訪問日:令和7年3月25日(火)
出 発:阪急「大山崎駅」
到 着:阪急「東向日駅」
摂津国から山城国へ。つまり大阪と京都の府境を越えたところ。京の都に至るまでの間に「乙訓(おとくに)」という地名があります。大阪から近いのでその存在は知っていましたが、京都への通過点であるため、あまり意識したことはありませんでした。現在の行政区でいうと「大山崎町」「長岡京市」「向日市」の2市1町。記紀にも「堕国」「弟国」として登場する古い地名です。「松」「竹」「梅」を訪ねながら「乙訓」の地を歩こうと思います。古の地も現在は大阪・京都にまたがるベッドタウン。給水・トイレにはまったく困りません。今日は平日ですが私は「春休み」。ただ夏のような陽気です。春はどこへ行ってしまったのでしょう。
今日のスタートは阪急京都本線「大山崎駅」。大阪梅田駅から高槻市駅で乗り換えて約35分(330円)。すぐ近くに阪急電車と並行して走るJR「山崎駅」があり、大阪駅から同じくらいの時間で来られるのですが運賃は150円の差があります。阪急電車は本当に安いんですよ。そしてここへ来るまで4回乗り換えました。いずれも同一ホームでしたが乗り換え時間は1分~2分。電車って本当に1分の遅れもなく来るということを実感しました。大山崎駅のトイレはとてもきれいでしたよ。そして今日の「野里町歩紀」の姿です。
駅の改札口は一番前つまり京都寄りにあります。午前9時45分。今日も元気に出発です。ここは京都府乙訓郡大山崎町。
セブンイレブンがある改札口前の府道を左へ進めば数分で右に「離宮八幡宮」。とても立派な神社です。東門を過ぎて惣門から境内に入ります。
平成22(2010)年に創建1150年を迎えたという古社です。さっそく今日一日の安全を祈願しましょう。
拝殿前には「本邦製油発祥之地」碑。八幡社なので応神天皇をお祀りしますが、当地は荏胡麻油発祥の地ということで「油」の神様だそうです。日本にはいろんな神様がいらっしゃいますね。
参拝を終え惣門を出ると三叉路の角に鉄枠でガードされるように「右西國道」と刻まれた小さな石標。右に進みましょう。
少し歩けば左に「従是東山城國」の国境碑。以前、高槻まで西国街道を歩いた時はここから西に進みましたが今日は反対側(東)に進みます。
神社北側の路地を抜ければJR「山崎駅」。JRらしいちょっとレトロな木造駅舎です。以前、西国街道を歩いた時の出発駅ですが、大阪方面行ホームに大阪と京都の府境標識が立ちます。そして「山崎駅」と「ディリーヤマザキ」。絵になりますね。
小さな駅前広場のすぐ横には「妙喜庵」という臨済宗寺院。「待庵」と呼ばれる茶室は国宝ですが見学は予約制だそうです。
線路に沿って進み次の踏切で東海道本線を渡ります。踏切を渡った正面は「天王山」への登り口になっています。右に曲がります。
途中「山埼院跡」の石碑。奈良時代の高僧行基が教えを広めるため天平3(731)年建立したそうです。
そのまま進んで行けば右に「大山崎瓦窯跡公園」。「平安京」造成に際して瓦を焼いていたそうです。この手の遺跡は北摂地方に多いですね。(午前10時7分)
公園からの眺め。ここで「桂川」「宇治川」「木津川」が合流し「淀川」になります。正面の山は石清水八幡宮がある「男山」。この狭い川沿いを「東海道新幹線」「JR東海道本線」「阪急京都本線」「国道1号線」が走ります。今日は黄砂が酷いみたいですね。ただ花粉はスギからヒノキに変わったのでしょうか。私は辛くありませんでした。
公園前も天王山への登山口になっていました。天王山は標高270mほどの山でハイキングコースが整備されています。
公園を過ぎれば左に「観音寺二の鳥居」。ちょっと入ってみましょう。
階段を上ればすぐに「仁王門」が建ちます。
その奥には本堂。観音寺は昌泰2(899)年、宇多天皇の勅願により創建されたと伝わります。本尊は十一面観世音菩薩ですが「歓喜天」が祀られていることから「山崎聖天」として親しまれています。これまでたくさんの聖天さんにお参りしました。
二の鳥居まで戻り左へ。10分ほどで「名神高速道路」をくぐります。さらに進んで行けば民家の石垣に埋もれるように「右やなぎ谷」と刻まれた石標が。この四つ辻を右に曲がります。
ゆるい坂を下り阪急電車のガードをくぐって住宅街を抜ければ東海道線に突き当たります。そこにはこれまで何回か見たことがあるような風景が。入ってみましょう。(午前10時35分)
いわゆる「まんぽ(まんぶ)」です。「円明寺架道橋」といい東海道線の開通により分断された水路や人道を通すため明治8年に作られました。レンガが螺旋状に組まれていることから「ねじりまんぽ」と呼ばれています。高さは150cmないので私でもしゃがまなければ通れません。
反対側に出ました。こちら側はアーチ状にレンガが組まれていました。
まんぽをくぐり300mほど歩けば「小泉川」を渡りますが正面には名神高速道路と大山崎ジャンクションで交わる「京都縦貫自動車道」の高架橋が。その高架下は小泉川に沿って「天王山夢ほたる公園」という小さな広場になっています。橋で川を渡り左へ。公園に入ってみましょう。
公園の奥。高架下に「山崎合戦古戦場」碑がポツンと立ちます。(午前10時41分)
その奥には案内板。「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀と信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が天正10(1582)年7月、この付近で衝突。その戦いが「山崎合戦」。「天王山の戦い」とも呼ばれています。
陸橋で「大山崎中学校前交差点」を越え、地図を頼りに北東に進めば住宅街のはずれに「明智光秀本陣跡」碑。
横の案内板を見れば、ここは「境野1号墳」という被葬者等は不明ですが4世紀後半に造営された前方後円墳だそうです。そして山崎合戦の際、ここに明智光秀が本陣を構えました。大坂・天王寺の「茶臼山古墳」も徳川家康や真田信繁が陣を構えましたが、古墳は高さがあり周辺を堀や垣で囲まれていることが多いので本陣としては最適な場なのでしょうね。ただ本来はお墓ですよ。
本陣跡を東に進み突き当りを左へ。「恵解山口交差点」を渡り真っ直ぐ進めば右に大きな前方後円墳が現れます。「恵解山(いげのやま)古墳」です。全長128m、乙訓地域最大の前方後円墳で、5世紀前半この付近を支配した有力者の古墳と推定されています。(午前11時2分)
円墳部の頂上は分譲墓地になっており、それ以外が史跡公園として整備され付近の古墳とともに「乙訓古墳群」として国の史跡に指定されています。埴輪などが復元されています。
古墳を反時計方向にぐるりと回ります。
円墳部の先から長岡京市立第八小学校と長岡第三中学校の間を進みます。長岡京市に入っているようです。橋を渡って左に曲がり住宅街を抜けて行けば「真言宗勝龍寺」。
唐から帰朝した弘法大師空海により大同元(806)年に創建されたと伝わる古刹です。「ぼけ封じ」のお寺ということなのでお参りしておきましょう。
勝龍寺左側の路地を抜けて行くと突然「お城」が。「勝龍寺城」です。三方を堀で囲まれており「勝龍寺城跡公園」として整備されています。(午前11時18分)
勝龍寺城は暦応2(1339)年、足利尊氏の命により細川頼春が築城しました。
そして天正6(1578)年、城主細川藤孝の嫡男、細川忠興のもとに明智光秀の娘、玉(後の細川ガラシャ)が嫁入り、ここで新婚生活を送ったそうです。公園内にはふたりの像が立ちます。
公園の北東角には「隅櫓」。
公園はサクラの名所でもあります。見ごろにはちょっと早いようですね。
公園の北西角には「北門跡」。当時の石垣が残ります。
北門跡から龍勝寺城跡公園を後にし、堀に沿って東へ進みましょう。堀の角には先ほど内側から眺めた隅櫓。いい感じですね。
その先の三叉路を左折し、角にコンビニがある「東神足交差点」を左折。300mほどでJR東海道線のガードをくぐれば「神足商店街」のアーチ。「こうたり」と読むようです。藤原鎌足もそうですが「足」と書いて「たり」と読みます。訓読みの「足りる」という字ですが、韓国語では足のことを「タリ」と言うんですよね。(午前11時34分)
そしてこの道は「西国街道」。
これは「長岡京市立神足ふれあい町家」。江戸時代末期建築の旧家だそうです。
結構宅地化が進んでいますが、ところどころ旧家が残ります。
まだまだ街道は続きますが、右にフレンドマートという大きなスーパーが見えれば府道を左に曲がりましょう。
結構広い道ですが「万代」というスーパーを過ぎればキュッと道が狭くなります。その先で阪急の踏切を渡ります。突き当りには大きな鳥居。「長岡天満宮」です。(午前11時51分)
鳥居をくぐり「八条が池」という池の真ん中を進めば途中「旧太鼓橋」がありました。
キリシマツツジが有名ですが見ごろは4月下旬ころのようです。
境内のポスター。こんな感じなんですね。
八条が池を渡り左に曲がれば「二の鳥居」。
鳥居をくぐりながら石段を上って行けば社殿が現われました。長岡天満宮は菅原道真が大宰府に左遷された折、この地に立ち寄られたことが縁で創建されたそうです。由緒は不詳ですが「応仁の乱」で焼失、明応7(1498)年に再建されたとの記録が残ります。
参拝を終え社務所脇を抜けて行きます。そこには「梅林」。天満宮と言えば「梅」ですよね。
見ごろは3月中旬から下旬。
時期的にはちょっと遅かったようですが、木によっては満開でした。まず「梅」をゲットです。
来た道を戻ります。時間は。昼食にしましょう。
今日の昼食は境内にある「開田茶屋龍八」。神社によくある喫茶・軽食のお店です。
「Aセット(天ぷらうどんといなり寿司)」(税込1200円)を注文しました。
食事を終え午後0時25分、再スタート。境内を旧太鼓橋まで戻り八条が池に掛けられた「ふれあい回遊のみち」に進みます。
八条が池は寛永15(1638)年、八条宮智忠親王によって築造された灌漑用ため池で周囲約1km。サクラの名所で夜はライトアップされます。
長岡天満宮を後にし、市立図書館を右に見ながら北へ歩きます。
途中、左の路地に入れば「今里大塚古墳公園」。直径45mの円墳ですが前方後円墳の可能性もあるそうです。(午後0時41分)
古墳時代後期である7世紀前半の築造で、この地域を治めていた首長クラスの古墳と考えられています。
元の道に戻り北へ。「文化センター通り」という大通りを渡ります。
その後、京都銀行が角に立つ交差点を渡ってから右へ。ひとつ目の辻を左に入ります。突き当りには「真言宗乙訓寺」の山門。右に「弘法大師ゆかりの寺」碑が。山門をくぐりましょう。(午後0時54分)
乙訓寺は西暦600年ごろ推古天皇の勅願を受けた弘法大師により開かれたと伝わります。
ボタン寺としても有名で4月中旬から下旬にかけて2000株のボタンが見ごろを迎えます。
山門まで戻りお寺西側の道を北へ。府道209号線に出て西へ進みます。途中から府道10号線に変わりますが、この道は「光明寺道」と呼ばれます。
そして突き当りに「西山浄土宗総本山光明寺」の総門が立ちます。総門の前には「浄土門根元地」碑。光明寺は建久9(1198)年、法然上人の弟子熊谷蓮生によって建立されたと伝わります。(午後1時18分)
総門をくぐれば左には「もみじ参道」。ここは「紅葉寺」としても有名です。今は見ごろではないので右の表参道から境内に進みましょう。
この道は「表参道女人坂」。
境内には「法然上人像」と「鐘楼」。
その向かいには「法然上人袈裟掛之松」。法然上人がこの地の村役・高橋茂右衛門夫妻に念仏を説いた後、しばらくこの地に留まろうと思い立ち、袈裟を掛けた松の木だそうです。その松は寺の裏山に生えているそうですが、昭和57年ここに株分けされました。
その先には「皇太子殿下御手植之松」。昭和天皇が皇太子時代にお手植えされたそうです。2本の「松」をゲットです。
そして正面には本堂である「御影堂」。宝暦4(1754)年の再建です。本尊は「法然上人像」。奥には火葬された法然上人の分骨が葬られる「御本廟」があります。
御影堂の右には「円光大師御石棺」。法然上人の石棺で光明を発したという伝説があります。
その奥には御影堂と回廊でつながった「阿弥陀堂」。
御影堂前を通り過ぎ石段を下って行きます。
石段の下には「円光大師火葬跡」。法然上人の17回忌に当たる安貞2(1228)年、法然上人の亡骸はここで荼毘に付されたそうです。後ろ に見えるのは「勅使門」。
さらに進めば法然上人が念仏を説いた高橋茂右衛門の屋敷跡碑。
その先の「もみじ参道」に進みましょう。
「薬医門」の向こうにも「もみじ参道」が続きます。
参道を抜ければ総門に戻りました。約25分の見学でした。
午後1時50分、総門前の「光明寺前交差点」を左へ、この道は「丹波街道」です(写真は道路を渡って撮影しているので右へ進みます)。
バッティングセンターを過ぎればもう「竹」が見えてきましたね。
すぐ先を右に曲がり「竹林」を進みます。
竹林を抜ければ府道10号線と合流するので左へ。大きな交差点を渡れば急に道が狭くなりますが、そのまま畑の中の小道を進みます。「新大垣橋」で「善峰川」を渡れば右に曲がり川沿いに歩きましょう。善峰川の上流には以前訪れた「善峯寺」があり、そこには日本一と言われる「遊龍の松」があるのですが、今日はコースが違うので訪ねることはできません。
「小畑川」と合流すればその先の「東山交差点」を直進。向日市に入りました。動物病院がある角を左折します。
「大牧公園」を通り抜けたところで完全に道に迷いました。グーグルマップでやっと「伝高畠陵古墳」に到着しました。桓武天皇皇后陵に治定されている直径約65mの円墳です。(午後2時28分)
そしてこの前の道は「西ノ岡竹林通」。
さらに進めば「竹の径」に入ります。
途中左に「寺戸大塚古墳」。全長100m近い大きな前方後円墳で、この辺りを任された有力者の墓と考えられています。
ずっと続く「垣」は編み方によって名前が違うそうです。
京都の洛西から長岡京市にかけては竹で有名です。おそらくここの竹は日本一でしょうね。
真っ直ぐ進めば「京都市洛西竹林公園」。付近が市境なので公園自体は京都市のようです。きれいなトイレがあったので休憩しましょう。(午後2時43分)
公園前の三叉路を「阪急洛西口駅」方向に入ります。
竹の径は続きます。
黙々と歩く野里町歩紀の影です。なんだか「某共和国」の武装ゲリラのような影ですね。
この奥には広大な竹林が広がります。「竹」ゲット。「松」「竹」「梅」揃いました。
「松竹梅」は古代中国において寒い中でも育つそれぞれの植物の特徴から「歳寒三友」として画の題材などとして好まれたそうです。その後、日本に伝わってからは「縁起物」とされ、そこから宴席や料理などのランクとして利用されるようになりました。
配水所のタンクが見えれば右に入り、浄水場を過ぎて向日市立第二向陽小学校に突き当たれば左へ。
小学校の向かいの寺院墓地の中には「南条古墳」。古墳時代中期に造営された7基あった円墳のうちのひとつだそうです。間もなくゴールです。(午後2時57分)
そのまま墓地前を北に進み、突き当りをUターンする形で右に曲がれば「淳和天皇御火葬塚」。承和7(840)年、桓武天皇の子「淳和天皇」がここで火葬されました。
その先の四つ辻を左に入れば「南条公園」。小さな児童公園ですが、奥にある「妙玄池」という池も古墳の遺構のようですよ。
そのまま進み、次の四つ辻を左に入れば「物集女車塚古墳」。「もずめ」と読みます。付近には縄文時代から集落があったといわれ、全長46mの前方後円墳は継体天皇とゆかりの深い人物の墓と考えられています。
ぐるっと回れば前方後円墳の全容がよくわかります。
古墳前の府道を6~70m北に進めば「物集女交番」。別に変わった建物だったので撮ったわけではありません。実は物集女車塚古墳前で「ナナコカード」を落としたことに気づいたのです。スマホケースに入れていたので写真を撮る時に落としてしまったのでしょう。クレジット機能はないしチャージ残額も300円ほどだったので被害は少なかったのですが、ここで遺失届を出しました。それよりも遺失届を取ってくれた交番相談員さん。私が大山崎から歩いてきたと聞いて驚いていました。そうでしょうね。
20分ほど時間ロスをしてしまいましたが交番前の府道を南へ進み「寺戸事務所前交差点」を左に曲がれば本日のゴール阪急電車「東向日駅(西口)」。午後3時55分到着です。ここから「大阪梅田駅」まで約45分(390円)。付近にはいくつかJR駅がありますが、190円ほど安い阪急電車をゴールにしました。琵琶湖一周歩紀では随分とJRに貢献しましたからね。
本日の歩紀「29015歩」(19.73km)。今回「松」「竹」「梅」を訪ねましたが、それ以外にもたくさんの「花の名所」「もみじの名所」がありました。それぞれ見ごろは違いますが「花めぐり」も楽しいでしょうね。
今日のひとり打ち上げは阪急宝塚線「石橋阪大前駅」西口の「ショッピングストリートいしばし」にある「大阪王将阪急石橋店」です。京都王将と呼ばれる黄色い看板の「餃子の王将」にはよく行きますが、大阪王将は初めてですね。
まずは冷たい生中(税込550円)で乾杯です。
その後「王将定食(ギョーザ)」(税込1170円)で夕食です。昼に続いて炭水化物+炭水化物ですね。かなりエネルギーを消費したので体が欲するのです。