「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪24区を歩く~競艇の町「住之江区」

2013-09-20 21:38:42 | 日記
訪問日:平成26年10月11日(土)
出 発:地下鉄「北加賀屋駅」
到 着:地下鉄「玉出駅」

 かって一帯は「墨江」「住吉」「清江」と称し、「記紀」「万葉集」などでは、いずれも「すみのえ」と呼ばれていた。昭和18年、かつての「住吉郡」が大部分を占めた旧住吉区が「住吉区」「阿倍野区」「東住吉区」と分区された際、当時の住吉区役所があった阿倍野区が「住吉区」の名を引き継ぎ、住吉区は「住之江区」と名乗る予定であった。しかし、住吉大社周辺の住民らの反対に遭い、そのまま「住吉区」の名を引き継ぐ。そして、区西部が住吉区から分区される昭和49年まで「住之江区」の誕生を待たなければならなかった。
 区の西に広がる大阪湾が「大阪南港」として埋め立てられ、現在では「咲洲(さきしま)」と呼ばれる広大な埋立地が誕生し、面積20.8k㎡は24区中最大である。約12万6千の人口のうち3万人近くが海上都市「咲洲」で暮らすといわれる。
 区西部については、以前、「野里町歩紀~摂河泉をゆく~『みなとOSAKA』」で歩いた。そして大阪人が「住之江」と聞いて最初に思いつくのは「競艇」だろう。「住之江競艇場」では、連日、モーターボートの爆音が轟く。今回は「住之江競艇場」から区東部を歩く。


 地下鉄四つ橋線「北加賀屋駅」を午前9時50分発。
 

 4番出入口を出て「南港通」を西へ。目の前の「北加賀屋交差点」を渡り右折すると「加賀屋天満宮」が現れる。
 

 由緒は不詳であるが、住之江区のホームページによれば、後ほど触れる「新田開発」された江戸時代にまでさかのぼるらしい。一時荒廃し、昭和26年に再建されたそうだ。今日一日の安全を祈願する。
 

 「天神さん」なので「神牛像」がある。
 

 再度、「南港通」を東へ戻る。右に団地が並ぶので、11号棟と12号棟の間を右折しよう。
 

 左に「中加賀屋公園」を過ぎる。
 

 すぐにアーケードが現れる。「加賀屋商店街」。通称「ハイハイかがや」。
 

 脇にそれると、大阪独特の長屋が残る。
 

 「うだつ」のある長屋も。
 

 活気があるな。朝から酒屋さんも全開だ。
 

 途中、通りを渡れば「加賀屋本通商店街」と名を変える。「センターロード」と呼ばれているようだ。
 

 区民の生活を支えているという感じがする。450mほど続くアーケード街だ。
 

 アーケードを通り抜け、突き当たりまで進み左折。次の角を右折し「姫松橋」を渡る。
 

 横の説明文を見ると「古今集」にも読まれたほどの名所で、「住吉浦」と呼ばれた松原は、春になると潮干狩りで賑わったという。
 

 下を流れるのは「住吉川」。川と名前が付くが大阪湾に流れる水路である。
 

 お風呂屋さんの前を通りすぎる。
 

 住吉川を越えれば「御崎(みさき)」の町に入る。2つ目の信号を右折すれば、すぐ左側に「御崎警ら連絡所」。引き違い戸の小さな連絡所だ。
 

 赤い門灯が町を守る。
 

 警ら連絡所を過ぎると突き当たりに「住之江公園」が現れるので右に曲がり、公園入口に向かう。
 

 北の端には、「大池」と呼ばれる池や花壇などがある。
 

 

 ナイター設備と観客席のある立派な野球場。
 

 その他、グランドやテニスコート・温水プールなどがあるスポーツ公園だ。
 

 公園を通り抜け、一旦、「住之江通」に出て右に曲がると「大阪護国神社」の大鳥居の前に出る。
 

 護国神社は、「靖国神社」同様、戦没者を祀る神社であるが、靖国神社が単立宗教法人であるのに対し、護国神社は「神社本庁」に属し、東京都を除く各道府県に1社(一部複数)ずつある。
 

 かつての部隊の慰霊碑が並ぶ。
 

 神社前の「住之江公園前交差点」を歩道橋で渡る。この交差点下にある「住之江公園駅」が地下鉄四つ橋線の終点である。
 

 ここから高架の新交通システム「ニュートラム」がポートタウンと呼ばれる「咲洲」まで続き「コスモスクエア駅」で地下鉄中央線と連絡するが、詳細は「野里町歩紀~摂河泉をゆく~『みなとOsaka』」参照。
 

 そして、すぐ右側には「住之江競艇場」。「住之江」の名を全国区にしているのは、この競艇場だろう。「水上の格闘技、モーターボートレース」。私は、賭け事はまったくしないので、競艇がどのようなシステムで運営されているのか知らないが、自治体により結成された「組合」によって昭和31年6月に開設された公営ギャンブル場らしい。
 

 入場料100円を払えば誰でも場内に入れるそうだ。年間2/3以上レースが開催されており、訪問日は「堺市制125周年記念競走」開催日だったが、ナイターということで、まだレースは始まっておらず、開場は午後2時とのこと。「センタープール」と呼ばれるレース場も閉まっていた(歩道橋上から撮影)。
 

 無料のエントランス部分では、既に「舟券」の販売(投票?)が始まっており、多くの人が並んでいた。なんか「殺気」立っているな。
 

 片隅には食堂もある。「アタリ屋」とは縁起が良い名前だな。
 

 私は、ギャンブル場(賭場)の雰囲気が苦手なので、早々に競艇場を後にし「住之江公園前交差点」を南下する。
  

 ここから次の「南加賀屋4交差点」までの約500mの間には、左右にファーストフードやファミレス、チェーン系列の多くの飲食店が並ぶ。
 

 ハンバーガー・和食・洋食・中華・牛丼・寿司・焼肉・餃子・お好み焼き……。
 

 「南加賀屋4交差点」を渡って左折し「大和川通」を東に5分ほど歩く。左にコンビニと回転寿司店が見えれば、右に小さな路地があるので右折、南へ進むと古い街並みが見えてくる。かつて海だったこの辺りは、宝永元(1704)年、河内国今米村の庄屋「中甚兵衛」が大和川を付け替えたことから、「新大和川」が運ぶ砂による沖積平野となり、新田が開発されるようになった。
 

 「加賀屋緑地」。延喜2(1745)年、加賀屋甚兵衛という人物が、この辺りに新田を開発し、その拠点として設けられた「加賀屋新田会所」跡だ。大阪平野には多くの「新田会所」に関する史跡が残る。
  

 数寄屋風の屋敷や「愉園」と呼ばれる庭園が残る。入場は無料。
 

 

 大阪市有形文化財・史跡に指定されているそうだ。
 

 「会所跡」を出て南へ。一つ目の四つ角を右に曲がると左に何やらコンクリート造の屋根のようなものが。
 

 戦時中に造られた「防空壕」らしい。個人の所有で今は倉庫として使用されているそうだ。
 

 

 防空壕から西に進むと、ここにも古い町家が。井戸跡もある。
 

 そして、突き当たりに「高崎神社」。宝暦5(1755)年、加賀屋甚兵衛が水分神を勧請して建立。
 

 その後、天照大神・柿本人麻呂を合祀した。
 

 そしてすぐ南には、新田開発の元となった「大和川」が流れる。大和川は、淀川に次ぐ大阪第二の大河である。奈良県貝ケ平山を水源とし、「河内平野」に出た後、幾筋にも分かれて北に流れ、内海だった「河内湖」に注いでいた。その後、先の「中甚兵衛」が西へと開削し、大阪湾へと流れる(3つの柏原を訪ねる2「河内柏原」~高安山麓を東高野街道に沿って~参照)。
 

 堤防沿いに歩くと左に鎮守の森が見えてくるので堤防を下りる。
 

 「高砂神社」。同じく、加賀屋甚兵衛が、元文2(1737)年、水分神を勧請して建立した。
 

 火災により焼失し、天保6(1835)年に再建され、菅原道真ら多くの神々を祀る。
 

 その東側には「浄土真宗本願寺派祐貞寺」。御本尊は阿弥陀如来で、歌人・与謝野鉄幹が14歳までここで学んだという。
  

 その前には、今にも崩れそうな民家が。いずれ建て替えられる運命なのだろう。
 

 東には、現在の「国道26号線」。旧「紀州街道」が南北に走る。古代は、この辺りまで海だったと言われる。「阪神高速」の出口があり、向こう側には渡れないので、一旦、左折し、高架下を歩く。
 

 次の「北島交差点」で右折し、阪神高速の高架をくぐれば、大和川で大坂と奈良を結んだという「剣先船」が繋がれていた「十三間川せせらぎ」跡。昭和45年の高速道路建設により失われたが、昭和58年、遊歩道として再現された。
 

 「大和川通」を東に進む。かつて、ここには「西住之江温泉」という銭湯跡があったのだが、取り壊し中のようだ。
 

 こんな建物だったんだが。多くの古い建物がなくなっていくな。残念。(平成22年7月18日撮影)
 

 南海本線高架下の「三宝地蔵尊」前を通り、さらに東へ。
 

 この建物は酒屋さんなのだが、「薄切りのチーズ」のようだ。
 

 そして酒屋さんの向こうを右に曲がる。時間は午後12時15分。今日の昼食は「味の洋食とん助」。隣には町家を利用した「酒仙坊九十九」が。
 

 「トンカツ定食大(1000円)」を注文する。
 

 「とん助」の向かいにも古い町家が。
 
 
 「大和川通」を挟んで向かい側にアーケードが見える。「安立本通り商店街」。「安立」と書いて「あんりゅう」と読む。
 

 付近住民の生活を支えてきた商店街は「旧紀州街道」だ。
 

 「うなぎ」は、どうなるんだろう。
 

 街道らしい建物が残る。
 

 アーケードを出たところにも「虫籠窓」の立派な町家が。
 

 

 信号を渡るとすぐに小さなお社が現れる。
 

 「霰松原神社」。周りは小さな公園になっている。この辺りは、江戸時代まで白砂青松の海岸だったらしい。松原が「霰(あられ)」を吹き付けるように轟いたことから「霰松原」と呼ばれたそうだが、今は住宅街の真ん中だ。
 

 「安立町役場」があったようだ。後ろの「大木」も「土蔵」も立派だ。
 

 良いね。このパーマ屋さん。
 

 ここは町家を利用したカフェのようだ。
 

 もうしばらく街道を行く。
 

 「安立1交差点」で「長居公園通」を渡る。
 

 ここにも古い町家。
 

 100mほどで「細井川」という水路に架かる「御祓橋」に出る。「お祓い?」。なんか「神道」チックな名前だな。そう、川の向こうは「住吉大社」。橋を渡れば「住吉区」になるので、橋の手前を左折、川沿いに歩く。
 

 この川は、旧淀川の支流で、下流部分が今朝渡った「住吉川」である。
 

 南海本線をくぐり150mほどで「江川橋」という橋に出る。橋を渡れば「住吉公園」へと続く。
 

ここの角にも古い町家が。
 

 「住吉公園」。明治6(1873)年に指定された府営公園。分区前の「住吉区」に属したことからこのように呼ばれるが、今は「住之江区」に位置する。
 

 かつて「住吉大社」の境内であったが、今は「心字池」という池を中心に野球場や体育館などを備えたスポーツ公園になっている。
 

 

 

 かつては海辺だったのだろう。松の木が多い。
 

公園西の「国道26号線」の向こう側には「住吉高燈籠」。
 

 鎌倉時代に創建されたという高さ16mの常夜灯で、わが国最初の灯台と言われる。元は約200mほど西にあったものが、台風で倒壊した後、昭和49年、この場所に移転・再建された。内部は、史料館になっているが、第1・3日曜日のみの開館のため見学はできなかった。
 

 公園は「住吉大社」の参道でもある。石燈籠が並ぶ。
 

 公園東の南海本線「住吉大社駅」のすぐ東は、摂津一の宮「住吉大社」である(「住吉区」編参照)。
 

 そして「住吉大社駅」西口から続く「粉浜商店街」。
 

 「粉浜」と書いて「こはま」と読む。住吉大社の門前でもあり、活気あふれる商店街だ。
 

 お地蔵さんの隣には、ちょっと良い感じの喫茶店。
 

 ここで商店街は二手に分かれる。
 

 再度、合流したところで約630mのアーケードは途切れる。「粉浜街道」というらしい。
 

 「市立粉浜小学校」の庭には「二宮金次郎」の像。
 

 さらに「粉浜街道」を進む。この交番も良い感じだな。
 

 ここにも古い民家が残る。
 

 ほどなく国道26号線と合流し、午後1時50分、本日のゴール「玉出交差点」に到着。交差点下には、地下鉄四つ橋線「玉出駅」。今朝スタートした「北加賀屋駅」の1つ手前の駅だ。西成区との区境になっており、駅自体は「西成区」になる。
 

 今日は早めのゴールだったな。本日の歩紀「18190歩」(15.64km)。3番出入口前には「大阪府住之江警察署玉出交通警察官詰所」。
 
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