訪問日:平成25年11月30日(土)
出 発:南海・近鉄電車「河内長野駅」
到 着:近鉄電車「滝谷不動駅」
大阪府の東部を占める「旧河内國」。南河内にあたる「河内長野」「富田林」。「南河内」の山間部は、最近では「奥多摩」にならって「奥河内」とも呼ばれている。大坂から聖地・高野山に続く道であり、古い街並みや旧道、寺院、多くの文化財などが残る。また、深い山間には、豊かな自然が残り天然温泉も湧く。今回は「奥」までは行かないが、紅葉の中に佇む「南河内」の5つの真言寺院を訪ねる。
これらの寺院は、標高200m前後の丘陵地に点在し「登った分下る。下った分登る」と言ったような起伏に富んだコースである。結構、きつい坂や石段がある。適度に店や自販機があり、訪問先も観光地として整備されているので給水・トイレには困らない。
「高野山」に向かう南海電車高野線と「吉野」に向かう近鉄南大阪線の支線である近鉄長野線が交わる「河内長野駅」。それぞれ「南海難波駅」「近鉄阿部野橋駅」に直結することから、大阪のベッドタウンとして発達したこの町は、東高野街道と西高野街道が合流する宿場町としても栄えた。「南海難波駅」から約30分(540円)。午前9時30分、河内長野駅東口を出発する。
駅のすぐ前。何だか個人の敷地に入るようだが、この路地を入る。
すぐに「黄金橋」という小さな橋で石川を西から東に渡る。これまで何度も訪れた川だが、この辺りは川幅が狭い。
料理旅館の前の階段を上る。
落ち葉を踏みしめ踏みしめ。
ここには、推古天皇の時代に開湯されたという「長野温泉」が湧く。ナトリウム・マグネシウム塩化物泉の天然温泉は、今では「河内長野荘」として宿泊・宴会が楽しめる。
周辺は、大阪府営長野公園として整備されており、元々は、南海電車が運営した「長野遊園」であったが、今は「奥河内さくら公園」として、ソメイヨシノやしだれ桜、紫陽花などの「花咲く公園」となっている。
季節柄、紅葉が真っ盛りだ。
公園奥の展望台から河内長野市内の眺め。ここまで、結構きつい坂道と階段が続いた。
紅葉の公園を先ほどの「河内長野荘」前まで戻ろう。
お寺の前の坂道を下って行くと「河合寺キャンプ場」の前で国道310号線に交わる。
5分ほどで左に今日最初の真言寺院「真言宗御室派河合寺」の山門が現れる。ここは一般公開されておらず、山門は閉ざされていた。
寺周辺一帯が長野公園「河合寺地区」として整備されており、少し戻ってバス停の裏から山手に入る。
結構、急な階段が続く。
皇極天皇2(643)年、天皇の命により蘇我入鹿が創建したと伝わる。本尊は「千手観音菩薩」だが、奥の院も閉ざされており、フェンス越しに望む。
今は紅葉真っ盛りだが、春は桜、梅雨時は紫陽花が美しい「花の寺」だ。
国道に出て左折する。畑には「猪除け」があるのでイノシシが出るのだろう。
やや上り坂の国道310号を15分ほど歩く。結構、交通量が多いが歩車道の区別がないので注意して歩こう。
自転車では、ちょっときついかもしれないが、「歩紀」ならそう苦にならない程度の坂だ。
「くずの口バス停前」を右に曲がると丘の上に「清見台」というニュータウンが開けるが、ニュータウンを避けるため、ここは右折せず100mほど直進する。
この鋭角を右折し、山間に入る。
里山風景が続く。
「無人販売所」を見ながら進む。
秋の棚田が広がる。
15分ほど緩やか坂を下って行くと、川を渡ったところで府道214号に突き当たるので左へ。「長野公園~延命寺地区」の案内板が立つ。
石見川という清流に沿って歩く。
稲刈りを終えた田。丘の上は「美加の台」というニュータウンだが、この道沿いはのどかな田舎風景が残る。大阪のベッドタウンとして開発される以前は、このような風景が広がっていたのだろう。
「美加の台」へと続く上り坂の入口を通り過ぎる。
2~3分で分かれ道に出るが「延命寺」の案内に従って進む。
こちらは「有人」販売所。
緩やかな坂道を2~3分歩くと2つ目の寺院「真言宗御室派延命寺」の前に出る。
拝観料はいらない。境内はきれいに清掃され、案内ボランティアの方も居る。
本尊は「如意輪観音菩薩」。弘仁年間(810~824年)、「空海」が石に地蔵尊を刻んだのが寺の始まりと言われる。
こちらは「毘沙門天」。
「夕照もみじ」と呼ばれる樹齢1000年をこえる巨大なカエデは、大阪府の天然記念物に指定されている。しかし、この木自体は、枯れているのか紅葉はない。
しかし、その奥には素晴らしい紅葉の風景が広がっていた。
「蓮池」の水面にも紅葉が。
案内標識は整備されている。
分かれ道まで戻り、この店の向こうから山道に入る。
おそらくこの辺は、イノシシが出るだろうな。「熊除け鈴」を鳴らしながら歩く。
ここは、杉の植林なので紅葉はない。
アップダウンを2回ほど繰り返し、20分ほど歩くと右に大きな老人ホームが現れ集落に出る。左に曲がり赤い欄干の橋で石見川を渡る。
橋を渡れば、最初に歩いた国道310号線と合流する。国道を左折すれば、今日3番目の訪問先「高野山真言宗観心寺」。拝観料300円を払って境内へ。
観心寺は楠木氏の菩提寺として「楠木正成」ゆかりの寺でもある。山門脇には「楠木正成銅像」が建つ。
正成ゆかりの寺であるため「南朝」とも縁が深く、正平14(1359)年、当寺は「後村上天皇」の御在所となった。中院右手には「後村上天皇御旧跡」が残る。後村上天皇は、後醍醐天皇の皇子であり第97代、南朝第2代天皇として延元4(1339)年8月から正平23(1368)年3月まで在位した。
元は、大宝元(701)年、役小角によって開かれ、後に弘仁6(815)年、「空海」が本尊「如意輪観音菩薩」を刻み、観心寺と改めたと伝わる。
楠木家の学問所といわれる「中院」。
霊宝館に向かう道も紅葉が美しい。
中院から階段を上ったところに「金堂」。七間四方、単層入母屋造の金堂は、幾度かの改修を経ているが南北朝時代に建立されたものであり「国宝」に指定されている。その他、本尊の「如意輪観音菩薩」と「観心寺勘録縁起資材帳」と呼ばれる書物も「国宝」に指定されており、当寺だけで3つの国宝がある古刹だ。
「金堂」の向かって右側に建つ「建掛塔」。国の重要文化財に指定されている。その他、観心寺には国・府・市指定の多くの文化財が残る。
一見すれば普通のお堂のようであるが、伝承によれば楠木正成が「建武の新政」成就を祈願して三重塔を建立していたところ「湊川の戦い」で討ち死にし、建造が中断されたものだと言われている。そのため「建掛塔(たてかけとう)」と呼ばれる。
討ち死にした正成の首は、境内奥の「首塚」に祀られているという。
紅葉が美しい。
弘法大師様が、北斗七星を勧請したと言われる「星塚」。北斗七星を祀るのは、日本では観心寺だけだとか。
そして境内の奥に「後村上天皇檜尾陵」がある。
御陵は、この階段の上にある。結構、急で長い階段だ。
大阪府下には、宮内庁が管理する天皇陵が16ある。野里町歩紀~摂河泉をゆく~『王陵の谷「近つ飛鳥」と「河内源氏」ゆかりの地を歩く』『「古市古墳群」を歩く~7つの天皇陵~』『黄金の日々「堺」と巨大古墳群』。野里町歩紀~思いつくままに~『二つの継体天皇陵を訪ねる』。そして今回の「歩紀」で16すべての天皇陵を訪れたことになる。ちょっとした達成感がある。
時間は、ちょうど正午。門前には旧家を活用した茶店など2軒ほど食事ができる店がある。
しかし、今日は食事をする店を決めてきた。寺を出て右(西)へ、棚田風景を見ながら歩く。
7~8分で右に一般住宅のような建物が現れる。「ごはんカフェ三郎」。ネットで調べると元デザイナーのご夫婦が、おじいちゃんの実家で始めたのだとか。自然食にこだわった昼食メインのカフェだそうだ。
時間は午後0時15分。いつもながら時間ぴったりだ。「牛すじカレー(900円)」も捨てがたかったが、週替わりで日40食限定の「三郎ごはん(900円)」を注文。今週は、おろしハンバーグ・青菜の塩だれ炒め・ココットオムレツ・お味噌汁・お漬け物でご飯は玄米か白米を選べ、おかわり自由だ。
食事を終え、お店右(東)の路地から「寺元」の三叉路に向かい左折する。
バスも走る歩車道の区別のない「府道201号線」を上る。
15分ほどで坂の頂上に着くが、そこが富田林市との市境だ。市境を過ぎるとすぐ右に「小吹台」というニュータウンへ入口となっているが、真っ直ぐ坂を下る。
コンクリート工場などの間に古い民家が残る坂道を下って行く。
20分ほどで「甘南備口」という三叉路に出るが、そのまま201号線を真っ直ぐに進む。「甘南備(神奈備)」とは「神が依る場所」。何とも「神道チック」な地名だ。「金剛バス」は、これまで2度利用した。大阪では唯一の電鉄系ではないバス専用社線だ。
盆地に水田が開けた「甘南備」の集落を歩く。彼方には、この後訪れる「巌山」が見える。頂上の白い建物は「かんぽの宿富田林」。結構、高度差があるな。
15分ほどで「かんぽの宿」の案内板がある「蒲」という三叉路に出るので左折する。
坂道を5分ほど上ると「オレンジライン」への分岐点に出るので「かんぽの宿」の案内に従って右折する。若干、急坂だが舗装された広い道だ。「かんぽの宿」の送迎バスが通う。
ミカン畑入口の看板。やっぱり出はるんや。
南河内はミカンの産地。ちょうど収穫期に入ったミカン畑を見ながら坂道を上る。結構きつい坂だ。歩幅も狭まり歩速も落ちているだろう。
オレンジラインの分岐点から15分ほどで4つ目の寺院「高野山真言宗龍泉寺」に着く。
どちらかと言えば寂れた寺である。無人の入口で拝観料200円を箱の中に入れ境内へ進む。鎌倉期に建てられたという朱塗りの「仁王門」がそびえる。重要文化財に指定されている。
推古天皇2(594)年に蘇我馬子が勅命を受けて建立し、後に「空海」も訪れたという。天長5(828)年、淳和天皇により再建され、東西二塔を擁する大寺院となったが、南北朝時代に入り、当寺西側にそびえる嶽山の山頂に楠木正成が「嶽山城」を築いたことから戦乱に巻き込まれ、多くの伽藍を失った。真っ赤に燃える紅葉と本堂。
本堂の西側には、中央に池を配した「龍泉寺庭園」という庭園があり、文化財保護法による「名勝」に指定されている。
境内の一番奥に「咸古神社」。今日、唯一の神社。
中腹は花の公園になっており、今は紅葉だが、桜・紫陽花・ツツジ・菖蒲などが四季を彩どる。
境内から東方向、葛城山(左959.2m)と大阪府の最高峰金剛山(右1125m)を望む。なお、葛城山は、大阪府と奈良県の府県境のほか和歌山県との府県境にもあり、それぞれ「大和葛城山」「和泉葛城山(858m)」と区別される。
結構きつい坂だが、ヘアピンカーブを3回曲がり10分ほどで「かんぽの宿富田林」に着く。ここは、旧郵政省の「簡易保険センター」から続く宿泊保養施設であり天然温泉(単純泉)が湧く。日帰り湯もあるようだが、ネットで見ると料理とのセットがメインのようだ。
宿に向かって左側にテニスコートへの案内表示があるので進んで行こう。従業員住宅の横を抜け、宿のちょうど裏にテニスコートがあり、その前には「泉源」があった。
そして、テニスコートフェンスに架けられた「嶽山(だけやま)城址」の案内に従って進むと木立の中に案内板と石碑が立つ。嶽山城は、南北朝時代初期の元弘2(1332)年、楠木正成が築いた山城で、麓には、先ほど訪れた龍泉寺があることから「龍泉寺城」とも呼ばれた。
案内板後ろの木には「278m」の表示が。私が住んでいる「北摂」から探検隊が来たようだ。龍泉寺のパンフには嶽山は標高281.6mと記載されていた。地図では、すぐ西にある頂が標高278mの山頂となっている。小さな山頂が二つある「双子山」のようになっているのだろうか。
宿の前を過ぎ、元の道を戻る。最初のヘアピンカーブから農道に入る(ガードレールの左)。
軽四が行き違える程度の農道を登った分下って行く。
大きいミカン、小さいミカン。いくつかの品種があるようだ。
ミカンの木は背が低いので「鬱蒼」感はない。
20分ほどで「佐備」という集落に入る。
古い民家が続く。
秋には「だんじり」が出るようだ。
村から出て府道201号線に沿って歩く。右に見える畑の下には「佐備川」が流れるが、これが小学校の社会科で習った「河岸段丘」という地形だろうか。
左に立派な石垣と笠の部分が欠けた宝篋印塔、地蔵尊が見えてくる。
すぐに信号のある「中佐備交差」が現れるので、左折、府道202号線を狭山方面に進む。
歩道がないので気をつけて歩こう。
以前、竹内街道を歩いたときに、よく目にした「水きり庇」のある蔵。
左に大きな駐車場が現れる。
駐車場の下に「一願不動堂」。水かけ不動さんに健康を祈願した。
その奥には「行場」。滝が落ちるのだろう。
そして、駐車場の真ん前に今日最後の寺院「真言宗智山派瀧谷不動明王寺」の山門。本尊は「不動明王」で像内には、寛治8(1094)年の墨書があり、国の重要文化財に指定されている。
寺伝によると弘仁12(821)年、「空海」が一刀三礼で刻んだという3つの仏像を祀るため造営されたという。眼病平癒のご利益があり、また「眼(目)」が転じて「芽」。「芽が出るお不動さん」として信仰を集めている。
伽藍の裏山には「多宝塔」が立つ。これで5つの真言寺院をお参りした。「真言宗」は、「空海」(弘法大師)によって弘仁7(816)年、「高野山金剛峯寺」を道場として開宗された古い仏教だ。18の本山に分かれているそうだが、わが家の宗派は「高野山真言宗」。ただ、分かれているとはいっても対立しているわけではないので、宗派にかかわらず素直に参拝することができる。
参拝を終え、寺の前の道を右へ。ホテルや旅館の並ぶ前を緩やかな坂を下って行く。だいぶ陽が陰ってきた。
ここには「丁石」があるんだ。
10分ほどで赤い欄干の「高橋」で、今日朝一番に渡った「石川」を東から西に渡る。川幅もかなり広くなっている。
橋西詰の信号を渡ると、すぐ前に踏切が見える。踏切を渡ればすぐ右に駅が見えるが、あえて直進し、次の古いタバコ屋さんの角を右折する。
何やら良い感じの街並み。
そうか。この道は「東高野街道」。大坂と聖地・高野山を結ぶ道だ。
この旧家の前を右折する。
すぐ正面に先ほど見えた駅が。午後3時45分、今日のゴール近鉄電車「滝谷不動駅」に到着。本日の歩紀「30553歩」(26.27km)。「大阪阿部野駅」まで約35分(480円)。
出 発:南海・近鉄電車「河内長野駅」
到 着:近鉄電車「滝谷不動駅」
大阪府の東部を占める「旧河内國」。南河内にあたる「河内長野」「富田林」。「南河内」の山間部は、最近では「奥多摩」にならって「奥河内」とも呼ばれている。大坂から聖地・高野山に続く道であり、古い街並みや旧道、寺院、多くの文化財などが残る。また、深い山間には、豊かな自然が残り天然温泉も湧く。今回は「奥」までは行かないが、紅葉の中に佇む「南河内」の5つの真言寺院を訪ねる。
これらの寺院は、標高200m前後の丘陵地に点在し「登った分下る。下った分登る」と言ったような起伏に富んだコースである。結構、きつい坂や石段がある。適度に店や自販機があり、訪問先も観光地として整備されているので給水・トイレには困らない。
「高野山」に向かう南海電車高野線と「吉野」に向かう近鉄南大阪線の支線である近鉄長野線が交わる「河内長野駅」。それぞれ「南海難波駅」「近鉄阿部野橋駅」に直結することから、大阪のベッドタウンとして発達したこの町は、東高野街道と西高野街道が合流する宿場町としても栄えた。「南海難波駅」から約30分(540円)。午前9時30分、河内長野駅東口を出発する。
駅のすぐ前。何だか個人の敷地に入るようだが、この路地を入る。
すぐに「黄金橋」という小さな橋で石川を西から東に渡る。これまで何度も訪れた川だが、この辺りは川幅が狭い。
料理旅館の前の階段を上る。
落ち葉を踏みしめ踏みしめ。
ここには、推古天皇の時代に開湯されたという「長野温泉」が湧く。ナトリウム・マグネシウム塩化物泉の天然温泉は、今では「河内長野荘」として宿泊・宴会が楽しめる。
周辺は、大阪府営長野公園として整備されており、元々は、南海電車が運営した「長野遊園」であったが、今は「奥河内さくら公園」として、ソメイヨシノやしだれ桜、紫陽花などの「花咲く公園」となっている。
季節柄、紅葉が真っ盛りだ。
公園奥の展望台から河内長野市内の眺め。ここまで、結構きつい坂道と階段が続いた。
紅葉の公園を先ほどの「河内長野荘」前まで戻ろう。
お寺の前の坂道を下って行くと「河合寺キャンプ場」の前で国道310号線に交わる。
5分ほどで左に今日最初の真言寺院「真言宗御室派河合寺」の山門が現れる。ここは一般公開されておらず、山門は閉ざされていた。
寺周辺一帯が長野公園「河合寺地区」として整備されており、少し戻ってバス停の裏から山手に入る。
結構、急な階段が続く。
皇極天皇2(643)年、天皇の命により蘇我入鹿が創建したと伝わる。本尊は「千手観音菩薩」だが、奥の院も閉ざされており、フェンス越しに望む。
今は紅葉真っ盛りだが、春は桜、梅雨時は紫陽花が美しい「花の寺」だ。
国道に出て左折する。畑には「猪除け」があるのでイノシシが出るのだろう。
やや上り坂の国道310号を15分ほど歩く。結構、交通量が多いが歩車道の区別がないので注意して歩こう。
自転車では、ちょっときついかもしれないが、「歩紀」ならそう苦にならない程度の坂だ。
「くずの口バス停前」を右に曲がると丘の上に「清見台」というニュータウンが開けるが、ニュータウンを避けるため、ここは右折せず100mほど直進する。
この鋭角を右折し、山間に入る。
里山風景が続く。
「無人販売所」を見ながら進む。
秋の棚田が広がる。
15分ほど緩やか坂を下って行くと、川を渡ったところで府道214号に突き当たるので左へ。「長野公園~延命寺地区」の案内板が立つ。
石見川という清流に沿って歩く。
稲刈りを終えた田。丘の上は「美加の台」というニュータウンだが、この道沿いはのどかな田舎風景が残る。大阪のベッドタウンとして開発される以前は、このような風景が広がっていたのだろう。
「美加の台」へと続く上り坂の入口を通り過ぎる。
2~3分で分かれ道に出るが「延命寺」の案内に従って進む。
こちらは「有人」販売所。
緩やかな坂道を2~3分歩くと2つ目の寺院「真言宗御室派延命寺」の前に出る。
拝観料はいらない。境内はきれいに清掃され、案内ボランティアの方も居る。
本尊は「如意輪観音菩薩」。弘仁年間(810~824年)、「空海」が石に地蔵尊を刻んだのが寺の始まりと言われる。
こちらは「毘沙門天」。
「夕照もみじ」と呼ばれる樹齢1000年をこえる巨大なカエデは、大阪府の天然記念物に指定されている。しかし、この木自体は、枯れているのか紅葉はない。
しかし、その奥には素晴らしい紅葉の風景が広がっていた。
「蓮池」の水面にも紅葉が。
案内標識は整備されている。
分かれ道まで戻り、この店の向こうから山道に入る。
おそらくこの辺は、イノシシが出るだろうな。「熊除け鈴」を鳴らしながら歩く。
ここは、杉の植林なので紅葉はない。
アップダウンを2回ほど繰り返し、20分ほど歩くと右に大きな老人ホームが現れ集落に出る。左に曲がり赤い欄干の橋で石見川を渡る。
橋を渡れば、最初に歩いた国道310号線と合流する。国道を左折すれば、今日3番目の訪問先「高野山真言宗観心寺」。拝観料300円を払って境内へ。
観心寺は楠木氏の菩提寺として「楠木正成」ゆかりの寺でもある。山門脇には「楠木正成銅像」が建つ。
正成ゆかりの寺であるため「南朝」とも縁が深く、正平14(1359)年、当寺は「後村上天皇」の御在所となった。中院右手には「後村上天皇御旧跡」が残る。後村上天皇は、後醍醐天皇の皇子であり第97代、南朝第2代天皇として延元4(1339)年8月から正平23(1368)年3月まで在位した。
元は、大宝元(701)年、役小角によって開かれ、後に弘仁6(815)年、「空海」が本尊「如意輪観音菩薩」を刻み、観心寺と改めたと伝わる。
楠木家の学問所といわれる「中院」。
霊宝館に向かう道も紅葉が美しい。
中院から階段を上ったところに「金堂」。七間四方、単層入母屋造の金堂は、幾度かの改修を経ているが南北朝時代に建立されたものであり「国宝」に指定されている。その他、本尊の「如意輪観音菩薩」と「観心寺勘録縁起資材帳」と呼ばれる書物も「国宝」に指定されており、当寺だけで3つの国宝がある古刹だ。
「金堂」の向かって右側に建つ「建掛塔」。国の重要文化財に指定されている。その他、観心寺には国・府・市指定の多くの文化財が残る。
一見すれば普通のお堂のようであるが、伝承によれば楠木正成が「建武の新政」成就を祈願して三重塔を建立していたところ「湊川の戦い」で討ち死にし、建造が中断されたものだと言われている。そのため「建掛塔(たてかけとう)」と呼ばれる。
討ち死にした正成の首は、境内奥の「首塚」に祀られているという。
紅葉が美しい。
弘法大師様が、北斗七星を勧請したと言われる「星塚」。北斗七星を祀るのは、日本では観心寺だけだとか。
そして境内の奥に「後村上天皇檜尾陵」がある。
御陵は、この階段の上にある。結構、急で長い階段だ。
大阪府下には、宮内庁が管理する天皇陵が16ある。野里町歩紀~摂河泉をゆく~『王陵の谷「近つ飛鳥」と「河内源氏」ゆかりの地を歩く』『「古市古墳群」を歩く~7つの天皇陵~』『黄金の日々「堺」と巨大古墳群』。野里町歩紀~思いつくままに~『二つの継体天皇陵を訪ねる』。そして今回の「歩紀」で16すべての天皇陵を訪れたことになる。ちょっとした達成感がある。
時間は、ちょうど正午。門前には旧家を活用した茶店など2軒ほど食事ができる店がある。
しかし、今日は食事をする店を決めてきた。寺を出て右(西)へ、棚田風景を見ながら歩く。
7~8分で右に一般住宅のような建物が現れる。「ごはんカフェ三郎」。ネットで調べると元デザイナーのご夫婦が、おじいちゃんの実家で始めたのだとか。自然食にこだわった昼食メインのカフェだそうだ。
時間は午後0時15分。いつもながら時間ぴったりだ。「牛すじカレー(900円)」も捨てがたかったが、週替わりで日40食限定の「三郎ごはん(900円)」を注文。今週は、おろしハンバーグ・青菜の塩だれ炒め・ココットオムレツ・お味噌汁・お漬け物でご飯は玄米か白米を選べ、おかわり自由だ。
食事を終え、お店右(東)の路地から「寺元」の三叉路に向かい左折する。
バスも走る歩車道の区別のない「府道201号線」を上る。
15分ほどで坂の頂上に着くが、そこが富田林市との市境だ。市境を過ぎるとすぐ右に「小吹台」というニュータウンへ入口となっているが、真っ直ぐ坂を下る。
コンクリート工場などの間に古い民家が残る坂道を下って行く。
20分ほどで「甘南備口」という三叉路に出るが、そのまま201号線を真っ直ぐに進む。「甘南備(神奈備)」とは「神が依る場所」。何とも「神道チック」な地名だ。「金剛バス」は、これまで2度利用した。大阪では唯一の電鉄系ではないバス専用社線だ。
盆地に水田が開けた「甘南備」の集落を歩く。彼方には、この後訪れる「巌山」が見える。頂上の白い建物は「かんぽの宿富田林」。結構、高度差があるな。
15分ほどで「かんぽの宿」の案内板がある「蒲」という三叉路に出るので左折する。
坂道を5分ほど上ると「オレンジライン」への分岐点に出るので「かんぽの宿」の案内に従って右折する。若干、急坂だが舗装された広い道だ。「かんぽの宿」の送迎バスが通う。
ミカン畑入口の看板。やっぱり出はるんや。
南河内はミカンの産地。ちょうど収穫期に入ったミカン畑を見ながら坂道を上る。結構きつい坂だ。歩幅も狭まり歩速も落ちているだろう。
オレンジラインの分岐点から15分ほどで4つ目の寺院「高野山真言宗龍泉寺」に着く。
どちらかと言えば寂れた寺である。無人の入口で拝観料200円を箱の中に入れ境内へ進む。鎌倉期に建てられたという朱塗りの「仁王門」がそびえる。重要文化財に指定されている。
推古天皇2(594)年に蘇我馬子が勅命を受けて建立し、後に「空海」も訪れたという。天長5(828)年、淳和天皇により再建され、東西二塔を擁する大寺院となったが、南北朝時代に入り、当寺西側にそびえる嶽山の山頂に楠木正成が「嶽山城」を築いたことから戦乱に巻き込まれ、多くの伽藍を失った。真っ赤に燃える紅葉と本堂。
本堂の西側には、中央に池を配した「龍泉寺庭園」という庭園があり、文化財保護法による「名勝」に指定されている。
境内の一番奥に「咸古神社」。今日、唯一の神社。
中腹は花の公園になっており、今は紅葉だが、桜・紫陽花・ツツジ・菖蒲などが四季を彩どる。
境内から東方向、葛城山(左959.2m)と大阪府の最高峰金剛山(右1125m)を望む。なお、葛城山は、大阪府と奈良県の府県境のほか和歌山県との府県境にもあり、それぞれ「大和葛城山」「和泉葛城山(858m)」と区別される。
結構きつい坂だが、ヘアピンカーブを3回曲がり10分ほどで「かんぽの宿富田林」に着く。ここは、旧郵政省の「簡易保険センター」から続く宿泊保養施設であり天然温泉(単純泉)が湧く。日帰り湯もあるようだが、ネットで見ると料理とのセットがメインのようだ。
宿に向かって左側にテニスコートへの案内表示があるので進んで行こう。従業員住宅の横を抜け、宿のちょうど裏にテニスコートがあり、その前には「泉源」があった。
そして、テニスコートフェンスに架けられた「嶽山(だけやま)城址」の案内に従って進むと木立の中に案内板と石碑が立つ。嶽山城は、南北朝時代初期の元弘2(1332)年、楠木正成が築いた山城で、麓には、先ほど訪れた龍泉寺があることから「龍泉寺城」とも呼ばれた。
案内板後ろの木には「278m」の表示が。私が住んでいる「北摂」から探検隊が来たようだ。龍泉寺のパンフには嶽山は標高281.6mと記載されていた。地図では、すぐ西にある頂が標高278mの山頂となっている。小さな山頂が二つある「双子山」のようになっているのだろうか。
宿の前を過ぎ、元の道を戻る。最初のヘアピンカーブから農道に入る(ガードレールの左)。
軽四が行き違える程度の農道を登った分下って行く。
大きいミカン、小さいミカン。いくつかの品種があるようだ。
ミカンの木は背が低いので「鬱蒼」感はない。
20分ほどで「佐備」という集落に入る。
古い民家が続く。
秋には「だんじり」が出るようだ。
村から出て府道201号線に沿って歩く。右に見える畑の下には「佐備川」が流れるが、これが小学校の社会科で習った「河岸段丘」という地形だろうか。
左に立派な石垣と笠の部分が欠けた宝篋印塔、地蔵尊が見えてくる。
すぐに信号のある「中佐備交差」が現れるので、左折、府道202号線を狭山方面に進む。
歩道がないので気をつけて歩こう。
以前、竹内街道を歩いたときに、よく目にした「水きり庇」のある蔵。
左に大きな駐車場が現れる。
駐車場の下に「一願不動堂」。水かけ不動さんに健康を祈願した。
その奥には「行場」。滝が落ちるのだろう。
そして、駐車場の真ん前に今日最後の寺院「真言宗智山派瀧谷不動明王寺」の山門。本尊は「不動明王」で像内には、寛治8(1094)年の墨書があり、国の重要文化財に指定されている。
寺伝によると弘仁12(821)年、「空海」が一刀三礼で刻んだという3つの仏像を祀るため造営されたという。眼病平癒のご利益があり、また「眼(目)」が転じて「芽」。「芽が出るお不動さん」として信仰を集めている。
伽藍の裏山には「多宝塔」が立つ。これで5つの真言寺院をお参りした。「真言宗」は、「空海」(弘法大師)によって弘仁7(816)年、「高野山金剛峯寺」を道場として開宗された古い仏教だ。18の本山に分かれているそうだが、わが家の宗派は「高野山真言宗」。ただ、分かれているとはいっても対立しているわけではないので、宗派にかかわらず素直に参拝することができる。
参拝を終え、寺の前の道を右へ。ホテルや旅館の並ぶ前を緩やかな坂を下って行く。だいぶ陽が陰ってきた。
ここには「丁石」があるんだ。
10分ほどで赤い欄干の「高橋」で、今日朝一番に渡った「石川」を東から西に渡る。川幅もかなり広くなっている。
橋西詰の信号を渡ると、すぐ前に踏切が見える。踏切を渡ればすぐ右に駅が見えるが、あえて直進し、次の古いタバコ屋さんの角を右折する。
何やら良い感じの街並み。
そうか。この道は「東高野街道」。大坂と聖地・高野山を結ぶ道だ。
この旧家の前を右折する。
すぐ正面に先ほど見えた駅が。午後3時45分、今日のゴール近鉄電車「滝谷不動駅」に到着。本日の歩紀「30553歩」(26.27km)。「大阪阿部野駅」まで約35分(480円)。