訪問日:平成26年11月24日(月・祝)
出 発:JR「森ノ宮駅」
到 着:地下鉄「天満橋駅」
大阪市発足前の明治12年から続く「東区」と「南区」が平成元年2月に合区。東京都にも同名の区がある。旧「東区」は、府庁、府警本部、NHKなどのほか各省庁の出先機関が集中する大阪の行政の中心地である。また、かつての都「難波宮跡」や「大坂城」など日本の歴史を語る上において避けることのできない史跡も多く残る。一方、旧「南区」は、大阪の娯楽と芸能を今に伝え、また、24時間眠らない町「ミナミ」を擁する一大歓楽街である。
町は、完全に「碁盤の目」状に構成されており、史跡のみならず町名、道路名、交差点名などにもかつての「大坂」が残る。また、大阪城の西方から御堂筋にかけて、近代日本を支えた各企業の社屋が並び、それらの多くはレトロビルとして歴史を語る証人ともなっている。
人口は約8万人であるが、昼間人口・通過人口は、50万人にも達するだろう。古から現代・未来に続く大阪を歩く。
なお、大阪城公園は、丹念に見学すれば、たっぷり1日はかかる。大阪城公園と大阪歴史博物館・難波宮跡は「大阪城公園を歩く~大阪歴史博物館・難波宮跡とともに~」を参照。
JR大阪環状線「森ノ宮駅」。ここは、大阪城公園の東に広がる森林公園(大阪砲兵工廠跡)側からの玄関口にあたる。外回り線ホームの北端からは、一段高台にそびえる天守閣の姿が望める。ただ、今日は大阪城は訪れない。
「中央区」は、見所が多いので少し早めの午前8時45分「森ノ宮駅」を出発する。ここは「旧東区」。
「森ノ宮駅」の西側を南北に走る「玉造筋」を挟んで、すぐ目の前に「鵲森宮」が鎮座する。
元は聖徳太子が物部守屋を破った記念に崇峻天皇2(589)年、創建したと伝わる。その後、推古天皇6(598)年、新羅より持ち帰った鵲(カササギ)2羽を当社の森で飼ったことから「鵲森宮(かささぎもりのみや)」通称「森之宮」と呼ばれるようになり、それが現在の地名の由来となった。
聖徳太子の両親である「用明天皇」と「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」を御祭神とする。今日一日の安全を祈願をする。
神社側を抜け「城南公園」を横切り西方向へと進む。
「城星学園」の角に出れば左折する。昭和34年創設のカトリックミッションスクール(幼・小・中・高)である。
次の四つ辻を左に折れると「玉造稲荷神社」が現れる。
社伝によれば垂仁天皇18(紀元前12)年に創建されたという。「玉造」という地名は、古代、勾玉を作っていた「玉造部」に由来すると言われる。
境内には「豊臣秀頼公像」「難波玉造資料館(事前申込制)」「豊臣秀頼公奉納鳥居」などが並ぶ。
この鳥居は、慶長8(1603)年3月、秀頼が奉納したもので、大坂夏の陣、第二次世界大戦の2度にわたる戦火に耐えたものの、平成7年の阪神大震災で基礎が損傷し、このような姿になってしまった。
かつて流行った「お伊勢参り」への起点を示す石碑などがある。
参拝を終え、鳥居前を右折。紅葉が美しい「玉造公園」の前を通る。
「大阪女学院」の周りをぐるっと回れば「大阪クリスチャンセンター(OCC)」。
右に曲がり「歴史の散歩道」を北上。
右には「大阪女学院」の門。明治17(1884)年、川口居留地に宣教師によって開かれた「ウィルミナ女学院」を前身とするミッション系の女学校で、中学から大学院までを置く。
さらに北に上ると「聖マリア大聖堂」。明治27(1894)年に創立されたそうだ。
あいにく工事中のようだ。カトリック玉造教会の大聖堂で「大阪大司教区」が所在し、「聖母マリア」像のほか、キリシタン大名「高山右近」像や明智光秀の三女「細川ガラシヤ」像などが並ぶ。
「聖マリア大聖堂」前を西に進む。警ら連絡所だけじゃなく交番も結構レトロだな。
すぐ右に「難波宮跡」が現れるが今日は訪れない。
そのまま進むと「上町交差点」の北西角に「大村益次郎殉難報国記念碑」。日本陸軍の祖、元兵部大輔「大村益次郎」は、明治2年、刺客に襲われ、当時ここにあった「浪華仮病院」で亡くなった。
「上町筋」の紅葉が美しい。
さらに西進すると左角に「銅座公園」。
江戸時代、鋳銅や銅取引をした「銅座」があった場所らしいが、今は児童公園になっている。
「銅座公園」から南へ進み「龍造寺町」を過ぎ「安堂寺町」に入る。これより「旧南区」を歩く。
「長堀通」を渡って右折する。「谷町6丁目交差点」南西角の石段から「昭和の町」に入る(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」参照)。
いきなり「昭和」な雰囲気。
「町家」も取り壊さず改築されている。
石畳の奥には「地蔵堂」。
「市立桃園幼稚園」横にも「観音坂」と呼ばれる石段が残る。
西に進めば左に「小玉湯」というお風呂屋さん跡。駐車場になっているようだ。
「小玉湯」の隣にも古い町家。
「町家」を利用した店も多い。
「いい雰囲気やね。」
高層ビルを背景に古い街並みが残る。
十数軒から数十軒単位で一つの組(会)を構成しているようだ。
中央を東西に走る「空堀商店街」。坂の上に続く全長380mほどのアーケード街だ。
その南側にも古い街並みが。
立派な「町家」だ。
「町家」を利用したカフェ。
商店街を東に進む。
路地に入ってみよう。
石畳が良い感じ。以前、「谷町6丁目」に比べて、北区の「中崎町」の方が「すごい!」的なコメントを書いたが、谷町6丁目もすごい。特に「路地裏」は、中崎町には見られない「すごっ」さがある。
坂道も多い。
この「昆布屋」の角を右(南)に曲がる。
小さな「門」になっている路地ごとに組を作っているようだ。
さらにその南には「中寺」という「寺町」。
40を越える寺が並ぶ。
静かな町に「線香の香り」が漂い、「読経の声」「木魚、庭を掃く箒の音」が聞こえる。
「曽根崎心中」の「お初」の墓はここにあるのか。
この角を右に曲がる。
坂を下ると右に「高津宮」の鳥居が現れる。
境内へと続く小径。
「梅之橋」という橋の跡を渡る。
すぐ左に「献梅碑」。わが国に「仏教」「漢字」などを伝えた「王仁博士」が梅の花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったという話を元に昭和3年に建立された。右にはかつて上町台地の伏流水が湧いていた「梅ノ井」の跡。
現在は「仁徳天皇」を主祭神とする「高津神社」であるが、かつて人家の竈から煙が上がっていないことから民の苦しみを知り租税を免除、自らも宮殿の屋根を葺き替えなかったという記紀の逸話から「聖帝」と呼ばれるようになった仁徳天皇の「高津宮(たかつのみや)」があったと言われる。
境内の絵馬殿には、その時に詠った「高き屋にのぼりてみれば煙たつ 民のかまどはにぎはいにけり」の額。
その様子を描かれた絵が奉納されている。
境内の西には、悪縁を絶つと伝わる「西坂(縁切り坂)」。かなりの高低差がある。これなら宮殿から民の生活を一望できただろう。
この先から南は「天王寺区」になるので西へ進む。「松屋町筋」を越える。大阪弁では「まっちゃまち」と発音する。
「阪神高速環状線」をくぐり2つ目の信号を左折。「千日前通」沿いには「国立文楽劇場」。重要無形文化財であり、日本の伝統芸能である人形浄瑠璃「文楽」の普及・発展のため昭和59年、開館した。
「千日前通」を渡る。そこは「黒門市場」。
鮮魚店を中心に180ほどの店舗がひしめく。
東京の「アメ横」同様、年末になれば新年を迎えるための食材を求め、多くの人が集まる大阪でも有名な市場だ。
かつて近くにあった寺院の山門が「黒門」であったことから「黒門市場」と呼ばれるようになったそうだ。
無料休憩所があり、市場で購入したものを食することができる。
もちろん店内で食べられるところもある。
市場を抜け「堺筋」を越えて南へ進む。
左前に「高島屋東別館」が見えれば「浪速区」に入るので、手前を右に曲がる(「浪速区」編参照)。
しばらく歩くと右に「千日前道具屋筋商店街」。
ここは、主に「食」に関する道具を扱う。
家庭用の食器のほか、業務用食器や厨房設備などを扱う。
暖簾や提灯などもある。
特に人気なのが「食品サンプル」。
商店街を抜けると「なんばグランド花月」。あの「吉本新喜劇」の総本山である。
「大阪名物」として吉本グッズが販売されている。
ここから大阪の顔「ミナミ」へと入る。
「千日前通商店街」。「法善寺」と「竹林寺」という2つの寺院で「千日念仏」を唱えていたことから両寺を「千日寺」と呼ぶようになり、そこから「千日前」と命名されたという。
江戸時代、茶屋や見世物小屋、遊郭などが並び歓楽街となった。その後、付近にあった「刑場」が阿倍野に移り、さらに町が広がったという。
アーケードを抜ければ「高島屋」。天保2(1831)年、京都に創業された、古着・木綿商「たかしまや」がルーツだそうだ。大阪でも老舗の百貨店である。
大阪店である「南海ビルディング」は、昭和7年に竣工。国の登録有形文化財に登録されている。南海電車の始発駅でもあり「スイス南海大阪」(ホテル)や「なんばシティ」(地下街)なども併設する。
アーケードに戻り北上すると「自由軒」。明治43年創業の洋食屋さん。ルーとご飯を混ぜたカレーの上に生卵を落とした「織田作之助が愛したという名物カレー」が有名。行列ができていた。
「千日通」に出て右折。真ん前にある「ビッグカメラ」。昔の「千日デパート」の跡地に建つ。刑場跡に建てられた「千日デパート」は、昭和47年、死者118名に上る火災で焼失したが、いろいろな「噂話」も広がったようだ。「千日通」を渡る。
そこからアーケードを北に進めば左に「法善寺横丁」。隣接する「中座」の爆発事故で焼失し、建築基準から再興が危ぶまれたが、特例により昔の姿を取り戻している。
「法善寺」の「水かけ不動さん」。
♪ 包丁一本 さらしに巻いて~ ♪
そしてアーケードを抜ければ「道頓堀」。大阪の代表的な観光地である。
「くいだおれ」の看板息子「くいだおれ太郎」。
「道頓堀」をさらに西へ。
「かに道楽」。この「動くカニ」は、三代目だそうだ。昭和40年代にテレビで流れたコマーシャルソング
♪ ピンとハサミを 打ちふりあげて
活きのいいのが気に入った とれとれ ぴちぴち カニ料理
味で夢よぶ 味で人よぶ かに道楽は 同じのれんの 味つづき ♪
阪神タイガースが優勝すれば多くのファンが飛び込む「戎橋」(別に肯定するわけではありません)からの眺め。ナンパの名所のため「ひっかけ橋」とも呼ばれる。
お馴染みの「グリコ」ネオン。
ここでは、良くインタビューが行われる。
かつて「道頓堀五座」と呼ばれたうちのひとつ「松竹座」。
その隣には「はり重」。元々は、「すき焼き・しゃぶしゃぶ」をメインとした高級日本料理店だが、今では「グリル」と「カレーショップ」も併設されている。
時間は、午後0時5分。「カレーショップ」で軽く昼食と思ったが行列ができていた。
「グリル」に入ることに。
「ランチA」を注文。まずはコーンポタージュスープ。
続いてメインディッシュとライス。
最後に、食後のコーヒー。しめて2052円(税込)。今日は奮発したなぁ。
店を出てすぐ目の前の「御堂筋」を右(北)へ。紅葉にはちょっと早いが銀杏並木が美しい。夏は緑豊かなグリーンロードになり、冬はライトアップされる。大阪を代表する「道」だ。
少し進めば右に「三津寺(みつでら)」。大阪弁では「みってら」と発音する。
天平16(744)年に創建されたそうだ。この辺りの「御津(みつ)」という地名に由来するらしい。現在は、真言宗御室派の寺院だ。
このフランス国旗は、「みってら」と「ミッテラン(元フランス大統領)」の駄洒落だろう。大阪とは、そういう所だ。
「御堂筋」を挟んで「三津寺」の向かいにある「韓国総領事館」の北側を抜け「西心斎橋」に入る。「ヘイトスピーチ集団」の通り道で、厳重な機動隊の警備。
かつての地名を残す「御津八幡宮」。「津」という地名からもわかるとおり、昔は海辺だったようだ。
天平年間、東大寺大仏殿建立に際し、宇佐八幡宮から神霊をお迎えした際に一時安置し、その跡に社を建てたのが起源らしい。
神社の北側は「アメリカ村」。「三角公園」を中心に若者向けにアメリカから直輸入した衣類などを売り始めたことから、そう呼ばれるようになった。
ここら辺りが「ミナミ」の北限だろうか。
一旦、東に戻り「御堂筋」に出る。筋の東側には「大丸」。享保2(1717)年、京都伏見で創業された古着商「大文字屋」が、その後、大坂や名古屋、江戸に出店を開店。
大正9年に創設された「大丸呉服店」が前身だという。「高島屋」同様、大阪では老舗の百貨店だ。
すぐ北には、文政13(1830)年、大坂上難波の古着商「大和屋」が、大正8(1919)年、百貨店として開業した「そごう大阪店」。しかし、平成21年、閉店。当時の建物は、「大丸北館」として使用されている。
「長堀通」を越えて北へ。「南船場」から「博労町(ばくろうまち)」に入れば「旧東区」にもどっている。
「博労町3丁目交差点」の角には「難波神社」。創建は反正天皇期までさかのぼると伝わる。松原市から天王寺区を経て、慶長2(1597)年、当地に遷座したという。仁徳天皇を主祭神とする。
境内には樹齢約400年、高さ11m、幹回り3.2mのご神木(くすのき)。
さらに北へ。銀杏が美しい。
「中央大通」の手前には、「真宗大谷派難波別院」。文禄4(1595)年、東本願寺十二代「教如」が「大谷本願寺」として創立したそうだ。通称「南御堂」と呼ばれる。
一角には「芭蕉句碑」。俳人松尾芭蕉は、旅の途中、体調を崩し、元禄7(1694)年、この付近で亡くなったという。
「南御堂」の裏手には、「坐摩神社」。「水回り」の5神を総称した「坐摩神」を御祭神とする。一般的には「ざま」と呼ばれるが、正式には「いかすり」と読むらしい。
元々、大阪城西側の「渡辺」という地にあったらしいが、大坂城築城に伴い当地へ遷座した。おもしろいのは、遷座したのは社殿だけでなく、地名も一緒に遷座したため、ここは特に「久太郎町4丁目渡辺」という地名になっている。そして元の場所に「渡辺」の地名はない。
「中央大通」を越えてさらに「御堂筋」を北へ。
「南御堂」に対して「北御堂」と呼ばれる「浄土真宗本願寺派津村別院」。
慶長2(1597)年、本願寺の在阪信徒の集会所跡に坊舎を建立したのが始まりと言われる。そして「北御堂」と「南御堂」を結ぶ道として「御堂筋」という道路名になった。
「北御堂」前の「備後町3丁目交差」で「御堂筋」を渡り東へ。3つ目の角に「綿業会館」。
昭和6年の建築で、国の重要文化財に指定されている。
ひとつ北の通りを左折し「御堂筋」に戻る。北に進むと右に赤い鳥居が見えてくる。「御霊神社」だ。
由緒は不詳であるが、天照大神の荒魂である「瀬織津比売神(せおりつひめのみこと)」をご祭神とする。
神社の前には「登録有形文化財」の看板が掛かった建物が。ここからしばらく近代大阪を支えたビルを訪ねるが「野里町歩紀~摂河泉をゆく~石の館『大大阪浪漫』」を参照。
まずは「大阪ガスビル」。昭和8年の竣工。
途中「淺沼組分室」の表札が掲げられた立派な町家。
西に進むと寛永元年創業の御菓子屋「岡福信」。
続いて「大阪倶楽部」。
大正13年の築で会員制社交クラブとして利用されている。
小さなカフェレストラン。ここは、元「中央消防署今橋出張所」。
当時の「赤灯」が今も残る。
すぐ北は「住友村」と呼ばれる一角。
大正15(昭和元)年に竣工の「三井住友銀行大阪本店」は工事中だった。
「北浜3丁目交差」で「御堂筋」を渡る。
東に進めば「緒方洪庵」の私塾で、近代日本を築いた多くの偉人たちを輩出した「適塾」。
隣の公園には「緒方洪庵」像。
大阪市民の手によって創られた「市立愛珠幼稚園」。立派な木造の幼稚園でだが、工事中で全容は望めなかった。
門の前には「銅座の跡」碑が建つ。
すぐ東を南北に走る「三休橋筋」には、レトロビルが並ぶ。昭和4年築の「旧大阪農工銀行」。繊維会社の大阪本社ビルを経て、今は外壁を残し高層マンションに建て替えられた。
明治45年に建てられた「旧大阪教育生命保険」。その後、証券会社が入ったりしたそうだが、今は、高級フランス料理店になっている。「七五三」の集まりがあったようだ。
南に隣接して「日本基督教団浪花教会」。昭和5年に建築された。
途中にも多くの「旧家」が残る。
途中で左折する。昨日、一昨日の2日間(22、23日)にわたって「神農祭」という祭りが行われていたようだ。「えべっさん」で始まる大阪の祭りは、11月の「神農祭」で締めくくられる。
右手には、昭和3年築の「武田道修町ビル」。
「堺筋」手前には「少彦名神社」。その名のとおり「少彦名命」を御祭神とするが、中国から渡ってきた薬の神様「神農さん」を祀る神社として、付近はもとより全国の製薬会社から信仰を集めている。
大阪でも有名な木造建築「旧小西儀助商店」の建つ「道修町(どしょうまち)1丁目交差」で「堺筋」を渡り、2つほど東へ入った路地を右(南)へ進む。
いくつか古い建物が残る。
「本町通」に出れば通りを渡って左折。東警察署の隣に「ゼー六」。大正2(1913)年創業。100年の歴史を有するお菓子屋さん。この日は休みだったが、お持ち帰りもできる「アイス最中」が有名。
すぐ東には「本町橋」。豊臣秀吉の大坂城築城の際「東横堀川」に架けられた古い橋。大正2年に現在の鋼橋に架け替えられたが、石造りの橋脚を持つ重厚な橋だ。ただ、上を阪神高速が走り窮屈そうだ。
「本町橋」の北東に「シティプラザ大阪」。かつて、大阪府との「半官半民」の「大阪コクサイホテル」があったところであるが、そのすぐ隣には「大阪商工会議所」。初代会頭の「五代友厚」らの像が並ぶ。
そして、享保9(1724)年、ここに「西町奉行所」があった。「大阪鎮台」を経て、明治に入り「大阪府庁」が置かれた「大阪府発祥の地」である(「西区」編参照)。
「東横堀川」に沿って北へ。途中、「大手橋」。この橋から真っ直ぐ東へ進めば、大坂城の「大手門」へと続くのだ。
「土佐堀川」と合流する手前に「高麗橋」が架かる。今では、阪神高速の出入口として有名な名前だが、豊臣秀吉の大坂城築城前から朝鮮の使節を迎えるために架けられたといわれる古い橋である。
明治3年、鉄橋に架け替えられ、昭和4年に現在の鉄筋コンクリート橋になった。
そして明治時代に入って「里程元標」が置かれ、西日本の主要道路の起点となった。今は、高麗橋のたもとに石碑が残る。現在の里程元標(道路元標)は、北区の「梅新交差」北西角に移された。
「高麗橋」から東に進み「松屋町筋」を渡って、ひとつ南の信号を左折し「釣鐘町」に入る。町名の由来となった「釣鐘屋敷跡」。
明治3年「釣鐘」は撤去されたが、昭和60年、この地に戻され、現在はコンピュータ制御で日に3回、鐘の音を響かせている。
さらに東へ進み「北大江公園」前に「大乃や」。昭和28年創業の老舗高級料亭である。ただ昼は、近所の商社員や公務員相手に手頃なランチも提供されている。
公園を横切って北へ。
長い石段が続く。かなりの高低差があるようだ。
「土佐堀通」に出れば右折。通り沿いの老舗昆布屋前には「八軒屋船着場」跡。坂本龍馬も利用した京・大坂を結ぶ船の船着場跡である。
川の改修により現在の船着場は少し北に移動。今では「川の駅はちけんや」として整備されている。
「八軒屋浜船着場」から「中之島」を形成する大川(旧淀川)の分岐点を眺める。右が「堂島川」左が「土佐堀川」。
今では観光船「アクアライナー」が発着する。
そして、すぐ東側には「天満橋」。
「天満橋筋」を渡ると正面には「大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMM)」がそびえる。昭和44年竣工の地上22階、地下4階のビル。レストランや各種テナントが入居し、高さ約80mの屋上は展望台になっており、午前10時から午後4時まで無料開放されている。
展望台から「大阪城公園」を望む。
こちらは「キタ」の高層ビル群。
OMMビル東側の「京阪東口交差」を右折し、「上町筋」に入れば、すぐ左に「府立男女共同参画青少年センター(通称ドーンセンター)」が立つ。その北側には、豊臣時代の「大坂城三の丸石垣」。「大坂冬の陣」の講和条件として徳川家康により埋められたものが、平成元年の「ドーンセンター」建設で地下約2mのところから発掘され、ここに移築復元された。
「大手前交差」で右折。そこには「合同庁舎1号館」が立ち、敷地内には「東町奉行址」碑があるはずなのだが、工事中のため覆い屋で囲まれていた。
ところが、丁度その部分だけ覆い屋がへこんでおり、碑が立っていた。先ほど訪れた「西町奉行所」同様、大坂に置かれた東西二つの奉行所で、1ヶ月ごとの月番制をとった。
「上町筋」を南へ。紅葉が美しい。
そして右手には「大阪府庁」。ここも工事中だ。今回、多くの建物が工事中だったが、ほとんどが「耐震化」工事。もうすぐ「大地震」が来るんだろうなぁ。
府庁周辺の塀には、鉄の柵が取り除かれた跡が見られる。これは、戦時中の「金属供出」の跡らしい。
これも「戦争遺産」か?
「府庁通用門」。今月10日に亡くなった「健さん」こと俳優:高倉健が出演した映画「ブラックレイン」では、府庁を大阪府警察本部に見立て、ここから大阪府警の機動隊が出撃するシーンが撮影された。
府庁西隣には「大阪府公館」。大正13年建築の「元知事公館」である。
今は使われていない「大阪府議会会館」の前を南に進む。
突き当たりの「合同庁舎3号館」の敷地内には「旧東税務署跡」碑。
そして、そのすぐ西側が本日のゴールである地下鉄「天満橋駅」の3番出入口だ。午後3時55分着。本日の歩紀「32168歩」(27.66km)。古代から近代そして未来への「歩紀」だった。かなり歩いたな。
出 発:JR「森ノ宮駅」
到 着:地下鉄「天満橋駅」
大阪市発足前の明治12年から続く「東区」と「南区」が平成元年2月に合区。東京都にも同名の区がある。旧「東区」は、府庁、府警本部、NHKなどのほか各省庁の出先機関が集中する大阪の行政の中心地である。また、かつての都「難波宮跡」や「大坂城」など日本の歴史を語る上において避けることのできない史跡も多く残る。一方、旧「南区」は、大阪の娯楽と芸能を今に伝え、また、24時間眠らない町「ミナミ」を擁する一大歓楽街である。
町は、完全に「碁盤の目」状に構成されており、史跡のみならず町名、道路名、交差点名などにもかつての「大坂」が残る。また、大阪城の西方から御堂筋にかけて、近代日本を支えた各企業の社屋が並び、それらの多くはレトロビルとして歴史を語る証人ともなっている。
人口は約8万人であるが、昼間人口・通過人口は、50万人にも達するだろう。古から現代・未来に続く大阪を歩く。
なお、大阪城公園は、丹念に見学すれば、たっぷり1日はかかる。大阪城公園と大阪歴史博物館・難波宮跡は「大阪城公園を歩く~大阪歴史博物館・難波宮跡とともに~」を参照。
JR大阪環状線「森ノ宮駅」。ここは、大阪城公園の東に広がる森林公園(大阪砲兵工廠跡)側からの玄関口にあたる。外回り線ホームの北端からは、一段高台にそびえる天守閣の姿が望める。ただ、今日は大阪城は訪れない。
「中央区」は、見所が多いので少し早めの午前8時45分「森ノ宮駅」を出発する。ここは「旧東区」。
「森ノ宮駅」の西側を南北に走る「玉造筋」を挟んで、すぐ目の前に「鵲森宮」が鎮座する。
元は聖徳太子が物部守屋を破った記念に崇峻天皇2(589)年、創建したと伝わる。その後、推古天皇6(598)年、新羅より持ち帰った鵲(カササギ)2羽を当社の森で飼ったことから「鵲森宮(かささぎもりのみや)」通称「森之宮」と呼ばれるようになり、それが現在の地名の由来となった。
聖徳太子の両親である「用明天皇」と「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」を御祭神とする。今日一日の安全を祈願をする。
神社側を抜け「城南公園」を横切り西方向へと進む。
「城星学園」の角に出れば左折する。昭和34年創設のカトリックミッションスクール(幼・小・中・高)である。
次の四つ辻を左に折れると「玉造稲荷神社」が現れる。
社伝によれば垂仁天皇18(紀元前12)年に創建されたという。「玉造」という地名は、古代、勾玉を作っていた「玉造部」に由来すると言われる。
境内には「豊臣秀頼公像」「難波玉造資料館(事前申込制)」「豊臣秀頼公奉納鳥居」などが並ぶ。
この鳥居は、慶長8(1603)年3月、秀頼が奉納したもので、大坂夏の陣、第二次世界大戦の2度にわたる戦火に耐えたものの、平成7年の阪神大震災で基礎が損傷し、このような姿になってしまった。
かつて流行った「お伊勢参り」への起点を示す石碑などがある。
参拝を終え、鳥居前を右折。紅葉が美しい「玉造公園」の前を通る。
「大阪女学院」の周りをぐるっと回れば「大阪クリスチャンセンター(OCC)」。
右に曲がり「歴史の散歩道」を北上。
右には「大阪女学院」の門。明治17(1884)年、川口居留地に宣教師によって開かれた「ウィルミナ女学院」を前身とするミッション系の女学校で、中学から大学院までを置く。
さらに北に上ると「聖マリア大聖堂」。明治27(1894)年に創立されたそうだ。
あいにく工事中のようだ。カトリック玉造教会の大聖堂で「大阪大司教区」が所在し、「聖母マリア」像のほか、キリシタン大名「高山右近」像や明智光秀の三女「細川ガラシヤ」像などが並ぶ。
「聖マリア大聖堂」前を西に進む。警ら連絡所だけじゃなく交番も結構レトロだな。
すぐ右に「難波宮跡」が現れるが今日は訪れない。
そのまま進むと「上町交差点」の北西角に「大村益次郎殉難報国記念碑」。日本陸軍の祖、元兵部大輔「大村益次郎」は、明治2年、刺客に襲われ、当時ここにあった「浪華仮病院」で亡くなった。
「上町筋」の紅葉が美しい。
さらに西進すると左角に「銅座公園」。
江戸時代、鋳銅や銅取引をした「銅座」があった場所らしいが、今は児童公園になっている。
「銅座公園」から南へ進み「龍造寺町」を過ぎ「安堂寺町」に入る。これより「旧南区」を歩く。
「長堀通」を渡って右折する。「谷町6丁目交差点」南西角の石段から「昭和の町」に入る(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「上町台地『歴史の散歩道』と真田幸村」参照)。
いきなり「昭和」な雰囲気。
「町家」も取り壊さず改築されている。
石畳の奥には「地蔵堂」。
「市立桃園幼稚園」横にも「観音坂」と呼ばれる石段が残る。
西に進めば左に「小玉湯」というお風呂屋さん跡。駐車場になっているようだ。
「小玉湯」の隣にも古い町家。
「町家」を利用した店も多い。
「いい雰囲気やね。」
高層ビルを背景に古い街並みが残る。
十数軒から数十軒単位で一つの組(会)を構成しているようだ。
中央を東西に走る「空堀商店街」。坂の上に続く全長380mほどのアーケード街だ。
その南側にも古い街並みが。
立派な「町家」だ。
「町家」を利用したカフェ。
商店街を東に進む。
路地に入ってみよう。
石畳が良い感じ。以前、「谷町6丁目」に比べて、北区の「中崎町」の方が「すごい!」的なコメントを書いたが、谷町6丁目もすごい。特に「路地裏」は、中崎町には見られない「すごっ」さがある。
坂道も多い。
この「昆布屋」の角を右(南)に曲がる。
小さな「門」になっている路地ごとに組を作っているようだ。
さらにその南には「中寺」という「寺町」。
40を越える寺が並ぶ。
静かな町に「線香の香り」が漂い、「読経の声」「木魚、庭を掃く箒の音」が聞こえる。
「曽根崎心中」の「お初」の墓はここにあるのか。
この角を右に曲がる。
坂を下ると右に「高津宮」の鳥居が現れる。
境内へと続く小径。
「梅之橋」という橋の跡を渡る。
すぐ左に「献梅碑」。わが国に「仏教」「漢字」などを伝えた「王仁博士」が梅の花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったという話を元に昭和3年に建立された。右にはかつて上町台地の伏流水が湧いていた「梅ノ井」の跡。
現在は「仁徳天皇」を主祭神とする「高津神社」であるが、かつて人家の竈から煙が上がっていないことから民の苦しみを知り租税を免除、自らも宮殿の屋根を葺き替えなかったという記紀の逸話から「聖帝」と呼ばれるようになった仁徳天皇の「高津宮(たかつのみや)」があったと言われる。
境内の絵馬殿には、その時に詠った「高き屋にのぼりてみれば煙たつ 民のかまどはにぎはいにけり」の額。
その様子を描かれた絵が奉納されている。
境内の西には、悪縁を絶つと伝わる「西坂(縁切り坂)」。かなりの高低差がある。これなら宮殿から民の生活を一望できただろう。
この先から南は「天王寺区」になるので西へ進む。「松屋町筋」を越える。大阪弁では「まっちゃまち」と発音する。
「阪神高速環状線」をくぐり2つ目の信号を左折。「千日前通」沿いには「国立文楽劇場」。重要無形文化財であり、日本の伝統芸能である人形浄瑠璃「文楽」の普及・発展のため昭和59年、開館した。
「千日前通」を渡る。そこは「黒門市場」。
鮮魚店を中心に180ほどの店舗がひしめく。
東京の「アメ横」同様、年末になれば新年を迎えるための食材を求め、多くの人が集まる大阪でも有名な市場だ。
かつて近くにあった寺院の山門が「黒門」であったことから「黒門市場」と呼ばれるようになったそうだ。
無料休憩所があり、市場で購入したものを食することができる。
もちろん店内で食べられるところもある。
市場を抜け「堺筋」を越えて南へ進む。
左前に「高島屋東別館」が見えれば「浪速区」に入るので、手前を右に曲がる(「浪速区」編参照)。
しばらく歩くと右に「千日前道具屋筋商店街」。
ここは、主に「食」に関する道具を扱う。
家庭用の食器のほか、業務用食器や厨房設備などを扱う。
暖簾や提灯などもある。
特に人気なのが「食品サンプル」。
商店街を抜けると「なんばグランド花月」。あの「吉本新喜劇」の総本山である。
「大阪名物」として吉本グッズが販売されている。
ここから大阪の顔「ミナミ」へと入る。
「千日前通商店街」。「法善寺」と「竹林寺」という2つの寺院で「千日念仏」を唱えていたことから両寺を「千日寺」と呼ぶようになり、そこから「千日前」と命名されたという。
江戸時代、茶屋や見世物小屋、遊郭などが並び歓楽街となった。その後、付近にあった「刑場」が阿倍野に移り、さらに町が広がったという。
アーケードを抜ければ「高島屋」。天保2(1831)年、京都に創業された、古着・木綿商「たかしまや」がルーツだそうだ。大阪でも老舗の百貨店である。
大阪店である「南海ビルディング」は、昭和7年に竣工。国の登録有形文化財に登録されている。南海電車の始発駅でもあり「スイス南海大阪」(ホテル)や「なんばシティ」(地下街)なども併設する。
アーケードに戻り北上すると「自由軒」。明治43年創業の洋食屋さん。ルーとご飯を混ぜたカレーの上に生卵を落とした「織田作之助が愛したという名物カレー」が有名。行列ができていた。
「千日通」に出て右折。真ん前にある「ビッグカメラ」。昔の「千日デパート」の跡地に建つ。刑場跡に建てられた「千日デパート」は、昭和47年、死者118名に上る火災で焼失したが、いろいろな「噂話」も広がったようだ。「千日通」を渡る。
そこからアーケードを北に進めば左に「法善寺横丁」。隣接する「中座」の爆発事故で焼失し、建築基準から再興が危ぶまれたが、特例により昔の姿を取り戻している。
「法善寺」の「水かけ不動さん」。
♪ 包丁一本 さらしに巻いて~ ♪
そしてアーケードを抜ければ「道頓堀」。大阪の代表的な観光地である。
「くいだおれ」の看板息子「くいだおれ太郎」。
「道頓堀」をさらに西へ。
「かに道楽」。この「動くカニ」は、三代目だそうだ。昭和40年代にテレビで流れたコマーシャルソング
♪ ピンとハサミを 打ちふりあげて
活きのいいのが気に入った とれとれ ぴちぴち カニ料理
味で夢よぶ 味で人よぶ かに道楽は 同じのれんの 味つづき ♪
阪神タイガースが優勝すれば多くのファンが飛び込む「戎橋」(別に肯定するわけではありません)からの眺め。ナンパの名所のため「ひっかけ橋」とも呼ばれる。
お馴染みの「グリコ」ネオン。
ここでは、良くインタビューが行われる。
かつて「道頓堀五座」と呼ばれたうちのひとつ「松竹座」。
その隣には「はり重」。元々は、「すき焼き・しゃぶしゃぶ」をメインとした高級日本料理店だが、今では「グリル」と「カレーショップ」も併設されている。
時間は、午後0時5分。「カレーショップ」で軽く昼食と思ったが行列ができていた。
「グリル」に入ることに。
「ランチA」を注文。まずはコーンポタージュスープ。
続いてメインディッシュとライス。
最後に、食後のコーヒー。しめて2052円(税込)。今日は奮発したなぁ。
店を出てすぐ目の前の「御堂筋」を右(北)へ。紅葉にはちょっと早いが銀杏並木が美しい。夏は緑豊かなグリーンロードになり、冬はライトアップされる。大阪を代表する「道」だ。
少し進めば右に「三津寺(みつでら)」。大阪弁では「みってら」と発音する。
天平16(744)年に創建されたそうだ。この辺りの「御津(みつ)」という地名に由来するらしい。現在は、真言宗御室派の寺院だ。
このフランス国旗は、「みってら」と「ミッテラン(元フランス大統領)」の駄洒落だろう。大阪とは、そういう所だ。
「御堂筋」を挟んで「三津寺」の向かいにある「韓国総領事館」の北側を抜け「西心斎橋」に入る。「ヘイトスピーチ集団」の通り道で、厳重な機動隊の警備。
かつての地名を残す「御津八幡宮」。「津」という地名からもわかるとおり、昔は海辺だったようだ。
天平年間、東大寺大仏殿建立に際し、宇佐八幡宮から神霊をお迎えした際に一時安置し、その跡に社を建てたのが起源らしい。
神社の北側は「アメリカ村」。「三角公園」を中心に若者向けにアメリカから直輸入した衣類などを売り始めたことから、そう呼ばれるようになった。
ここら辺りが「ミナミ」の北限だろうか。
一旦、東に戻り「御堂筋」に出る。筋の東側には「大丸」。享保2(1717)年、京都伏見で創業された古着商「大文字屋」が、その後、大坂や名古屋、江戸に出店を開店。
大正9年に創設された「大丸呉服店」が前身だという。「高島屋」同様、大阪では老舗の百貨店だ。
すぐ北には、文政13(1830)年、大坂上難波の古着商「大和屋」が、大正8(1919)年、百貨店として開業した「そごう大阪店」。しかし、平成21年、閉店。当時の建物は、「大丸北館」として使用されている。
「長堀通」を越えて北へ。「南船場」から「博労町(ばくろうまち)」に入れば「旧東区」にもどっている。
「博労町3丁目交差点」の角には「難波神社」。創建は反正天皇期までさかのぼると伝わる。松原市から天王寺区を経て、慶長2(1597)年、当地に遷座したという。仁徳天皇を主祭神とする。
境内には樹齢約400年、高さ11m、幹回り3.2mのご神木(くすのき)。
さらに北へ。銀杏が美しい。
「中央大通」の手前には、「真宗大谷派難波別院」。文禄4(1595)年、東本願寺十二代「教如」が「大谷本願寺」として創立したそうだ。通称「南御堂」と呼ばれる。
一角には「芭蕉句碑」。俳人松尾芭蕉は、旅の途中、体調を崩し、元禄7(1694)年、この付近で亡くなったという。
「南御堂」の裏手には、「坐摩神社」。「水回り」の5神を総称した「坐摩神」を御祭神とする。一般的には「ざま」と呼ばれるが、正式には「いかすり」と読むらしい。
元々、大阪城西側の「渡辺」という地にあったらしいが、大坂城築城に伴い当地へ遷座した。おもしろいのは、遷座したのは社殿だけでなく、地名も一緒に遷座したため、ここは特に「久太郎町4丁目渡辺」という地名になっている。そして元の場所に「渡辺」の地名はない。
「中央大通」を越えてさらに「御堂筋」を北へ。
「南御堂」に対して「北御堂」と呼ばれる「浄土真宗本願寺派津村別院」。
慶長2(1597)年、本願寺の在阪信徒の集会所跡に坊舎を建立したのが始まりと言われる。そして「北御堂」と「南御堂」を結ぶ道として「御堂筋」という道路名になった。
「北御堂」前の「備後町3丁目交差」で「御堂筋」を渡り東へ。3つ目の角に「綿業会館」。
昭和6年の建築で、国の重要文化財に指定されている。
ひとつ北の通りを左折し「御堂筋」に戻る。北に進むと右に赤い鳥居が見えてくる。「御霊神社」だ。
由緒は不詳であるが、天照大神の荒魂である「瀬織津比売神(せおりつひめのみこと)」をご祭神とする。
神社の前には「登録有形文化財」の看板が掛かった建物が。ここからしばらく近代大阪を支えたビルを訪ねるが「野里町歩紀~摂河泉をゆく~石の館『大大阪浪漫』」を参照。
まずは「大阪ガスビル」。昭和8年の竣工。
途中「淺沼組分室」の表札が掲げられた立派な町家。
西に進むと寛永元年創業の御菓子屋「岡福信」。
続いて「大阪倶楽部」。
大正13年の築で会員制社交クラブとして利用されている。
小さなカフェレストラン。ここは、元「中央消防署今橋出張所」。
当時の「赤灯」が今も残る。
すぐ北は「住友村」と呼ばれる一角。
大正15(昭和元)年に竣工の「三井住友銀行大阪本店」は工事中だった。
「北浜3丁目交差」で「御堂筋」を渡る。
東に進めば「緒方洪庵」の私塾で、近代日本を築いた多くの偉人たちを輩出した「適塾」。
隣の公園には「緒方洪庵」像。
大阪市民の手によって創られた「市立愛珠幼稚園」。立派な木造の幼稚園でだが、工事中で全容は望めなかった。
門の前には「銅座の跡」碑が建つ。
すぐ東を南北に走る「三休橋筋」には、レトロビルが並ぶ。昭和4年築の「旧大阪農工銀行」。繊維会社の大阪本社ビルを経て、今は外壁を残し高層マンションに建て替えられた。
明治45年に建てられた「旧大阪教育生命保険」。その後、証券会社が入ったりしたそうだが、今は、高級フランス料理店になっている。「七五三」の集まりがあったようだ。
南に隣接して「日本基督教団浪花教会」。昭和5年に建築された。
途中にも多くの「旧家」が残る。
途中で左折する。昨日、一昨日の2日間(22、23日)にわたって「神農祭」という祭りが行われていたようだ。「えべっさん」で始まる大阪の祭りは、11月の「神農祭」で締めくくられる。
右手には、昭和3年築の「武田道修町ビル」。
「堺筋」手前には「少彦名神社」。その名のとおり「少彦名命」を御祭神とするが、中国から渡ってきた薬の神様「神農さん」を祀る神社として、付近はもとより全国の製薬会社から信仰を集めている。
大阪でも有名な木造建築「旧小西儀助商店」の建つ「道修町(どしょうまち)1丁目交差」で「堺筋」を渡り、2つほど東へ入った路地を右(南)へ進む。
いくつか古い建物が残る。
「本町通」に出れば通りを渡って左折。東警察署の隣に「ゼー六」。大正2(1913)年創業。100年の歴史を有するお菓子屋さん。この日は休みだったが、お持ち帰りもできる「アイス最中」が有名。
すぐ東には「本町橋」。豊臣秀吉の大坂城築城の際「東横堀川」に架けられた古い橋。大正2年に現在の鋼橋に架け替えられたが、石造りの橋脚を持つ重厚な橋だ。ただ、上を阪神高速が走り窮屈そうだ。
「本町橋」の北東に「シティプラザ大阪」。かつて、大阪府との「半官半民」の「大阪コクサイホテル」があったところであるが、そのすぐ隣には「大阪商工会議所」。初代会頭の「五代友厚」らの像が並ぶ。
そして、享保9(1724)年、ここに「西町奉行所」があった。「大阪鎮台」を経て、明治に入り「大阪府庁」が置かれた「大阪府発祥の地」である(「西区」編参照)。
「東横堀川」に沿って北へ。途中、「大手橋」。この橋から真っ直ぐ東へ進めば、大坂城の「大手門」へと続くのだ。
「土佐堀川」と合流する手前に「高麗橋」が架かる。今では、阪神高速の出入口として有名な名前だが、豊臣秀吉の大坂城築城前から朝鮮の使節を迎えるために架けられたといわれる古い橋である。
明治3年、鉄橋に架け替えられ、昭和4年に現在の鉄筋コンクリート橋になった。
そして明治時代に入って「里程元標」が置かれ、西日本の主要道路の起点となった。今は、高麗橋のたもとに石碑が残る。現在の里程元標(道路元標)は、北区の「梅新交差」北西角に移された。
「高麗橋」から東に進み「松屋町筋」を渡って、ひとつ南の信号を左折し「釣鐘町」に入る。町名の由来となった「釣鐘屋敷跡」。
明治3年「釣鐘」は撤去されたが、昭和60年、この地に戻され、現在はコンピュータ制御で日に3回、鐘の音を響かせている。
さらに東へ進み「北大江公園」前に「大乃や」。昭和28年創業の老舗高級料亭である。ただ昼は、近所の商社員や公務員相手に手頃なランチも提供されている。
公園を横切って北へ。
長い石段が続く。かなりの高低差があるようだ。
「土佐堀通」に出れば右折。通り沿いの老舗昆布屋前には「八軒屋船着場」跡。坂本龍馬も利用した京・大坂を結ぶ船の船着場跡である。
川の改修により現在の船着場は少し北に移動。今では「川の駅はちけんや」として整備されている。
「八軒屋浜船着場」から「中之島」を形成する大川(旧淀川)の分岐点を眺める。右が「堂島川」左が「土佐堀川」。
今では観光船「アクアライナー」が発着する。
そして、すぐ東側には「天満橋」。
「天満橋筋」を渡ると正面には「大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMM)」がそびえる。昭和44年竣工の地上22階、地下4階のビル。レストランや各種テナントが入居し、高さ約80mの屋上は展望台になっており、午前10時から午後4時まで無料開放されている。
展望台から「大阪城公園」を望む。
こちらは「キタ」の高層ビル群。
OMMビル東側の「京阪東口交差」を右折し、「上町筋」に入れば、すぐ左に「府立男女共同参画青少年センター(通称ドーンセンター)」が立つ。その北側には、豊臣時代の「大坂城三の丸石垣」。「大坂冬の陣」の講和条件として徳川家康により埋められたものが、平成元年の「ドーンセンター」建設で地下約2mのところから発掘され、ここに移築復元された。
「大手前交差」で右折。そこには「合同庁舎1号館」が立ち、敷地内には「東町奉行址」碑があるはずなのだが、工事中のため覆い屋で囲まれていた。
ところが、丁度その部分だけ覆い屋がへこんでおり、碑が立っていた。先ほど訪れた「西町奉行所」同様、大坂に置かれた東西二つの奉行所で、1ヶ月ごとの月番制をとった。
「上町筋」を南へ。紅葉が美しい。
そして右手には「大阪府庁」。ここも工事中だ。今回、多くの建物が工事中だったが、ほとんどが「耐震化」工事。もうすぐ「大地震」が来るんだろうなぁ。
府庁周辺の塀には、鉄の柵が取り除かれた跡が見られる。これは、戦時中の「金属供出」の跡らしい。
これも「戦争遺産」か?
「府庁通用門」。今月10日に亡くなった「健さん」こと俳優:高倉健が出演した映画「ブラックレイン」では、府庁を大阪府警察本部に見立て、ここから大阪府警の機動隊が出撃するシーンが撮影された。
府庁西隣には「大阪府公館」。大正13年建築の「元知事公館」である。
今は使われていない「大阪府議会会館」の前を南に進む。
突き当たりの「合同庁舎3号館」の敷地内には「旧東税務署跡」碑。
そして、そのすぐ西側が本日のゴールである地下鉄「天満橋駅」の3番出入口だ。午後3時55分着。本日の歩紀「32168歩」(27.66km)。古代から近代そして未来への「歩紀」だった。かなり歩いたな。
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