「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

暗越奈良街道1~「高麗橋里程元標」から「松原宿」まで~

2018-11-10 21:37:26 | 日記
訪問日:平成30年11月10日(土)
出 発:大阪メトロ「北浜駅」
到 着:近鉄電車「吉田駅」
 
 酷暑の時期に歩いて何度か熱中症で死にかけたことがあったので「休足」していたところ、ちょっとしたことで右膝靱帯を痛めてしまった。暫し休養。
 「難波」から「奈良の都」までの約35kmを途中「暗峠(くらがりとうげ)」で生駒山地を越え、一直線・最短で結んだ「暗越奈良街道」。古代には大陸からの使者を迎え、江戸時代には「お伊勢参り」の庶民で賑わったという。「復活第一歩」の今回から3回に分けて「暗越奈良街道」を歩く。第1回目は、かつて大坂(大阪)の起点であった「高麗橋」の「里程元標」から街道唯一の宿場町「松原宿」までを歩く。「大阪市」「東大阪市」の平坦な市街地を横断するのでトイレ・給水には、まったく困らない。前半は「大阪24区を歩く~中央区・東成区」編と重なるが、違った観点で歩けば風景も変わって見えるものだ。さあ、久しぶりに歩くぞ。


 大阪メトロ堺筋線「北浜駅」を午前9時30分スタート。大阪市営地下鉄は、平成30年4月1日の民営化により「大阪メトロ」と名を変えた。ここは「大阪市中央区」。


 ビル中の4番出口から「堺筋」に出れば「高麗橋1」交差。「野村ビルディング」と「三井住友銀行大阪中央支店」という2つのレトロビルが向かい合う。「三井住友銀行」の南側を東に進む。


 真っ直ぐ進んでいくと東横堀川に「高麗橋」。「大坂八百八橋」のほとんどが商人らによって架けられた「私設」の橋であったが、「高麗橋」は12あった「公儀橋」つまり「公設」の橋のひとつだ。明治3年に架け替えられた際は、大阪初の「鉄橋」だったが、今は鉄筋コンクリート造りに掛け替えられている。


 かつて大陸からの使者達もここからスタートしたのだろう。「阪神高速」入口の名称にもなっているとおり高速道路の高架下に佇む。


 橋を渡ってすぐ左に「里程元標跡」。「梅田新道(梅新)」交差に「道路元標」が設置されるまで「大坂」の「基点」であった。「暗越奈良街道」に比定される「国道308(サンマルハチ)号線」は、梅新の「道路元標」から始まる「御堂筋(国道25号線)」が「長堀通」と交わる「新橋」交差で分かれ、ここから約1.5km南を走る。


北に進み「土佐堀通」を右へ。「天神橋」交差で「松屋町筋」を過ぎて東へ進む。


 「エルおおさか」という会館を過ぎ、次の信号を右に曲がればビルの谷間に「坐摩(いかすり)神社行宮」。


 大坂城築城に際し、現在の大阪市中央区久太郎に遷宮されるまで当地が鎮座地であった。今日一日の安全を祈願する。


 「土佐堀通」に戻って東へ。次の信号を渡れば角に「熊野街道」の石碑が。


 この先100mほど進めば、右の昆布屋さんの前に「八軒家船着場跡碑」が立つ。淀川を「京」から舟で下り「八軒家(はちげんや)浜」に着いた参拝者らが「熊野神宮」を目指した「熊野街道」の起点だ。


 さっきの交差点に戻り左(南)へ。しばらく「暗越奈良街道」と「熊野街道」が重複する。ちょっとした上り坂になる。左には「北大江公園」。


 「熊野街道」を南へ。右には「中大江公園」。休日の大阪市内は、人通りや交通量は少ないが、結構、工事が多い。


 しばらく進めば左に「日本基督教団大阪東教会」。明治15年(1882)年設立のキリスト教会。


 「大阪東教会」を過ぎれば大阪を東西に貫く「中央大通り」。上を走る「阪神高速」をくぐって南へ進む。


 次の信号を渡り「南大江小学校」の横に「太閤背割」。17世紀、豊臣秀吉が大坂城築城に際して構築した「下水施設」である。


 一部は現在でも使用されており、ガラス窓越しに見学することができる。肉眼では、石組みの水路を流れる水が見えるのだが、湿気のためガラスが曇り写真には写らない。申し込めば見学できるらしい。


さらに南へ進む。右に「南大江公園」。かつて熊野街道にあった「九十九王子」のひとつ「坂口王子跡碑」が公園内にあるらしいが今回は通過する。


 「熊野街道」の新しい道標。


 100mほど進むと下りの階段に突き当たる。そこには「榎木大明神」。大坂は古い町が急速に都市化されたため、道の真ん中に佇む「御神木」や「お社」「祠」が多くある。そのひとつだ。


 階段は下りず「榎木大明神」手前の四つ辻まで戻り「東」へ曲がる。


 アンダーパスの「谷町筋」を越える。


 東へ、どんどん進んでいく。


 次ぎに「上町筋」を過ぎるが、信号がないのですぐ右の「上本町1」交差に出て信号を渡ろう。この交差点が「国道308号線(長堀通)」だが元の道に戻る。


 東へ進み、突き当たりを右折、すぐに左へ。


 すぐ右に、このあと訪れる「玉造稲荷神社」の分社。かつては「東雲稲荷神社」と呼ばれていたようだ。裏から失礼するが、お参りをする。


 さらに東へ。次の交差点角に「大阪クリスチャンセンター(OCC)ホール」。昭和26(1951)年に設立されたキリスト教超教派の施設で講演会やコンサート等に利用されている。


 隣接する「大阪女学院」の南側を進む。明治17(1884)年、アメリカから来日した宣教師により設立された「ウヰルミナ女学校」を前身とするクリスチャン系の女学校(中学~大学院)だ。


 すぐに「中央消防署東雲出張所」が見えてくるので手前を左折してしばらく進めば、ここにも道の真ん中に「白光大神」。


 さらに北へ歩けば「玉造稲荷神社」。垂仁天皇18年(紀元前12年)に創設された古い社である。


 かつて、この社を起点として庶民は「お伊勢さん」を目指したという。現代のツアーもここを起点としているようだ。


 この後、3日間の無事を祈願してお参りする。


 先ほどの消防署まで戻りさらに東へ進む。「玉造筋」に出るので右へ。そして「玉造」交差という大きな交差点で「国道308号線」を南へ渡る。


 交差点を渡れば「大阪市天王寺区」に入るので左へ。さらに「玉造筋」を「玉造」交差で東に渡り、JR大阪環状線「玉造駅」のガードをくぐる。


 ガードをくぐれば「大阪市東成区」。次の信号の角に「二軒茶屋」「石橋」の石碑が立つ。かつて、この辺りを流れていた「平野川」に掛かる「石橋」と呼ばれた「黒門橋」のそばに「つるや」「ますや」という2軒の茶屋があったことから「二軒茶屋」と呼ばれ、ここも「お伊勢参り」の起点とされたそうだ。


 石碑前を東に進めばすぐ右に「暗越奈良街道」の道標。「国道308号線」から分かれ右に曲がる。


 すぐに二又交差となり、そこには「東成警察署中道本通警ら連絡所」。大阪府警の「超一級」レトロ施設であるが、最近では、ここを「お伊勢参り」の起点(待ち合わせ場所)として利用されることもあるらしい。


 「警ら連絡所」前を左へ。アーケードはないがカラー塗装された「玉造駅東商店街」を東へ進む。


 すぐに「玉津1」交差へ出るが、大きくて複雑な交差点なので、とりあえず目の前の「中本病院」前に出て右(東)へ進む。


 すぐに「長堀通」から分かれる道が左に見えるので左折する。左に「八阪神社」の社号標が現れるが今回は参拝しない。その向かいに古い「暗越奈良街道」の道標。高麗橋の「里程元標」から1里(約4km)と刻まれている。


 そのまま進み「玉津橋」で「平野川」を越える。人工的な運河のように見えるが、かつて「河内平野」を流れ「百済川」「猫間川」とも呼ばれた「旧大和川」の名残りである。


 すぐ目の前の信号を右折すれば、新しい「暗越奈良街道」の道標が立つ。


 道なりに進めば「髭文字の法界石塔」が立つ複雑な交差点に出るので右へ曲がり南へと進む。


 道は大きくカーブするが「東成警察署」と「キリスト東成教会」の前を通過すれば道は間違っていない。


 「東成消防署」の裏にも新しい「暗越奈良街道」の道標。


 すぐに「今里筋」という大きな道路を渡るが、信号の手前と渡ったところにも「暗越奈良街道」の案内表示。




 その横には、ここが「追分尼ヶ辻」という辻であったという案内板が立つ。


 「暗越奈良街道」を東へ進んでいこう。


 「街道」らしい町並みだ。


 この案内表示が見えれば左へ。奥に鳥居が見える。


 「熊野大神宮」。用明天皇2年創設と伝わる古社で伊弉冉尊らを祀る。


 「石山合戦」の兵火の後に再建され「熊野権現」として大坂城代やお伊勢参りの庶民らに崇敬されたという。


 「街道」に戻り、さらに進めばすぐに「石灯籠(道標)」と「碑文」。


 ここで「国道308号線」と合流する。前に見える狭い路地が「街道」のように思うが、そちらへは進まず信号を渡って左(東)へ「国道308号線」に沿って進む。


 「片江口」交差を過ぎれば「今里大橋」で「平野川分水路」を渡る。東大阪地域の浸水対策のため、昭和に入って掘削された川で「城東運河」とも呼ばれる。


 大阪メトロ「新深江駅」を過ぎ、右に文房具で有名な「コクヨ」の本社ビルを見ながら進む。


 「新深江」交差で「内環」と呼ばれる「内環状線」を渡るが、「国道308号線」は先ほどの「中央大通り」開通に伴い、ここで左折して約1.2km北で「中央大通り」に引き継がれる。そのためここから先は「府道」に格下げとなったのだが、今でも「旧308号線」と呼ばれている。「暗越奈良街道」は「旧308号線」を縫うように、あるいは重なりながら「古都奈良」を目指して一直線に東ヘ進む。交差点を渡って真っ直ぐ東へ。


 「野崎病院」という病院の前にも新しい「道標」。


 「道標」を過ぎれば「旧308号線」と分かれ右の狭い路地へ。この道が「暗越奈良街道」だ。


 すぐ左には「法明寺道案内地蔵」。


 「浄土真宗大谷派光栄寺」というお寺を過ぎれば「ブランドーリふせ」というアーケード商店街と交わる。


 アーケードには入らず、すぐ東の路地が「暗越奈良街道」だ。左に曲がろう。


 すぐに「旧308号線」と交わり、本来であれば右へと進むのだが時間は午前11時45分。ぼちぼち食事の時間だ。左に曲がり「ブランドーリふせ」の前で「旧308号線」を渡り(更科の前を)左へ。


 かつて大阪平野の背骨である「上町台地」の東側は「河内湾」と呼ばれる大阪湾の内海であった。そしてこの辺りが「河内湾」の奥深い入江であったことから「深江」と呼ばれるようになったという。


次の「四つ角」を右へ折れる。その地に鎮座する「深江稲荷神社」前に出る。


 食事前に参拝しよう。


 付近には、湯釜師として人間国宝にも指定された「角谷一圭」という人の生家や資料館。




 その奥には、湿地帯の名残だろうか「段倉」と呼ばれる石段が組まれた「旧家」などが残る。


 先ほどの「四つ角」まで戻り右(西)へ。次の四つ角を右に曲がれば、すぐに洋食「三起」。以前「大阪24区を歩く~東成区」編で食事にしようと思っていたが臨時休業のため入れなかった店だ。


 今日は大丈夫だった。時間は、午前11時57分。長い間「歩紀」をしていると「腹時計」の誤差はほとんどない。


 A定食(ロースハム・海老フライ・ヘレカツ生姜焼き+ご飯・赤出汁)1000円を注文する。老夫婦が経営するお店で、お母さんは「歩きながら写真撮ってはるの?気いつけてね」と気さくに話しかけて下さった。


 食事を終え「ブランドーリふせ」前まで戻り「旧308号線」を東へ進む。信号は渡らずに道の北側を歩こう。ここは東大阪市の「旧布施市」だ。「東大阪市」は、昭和42年「布施市」「河内市」「枚岡市」の3市が合併してできた大阪府では「堺市」に次ぐ人口約50万人の衛星都市である。


 3つ目の信号が「布施柳通」交差。四つ辻の「北東」に脇道が入り五叉路となっている。その脇道が「暗越奈良街道」だ。「旧308号線」と分かれて「街道」に進む。


 「さくら公園」を左に見ながら進んでいく。


 突き当たりを右に曲がり、すぐに左折して「JRおおさか東線」のガードをくぐる。かつて「城東貨物線」と呼ばれたが、平成20年3月「久宝寺駅」から「放出駅」までが複線・旅客線化された。


 ガードをくぐって200mほどで左に「高井田地蔵」。東大阪市では、この道を「東大阪歴史の道」と名付けているようだ。


 さらに80mほどで左に「西岸地蔵尊」。


 2つの地蔵尊を過ぎれば「長瀬川」という小さな川を渡る。「奈良盆地」から生駒葛城山系を抜けた「旧大和川」は北上し、「河内湾」を堆積物で埋めながら「河内湖」を経て「河内平野」を形成した。そして、その名残りとも言える多くの川が今も「河内平野」を北に向かって流れる。この「長瀬川」や先ほどの「平野川」もそのひとつだ。


 橋を渡れば右にこの辺りが「新喜多新田」と呼ばれていたとの案内板が立つ。


 その向かい住宅の角には「枚岡、一里三十三丁」の道標。背面には「大阪高麗橋元標二里??」と刻まれ、側面には「放出停車場三十丁」とあることから近代になって設置されたのだろう。


 「街道」を進めば、やがて「小阪北口」交差で「旧308号線」に合流する。信号で南側に渡ろう。150mほどで「NTT西日本」前に歩道橋が現れる。歩道橋の下を右に曲がれば、すぐ左に「街道」が続く。


 5分ほどで「旧308号線」と交わり分断されるが、信号で「御厨西」交差を渡れば「街道」は続く。


 150mほど進めば「浄土真宗大谷派法観寺」に突き当たる。本来であれば右折して東に進むのであるが、ちょっと逆方向(西)に進んでみよう。100mほどで右に「天神社」。「御厨(みくりや)神社」とも呼ばれる。「御厨」とは、天皇に食べ物を献上するための「台所」。全国にいくつか「御厨」の地名が残るそうだが、ここもそのひとつである。


 境内には、樹齢900年を越えると言われる東大阪市天然記念物の「クスノキ」がそびえる。


 参拝を終え元に戻り、東へと進む。「法観寺」の前には立派なお屋敷が。


 その前には「御厨行者堂」。後ろの「御厨会館」は、レトロな建物だが火災のため屋根が落ちていた。間もなく取り壊されるのだろう。


 次の信号を渡ればちょっとした「植え込み」がある。


 その手前には、立派なお屋敷が。信号を渡って振り返る。街道の「本陣」で「植田家住宅」と言うらしい。


 そして、この「植え込み」は。かつてここにも「旧大和川」の名残りである「楠根川」が流れていた。昭和に入り、この後渡る「第二寝屋川」が開削されると一部が埋め立てられ「楠根川緑地」となった。


 「緑地」のすぐ北には「旧菱屋中顕彰碑」。案内板を見れば、ここに「三井会所」があったそうだ。宝永元(1704)年、河内國今米村の庄屋「中甚兵衛(なかじんべえ)」によって「旧大和川」が付け替えられてからは「河内平野」に多くの「新田」が開発され、現在でいう「農協」的な組織として「会所」が設けられた。


 「街道」に戻り東へ。「新御厨北大橋」で「第二寝屋川」を渡る。昭和に入って新しく開削された水路だ。第2回目で渡る「恩智川」から分かれ、先ほどの「楠根川」と合流の後「寝屋川」に流れる。


 橋を渡れば二又路を左へ。道なりに並木道に進み、さらに東へ進めば三叉路に出るので真ん中の道に入る。


 この「板塀」を過ぎれば「旧308号線」と合流するので、前方に見える信号でも歩道橋でも良いから「旧308号線」を南に渡る。


 「ヤマダ電機」を左に見ながら進む。この辺りから「旧河内市」である。


 目の前の道は、大阪の大動脈「大阪中央環状線(中環)」。上を「近畿道」が走る。そこは「意岐部」交差。「おきべ」と読む。


 「中環」を越え、さらに東へ進む。この辺りは「街道」の面影はない。「旧308号線」沿いには、左右に自動車販売店が並ぶ。


 「大阪トヨタ」「日産」「ダイハツ」「日野自動車」「マツダ」「ネッツトヨタ」「いすゞ自動車」「スズキ自販」を過ぎ、「ヤマハ」の前で右折。すぐに左折すれば、再度「暗越奈良街道」が現れる。


 次の四つ角には「道標」。「暗越奈良街道」と交わる南北に走る道は「河内街道」と呼ばれたそうだ。「道標」の向こうには「菱屋東地車格納庫」。


 その後ろには「八剱(やつるぎ)神社」。稲荷神を祀る。


 応永3(1396)年に創設されたそうだが、以前、歩いた「城東区」や「鶴見区」の八剱神社と関係が深いようだ。やはり「旧大和川」でつながっていたからだろうか。


 境内には「街道」から移された3つの道標が立つ。左の「おかげ」とは「お伊勢参り」。真ん中の「瓢箪の絵の下に山」と刻まれたのは「瓢箪山稲荷神社」への道筋を示しているのだろう。確かに「瓢箪」という文字を刻むのは大変だな。


 神社を過ぎれば、ここにも川を埋め立てたような緑地が。右の案内板を見れば「玉串川」から分かれた「菱江川」に、かつて「はちげんばし」という石橋が架かり、この辺りは「菱屋東新田」と呼ばれていたそうだ。いずれの川も「旧大和川」の支流である。


 左に「道開地蔵」を見ながら進む。


 「旧308号線」と合流する。道路の向こうに「街道」は続くが、信号がないのですぐ東の「菱江」交差で「旧308号線」を渡る。


 ちょっと戻って「街道」に戻り、すぐに「菱江会館」に向かって小径に入る。この辺りは「菱江」と呼ばれる集落だ。この田んぼの真ん中の道が「暗越奈良街道」である。今回で最も「街道」の面影を残している道ではないだろうか。


 次の四つ辻で右に曲がり「菱屋北」交差で府道を渡り「街道」を東に進む。


 途中、道が鍵型に曲がるが、そこには「もちの木地蔵尊」。横には「おかげ灯籠」。案内板を見ると、幕末期それまでの「一揆」に代わり民衆の抵抗運動として「ええじゃないか」というのが流行したらしい。そしてここ「菱江」でも慶應3(1867)年11月、空からお札が舞い降り、民衆は「ええじゃないか。えじゃないか」と叫び、三日三晩踊り続けたという。


 続いて左に「浄土真宗本願寺派明楽寺」を見ながら東へ進む。


 「三菱ふそうトラック」に突き当たり「旧308号線」と合流する。信号は渡らずに道路の北側を歩こう。右に「河内警察署」左に「河内郵便局」を見ながら「旧308号線」を東へ進む。


 次の角に「イトーヨーカドー」。最大の給水・トイレポイントだがゴールは近い。


 この間「街道」の面影はない。「英田農協前」交差を渡る。「英田」と書いて「あかだ」と読む。ここまで来れば「生駒山地」もだいぶ近づいてきたな。正面の一番低い部分が、次回目指す「暗峠」だ。


 「かごの屋」前の交差点を渡れば、右に来年「ラグビーワールドカップ」が開催される高校ラグビー界の聖地「近鉄花園ラグビー場」。


 「花園ラグビー場前」交差で、左の路地に入る。


 突き当たりを左折すれば「英田北小学校」の裏門に突き当たる。その一角に真新しいが「松原宿跡」の碑。


 横には案内板とかつての宿場町の略図。幕府が街道支配のため公式に設けた「暗越奈良街道」唯一の宿場町だという。最盛期には16の「旅籠」が並んだが明治に入り廃止されたそうだ。


 「碑」を背にして東に進み、この辻を左に入り北へ。この家は、先ほどの略図によると「峠屋」という旅籠が建っていた場所だ。


 この筋に「旅籠」が並んだという。


 100mほどで「松原観音堂」と「大師堂」が立つ。そこにも「松原宿」に関する案内板が。


 さらに北に進むと薬屋さんの角に「道標」。「右 なら いせ道」「左 大坂道」と刻まれている。「松原宿」の主要交差点だったのだろう。多くの人たちがここを往来したんだろうな。ここを今日のゴールとする。次回は、ここから歩こう。


 近くに駅はないが、あえて最寄り駅といえば近鉄電車「吉田(よした)駅」だろう。「道標」を背に西へ進む。100mちょっとで「英田北小学校」北西角の信号に出るので右折する。


 センターラインのない道を北へ進む。


 700mほど歩けば「川中」交差で現在の「国道308号線」である「中央大通り」と交わる。上には「阪神高速東大阪線」と「近鉄けいはんな線」の高架が走る。


 「中央大通り」の北側は「今米(いまごめ)」と呼ばれる集落で、大和川の付け替え工事を行った「中甚兵衛」の出身地である。信号を渡って「川中」交差西側の細い路地を北に入ればすぐに児童公園があり、その一角に「中甚兵衛顕彰碑」が立つ。


 「中央大通り」に戻って右に曲がれば100mほどで近鉄電車「吉田駅」。午後2時35分着。本日の歩き「24679歩」(16.78km)。大阪メトロ中央線が乗り入れており、途中、「谷町四丁目駅」で乗り換えれば「東梅田駅」まで約30分(470円)で着く。あっという間だな。そして右膝は、大丈夫のようだ。

コメント (2)
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