「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪市「尼崎区」を歩く

2019-05-18 23:57:38 | 日記
訪問日:令和元年5月18日(土)
出 発:JR「尼崎駅」
到 着:JR「尼崎駅」

 大阪市「尼崎区?」。変な表題だなとお思いでしょう。ただ他意はありません。「尼崎市」は兵庫県なのに電話の市外局番が大阪市と同じ「06」。ただそれだけです。
 阪神間の海岸沿いに開けた町の沖合は広大な埋め立て地となり「阪神工業地帯」の中心として発展。そのため「公害の町」とも呼ばれた。しかし、安土桃山時代から続く武将、戸田氏鉄(とだうじかね)が藩主をつとめた「尼崎藩」の城下町でもある。
 今年3月に復元、一般公開が始まった「尼崎城天守閣」などの史跡やちょっとレトロな建物を訪ね、JRから南の尼崎市南部を歩く。給水・トイレには困らない。「令和」最初の歩紀だな。


 今日のスタートは、JR神戸線「尼崎駅」南口。「大阪駅」から2駅6~8分(180円)で着く。JR福知山線との分岐点でもある。同じ「摂津の国」ではあるが大阪府ではなく「兵庫県」だ。今日は、前半見所が多いので、ちょっと早めの午前9時スタート。
 

 尼崎駅南口の正面「尼崎駅前」交差を南へ真っ直ぐ進む。
 

 約500mで「長洲本通」交差、「波洲(なみす)通り」を左折する。しばらく歩くと左に「東洋精機」という大きな工場が。明治41年5月、大阪市北区で創業。大正15年に旧海軍指定工場となり、戦艦大和や武蔵の砲塔を製作したそうだ。昭和17年3月、ここに工場を建設し、本社も移転した。
 

 平成15年12月、 本館事務所が国の登録有形文化財に登録された。


 そのまま東へ。県立尼崎工業高校前を過ぎて「常光寺元町」交差を左折。120mほどで左に「皇大神社」。大日孁命(おおひるめのみこと)と誉田別尊(ほむたわけのみこと)つまり「天照大神」と「応神天皇」を祭る。


 この後、お参りする「浄光寺」が創建されたときに勧請されたという。今日一日の安全を祈願しよう。


 次に道路をはさんで真向かいに「真言宗善通寺派浄光寺」。天長6(829)年、弘法大師が諸国を巡錫の途上、当地に立ち寄り創建したと伝わる。かっては七堂伽藍を備えた大きな寺院だったそうだ。明治の神仏分離令で神社と寺院とが分離され、更には昭和に入り、県道が開通したことで、先ほどの「皇大神社」と完全に分離された。「摂津国八十八ヶ所」にも指定されている。今日は、葬儀のようなのでお参りは遠慮した。


 「常光寺元町」交差まで戻り左折、道なりに東へ。カーブを曲がると左には「王子イメージングメディア」という大きな工場が。かつての「王子製紙」である。南北700mを越える大きな工場だ。


 工場の敷地に食い込むように「八幡神社」。


 そのまま真っ直ぐ南へ進めば国道2号線の「今福東」交差に出る。左の路地を入れば、そこには「第一敷島湯」というお風呂屋さん。大正12年に建てられ、そのままの建物で90年以上営業を続けているそうだ。入口は「唐破風」になっている。「第二」はあるのだろうか?


 本当に「06」だ。大阪府下でも「豊中市」や「東大阪市」の一部など大阪市域外で市外局番が「06」のところはいくつかある。しかし、他府県の尼崎市がなぜ「06」に。


 かつて情報伝達手段の中心であった「電話」。そして、市内通話と市外通話では格段の料金差があった。大阪市とつながりが強かった「尼崎市」は、格安の市内料金で電話が架けられるようにと、尼崎市が電電公社(現NTT)に巨額のお金を支払って「06」の使用権を取得したのだという。


 「今福東」交差で国道2号線を渡り、右に見える歩道橋の下を左へ。「宮前公園」を抜ければ正面に阪神電車「杭瀬駅」。「杭」とは、水辺に打たれた柱のことだろう。尼崎南部には、他にも「洲」「島」「浜」などの字が付く地名が多い。やはり、海辺に開けた街の名残だろう。


 阪神電車をくぐり線路の南側を西に向かって歩く。しばらく進むと「小田南公園」という野球場をそなえた大きな公園に出る。


 ここには、かつて「大日本紡績尼崎工場」という大きな工場があったそうだ。明治22年に創立され、その後、「ニチレイ」「ユニチカ」と名を変え、尼崎が工業都市として発展する先駆けとなったそうだ。


 公園を抜けると阪神電車をくぐって北側に。左から「阪神なんば線」が合流してくる。


 歩道橋を渡れば「大物駅」に出る。「だいもつ」と読む。


 駅の北側に公園があるが、その西端の交番横に「大物くずれ戦跡碑」が立つ。


 「こういうことらしい。」


 少し戻り「大物駅」をくぐって南へ。駅のすぐ南には「大物主神社」。かつて河口に三角州が点在し、その州のひとつに「大物主命」の社が祭られたのが起源だと言われる。「大物主」って、奈良・大神神社に祀られている酒造りの神様かな?


 付近は、海上交通の要所であり難所でもあったことから、安芸の厳島神社より宗像三女神「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」を勧請し、航海の安全を祈念したと伝わる。


 神社を後に南に進み「大物橋北」交差で「大物川緑地」という公園に出るので、一旦、左(東)へ。


 公園が終わる手前で向かって右側から道路に出れば、何やら赤煉瓦の塀と建物が見えてくる。


 「ユニチカ記念館」。明治33年、先ほど説明した「大日本紡績尼崎工場」の本社事務所として建設された。市内に現存する最も古い洋風建築で毎週水曜日に一般公開されるそうだ。


 「大物川緑地」まで戻り西へ。緑地は、途中、直角に左に折れる。公園の一角に「尼崎城」の詳細図が。詳細図の一番右端「大物川」が尼崎城の外濠に引き込まれたところが、先ほどの直角部分だな。


 そのまま進めば国道43号線に出る。上を「阪神高速神戸線」が走る。


 すぐに右側に「尼崎市立明城小学校」が現れる。学制発布と共に開校した「開明小学校」と旧尼崎城内に建てられた「城内小学校」の2つの学校を統合し、平成16年4月、旧城内小学校の地に開校した学校で、「開明小学校」は旧尼崎藩藩校「正業館」を前身とする。


 校地脇に「尼崎城址碑」。この付近に「伏見門」という門があったそうだ。


 そのまま西に進めば「庄下川」という川に出るので右に曲がり川沿いを歩く。


 すぐに「櫻井神社」という神社に出る。鳥居は、社殿の裏側にあるようだ。


 「櫻井信定」公から十六代「松平忠興」公までの歴代尼崎城主を御祭神とし、明治15年、尼崎城内に建立された。


 神社前の道を右へ。すぐ左に今年3月29日、再建された「尼崎城天守閣」が見えるが、後ほど訪れる。とりあえず真っ直ぐ進む。


 「琴ノ浦高校」を過ぎれば左に何やらレトロな建物が見えてくる。「旧尼崎警察署庁舎」。大正15年に建設された。


 平成7年の震災までは、児童館、市役所の出張所、武道場として使われていたそうだが現在は使われていない。


 鉄筋コンクリート造3階建の「セセッション式」と呼ばれる建築様式である。


 「旧尼崎警察署」の向かいには「尼崎市立文化財収蔵庫」。昭和13年、「尼崎市立高等女学校」の校舎として建てられた建物であるが、リニューアル工事中のため閉鎖されていた。


 すぐ向かいにある「二の丸公園」を抜ける。 


 すぐに阪神電車の車庫に突き当たるので左に曲がれば、煉瓦造りの建物が見えてくる。


 「旧阪神電鉄尼崎発電所」。明治41年に建設されたそうだ。イギリス積のレンガ組石造で、今は資材倉庫として使われている。


 そして、その向かいに先ほど通り過ぎた「尼崎城址公園」。


 かつての尼崎城は、元和3(1617)年、「戸田氏鉄」が5万石で入封し、3重の堀に囲まれ、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた四重天守と3棟の三重櫓が存在したという。


 そして今年3月、家電量販店「ミドリ電化(現エディオン傘下)」創業者の安保詮氏が10億円以上の私財を投じて天守を再建し、尼崎市に寄贈した。


 再建「天守閣」は、高さ24m、四重天守、二重附櫓、鉄筋コンクリート造、地上5階建ての立派な天守閣だ。


 入館料は500円。エレベーターで5階まで上がり階段で下ってくる。5階の展望台から「阪神尼崎駅」方向を望む。


 内部は、展示施設や体験コーナーになっているが、各地の天主閣に見られる、いわゆる「歴史博物館」にはなっていない。




 公園北側の「庄下橋」で「庄下川」を渡る。「庄下川」越しに天守閣を望む。


 すぐに阪神電車「尼崎駅」南口。「阪急」「JR」とともに大阪~神戸間を結ぶ大動脈で、北口は尼崎市でも一番の繁華街である。


 駅の南には、「昭和大典記念」と刻まれた立派な時計台が立つ。「大典」とは、「盛大な祝典」という意味で、天皇の「即位の礼」を指す。昭和3年、昭和天皇の即位を祝して建てられたものだ。こんな形で「昭和」が残っているんだな。そして、間もなく「令和」の大典が。


 駅前の「東横イン」の横から路地を南に下る。すぐ右にはレトロなビルが。「尼崎市役所開明庁舎」だ。


 昭和12年2月、「開明尋常小学校校舎」として竣工した建造物で、1階の旧校長室には戦前の奉安庫(天皇・皇后の御真影や教育勅語を納める所)が現存しているそうだ。


 すぐ南の角に立つこの建物もレトロだな。


 真っ直ぐ南へ進み次の交差点を右へ。次の角には「尼崎信用金庫(尼信)本店」。大正10年創立の古い金融機関だ。


 この建物を右に見ながらそのまま西へ。2つ目の角を右に曲がれば、そこにも「尼信」関連の建物が。まずは「尼崎信用金庫・世界の貯金箱博物館」。


 日本はもちろん、欧米やアジア、中東など古代から現代まで世界62ヵ国、約13,000点を超える貯金箱を収蔵する、わが国最初の貯金箱博物館である。


 その北隣には、「尼崎信用金庫記念館」。大正10年創業時の本店事務所だが、明治時代に建設された初代組合長の邸宅を転用したものらしい。


 尼崎市に現存する数少ない明治時代の煉瓦造り建造物である。


 一旦、南に戻り国道43号線まで進むと角にもレトロビル。「本町ビル」と言う大正5年建造の建物らしい。


 国道43号線に沿って西へ歩くと右に神社が現れる。「貴布彌(きふね)神社」。京都にある「貴船(きふね)神社」同様、「高龗神(タカオカミノカミ)」という「雨」や「水」を司る神様をお祀りする。


 嘉暦元(1326)年頃に創建され、元々、尼崎城内に鎮座していたものが、改築城の際、現在の場所に遷座されたそうだ。


 神社の裏口から失礼し、北へ進む。この辺りは「寺町」と呼ばれ、元和3(1617)年、戸田氏鉄の改築城に伴い、寺院勢力の統制と城の防備のため、巨大な建築物である寺院をこの場所に集めたという。かつては20の寺院があったそうだが、現在は11ケ寺が軒を連ねる。まず「浄土宗専念寺」。朱塗りの山門から「赤門の寺」と呼ばれている。


 続いて「浄土宗如来院」「日蓮宗長遠寺」「律宗大覚寺」と並ぶ。


 「如来院」は、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基菩薩が神崎に釈迦堂を建立したのが始まりと伝えられ、法然上人と遊女にまつわる物語が語り継がれている。本堂・表門が尼崎市指定文化財に指定されている。




次ぎに「長遠寺」。観応元(1350)年、日恩上人の開基と伝えられ、本堂と市内で唯一の多宝塔は、桃山時代の特徴がよく表れた建物として国指定重要文化財に、客殿・庫裏・鐘楼の三棟は江戸時代前期の建造物として県指定文化財となっているが、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた。




 そして「大覚寺」。推古8(600)年、聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長洲の浦に造らせた寺と伝わる、現存する尼崎最古の名刹である。


 本堂以下の建物は明治10年の大火で焼失し、再建された。


 路地を隔てて「浄土宗法園寺」。室町時代に勝誉恵光法園上人が開基したと伝えられている。


 「法園寺」前には「たこ焼き屋さん」。


 江戸時代の情緒が残る。


 その隣には「浄土宗甘露寺」。室町時代、円誉上人源永が開いたと伝わる。元は大物町にあり、尼崎城築城にともない寺町へ移転された。


 続いて「臨済宗広徳寺」。明徳元(1390)年、京都大徳寺の言外宗忠和尚の開基と伝えられている。尼崎城築城にともない大物町から寺町に移転した。


 その北側には「浄土宗常楽寺」と「時宗善通寺」が並ぶ。「常楽寺」は、寺伝によれば永正元(1504)年、心誉浄雲上人による開基と伝わる。本寺も尼崎城築城に際して大物から現在地に移された。


 「善通寺」は、永禄年間(1558~1569)、覚阿上人の開基と伝わる。境内八角堂には首無し地蔵が祀られ信仰を集めている。


東端には「法華宗本興寺」。法華宗四大本山の一つで、広い境内には多くのお堂が並ぶ。


 応永27(1420)年、日隆上人が開基した寺院で、開山堂・三光堂・方丈は、室町・桃山時代のすぐれた建造物として国の重要文化財に指定されている。ここも阪神淡路大震災で大きな被害を受けている。


 最後に「曹洞宗全昌寺」。


 戸田家の菩提寺で、元和3(1617)年、戸田氏鉄が尼崎藩主として尼崎へ所替えの際、随伴した僧、雪山呑秀和尚によってこの地に再興された。


 11ケ寺回ったかな?「お仏壇の浜屋」横から北に進み阪神電車をくぐって北口へ抜ける。すぐ左に「尼崎中央商店街」。全長750mの長いアーケード街だ。


 時間は、午後1時40分。少し遅いが昼食にしよう。しかし、予定していた店は超満員。


 ここも満員。


 しかし、食べるところはいくらでもある。






 食事を終えて商店街を進む。商店街は、1~5番街に分かれている。


 やはり「阪神タイガース」王国なんだな。


 新しい「元号」も町の賑わいに貢献。


 「尼崎城」も一役買っているんだな。


 アーケードが途切れる手前で別のアーケードと交わる。もう一つのアーケード街である「三和本通商店街」だ。左(南)へ曲がろう。


 次の四つ辻を左に曲がれば「神田市場」と呼ばれる。


 アーケードが途切れる手前を右に折れれば「三和市場」。「招き猫」がシンボルなのだろうか。


 シャッター街化している所も多い。




 もう完全に終わっているな。


 アーケードを抜ければ、右に「三和本通」、その左に「サンロード5番街」のアーケードが見える。


 正面の「三和本通」へ入ろう。


 左に「サンロード8番街」が見えれば曲がろう。


 「7番街」「6番街」と続く。


 「4番街」の手前を左に曲がれば「5番街」。「尼崎中央商店街」は一本の「線」だが、こちらは「面」だな。


 「4番街」に戻り、左に曲がれば「3番街」。かなりシャッター街化しているな。


 「3番街」から戻れば「2番街」。


 「2番街」のアーケードを抜けると阪神電鉄に突き当たる。右に曲がろう。あれっ!「1番街」はあったかな?


 線路に沿って進み、信号を渡れば「出屋敷駅」。ショッピングビル前を西に進む。


 2~300mで緑道に突き当たるので右へ。


 この緑道は、「蓬川」という川の堤防で「蓬川緑地」となっている。川沿いを北に進もう。


 「蓬川橋」という橋が見えるので橋を渡って西へ進もう。この道は「琴浦通り」と呼ばれる。


 400mほどで「琴浦神社前」交差に。そして交差点の北西角に「琴浦神社」。第52代嵯峨天皇の第12皇子である源融公を御祭神とする。


 そして「琴浦神社」の少し南に何やら大きな建物が。「尼崎競艇場」通称「ボートレース尼崎」だ。今日は、レースがないので中には入れない。


 競艇場横の「水明公園」を抜ける。


 公園横の路地を北に進めば先ほどの「琴浦通り」に出るので、信号を渡って左へ。すぐ右に「市立大庄小学校」の校門。次の辻を右に曲がろう。塀越しに昭和11年建築の校舎を撮影。


 すぐ向かい、交番の横に「大庄公民館」。旧大庄村役場の建物で、国の登録有形文化財に登録されている。


 「武庫郡大庄村」と呼ばれたこの地区は、昭和17年2月、尼崎市に編入された。


 「琴浦通り」に戻り、さらに西へ進めば「武庫川」に突き当たる。「武庫川橋」を渡れば「兵庫県西宮市」だ。右に曲がろう。


 河川敷を歩く。


 草地の上を歩けば足が楽だ。


 アーチ状の「武庫川大橋」で国道2号線をくぐる。


 武庫川大橋は、「土木学会推奨土木遺産」として登録されているそうだ。


 左に子ども用の遊戯具が見えれば堤防に上がろう。右に「関西労災病院」という大きな病院が見えてくるので堤防を下る。坂の途中にいくつかの仏様や神様が祀られている。


 「労災病院前」交差を渡って左へ。すぐにタクシー会社を過ぎて路地を右に入る。二又に出るので左に曲がり、すぐに右へ曲がろう。右に「在日大韓基督教会武庫川教会」。


 さらに進めば左に「尼崎朝鮮初中級学校」。そう、尼崎市は在日コリアンが多数住む町でもある。


 小さな水路を渡れば右に。すぐに大きな通りに出るので左折する。


 この道は「橘通り」と呼ばれる。


 1kmちょっと歩けば「尼崎市役所前」交差。左に曲がり市役所の前に立ってみよう。立派な庁舎だ。尼崎市は、兵庫県の南東角に位置し、面積は約51k㎡。人口約45万人の中核市である。人口は、神戸市、姫路市、西宮市に次いで県下第4位であるが、人口密度は兵庫県で最も高い。大阪市西淀川区、淀川区、大阪府豊中市と神崎川、左門殿川、猪名川を挟んで接する。


 市役所北側には「大韓民国民団尼崎支部」。在日の町なんだな。


 市役所東側の「橘公園」を抜け、「橘通り」に戻る。東へ。


 「X字」状の歩道橋が架かった交差点を渡ってから右へ。


 「尼崎総合医療センター」という大きな病院を左に見ながらさらに南へ。


 「梅の里」交差で午前中に歩いた「波洲通り」を左へ。


 「波洲橋」で「庄下川」を渡れば、左に「住友金属グループ」の工場。今は、新日鐵と統合経営してるのかな。この業界は、合併吸収が激しいからな。


 大正8年、「住友伸銅所尼崎工場」として開所。尼崎市でも最も大きな工場ではないだろうか。


 「西長洲」交差を左折。200mほどで「尼崎市記念公園」。体育館、野球場、陸上競技場などがある大きな公園だ。


大阪市に本社があるケーブルテレビ局「ベイ・コミュニケーションズ(ベイコム)」が命名権を取得しているようだ。


 野球場と総合体育館との間を抜ける。公園北側のカーブは「旧国鉄尼崎港線廃線跡」である。目の前をJR神戸線・福知山線が走る。


 国鉄福知山線の支線となる通称「尼崎港線(塚口~尼崎港)」は、昭和59年1月、廃線となった。


 「廃線跡」を東に750mほど歩けば、今朝出発したJR神戸線「尼崎駅」南口に到着。時間は午後3時30分。本日の歩紀「33971歩」(23.10km)。
 関西の人は、「尼崎」と聞けば、何か「近寄りがたい」雰囲気を感じるだろう。しかし、多くの「元号」が示すとおり、歴史を感じさせる町ですよ。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする