「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

池田・細河から「妙見街道」を歩く

2013-01-27 13:09:21 | 日記
訪問日:平成25年2月9日(土)
出 発:能勢電車「絹延橋駅」
到 着:能勢電車「妙見口駅」


 大阪府池田市北部「細河地区」。五月山山麓から余野川両岸にかけて美しい田園、里山風景が残る。古い寺社も多く、天然温泉も湧いている。一度、一日かけてこの地区を歩こうと思っていたが「妙見街道」「摂丹街道」という街道がここを起点としており、この2つの古道を歩くことで「細河地区」を訪ねることにした。

 まずは、能勢街道から分かれ、池田から能勢妙見までを結ぶ「妙見街道」を植木畑が広がる余野川右岸を訪ね、途中、「伏尾ゴルフ倶楽部」から「東ときわ台」までは山の中を歩き、花折街道との合流点である妙見口駅を目指す。ほとんどが舗装道であるが、結構、起伏・高度差がある。自販機・トイレはあまりない。


 能勢電車「絹延橋駅」。大阪梅田からだと阪急宝塚線「川西能勢口駅」で乗り換え1つ目の無人駅。乗り換え時間を入れても約30分、410円で着くが、豊能町に住む私は、逆方向から通勤定期でやってきた。駅前には「ヤマザキショップ」が1軒あるが、まだ開いていない。午前9時、出発。
 

 普通、大阪・兵庫の府県境は猪名川の中央を走るが、何故かここは猪名川右岸まで大阪府が入り込み、駅を出て左に進んだところのこの交差点から大阪府池田市になる。猪名川を隔てて阪神高速池田線と五月山が見える。
 

 そしてすぐ前に見える橋が「絹延橋」だ。織姫伝説が伝わる池田。呉織(クレハトリ)と穴織(アヤハトリ)の二人の織姫が、織った絹布をこの辺りで水に晒したという。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「織姫伝説の町池田」参照)
 

 橋を渡ると目の前に見える道路が「旧能勢街道」である国道173号線。しかし、国道には出ず、橋を渡ってすぐに左折し、左に猪名川、右に阪神高速の巨大な橋脚を見ながら堤防上を歩く。
 

 遠くに見える空気膨張式のダムを過ぎ、堤防がアスファルトから土に変わるところで車止めがある。そこから右の住宅街への道に入る。
 

 しばらく進めば二叉に分かれ地蔵尊が立つ。能勢街道は、現在の国道173号線よりやや西にずれた猪名川堤防上を走っていたと言うことだろう。しかし、何百年も前の話である。川の流れも変われば道筋・家並みも変わるだろう。当時の街道を現代の道、ましてや国道に比定することは無理なことだ。人が歩いた足跡がすべて道と言うことだろう。
 

 地蔵尊を右に折れるとすぐに国道173号線の古江橋交差に出る。木部町交差で摂丹街道(国道423号線)と分かれたばかりの能勢街道だ。右に「酒の楽市」がある。左に曲がり猪名川(奥)と合流寸前の余野川(手前)を古江橋で渡る。
 

 古江橋を渡ると国道の反対側にマリンショップが見える。国道の中央分離帯には開口部があるので左右の車を注意して渡る。危険と思えば、古江橋交差まで戻り、信号を渡れば良い。マリンショップのすぐ横に右(北)に入る道が現れる。その角には二つの石標が並び、能勢方向に「左妙見」の古い石の道標が残る。
 

 そのすぐ横には池田方向に「南無妙法蓮華経」の文字の下に「右妙見山 左多田院」と彫られた背の高い道標も。安永3甲午(1774年)8月と刻まれている。ここが能勢街道と妙見街道の分岐点。ここを右(北)に曲がれば妙見街道だが、しばらく能勢街道(国道173号線)を直進する。
 
 
 途中「くら寿司」を過ぎ、10分くらい歩いた所に1つ目の信号がある。現在の国道173号線は、真っ直ぐ猪名川に沿って進み、兵庫県川西市へと入るが、この三叉路から右に入り、山へ向かう道が旧能勢街道のようだ。ちょうど角にコンビニがあったので昼食を調達し、旧道へ進む。この先、ゴールまで店はない。
 

 5~60m進むと右に大きな石灯籠と地蔵尊をはさんで2つの石標が立つ。右の石標には、日蓮宗独特のひげ文字で「南妙法蓮華経」と彫られている。
 

 左の石標は、はっきりと「能勢街道」と読める。
 

 山の向こうは能勢電車の「鼓滝駅」。そこから能勢電が国道173号線と並行して進むが、次の「多田駅」前に多田神社への「多田御社道」と刻まれた石の道標が立つ。おそらく、それが旧能勢街道なのだろうが、旧道はこの先の山中で途絶える。白壁の蔵を過ぎたところで右に折れ、村に入る。
 

 すぐに「曹洞宗無二寺」。ここには平安中期の女流歌人「和泉式部」の墓があると伝わる。
 

 貞和5(1349)年の銘がある高さ約2mの宝篋印塔で、全国で20ほどある和泉式部の墓の一つと伝えられ、大阪府指定文化財となっている。
 

 無二寺を出てさらに進むと4、5分ほどで先ほどの古江橋北側で能勢街道と分岐した妙見街道と合流する。左に曲がりこれより「妙見街道」を歩く。
 

 すぐに二叉に出るが、左に進めば妙見街道だ。
 

 ちょっと右へ曲がって寄り道をする。地図では「古江産業会館」と書かれた建物。木造の古い建物だ。
 

 その前には「北古江消防格納庫」。これも古い建物だ。
 

 元の二叉に戻り、結構、急な坂道を登り切るとすぐ下に「浄土真宗本願寺派如来寺」の屋根が見える。その向こうには細河の展望が開けている。
 

 そしてさらに二叉に。突き当たりの市営住宅前には法界石塔が。ここは、多田道との分岐点だそうだ。妙見街道は、右の道を進む。
 

 歩いていると植木畑や造園業の看板が多いのに気づく。
 

 江戸時代の中期、各藩大名の間で植木ブームとなり、そのころから植木畑が広がり始めたというから400年以上の歴史を有する。
 

 そのため池田市は「植木の町」とも言われている。
 

 二叉を右にさらに坂道を上って行くと大きな老人福祉施設前に出る。建物の間から駐車場へ。ここから「細河地区」が一望できる。ここで給水し、ウィンドブレーカーを脱ぐ。
 

 この施設を過ぎたところ辺りから妙見街道は、大阪・兵庫の府県境となる。
 

 道は突き当たるが、左に曲がれば迂回路になりさらに妙見街道が続く。
 

 ただ、この辺りには古い寺社が集まっているのでちょっと右折して寄り道してみよう。すぐに「浄土真宗本願寺派光妙寺」がある。このお寺は400年ほどの歴史があるらしいが、平成の時代に入り大阪市内から移転してきたということで建物は新しい。
 

 光妙寺の駐車場の前を北に進むと「禅曹洞宗慈恩寺」というお寺に出る。
  

 このお寺は1200年以上の歴史があるとのこと。ご本尊が毘沙門天であることから、地元では「毘沙門さん」と親しまれている。元々は、すぐ北にそびえる長尾山(299m)の山頂近くにあったのが、明治時代にこの場所へ移転したらしい。
 

 境内には、池田市と友好都市提携を結んでいる中国・蘇州市の寒山寺から平成18年に贈られた「梵鐘」のレプリカが立つ。
 

 その上に見えるお堂は、目に御利益があると言われる「眼力不動明王堂」。
 

 駐車場を通り抜け、慈恩寺の前の道を東(左)に曲がり、坂を下れば「曹洞宗陽松庵」。ここは禅道場であり、厳粛な雰囲気が漂う。
 

 伽藍は、修復されているものの享保6(1721)年の創建当時のままだと言われる。
 

 天桂禅師という高名な禅僧を祖として開かれたということから寺の前には、天桂禅師を顕彰する「天桂堂」というお堂が建てられている。
 

 お寺の前の静かな林間道を下って行く。
 

 この道は「陽松庵参道」と呼ばれる。
 

 すぐ左に目をやると赤い鳥居と小さな川に赤い橋がかかる。今回のコースで唯一の神社である「細川神社」。鳥居をくぐり「神橋」と呼ばれる橋を渡れば境内だ。
 

 延喜式神名帳に記載されているということから1000年以上の歴史を持つこの神社の御祭神は、水や通い舟にまつわる神様だという。猪名川、余野川を行き来する舟の神様だろうか。ただ、古江地区は、この二つの川が交わることから平成に入った近年まで幾度も水害に見舞われている。水難を除ける神様なのかも知れない。
  

 同じ道を光妙寺先の三叉路まで戻る。陽松庵と慈恩寺には参拝者用のトイレがあるが、ここから先、終点の妙見口駅までトイレはない。途中、ゴルフ場のクラブハウス前を通るが、私はよほどの緊急状態でない限り、公衆トイレや駅・公共施設、利用した店のトイレ以外は借用しないことにしている。それは自分自身で調整すれば避けられることであるし、エチケットだと思っているからである。
  

 三叉路から迂回してさらに妙見街道を進む。結構、上り坂だ。分かれ道に出ればゴルフ場への案内に従って進めばよい。
 

 途中にあったお地蔵さん。石標が石垣に組み込まれている。地元の子ども会がお世話しているようだ。
 

 坂を登り切ると左右に一対の石灯籠が迎えてくれる。道幅が広いので移動しているのかも知れないが、ほぼ完全な形で残っている。
 

 ほころび始めた梅の花越しに伏尾台の住宅街を望む。
 

 この道も府県境だ。左(西)は兵庫県川西市。
 

 右(東)は大阪府池田市(振り返って撮影している)。
 

 伏尾台の横を通り抜ける。
 

 住宅街を通り抜けると「伏尾ゴルフ倶楽部」の入口に着く。あらかじめ電話でゴルフ場内を通り抜けることができると言うことを確認していたので、そのまま中へ。すぐにハイカーへの注意書きと場内には妙見街道の案内標示がある旨の看板が立っていた。
 

 整備された場内の道路を進んでくと右に池が見えてくる。ゴルフ場の人工池のようだが、実はこの池は「長尾池」という古い池で、かつて付近には「接待所」があったという。
 
 
 案内のとおり妙見街道を示す矢印が掲げられていた。クラブハウスを過ぎて駐車場方向に左折する。
 

 駐車場を過ぎるとゴルフコースの右側に妙見街道が続く。一応、背丈以上の金網が張られているので、ゴルフボールの危険はないだろう。なお、この右側もゴルフコースで、妙見街道は、天橋立のように西1番ホールと西9番ホールの間に細長く伸びた松林の中を走っている。
 

 標示に従い、グリーン下のトンネルをくぐる。
 

 トンネルを出て左に。ゴルフコースを左に見ながら進む。
 

 途中からゴルフコースよりそれる。コンクリート舗装だが街道らしい雰囲気が出てきた。
 

 トンネルを出てから5分ほどで「妙見街道」への案内板が立つ。これからは地道になる。
 

 結構、起伏は激しい。
 

 左側にはゴルフ場の柵に沿って電線が張られているので触らないように注意して歩こう。途中、獣除けのネットが街道を塞いでいたが、ゴルフ場の「自由に開閉してお通り下さい。」との案内があったのでネットをくぐって進む。
 

 地道も5分ほどで終わり、前方にアスファルト舗装の道路が見えてくる。申し訳なさそうに金網の門扉だけが立っていた。
 

 ここからは豊能町の水道施設管理道路らしい。車も通れるように舗装され、そこそこ道幅もある。
 

 アスファルト舗装だが、この季節は路面が落ち葉に覆われており、良い雰囲気だ。
 

 遠くに妙見山が見えた。このコースで初めての妙見山だろう。かつての参拝者らもこの風景を眺めたのだろうが、妙見山まではまだまだ遠い。
 

 少し進むと右で何やら工事をしていた。かつてこの地域は、余野川にダムを造り、ダム湖の周りにニュータウンを造る計画が立てられていたが、バブルの崩壊と施工主である大阪府の財政破綻、そしてこの地域で「オオタカ」の営巣が確認されたことから計画は大幅に縮小された。その名残の工事だろうか。
 

 ちょうど工事現場あたりの街道沿いに崩れた石灯籠4基が並ぶ。当時の名残だろう。
 

 一つの石灯籠には「妙見山」の両側に「備前」「岡山」の文字が。岡山の講の人たちが寄進したのだろう。
 

 時間は、午前11時50分。多くの人たちを迎えてきた石灯籠の前で昼食にすることとした。ちょうど腰掛けるのに良い倒木があった。今日の昼食は、先ほどコンビニで調達したおにぎり2個とポークソーセージ。
 

 目の前には4基の石灯籠が横たわる。
 

 食事を終え、ふと右の地面を見ると野鹿のフンがたくさん転がっていた。この辺りから続く箕面森町への道路ののり面では、良く草を食む野鹿の群れが見られる。5~6頭の群れ(家族?)が少なくとも3グループはいる。そのうちの1グループのものだろうか。
 

 食事を終えさらに進む。きれいな舗装道で離合場所もあるが車は1台も通らない。そして「歩人」ともすれ違わなかった。大阪ですごい人口密度だと思った。
 

 遠くに明ケ田尾山(619m)が見える。
 

 何やら「台場クヌギ」の植栽をしているようだ。
 

 先ほど話したように付近では「オオタカ」の営巣が確認されている。保護を呼びかける看板が。
 

 大阪と兵庫の境を進む妙見街道の西側は兵庫県川西市だが、大阪府側は伏尾ゴルフ倶楽部を抜けた辺りで池田市から箕面市に。そして前方に住宅街が現れる辺りで豊能郡豊能町となる。
 

 やがて舗装道の妙見街道はフェンスに突き当たるが、左斜面の踏み跡を進めば、フェンスの向こう側に出られる。
 

 住宅街に入る直前に石の道標が立つ。
 

 道標の横には、この街道は、長尾山の峰つたいに続いていることから「長尾街道」とも呼ばれ、明治に入って花折街道が通るまで妙見詣りの主要道であったということが書かれた豊能町教育委員会の案内板が立つ。
 

 住宅街に出たところには小さな祠があり、お地蔵さんではなく「神様」が祀られていた。
 

 住宅街に出て左折し、道なりに進めば交差点が現れる。左に曲がれば国道477号線を渡って能勢電車「ときわ台駅」へ、右に曲がれば箕面森町のニュータウンに出る。
 

 信号を渡り、緩やかな坂道を上る。
 

 この道は阪急バスが走る。「東ときわ台9丁目停留所」を過ぎ、坂を登り切ると豊能町立東ときわ台小学校の校門前でバス道は大きく直角に左折する。バス道には進まず、写真の右端に見えるカーブミラーと白いガードレールとの間をすり抜ける。
 

 すぐに妙見街道が現れる。
 

 写真では山深く見えるが、左には東ときわ台の住宅街が広がる。
 

 街道は山道から舗装道に変わる。
 

 ここも舗装道路だが、路面は落ち葉で覆われている。
 

 小さな水道タンクを過ぎると目の前に「東ときわ台」の住宅街が広がる。街の向こうには「高代寺山(489m)」がそびえる。
 

 すぐに右に携帯電話基地局が見える。「吉川峠」だ。
 

 基地局の前の切り株。この木は元はどんな形だったのだろうか。
 

 峠に立つ案内標識。いま「東ときわ台小学校方面」からやって来た。基地局横の坂道を下れば、青貝山への分岐点を経て箕面森町・止々呂美方面へ。水道タンク横の山道は「天台山」「光明山」を経て「妙見山」に続くハイキングコースだ。真っ直ぐ「妙見口駅」方向に進む。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「紅葉の里山と能勢妙見」参照)
 

 左下に東ときわ台の住宅街が開け、右は深い谷になっている。ここが尾根道であることがよくわかる。正面は高代寺山。
 

 すぐに林間への下り坂と住宅街の外周道路への分かれ道に出る。おそらく下り坂が妙見街道だろう。しかし、この道は「紅葉の里山と能勢妙見」で歩いたので、今回は左折し、住宅街の外周道路である尾根伝いの道を歩く。
 

 東ときわ台と林の間を抜ける。
 

 道なりに進むと信号のある交差点に出る。国道477号線。この道は、明治38年、能勢街道の一の鳥居から妙見山を結ぶ「花折街道」として開かれた道だ。ここを右折する。付近には、コンビニやスーパーがあるので給水・トイレは可能だが、あと10分ほどでゴールだ。
 

 この建物は、かつて「峠のレストラン」だったようだが、その後「パン+タバコ屋」「タバコ自販機+公衆電話」を経て閉店した。右端にはレストランの「レ」の字だけが残る。そして信号の上に見えるのが妙見山。かつてこの辺りは、妙見山を拝みながら一服つける参拝客らで賑わう峠の茶屋だったのだろうか。ここからは「花折街道」を歩く。
 

 坂を下るとすぐ右側に貸し農園への入口が見えるが、ここには趣味が高じて自分専用の鉄道を敷いたという「桜谷軽便鉄道」が走る。ホームページも開かれている様なので、興味のある方はどうぞ。
 

 道が右にカーブするところでバイパスと旧道に分かれるので迷わず旧道に進む。山の陰になり旧道らしさを醸し出している。以前、この道は砂利道だったが、今は舗装されている。
 

 出るのか?
 

 左の林の中に「法界石塔」。台座には「開運講」と刻まれていた。
 

 栗園を過ぎて坂を下ると小さな盆地に出る。「吉川」の集落だ。
 

 左からの小径と合流し、右に進むと石灯籠が。
 

 右の鉄扉の中には岩の窪みを利用した祠が。いくつかの石塔が並んでいた。
 

 初谷川を渡り「浄土真宗本願寺派西方寺」の前で妙見街道と合流する。ここから妙見街道と花折街道が重複する。ゴールも近い。
 

 阪急のバスロータリー越しに妙見口駅のホームが見える。橋を渡って古い民家前を過ぎると妙見口駅だ。
 

 午後1時15分。今日の終点、能勢電車「妙見口駅」に到着。大阪府最北端の小さな木造駅。大阪梅田まで途中「川西能勢口駅」で乗り換えて約1時間、580円。梅田から1時間でこんな田舎まで来られる。ここから妙見山・高代寺山までは、拙作「野里町歩紀~摂河泉をゆく~「紅葉の里山と能勢妙見」及び「古城と古刹、そして猪鍋うどん「高代寺山」」をご参照ください。
  

 待合室は小さな写真ギャラリーになっている。トイレは駅の外にあるので用を済ませてから構内へ。ここから我が家まで歩いて20分。今日は午後3時から野暮用があるため早めにスタートしたのでゴールも早めだ。本日の歩紀「19214歩」(16.52km)。
 
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平成25年「三社(氏神様、枚岡神社、石切神社)詣り」

2013-01-05 02:15:53 | 日記
訪問日:平成25年1月2日(水)

 平成25年正月。私の実家は、東大阪市水走。恒例の「氏神様」「枚岡神社」「石切神社」の三社詣り。今年は、「歩紀」を意識して古い街並みやレトロな建物を訪ねながら歩くこととする。


 阪神高速が開通してからは、道路交通情報などでお馴染みになったが「水走」と書いて「みずはい」と読む。旧大和川の支流、吉田川の流れに沿って発達した集落だ。
 

 実家を午前9時に出発し、まず氏神様の「大津神社」に参拝する。鳥居横の石碑に書かれた由緒によると延喜式に載せられた古社であり、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の乳母「津速比賣(ツハヤヒメ)」をご祭神とする。「大津」の「津」とは「港」のこと。ここ河内平野は、太古の時代大阪湾が深く入り込んだ内海であり港として栄えた。神社の名前もそれに由来するのだろう。
 

 境内には古水走太鼓台の格納庫が。この地域は、秋祭りになると地区ごとに太鼓台が繰り出す。水走は「古水走」と「町水走」に分かれる。他の地区は布団太鼓の布団が5段だが、古水走の太鼓台は布団が7段(ちょっと薄いが)だったことが私たちが子供のころのちょっとした自慢だった。
 

 古水走の狭い旧道を抜ける。
 

 しばらく歩くと「東大阪市立英田北小学校」に突き当たる。ここは私の母校(当時は「英田小学校」)だ。「英田」と書いて「あかだ」と読む。木造校舎からプレハブの仮校舎、鉄筋の新築校舎と、高度成長時代とともに時が流れた。「二宮金次郎」像の周りは池だったと思う。英田小学校は、児童数の増加に伴い「北」「南」に分かれた。しかし、新しくできた小学校は「英田南」でいいが、英田小学校は、廃校になったわけではないのだから、英田小学校のままでよかったんじゃないだろうか。でないと校歌の歌詞が変わってしまうじゃないか。
 

 英田北小学校の突き当たりを左折し、松原地区に入る。この辺りは、大坂と奈良を最短で結ぶ「暗越奈良街道」が横切る。酒屋前の角には石の古い道標が。
 

 しばらく進むと小さな地蔵堂に出るが、そこにこの辺りが「松原宿」であったという看板が立つ。
 

 今は、宿場町としての面影はないが、それでも所々古い家が残る。手前の鉄塔は、消防団の火見櫓。
 

 集落を抜けると、国道308号線の「河内松原」交差を越える。信号を渡ると大きな公園に入る。ここは、高校ラグビー界の甲子園「花園ラグビー場」だ。
 

 私が小さい頃、ラグビー場のほかにゴルフ練習場と大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)の寮しかなかった。今は、野球場や陸上競技場、プラネタリウムなどが立つ「花園中央公園」として整備され、防災拠点にもなっている。
 

 花園中央公園を出て、生駒山方向(東)に歩く。私が卒業した小・中・高校の校歌の第一小節には、すべて「生駒」が出てくる。私たちにとって生駒山(642メートル)は、母なる山だった。
 

 東大阪市は、昭和42年「布施市」「河内市」「枚岡(ひらおか)市」の3市が合併してできた。私が小学校に入学した当初も「河内市立英田小学校」だった。「旧河内市」と「旧枚岡市」の市境である「恩智川」。大阪の大動脈「大阪外環状線(国道170号線)」を越えて、さらに山に向かって歩く。旧枚岡市役所だった東大阪市旭町庁舎が右に現れれば旧国道170号線(東高野街道)だ。鳥居町の集落に入る。集落名の由来となった枚岡神社一の鳥居がそびえる。
  

 鳥居をくぐった所に「鳥居・出雲井太鼓台収納庫」が立つ。
 

 鳥居をくぐれば緩やかな坂道になる。写真ではわかりづらいが近鉄奈良線の手前では結構きつい坂道になる(自転車は乗って上れない)。
 

 踏切を渡って線路沿いに左折すれば近鉄奈良線「枚岡駅」の前に出るが、その真ん前が「枚岡神社」。河内國一の宮、旧官幣大社。古社という言葉がぴったりの神々しい雰囲気のするお社だ。
 

 参道の玉砂利を上れば甘酒授与所。元旦は、御神酒が振る舞われる。
 

 枚岡神社は「元春日」とも呼ばれ、金網に囲まれてわかりにくいが手水舎も春日大神の使者である「鹿」だ。
 

 古札を納めた後、石段を登って参拝に向かう。
 

 ご祭神は、「天児屋根命」「比賣大神」「武甕槌命」「経津主神」の4柱であり、拝殿の奥には4棟の神殿が並ぶ。
 

 参拝を終え、お社を後にする。神社の前には良い雰囲気の消防団庫が。
 

 近鉄のガードをくぐって次の神社「石切神社」に向かうが、途中、地蔵堂や古い屋敷が並ぶ。
 

 

 

 いくつの屋根が重なっているのだろう。
 

 古い家並みを抜けると「枚岡中央公園」という小さな児童公園に出るが、その片隅に「大坂夏の陣徳川家康本陣跡」の碑が立つ。徳川家康が元和元(1615)年、大坂城を攻める直前、ここにあった「中村四郎右衛門宅」に本陣を置いたとか。
 

 道を挟んで山手に東大阪市の施設で「豊浦公民分館」がある。外装はきれいにしているが木造瓦葺き2階建ての建物に古い門柱、運動場のような空間に桜の木。元々は学校だったのだろうか。私が小さい頃、ここは「准看護婦学校」だったように思う。
 

 公民分館のさらに山手に「子安地蔵尊」の地蔵堂が立つ。
 

 地蔵堂の前にも立派な屋敷が。
 

 地蔵堂と土蔵の間にある建物も木造瓦葺きを基にした「偽洋館」だ。
 

 路地を抜けていくと、枚岡市が「町」であった頃の「枚岡町役場跡」。今は、信用金庫の支店になっている。以前は、右のカーポートのところに古い土蔵があったと思うのだが。
 

 古い酒屋もある。
 

 路地を抜けていくと古い街並みが続く。手前のタイル張りの建物は、営業しているのか店を閉めているのかわからないが「食堂」のようだ。
 

 ガラス窓の奥に丼物のサンプルが飾られている。
 

 この一角は完全に「昭和」だ。
 

 立派な屋敷も残る。
 

 路地を抜けていくと河内西国三十三カ所霊場第22番札所の「真言宗額田寺」。西国三十三カ所とは、平安時代末期から室町時代にかけ、現在の近畿2府4県(一部岐阜県)にまたがる観音霊場巡礼の旅。河内西国三十三カ所は、生駒信貴山系の西に点在する観音霊場巡りで、江戸時代から庶民の間で広まったという。
 
 
 同じく第23番札所の「浄土宗玄清寺」。
 

 ここから坂道を下って行くと左に消防署(団)。きれいに外装が整えてられているが、結構古い建物だろう。
 

 そのすぐ隣に「額田太鼓台格納庫」がそびえる。岸和田の地車庫にも負けない立派な建物だ。
 

 太鼓台格納庫の向かいには、大きな工場が。この辺りは、生駒山からの急流を利用した水車を動力として古くから伸線工業(針金製造)が盛んである。わりと大きな針金工場で、敷地内には入れないが趣のある洋風の社屋が建っている。
 

 狭い路地を抜けていく。小さなお社があったので参拝する。拝殿の横には一升瓶と紙コップが置かれていた。セルフサービスの御神酒だ。
 

 ここから自転車がやっとの路地を抜けると、突然目の前に大きな鳥居が現れる。これから訪ねる「石切神社」の一の鳥居だろうか。
 

 参道を進んでいくと石切神社の「絵馬殿」前に出る。今日最後の神社「石切神社」に着く。正式名は「石切劔箭神社」というが「石切さん」と親しまれている。「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」とその御子「可美真手命(ウマシマデノミコト)」をご祭神とする。「饒速日命」とは、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)」つまり、初代神武天皇が東征の際、一戦を交えた「長髄彦(ナガスネヒコ)」の主である。石切神社の周辺に、その戦場である「孔舎衛(くさか)」「盾津(たてつ)」の地名が残る。
 

 石切神社は、「でんぼの神様」として親しまれている。「でんぼ」とは大阪弁で「でき物・腫れ物」のこと。同社の祭神は、でんぼとは何の関係もないが、石をも切る鋭い剣なので腫れ物などすっぱりと切るということだろう。「腫れ物=腫瘍=癌」ということで「癌封じ」としての信仰も厚い。この日も拝殿から絵馬殿までお参りの行列が並んでおり、参拝を断念した。また、後日に来よう。
 

 しかし、ちゃっかり「御神酒」だけはいただいた。
 

 石切神社でもう一つ有名なのは参道の商店街である。神社前から近鉄奈良線石切駅前まで続く細長く、かつ狭い坂道の商店街だ。
 

 私が子供の頃の印象として、この商店街は、生駒山からの急流を利用した水車で漢方薬を製造し、病気平癒を祈願にきた参拝客相手の漢方薬店が並び、漢方薬の材料となるマムシや人体模型、何やらおどろおどろしい絵が並ぶ独特の雰囲気を持つ商店街だった。
 

 その合間に参拝客相手の食堂やお土産物屋さん、日用品店や衣料品店などが肩を寄せ合っていた。
 

 

 確かに当時から何件かの「手相見」や「命名」などの占いが見られたが、最近では、その「はっきりしない神秘性(Deep性)」からパワースポットとしての印象が強調され100件ほどの占い師が店を連ね「占いの街」となっている。
 

 「石切大仏」。この地でマムシの漢方薬で財を成した方が建立したものだが昭和50年代のことで私が子供のころにはなかった。
 

 「石切不動明王」なるお不動さんまでできている。いつの間にできたのだろう。
 

 つまり「占い」も「大仏」も「不動明王」も古の石切とは何の縁もない。そのためか商店街も特に「占い」「大仏」「不動明王」などはPRしていないように感じられる。「昔の石切が懐かしい」そんなことを考えながら歩いているうちに近鉄石切駅前に着いた。近鉄奈良線で来ればここがスタート地点になる。私はここから実家まで歩いて帰る。本日の歩紀「17910歩」(15.40km)。 
 

 


 
 
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