代にさかのぼる古いお寺で、寺の由緒によればかつて本堂である「雁林堂(かりんどう)」だけを残して焼失したことから、この辺りの地名を「雁多尾畑(かりんどおばた)」と言うそうです。


 府道に戻りどんどん上って行きます。ここは大阪平野からちょっと入ったところなのに、すごい「山奥感」がありますね。


 郵便局を過ぎて坂道を上って行くと、ちょっと大きな四つ辻に出ました。角には「竜田古道の里山公園」。(午前10時18分)


 振り返れば大阪平野が望めます。


 柏原市の体験型野外活動施設でキャンプ場やセミナーハウスなどがあります。トイレや自動販売機もあります。園内に入って見ましょう。


 奥の展望広場からは奈良方面が。旅人らはここでそれぞれの国を眺めたのでしょうか。


 地図で見ればこの辺りは標高250mほど。本日の最高地点でしょう。ただ私の自宅も標高250mほどです。公園の入口まで戻り四つ辻を左(東)へ。霊園を右に見ながら進みます。


 公園のフェンスが途切れたところに左へ入る道があり「三室山」への案内表示があるので入って行きましょう。付近は桜の森です。春はきれいでしょうね。(午前10時30分)


 ここからは府道と分かれ山道です。古道は尾根に沿ってゆっくりと高度を下げていきます。


 「龍田古道憩の家」という看板が上がったトタン造りの小屋の前に分岐点があるので、案内表示に従って左へ進みます。


 木漏れ日の中を進んで行くと、ほぼ使えない公衆トイレの手前にNPO法人が立てた「龍田神社本宮跡」の案内板があり、その奥に「傳 龍田神社本宮跡(実際は足偏に止)」と刻まれた石碑が立ちます。山の斜面には5つの磐座があるそうです。古代神道の姿ですね。(午前10時36分)


 古道を下って行きます。結構下から電車の音などが聞こえてきますよ。


 倒木を越えます。


 二又に出ました。真ん中に札がぶら下がっていますが何も書かれていません。どちらもしっかりした踏み跡があります。「どうせ先で合流するだろう」と勝手に考え、左に進むことにしました。間違えていればまたここまで戻れば良いことです。案内表示が欲しいですね。


 幸い先で道が開けました。正解だったようです。


 そしてその先には木造の展望台が。


 展望台の足元には「国土地(理院?)」と書かれた表示がありました。「三室山」に到着です。標高は137m。100mちょっと下ったんですね。(午前10時43分)


 王子方面の展望が開けます。


 表示はありませんが、矢印の反対側に進めば良いだろうと思い、先に見えている坂を下って行きます。


 ところが途中でいくつもの脇道が現れ、それぞれに踏み跡があり完全に迷いました。


 今日も「YAMAP」の登場です。案の定、道を間違えています。


 先ほどの三室山頂まで戻り、展望台の階段前を進めば立派な道がありました。単に案内表示がなかっただけのことですね。案内表示が欲しいな。山頂が大阪と奈良の府県境。「大和」の国に入りました。


 途中から案内表示が現れましたが、どうも龍田大社方向から上って来ることを前提として立っているようです。


 車も通れるほどの砂利道を進みます。


 小さな広場がありトイレがあります。(午前10時56分)


 やはり私は逆行しているのでしょうね。


 途中「大伴家持の歌碑」がありました。


 坂を下れば「龍田古道入口」です。逆行している私にとっては「出口」ですが。(午前11時)


 ここからは住宅街です。グーグルマップを頼りに突き当りを右へ。次の四つ辻を左に曲がって道なりに進んで行きます。右に「浄林寺」への案内があれば曲がりましょう。そのままお寺の前を通り過ぎます。


 県道に出れば左へ。


 県道沿いには「磐瀬の杜」と彫られた石柱が立っています。


 小さな公園の中には舒明天皇の孫といわれる「鏡王女」の歌碑が。すぐ後ろをJRが走ります。


 そのまま進めば先月「屯鶴峯」を訪れた時のゴールであるJR「三郷駅」の前を通り過ぎます。(午前11時11分)


 次の角を左折すれば橋の上に「龍田古道」の案内表示がありますので、案内に従い進んで行きましょう。ここで初めて「双方向性」の案内表示になりました。


 少し坂を進めば左に「神奈備神社」。小さな神社ですが龍田大社の末社です。


 そしてそのまま真っ直ぐ進めば「龍田大社」の大鳥居前に到着です。(午前11時17分)


 「忌日」は過ぎているので普通に神社にはお参りしますが、「喪中」ですので初詣はしません。


 参拝を終え鳥居をくぐって左へ。駐車場を通り抜けてそのまま真っ直ぐ進みます。


 細い道沿いには結構旧家が残ります。




 「三郷町立三郷中学校」の向かいにも虫籠窓の旧家がありました。


 中学校の前には龍田古道の案内板。やはりこの道が古道なのですね。


 県道の高架をくぐり近鉄の踏切を渡って左に曲がります。


 ホーム裏に沿って進み、次のお地蔵さんのある角に出れば左折。すぐに近鉄「信貴山下駅」前に出ます。(午前11時39分)


 わざわざここへ来た理由は?駅前に昭和58年3月廃線となった「東信貴鋼索線(ケーブルカー)」の旧車両が展示されているからです。私が住む豊能町の近所にある「妙見ケーブル」も昨年(令和5年)12月廃線になってしまいました。淋しいですね。


 土・日・祝日(町立図書館休館日を除く)の午前9時から午後4時まで車両内が一般公開されています。自由に出入りできますよ。大切にしましょう。


 私は鉄道マニアではないので型式など詳しい知識はありませんが、「昭和」を感じるレトロな空間として萌えています。


 車両の隣は日本遺産認定を記念した公園になっており「山上憶良」歌碑などが立ちます。


 さっきのお地蔵さんまで戻り右へ。「三郷町役場」前を左に曲がり、公共施設地区を抜ければ大和川沿いに出ます。信号を渡って左に曲がりましょう。道路を挟んで左側は「三郷中央公園」。プールやグランドのあるスポーツ公園でトイレがあります。


 「明治橋」という橋で大和川を渡ります。


 橋を渡って堤防下の小さな道を右へ。しばらく進めば鎮守の森が見えるのでグーグルマップを頼りにぐるっと回れば「九度神社」。(午前11時58分)


 式内社であり「続日本紀」にも記されている古社です。


 私が大好きな京都「平野神社」の九度神が祀られています。「九度」とは「竃(かまど)」のこと、つまり台所の神様です。


 参拝を終え右へ。突き当りを左折し、狭い路地から大きな通りに出れば、ここはJR「王子駅(近鉄は新王子駅)」前通りです。


 良い時間ですね。


 今日はJR王子駅前の「吉野家王子駅前店」で昼食です。大手チェーン店は「ハズレ」がないですね。営業時間・価格もはっきりしていて出来上がるのも早いし、味・量・接客とも申し分なし。お値段も手ごろです。日本の外食産業はクオリティが高いですよ。歩紀ニストの私にはもってこいです。


 「牛すき鍋膳」(税込787円)を注文。この後、ご飯の上に鍋の具材をのせ、残った生卵をかけて「野里町歩紀風牛丼の完成だ。ふん」(♪ 五郎~五郎~ ♪)


 昼食を終え午後0時32分出発です。この先、ゴールまでトイレがありません。駅前の狭い路地を西に進みます。200mほどで小さな四つ角を左折し、近鉄の踏切を渡ればすぐ左にJRのアンダーパス。くぐりましょう。


 これは「第一井路開渠」と呼ばれるアンダーパスです。「国鉄」というか明治時代からあるアンダーパスです。身長170cmない私でさえ、しゃがまなければ入れません。


 「レンガ造り」良い雰囲気ですね。


 「タイムトンネル」ではありません。この中だけが「過去」なのです。


 くぐれば「現在」に戻り、突き当りの歩道橋で「葛下川」堤防に上がり右へ進みます。


 次の「出合橋」で葛下川を渡り右折。右から大和川が合流してきます。遠くには生駒山。(午後0時48分)


 そして前回渡った「神前橋」で大和川を渡り左に進みます。途中で歩道がなくなるので、信号を渡ってから左折しましょう。信号の手前にJRの踏切があるますよ。


 午前中に通った三郷駅を再度通過し、さらに進みます。(午後0時59分)


 同じく午前中に通った「磐瀬の杜」を過ぎ、左にJRの鉄橋が見えるあたりに出れば右へ入る道があります。角には古い台座の上に真新しい「大坂堺道」の道標。ここから龍田古道は「亀の瀬越」と呼ばれる大和川沿いのコースになります。右に入りましょう。


 旧家の向かいには「関地蔵」。天武天皇の時代(600年代)、ここに関所があったそうです。


 家は建て替わり「古の雰囲気」はありません。


 案内表示に従い突き当りを左へ。住宅街を抜ければ龍田古道の標識が。(午後1時12分)


 ここが奈良と大阪の府県境のようです。「河内」の国に戻りました。


 細い道を進んで行きます。イノシシが出そうですね(たぶん出るでしょう)。


 坂を上り切れば右に何やらお堂と鳥居が見えてきました。(午後1時17分)


 「峠八幡神社」の社号標。


 石段を上れば小さなお社。昔からここを通る人々をお守りしていたのでしょうね。


 お堂は「地蔵菩薩坐像」。鎌倉時代末期から室町時代初期に造像されたと伝わります。地蔵堂前には「松谷御堂是ヨリ六丁」の道標。


 細い道を進んで行きます。


 この先で古道は「亀の瀬」という地域に入ります。周辺は大きな斜面です。


 生駒山地が大和川に落ち込むこの辺りは、古くから山肌が川に落ちる「地滑り」を繰り返してきました。今では補強工事がされていますが、明治25年に開通した「大阪鉄道(現JR大和路線)」が昭和6年11月に起こった地滑りに見舞われ死者こそ出ませんでしたが、ここにあった「亀瀬隧道」が土砂に飲み込まれてしまいました。


 その後、平成20年の改修工事で当時の隧道(トンネル)が発見され、災害遺産としてレンガ造りのトンネルなどが公開されていましたが、今は後世に災害の恐ろしさを伝える遺産として国土交通省により「亀の瀬地すべり資料室」が設けられ、事前予約制により公開されています。詳しくはホームページで。(午後1時29分)


 ところが今日は事前予約の公開日であるため資料室が開いていました。私は予約していなかったので隧道は見学できませんでしたが、資料室は開放されていたので見学できました。「ラッキー」(一応トイレはありましたが公開日以外は閉鎖されていると思いますよ。)


 さらに進めば古道に入る手前に「亀石」の表示があり、フェンスが開放されていました。


 進んで行くと「亀の瀬」という名称の由来となった「亀石」という巨石が見えます。


 ただ、先ほどのフェンスが閉鎖されいても亀石は古道からも見えるので大丈夫ですよ。


 さあ古道を進みましょう。崖にへばりつくように何とか1軒ずつ家が並びます。


 JRのガードをくぐれば左に大和川の流れが。


 大和川とJRに挟まれた狭い小径を進みます。


 「辨天橋」という橋が見えてくれば、その手前の踏切でJRを渡り左に曲がります。JRを左に見ながら進んで行きましょう。 


 お地蔵さんとホームが見えてきました。


 駐輪場の先にはJR「河内堅上駅」。木造平屋建ての小さな駅舎です。(午後1時52分)


 ここは「昭和」で時代が止まっていますね。


 駅の先で道は分かれます。龍田古道は左の狭い坂道を下ります。


 古道は山の斜面を進みます。


 陸橋でJRを越えます。


 さらに府道でしょうか、道路を渡ります。


 道路を渡って少し進めば右に「青谷遺跡(竹原井離宮跡)」の看板と石碑が立ちます。柏原市文化財課の説明文によると、養老元(717)年「元正天皇」が和泉宮から平城京に帰る途中、ここで宿泊した事が「続日本記」に記されているそうです。(午後2時1分)


 そのまま進めば古道は「柏原市立青谷運動公園」に突き当たります。ナイター設備のある立派な野球場ですが、閉鎖されているのでしょうグランドは荒れ放題です。


 球場跡に沿って進めば「川端橋」という吊り橋が。(午後2時7分)


 結構揺れますよ。河内の豪農「中甚兵衛」が大和川の付け替え工事を行った後は、大和川右岸を通り真っ直ぐ「大坂」へとつながるのですが、大和川が北へ蛇行していた当時、ここにあった「夏目茶屋渡し」で古道は大和川を越えました。


 橋を渡ればかつての奈良街道である国道25号線に出るので右へ曲がります。当時の面影はありません。


 「ジェイテクト」という大きな工場を過ぎ「東条交差点」で右に曲がります。(午後2時12分)


 しばらく工場の敷地に沿って進みますが分岐があれば右へ。真っ直ぐ進めば左に「ブドウ畑」が見えてきます。


 建て替えが進んだ住宅街を抜けます。


 住宅街を抜ければ右に「国分神社」。(午後2時22分)


 古墳もあるようです。かつて大坂が海だったころから陸地であったこの地は、古くから開けていたのでしょうね。間もなくゴールです。


 複雑な四つ辻に出れば路側線に沿って進まず、左の坂道を上ります。


 すぐ左に石標がありました。風雨にさらされ文字は読めませんが、横の案内板によれば奈良街道の石標で「左 大坂 堺」「右ハ 當麻 長谷 吉野」「左ハ 龍田 信貴山 奈良」と彫られているそうです。


 車1台がやっとの狭い道ですが良い雰囲気ですね。


 街道らしい風景が続きます。




 「西町地蔵尊」前で国道25号線に突き当たりました。左折しましょう。


 この先は大阪平野。いく筋もあったと思われる大坂と奈良を結ぶ道が、この大都市の中に埋もれているのでしょうね。


 すぐ先の陸橋で国道25号線を越えれば本日のゴール近鉄「河内国分駅」です。午後2時45分到着。本日の歩紀「29726歩」(20.21km)。ここから「大阪難波駅」までは約30分(490円)。出発点であったJR高井田駅とは大和川を挟んで向かい岸になります。古道をぐるっと回りました。


 今回も「なんば駅」から大阪メトロ(&北大阪急行)で「千里中央駅」を経て、阪急バスで自宅まで帰ります。ということで本日の打ち上げは千里中央駅南改札口の真ん前にある居酒屋「明石八」です。


 「1000円税込!!ぽっきりセット(生ビール2杯+前菜、お刺身、コロッケ、唐揚げ)」と単品で「海鮮丼」(税込539円)を注文しました。料理や店内の雰囲気はネットで確認してくださいね。「乾杯~」本年もよろしくお願いします。
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「 放送大学 」キャンパスライフ8

2024-01-10 21:24:16 | 日記
 平成9年度第2学期は、
  放送授業  7科目 14単位
  面接授業  2科目  2単位
  合  計  9科目 16単位(累計 25単位)
を修得しました。また「英語Ⅰ」は高卒レベル(もしかして中卒レベル)の私でも何とか再試験に合格することができました。さらに面接授業でも「英語Ⅰ」を履修し合格。あわせて3単位の外国語科目を修得したことになります。

面接授業
 放送大学の面接授業は、1コマ2時間15分の講義を5回受け、最終日の試験やレポートなどの結果により合格すれば1単位が修得できます。私は一般の大学に通ったことがありませんので詳しくは知りませんが、聞くところによると「代弁・居眠り・私語」や今ではスマホ。ほかの授業の勉強いわゆる「内職」などが横行しているそうですね。「紙麻雀」をしている学生もいると聞きましたよ。ただ放送大学では、まずそのような学生はいないので面接授業を受講すればほぼ100%合格できました。これは教員に対する忖度の結果単位が認められるというのではなく、本当にみんな真剣に受講し、積極的に質問・討議するのです。ほぼ全員が社会人ですので、結構厳しい質問も飛び交いましたよ。「認定こども園」ができる前でしたが、文部省が学校教育法に基づいて設置する幼稚園の教諭と厚生省が児童福祉法に基づいて設置する保育所の保母さんとの間で繰り広げられるバトル。それを仲裁する市役所職員の男性。横で見ているだけで良い勉強になりました。

 授業形式は、土日にかけて5コマの講義を行う「土日型」と平日2~3日にわたって行う「集中型」。そして首都圏のみ隔週5回に分けて行う「隔週型」の3パターンがありました。職業を持つ者としては、土日型と夜間時間帯に行われる隔週型の科目を中心に夏季休暇等を利用して平日型を受講することになります。行楽日和の休日に家族を置いて受講する土日型や定時に職場を飛び出して夕食も食べられないまま夜の8時30分まで受講する隔週型は辛いものがありましたね。今ではいい思い出ですが。

 文部省の学習指導要領に沿って教師から一方的に教えられる授業しか知らなかった私にとって、いろんなことを「教えられた」というより、いろんなことを「考えさせらた」面接授業は本当に新鮮でした。これが大学っていうところなんですね。  つづく
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「 放送大学 」キャンパスライフ7

2024-01-03 21:44:25 | 日記
 「兎にも角にも」私の学生生活はこうして始まりました(注:社会的背景や放送大学の学習システム、各種呼称などは当時のものです)。

 東京での新しい職場は幸いにも残業や休日出勤がなく、時間どおりカレンダーどおりの生活が送れましたので勉強するには非常に良い環境でした。しかし、3年後大阪に戻ればまたサービス残業、ヤミ休日出勤のブラックな仕事が待っています。とりあえずこの3年間で取れるだけの単位は取っておこうと思いかなりハードな計画を立てました。

 放送大学では放送授業に合格すれば1科目2単位。面接授業に合格すれば1科目1単位が修得できます。最短の4年で卒業しようと思えば、単純に124単位を「4年×2学期」の8で割れば1学期で15~6単位の計算になります。それを「3年×2学期」の6で割れば1学期で20単位ほど。毎学期10科目ほどの登録申請をし2~3科目不合格。次学期のみ再試験が可能だったので再試験で挽回するものの、新たな数科目を落とすというような進捗状況です。

平成9年度第1学期
 最初の学期である平成9年度第1学期は、入学手続きと同時に科目登録申請をしなければなりません。まだ教育システムが良くわからなかったので、あまり多くの科目を登録することができませんでした。それでも
  放送授業  4科目  8単位
  面接授業  1科目  1単位
  合計    5科目  9単位
を修得しました。この学期での一番大きな痛手は「英語Ⅰ」を落としたことです。放送大学では第1外国語、第2外国語というような区分はありませんが、外国語科目は6単位修得する必要があります。いわゆる「社会科学」系の科目は、ある程度社会経験があればカバーできるのですが、語学だけは現役である学生を過ぎれば過ぎるほど「退化」します。仕方ありませんね。次学期頑張りましょう。

 はじめて放送大学の授業を受けて一番の驚きは、本当に東京ではどんなにポンコツテレビでもUHFの受信さえできれば普通に授業が見られる。ラジオ授業などは小さなトランジスタラジオ1つ。車であればカーラジオで授業が受信できるということです。地方では考えられないことです。東京って本当に便利なところなんですね。あらためて東京と地方の「格差」というものを身をもって感じました。

 私は量販店で買った安物のビデオ一体型テレビと大阪から持ってきたラジカセ(いずれも死語ですね~死語という言葉自体が死語ですが)で授業を予約録画(録音)し、仕事が終わり帰宅してから夜な夜な視聴しました。そうそう一度ディズニーランドに遊びに行った帰り、運転を妻に任せて車中で視聴したことがあったな。東京って本当にすごい所ですね。  つづく  
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