訪問日:平成26年3月29日(土)
出 発:近鉄電車「鶴橋駅」
到 着:JR「寺田町駅」
昭和18年の区編制により「東成区」から分区。人口約13万2千人のうち約4分の1の人が韓国・朝鮮にルーツを有する人たちといわれる「在日コリアン」の町である。これは戦前、区中央を南北に流れる「平野川」の工事に朝鮮半島出身者多数が携わり、彼らの「飯場」が生野区周辺に点在したからと言われる。その子孫たちは「特別永住者」と呼ばれ、東京の上野や新大久保などのように「ニューカマー」と呼ばれる人たちで構成される「コリアタウン」とは本質的に異なる。
しかし、生野区は「日本書紀」にも登場する古代朝鮮半島ともつながりが深い地で「百済野」と呼ばれた地域の一部でもある。「イデオロギー」や「ナショナリズム」を離れ、多くの史跡を訪ねながら、桜には2,3日早い「在日」の町を歩いてみよう。
午前10時「近鉄鶴橋駅東口」を出発。鶴橋駅は、地下鉄の他、南北に走るJR大阪環状線とクロスするように近鉄電車が交わり「大阪線」と「奈良線」が併走する。東口は、ちょうど近鉄ガード下に位置するが、近鉄線が東成区との区境になっており、ここは「生野区」だ。
駅から右(南)に進むと「赤い(キムチ)世界」に突入する。
鶴橋駅前は「東成区」「天王寺区」「生野区」との境界となっているが、「東成区」「天王寺区」側が観光客や遠方からの買い物客を相手とした商店街・飲食店街であるのに対し、「生野区」側は、駅のすぐ前から住宅地であるのが特徴だ。多くの「在日」の人たちが暮らす。
そのため肉屋にしてもキムチ屋にしても、どちらかと言えば地元の人たちを相手にした店が多いようだ。
ただ、やはり駅前なので韓国料理店なども多い。
そして、もう一つの特徴は、駅を出たところに「大阪鶴橋鮮魚市場」通称「鶴橋卸売市場」が広がる。
マグロなど鮮魚を専門に扱う店が40以上並ぶ。なお、近鉄電車は、伊勢方面からの鮮魚行商人専用列車を毎朝運行しており、電車の行き先表示には「鮮魚」と表示されているという。いろいろなブログで紹介されているので興味のある人はどうぞ。
卸売市場から続く「鶴橋本通商店街」に進む。特に「コリアタウン」というわけではなく、普通の肉屋さんや乾物屋さんなどが並ぶ。
この辺りは昔、「鶴橋警察署」という古い警察署の跡があったのだが……。私も昭和の終わりころに訪れたことがあるが、当時はアパートに改装されており、古い門のような入口をくぐると中庭を囲むように居室が並んでいたように記憶する。
その他、NHK連続ドラマ「てっぱん」のロケが行われたというレトロな銭湯もあったのだが、今は駐車場になってしまった。赤いレンガ塀だけが当時の姿をとどめる。
ただ、場所柄、韓国系の店も多い。
韓国系の仏教寺院も。
「在日のまち」らしい風景①
300mほどのアーケードは、突然、大きな通りに出る。「通り」といっても、どんな都市計画だったのだろうか、4車線に中央分離帯、広い歩道に街路樹が並ぶ立派な道路が東西に300mほど走るが、両端とも細街路に突き当たる。
その通りを横断し、さらに進むと「桃谷2丁目」。
古い屋敷や街並みが残る。
この辺りは、生野区では珍しく日本人が「密集」する地域だ。
その一角に「弥栄神社」がある。
旧牛頭天王社で素戔嗚尊(スサノオノミコト)等を祀る。今日一日の安全を祈願する。
神社の前を東に進めば、すぐに「コリアタウン」に出るのだが、後ほど訪れることにする。とりあえず南の方向に進もう。
市立鶴橋小学校の横を通り、さらに南へ進むと路地は大きな道路と交わる。やたらだだっ広いこの道は、戦時中、空襲時の延焼防止と避難路を確保するため開かれた「疎開道路」と呼ばれる道だ。まだ「疎開(そかい)」という言葉が残る町「生野」。
疎開道路を横断し、前に見えるコンビニの裏に向かう。「つるのはし跡」。日本書紀には「猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」と記され、この橋が文献上、日本最古の橋と言われる。後に付近にはたくさんの鶴が舞っていたことから「つるのはし」と呼ばれるようになり、それが「鶴橋」という地名の由来であると言われる。
今は、明治時代に付け替えられた橋の親柱4本とともに記念碑が建てられている。
さらに路地を進むと「猪飼野保存会」。この辺りは「猪甘の津(いかいのつ)」あるいは、猪を飼育する技術(養豚?)を持った渡来人が多く住んだという言い伝えから「猪飼野(いかいの)」と呼ばれていた。長らく住居表示として使われてきたが、昭和48年の住居表示変更により行政区名から「猪飼野」の名が消え、今はバス停や団体・施設等の名称に名をとどめるだけだ。会館前には慶應2(1866)年に建てられた道標が残る。「右、八尾・久宝寺・信貴山」「左、大阪」と掘られている。路地を大阪方面(北)に進む。
南下した分200mほど進むと、再度、疎開道路と交わる。そこには「御幸森神社」。正式には「御幸森天神宮」という。
仁徳天皇などを御祭神とする。その他、境内社として「菅原神社」や「御幸森戎」などが祀られている。
今でも天皇が外出することを「行幸(ぎょうこう)」と言うが、またの呼び方を「御幸」とも言い、仁徳天皇が見聞の際、度々この地で休憩されたことから「御幸の森」と呼ばれるようになったのが社名の由来と言われる。
そして神社の北から東に450mほどの商店街が延びる。「御幸森商店街」と言うが、今では「コリアタウン」と呼ばれている。かつては「朝鮮市場」と呼ばれ「在日」以外の者は近寄り難い雰囲気があった。今では横浜や神戸の「中華街」ほどではないが、カラー舗装され「宮廷門」風のゲートなども設けられるなど観光地としての雰囲気を盛り上げている。
お店も観光客向けの店が多い。
「韓流ブーム」に乗り、韓流スターのブロマイドなどを売る店もできている。
韓国疑似体験を楽しむ女性や修学旅行生の姿も見られるようになった。
この角を左(北)に曲がる。
この南北の筋は「一条通商店街」と呼ばれる。ちょっと道をそれてみよう。
230mほどで左に「韓国会館」。韓国民団生野西支部などが入る。この先、一条通商店街は近鉄ガードまで250mほど続くが、ここでUターンする。
コリアタウンを過ぎ、今度は一条通商店街を南に進む。路地を右に入れば「東大阪朝鮮第4初級学校」。総連系の民族学校だ。
「在日のまち」らしい風景②
一条通商店街に戻り、さらに進めば「市立御幸森小学校」。ここは公立の学校だが児童の半数以上が在日コリアンと言われる。しかし、日の丸・君が代で入学式や卒業式が挙行されている(はずだ)。
御幸森小学校の斜め向かいには「大阪朝鮮会館」。朝鮮総連生野西支部などが入る。会館の斜め向かいには「明生座」という大衆劇場。昔はなかったのだが。新しくできたようだ。
コリアタウンまで戻る。
ここがコリアタウンの最東端。
目の前には「平野川」に架かる「御幸橋」。平野川は、古代、旧大和川から北に向かって幾筋にも分かれて流れれていた川のひとつで、一帯が「百済野」と呼ばれていたことから「百済川」とも呼ばれた。大正時代、曲がりくねった川が改修されたことから運河のようになっている。実は、この改修工事に多くの朝鮮半島出身者が従事したことから生野区周辺が「在日」の町になったといわれる。
中川西2丁目の町を抜ける。かつて韓国済州島と大阪の間に定期船が運航されていたことから大阪の「在日」の大半は済州島出身者で占められる。済州島は離島であることから言葉に独特の訛りがある。韓国内での標準語教育と情報伝達手段の発達により方言が廃れたため、生野区までわざわざ済州島方言研究のため韓国の学術調査団が来たことがあったと言われる。
こんな所にも「猪飼野(イカイノ)」の名が残る。
今里筋という大きな通りに出たところに「韓国大阪教会」。近鉄電車からも見える大きなキリスト教会だ。
「在日のまち」らしい風景③
今里筋を渡り南へ。時間は午前11時40分。ちょっと早いが昼食にする。せっかく生野区に来たのだから今日は韓国料理にしよう。観光客でも気兼ねなく入れる店も多くなった。今里筋沿いにある「冷麺館」に入る。
「ビビンバ定食」(1200円)を注文する。この後「ミニ冷麺(といっても結構大きい)」が出てきた。
食事を終え、冷麺館から少し南へ。斜めに入る路地の入口に「北向子育地蔵尊」。
そのすぐ南に「韓国民団生野中央支部」。
「北向子育地蔵尊」の先まで戻り路地を東へ。中川4丁目を抜ける。
結構、古い建物が多い。
町工場。生野区も「東成区」や「東大阪市」同様、「ものづくりの町」である。
市立中川小学校の横を北に進む。
300mほどで大きな通りに出るので交差点を右(東)に曲がろう。
この通りにも古い建物が残っている。
150mほどで左に大きな公園が、「新今里公園」だ。
そしてその南に「今里新地」が広がる。
ここは、いわゆる歓楽街となっている。場所柄、韓国クラブやラウンジが多い。
しかし、韓国料亭や高級クラブも多い。ちょっと一見で入れるようなところではない。
いわゆるコリア系の歓楽街といった趣がある。ただ、日本の料亭なども多い。
なぜなら、ここは「新地」の名からもわかるとおり「旧赤線地帯」なのだ。
今も多くの「料理店」が並ぶ。ちょっとDEEPな地域だ。
今里新地の東端に大きな天理教教会がある。私は小さい頃、詳しい知識はなかったが、漠然と「韓国には大きな門(南大門?)がある」という印象があった。そして、近鉄電車から見える、この天理教会の大屋根を中心に生野の町は広がってると勝手に思っていた。
その教会裏から「平野川分水路」を渡る。この川は、平野川を補完する治水対策で昭和4年に開削された運河だ。平野川とともに「城東区編」「東成区編」でも幾度か渡った。この工事にも多くの朝鮮半島出身者が従事したと言われる。
高い堤防が「下町感」を漂わせる。
運河沿いに北上。市立東生野中学校を過ぎたところで右折し東へ。200mほどで「小路」の町へ入る。この辺りは「片江」と呼ばれる地域らしい。
古い町だ。
市立小路小学校を過ぎる。
左に「清見原神社」が現れる。
「古事記」編纂を命じた天武天皇等を祀る。由緒の詳細は不詳だが、天武天皇が飛鳥浄御原(きよみはら)宮から大阪に行幸される際、しばしば休憩されたことが社名の由来と言われる。
神社前の路地を西へ。何でもない町を抜けるが、結構、興味をそそるような古いアパートや工場が並ぶ。
市立東生野中学校の角を左折する。次の角に「生野東朝鮮会館」。朝鮮総連生野東支部などが入る。
会館前の「東中川公園」は、桜が満開だった。公園の横には、何か古い建物が。
東中川公園東側の道を南へ。突き当たりを左折し、2つ目の路地を右に折れると「翠岩頌徳記念会館」。「釈翠岩の墓所」と「頌徳碑」が記念館の敷地内あるようだが、門は閉まっていた。
鉄扉からカメラを差し入れ、「釈翠岩墓所」を撮影する。翠岩とは「住吉屋太郎右衛門」というこの村出身の篤志家で、私財を投じ橋の架設や道路工事、社寺への寄付などで功績がある人物だという。
ここからしばらくの間、特に旧跡等はない。旧川筋だろうか、蛇行した道が続く。
10分ほどで「中西朝鮮会館」前を通過する。朝鮮総連中西支部などが入る。
西に進むと、結構古い家が残る。
「西足代青年会館」横には「宮跡碑」と「だんじり庫」が並ぶ。
「下丁ノ田橋」で平野川分水路を渡る。
「在日のまち」らしい風景④
左手に「巽公園」という大きな公園がある。
その北には「ロート製薬本社」。明治32(1899)年、胃腸薬や目薬を扱う「信天堂山田安民薬房」として創業。昭和24(1949)年「ロート製薬株式会社」と改組。「アップダウンクイズ」というクイズ番組のスポンサーとして放映されたコマーシャル、
「ロート、ロート、ロート。
ロート、ロート、ロート。
ロートせ~いや~く(製薬)。」
というのは、ここである(建物は建て替えられている)。
公園で「朝鮮囲碁」に興じる老人。生野ではよく見られる風景だ。
巽公園南東角から南へ400mほど歩く。この辺りも町工場が多い。
右に「生野朝鮮初級学校」。
その南に少しおいて「東大阪朝鮮中級学校」と総連系の民族学校が並ぶ。
中級学校から2本南の道路を西へ。結構、古い家が残っているな。
突き当たると「市立田島中学校」前に出る。ちょうど鋭角上に校門がある。
そのすぐ前にも古い住宅。
校門前を北に進み、郵便局の横から路地に入る。この辺りには、古い街並みが残る。
そして、その北側には「田島神社」。由緒は不詳だが地元では「天神さん」と呼ばれる。鳥居の横には「めがね屋さん」。
この辺りが、わが国の「眼鏡レンズ発祥之地」らしく、境内には石碑が建てられている。
菅原道真も祀られ境内には「御神牛」像も見られるが、主祭神は「少彦名命」だ。
神社を出て、大池商店街という路地を北に歩いて行く。商店街というが、半分くらいは店を閉め、一般の住宅になっている。お風呂屋さんを過ぎれば左へ。
「生野南朝鮮会館」。朝鮮総連生野南支部などが入る。インターネットで調べると生野区内には朝鮮総連の支部が4つ、韓国民団の支部が3つあるようだ。
北に進むと道は自然と今里筋に交わる。その角に「御幸森天神宮御旅所」。
そして、すぐ目の前は、今里筋と勝山通りが交わる「大池橋交差点」。大阪国際女子マラソンは、ここで直角に曲がる。
大池橋交差点から「勝山通り」を西に進む。280mほどで右側に「大阪府生野めん食会館」。何年頃の築だろう。結構、レトロな建物だ。
勝山通りを挟んで向かいには、よく見かける古い住宅。ただ、ここは3階建てだ。
その端には「韓国人会館」。韓国民団生野南支部などが入る。
民団の筋向かいにも立派な3階建ての住宅が残る。
「在日のまち」らしい風景⑤
さらに進む。次の信号を渡れば「御勝山古墳」。全長約150mの前方後円墳だが、勝山通りが中央を横切り「前」「後」が分断され歩道橋が渡る。
勝山通北側の「後円部」は、史蹟として保存されている。
一説では中臣氏の祖「大小橋命」の墓と言われているが、大阪夏の陣の際、徳川秀忠がここで勝宴を催したことから「御勝山」と呼ばれるようになった。茶臼山古墳(天王寺区)、帝塚山古墳(阿倍野区)、聖天山古墳(阿倍野区)と並ぶ大阪市内4大古墳のひとつである。
歩道橋から望むと後円部の中腹に「大阪府立農學校址」の碑。
御勝山公園脇に建つ「赤煉瓦」の門柱は、その名残だろうか。
南側の「前方部」は崩され「御勝山公園」となっている。
御勝山公園から路地を南に進む。古い家並みが残る。
200mほどで「舎利尊勝寺」。1400年前、聖徳太子により創建されたと伝わる。
現在は黄檗宗の寺院だ。
本尊は「聖観世音菩薩」。脇仏として「聖徳太子」「韋駄天像」を祀る。
その南隣には「生野神社」。旧牛頭天王社であり素戔嗚尊を祀る。
鳥居には「宝永7(1710)年」の刻銘がある。
400mほど南下し、市立生野小学校を通り過ぎて路地を右に入る。
すぐに「地蔵尊」が見えてくる。「林智地蔵尊」。屋根の部分を入れると3m四方はある大きな地蔵尊だ。
その先に見えるのは「生野八坂神社」。正面に回る。
ここも八坂の名のとおり「素戔嗚尊」を祀る。
そして、ここから900mほど「生野本通商店街」という長いアーケード街が続く。
「イクノ銀座街」「ベルロード中銀座」「IKUNOセンター街」と名を変えながら続く。
結構、賑やかな商店街だ。
「スーパー玉出」の手前で路地を左に曲がってみよう。「林寺温泉」。レンガ造りの門柱があるだけで、特に何でもない「お風呂屋さん」であるが……。
公衆電話が「売り」というのが気に入った。
疎開道路が横切るため、一旦、アーケードが途切れるが、すぐにアーケードが現れる。「ほんどーり」と名を変える。
アーケードに入ってすぐに路地を左折。そこには「源ケ橋温泉」。昭和12年築のレトロなお風呂屋さんだ。屋根には「シャチホコ」。
「自由の女神像」。「ニューヨーク」と「入浴」のダジャレらしい。
平成10年、銭湯として全国で初めて登録有形文化財に指定されている。
5~6分でアーケードは終わる。そこは、国道25号線「源ケ橋交差」。源ケ橋とは、かつてこの辺りを流れていた旧大和川の支流「猫間川」に架かっていた橋のことらしい。
国道から南(左)は「阿倍野区」だ。目の前にJR大阪環状線のガードが見える。
JR環状線沿いに「猫間川公園」。今は、このように公園や路地に名をとどめるだけだ。
午後3時30分、ゴールである「JR寺田町駅」に到着。JR大阪環状線から西は「天王寺区」。ここも3区の接点になるが駅舎は天王寺区に所在する。鉄骨むき出しのガード下駅がレトロ感を漂わせる。本日の歩紀「24280歩」(20,88km)。
出 発:近鉄電車「鶴橋駅」
到 着:JR「寺田町駅」
昭和18年の区編制により「東成区」から分区。人口約13万2千人のうち約4分の1の人が韓国・朝鮮にルーツを有する人たちといわれる「在日コリアン」の町である。これは戦前、区中央を南北に流れる「平野川」の工事に朝鮮半島出身者多数が携わり、彼らの「飯場」が生野区周辺に点在したからと言われる。その子孫たちは「特別永住者」と呼ばれ、東京の上野や新大久保などのように「ニューカマー」と呼ばれる人たちで構成される「コリアタウン」とは本質的に異なる。
しかし、生野区は「日本書紀」にも登場する古代朝鮮半島ともつながりが深い地で「百済野」と呼ばれた地域の一部でもある。「イデオロギー」や「ナショナリズム」を離れ、多くの史跡を訪ねながら、桜には2,3日早い「在日」の町を歩いてみよう。
午前10時「近鉄鶴橋駅東口」を出発。鶴橋駅は、地下鉄の他、南北に走るJR大阪環状線とクロスするように近鉄電車が交わり「大阪線」と「奈良線」が併走する。東口は、ちょうど近鉄ガード下に位置するが、近鉄線が東成区との区境になっており、ここは「生野区」だ。
駅から右(南)に進むと「赤い(キムチ)世界」に突入する。
鶴橋駅前は「東成区」「天王寺区」「生野区」との境界となっているが、「東成区」「天王寺区」側が観光客や遠方からの買い物客を相手とした商店街・飲食店街であるのに対し、「生野区」側は、駅のすぐ前から住宅地であるのが特徴だ。多くの「在日」の人たちが暮らす。
そのため肉屋にしてもキムチ屋にしても、どちらかと言えば地元の人たちを相手にした店が多いようだ。
ただ、やはり駅前なので韓国料理店なども多い。
そして、もう一つの特徴は、駅を出たところに「大阪鶴橋鮮魚市場」通称「鶴橋卸売市場」が広がる。
マグロなど鮮魚を専門に扱う店が40以上並ぶ。なお、近鉄電車は、伊勢方面からの鮮魚行商人専用列車を毎朝運行しており、電車の行き先表示には「鮮魚」と表示されているという。いろいろなブログで紹介されているので興味のある人はどうぞ。
卸売市場から続く「鶴橋本通商店街」に進む。特に「コリアタウン」というわけではなく、普通の肉屋さんや乾物屋さんなどが並ぶ。
この辺りは昔、「鶴橋警察署」という古い警察署の跡があったのだが……。私も昭和の終わりころに訪れたことがあるが、当時はアパートに改装されており、古い門のような入口をくぐると中庭を囲むように居室が並んでいたように記憶する。
その他、NHK連続ドラマ「てっぱん」のロケが行われたというレトロな銭湯もあったのだが、今は駐車場になってしまった。赤いレンガ塀だけが当時の姿をとどめる。
ただ、場所柄、韓国系の店も多い。
韓国系の仏教寺院も。
「在日のまち」らしい風景①
300mほどのアーケードは、突然、大きな通りに出る。「通り」といっても、どんな都市計画だったのだろうか、4車線に中央分離帯、広い歩道に街路樹が並ぶ立派な道路が東西に300mほど走るが、両端とも細街路に突き当たる。
その通りを横断し、さらに進むと「桃谷2丁目」。
古い屋敷や街並みが残る。
この辺りは、生野区では珍しく日本人が「密集」する地域だ。
その一角に「弥栄神社」がある。
旧牛頭天王社で素戔嗚尊(スサノオノミコト)等を祀る。今日一日の安全を祈願する。
神社の前を東に進めば、すぐに「コリアタウン」に出るのだが、後ほど訪れることにする。とりあえず南の方向に進もう。
市立鶴橋小学校の横を通り、さらに南へ進むと路地は大きな道路と交わる。やたらだだっ広いこの道は、戦時中、空襲時の延焼防止と避難路を確保するため開かれた「疎開道路」と呼ばれる道だ。まだ「疎開(そかい)」という言葉が残る町「生野」。
疎開道路を横断し、前に見えるコンビニの裏に向かう。「つるのはし跡」。日本書紀には「猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」と記され、この橋が文献上、日本最古の橋と言われる。後に付近にはたくさんの鶴が舞っていたことから「つるのはし」と呼ばれるようになり、それが「鶴橋」という地名の由来であると言われる。
今は、明治時代に付け替えられた橋の親柱4本とともに記念碑が建てられている。
さらに路地を進むと「猪飼野保存会」。この辺りは「猪甘の津(いかいのつ)」あるいは、猪を飼育する技術(養豚?)を持った渡来人が多く住んだという言い伝えから「猪飼野(いかいの)」と呼ばれていた。長らく住居表示として使われてきたが、昭和48年の住居表示変更により行政区名から「猪飼野」の名が消え、今はバス停や団体・施設等の名称に名をとどめるだけだ。会館前には慶應2(1866)年に建てられた道標が残る。「右、八尾・久宝寺・信貴山」「左、大阪」と掘られている。路地を大阪方面(北)に進む。
南下した分200mほど進むと、再度、疎開道路と交わる。そこには「御幸森神社」。正式には「御幸森天神宮」という。
仁徳天皇などを御祭神とする。その他、境内社として「菅原神社」や「御幸森戎」などが祀られている。
今でも天皇が外出することを「行幸(ぎょうこう)」と言うが、またの呼び方を「御幸」とも言い、仁徳天皇が見聞の際、度々この地で休憩されたことから「御幸の森」と呼ばれるようになったのが社名の由来と言われる。
そして神社の北から東に450mほどの商店街が延びる。「御幸森商店街」と言うが、今では「コリアタウン」と呼ばれている。かつては「朝鮮市場」と呼ばれ「在日」以外の者は近寄り難い雰囲気があった。今では横浜や神戸の「中華街」ほどではないが、カラー舗装され「宮廷門」風のゲートなども設けられるなど観光地としての雰囲気を盛り上げている。
お店も観光客向けの店が多い。
「韓流ブーム」に乗り、韓流スターのブロマイドなどを売る店もできている。
韓国疑似体験を楽しむ女性や修学旅行生の姿も見られるようになった。
この角を左(北)に曲がる。
この南北の筋は「一条通商店街」と呼ばれる。ちょっと道をそれてみよう。
230mほどで左に「韓国会館」。韓国民団生野西支部などが入る。この先、一条通商店街は近鉄ガードまで250mほど続くが、ここでUターンする。
コリアタウンを過ぎ、今度は一条通商店街を南に進む。路地を右に入れば「東大阪朝鮮第4初級学校」。総連系の民族学校だ。
「在日のまち」らしい風景②
一条通商店街に戻り、さらに進めば「市立御幸森小学校」。ここは公立の学校だが児童の半数以上が在日コリアンと言われる。しかし、日の丸・君が代で入学式や卒業式が挙行されている(はずだ)。
御幸森小学校の斜め向かいには「大阪朝鮮会館」。朝鮮総連生野西支部などが入る。会館の斜め向かいには「明生座」という大衆劇場。昔はなかったのだが。新しくできたようだ。
コリアタウンまで戻る。
ここがコリアタウンの最東端。
目の前には「平野川」に架かる「御幸橋」。平野川は、古代、旧大和川から北に向かって幾筋にも分かれて流れれていた川のひとつで、一帯が「百済野」と呼ばれていたことから「百済川」とも呼ばれた。大正時代、曲がりくねった川が改修されたことから運河のようになっている。実は、この改修工事に多くの朝鮮半島出身者が従事したことから生野区周辺が「在日」の町になったといわれる。
中川西2丁目の町を抜ける。かつて韓国済州島と大阪の間に定期船が運航されていたことから大阪の「在日」の大半は済州島出身者で占められる。済州島は離島であることから言葉に独特の訛りがある。韓国内での標準語教育と情報伝達手段の発達により方言が廃れたため、生野区までわざわざ済州島方言研究のため韓国の学術調査団が来たことがあったと言われる。
こんな所にも「猪飼野(イカイノ)」の名が残る。
今里筋という大きな通りに出たところに「韓国大阪教会」。近鉄電車からも見える大きなキリスト教会だ。
「在日のまち」らしい風景③
今里筋を渡り南へ。時間は午前11時40分。ちょっと早いが昼食にする。せっかく生野区に来たのだから今日は韓国料理にしよう。観光客でも気兼ねなく入れる店も多くなった。今里筋沿いにある「冷麺館」に入る。
「ビビンバ定食」(1200円)を注文する。この後「ミニ冷麺(といっても結構大きい)」が出てきた。
食事を終え、冷麺館から少し南へ。斜めに入る路地の入口に「北向子育地蔵尊」。
そのすぐ南に「韓国民団生野中央支部」。
「北向子育地蔵尊」の先まで戻り路地を東へ。中川4丁目を抜ける。
結構、古い建物が多い。
町工場。生野区も「東成区」や「東大阪市」同様、「ものづくりの町」である。
市立中川小学校の横を北に進む。
300mほどで大きな通りに出るので交差点を右(東)に曲がろう。
この通りにも古い建物が残っている。
150mほどで左に大きな公園が、「新今里公園」だ。
そしてその南に「今里新地」が広がる。
ここは、いわゆる歓楽街となっている。場所柄、韓国クラブやラウンジが多い。
しかし、韓国料亭や高級クラブも多い。ちょっと一見で入れるようなところではない。
いわゆるコリア系の歓楽街といった趣がある。ただ、日本の料亭なども多い。
なぜなら、ここは「新地」の名からもわかるとおり「旧赤線地帯」なのだ。
今も多くの「料理店」が並ぶ。ちょっとDEEPな地域だ。
今里新地の東端に大きな天理教教会がある。私は小さい頃、詳しい知識はなかったが、漠然と「韓国には大きな門(南大門?)がある」という印象があった。そして、近鉄電車から見える、この天理教会の大屋根を中心に生野の町は広がってると勝手に思っていた。
その教会裏から「平野川分水路」を渡る。この川は、平野川を補完する治水対策で昭和4年に開削された運河だ。平野川とともに「城東区編」「東成区編」でも幾度か渡った。この工事にも多くの朝鮮半島出身者が従事したと言われる。
高い堤防が「下町感」を漂わせる。
運河沿いに北上。市立東生野中学校を過ぎたところで右折し東へ。200mほどで「小路」の町へ入る。この辺りは「片江」と呼ばれる地域らしい。
古い町だ。
市立小路小学校を過ぎる。
左に「清見原神社」が現れる。
「古事記」編纂を命じた天武天皇等を祀る。由緒の詳細は不詳だが、天武天皇が飛鳥浄御原(きよみはら)宮から大阪に行幸される際、しばしば休憩されたことが社名の由来と言われる。
神社前の路地を西へ。何でもない町を抜けるが、結構、興味をそそるような古いアパートや工場が並ぶ。
市立東生野中学校の角を左折する。次の角に「生野東朝鮮会館」。朝鮮総連生野東支部などが入る。
会館前の「東中川公園」は、桜が満開だった。公園の横には、何か古い建物が。
東中川公園東側の道を南へ。突き当たりを左折し、2つ目の路地を右に折れると「翠岩頌徳記念会館」。「釈翠岩の墓所」と「頌徳碑」が記念館の敷地内あるようだが、門は閉まっていた。
鉄扉からカメラを差し入れ、「釈翠岩墓所」を撮影する。翠岩とは「住吉屋太郎右衛門」というこの村出身の篤志家で、私財を投じ橋の架設や道路工事、社寺への寄付などで功績がある人物だという。
ここからしばらくの間、特に旧跡等はない。旧川筋だろうか、蛇行した道が続く。
10分ほどで「中西朝鮮会館」前を通過する。朝鮮総連中西支部などが入る。
西に進むと、結構古い家が残る。
「西足代青年会館」横には「宮跡碑」と「だんじり庫」が並ぶ。
「下丁ノ田橋」で平野川分水路を渡る。
「在日のまち」らしい風景④
左手に「巽公園」という大きな公園がある。
その北には「ロート製薬本社」。明治32(1899)年、胃腸薬や目薬を扱う「信天堂山田安民薬房」として創業。昭和24(1949)年「ロート製薬株式会社」と改組。「アップダウンクイズ」というクイズ番組のスポンサーとして放映されたコマーシャル、
「ロート、ロート、ロート。
ロート、ロート、ロート。
ロートせ~いや~く(製薬)。」
というのは、ここである(建物は建て替えられている)。
公園で「朝鮮囲碁」に興じる老人。生野ではよく見られる風景だ。
巽公園南東角から南へ400mほど歩く。この辺りも町工場が多い。
右に「生野朝鮮初級学校」。
その南に少しおいて「東大阪朝鮮中級学校」と総連系の民族学校が並ぶ。
中級学校から2本南の道路を西へ。結構、古い家が残っているな。
突き当たると「市立田島中学校」前に出る。ちょうど鋭角上に校門がある。
そのすぐ前にも古い住宅。
校門前を北に進み、郵便局の横から路地に入る。この辺りには、古い街並みが残る。
そして、その北側には「田島神社」。由緒は不詳だが地元では「天神さん」と呼ばれる。鳥居の横には「めがね屋さん」。
この辺りが、わが国の「眼鏡レンズ発祥之地」らしく、境内には石碑が建てられている。
菅原道真も祀られ境内には「御神牛」像も見られるが、主祭神は「少彦名命」だ。
神社を出て、大池商店街という路地を北に歩いて行く。商店街というが、半分くらいは店を閉め、一般の住宅になっている。お風呂屋さんを過ぎれば左へ。
「生野南朝鮮会館」。朝鮮総連生野南支部などが入る。インターネットで調べると生野区内には朝鮮総連の支部が4つ、韓国民団の支部が3つあるようだ。
北に進むと道は自然と今里筋に交わる。その角に「御幸森天神宮御旅所」。
そして、すぐ目の前は、今里筋と勝山通りが交わる「大池橋交差点」。大阪国際女子マラソンは、ここで直角に曲がる。
大池橋交差点から「勝山通り」を西に進む。280mほどで右側に「大阪府生野めん食会館」。何年頃の築だろう。結構、レトロな建物だ。
勝山通りを挟んで向かいには、よく見かける古い住宅。ただ、ここは3階建てだ。
その端には「韓国人会館」。韓国民団生野南支部などが入る。
民団の筋向かいにも立派な3階建ての住宅が残る。
「在日のまち」らしい風景⑤
さらに進む。次の信号を渡れば「御勝山古墳」。全長約150mの前方後円墳だが、勝山通りが中央を横切り「前」「後」が分断され歩道橋が渡る。
勝山通北側の「後円部」は、史蹟として保存されている。
一説では中臣氏の祖「大小橋命」の墓と言われているが、大阪夏の陣の際、徳川秀忠がここで勝宴を催したことから「御勝山」と呼ばれるようになった。茶臼山古墳(天王寺区)、帝塚山古墳(阿倍野区)、聖天山古墳(阿倍野区)と並ぶ大阪市内4大古墳のひとつである。
歩道橋から望むと後円部の中腹に「大阪府立農學校址」の碑。
御勝山公園脇に建つ「赤煉瓦」の門柱は、その名残だろうか。
南側の「前方部」は崩され「御勝山公園」となっている。
御勝山公園から路地を南に進む。古い家並みが残る。
200mほどで「舎利尊勝寺」。1400年前、聖徳太子により創建されたと伝わる。
現在は黄檗宗の寺院だ。
本尊は「聖観世音菩薩」。脇仏として「聖徳太子」「韋駄天像」を祀る。
その南隣には「生野神社」。旧牛頭天王社であり素戔嗚尊を祀る。
鳥居には「宝永7(1710)年」の刻銘がある。
400mほど南下し、市立生野小学校を通り過ぎて路地を右に入る。
すぐに「地蔵尊」が見えてくる。「林智地蔵尊」。屋根の部分を入れると3m四方はある大きな地蔵尊だ。
その先に見えるのは「生野八坂神社」。正面に回る。
ここも八坂の名のとおり「素戔嗚尊」を祀る。
そして、ここから900mほど「生野本通商店街」という長いアーケード街が続く。
「イクノ銀座街」「ベルロード中銀座」「IKUNOセンター街」と名を変えながら続く。
結構、賑やかな商店街だ。
「スーパー玉出」の手前で路地を左に曲がってみよう。「林寺温泉」。レンガ造りの門柱があるだけで、特に何でもない「お風呂屋さん」であるが……。
公衆電話が「売り」というのが気に入った。
疎開道路が横切るため、一旦、アーケードが途切れるが、すぐにアーケードが現れる。「ほんどーり」と名を変える。
アーケードに入ってすぐに路地を左折。そこには「源ケ橋温泉」。昭和12年築のレトロなお風呂屋さんだ。屋根には「シャチホコ」。
「自由の女神像」。「ニューヨーク」と「入浴」のダジャレらしい。
平成10年、銭湯として全国で初めて登録有形文化財に指定されている。
5~6分でアーケードは終わる。そこは、国道25号線「源ケ橋交差」。源ケ橋とは、かつてこの辺りを流れていた旧大和川の支流「猫間川」に架かっていた橋のことらしい。
国道から南(左)は「阿倍野区」だ。目の前にJR大阪環状線のガードが見える。
JR環状線沿いに「猫間川公園」。今は、このように公園や路地に名をとどめるだけだ。
午後3時30分、ゴールである「JR寺田町駅」に到着。JR大阪環状線から西は「天王寺区」。ここも3区の接点になるが駅舎は天王寺区に所在する。鉄骨むき出しのガード下駅がレトロ感を漂わせる。本日の歩紀「24280歩」(20,88km)。
面倒だからの~日本に居らんでも良いやろ!
祖国に帰りたまえ!
日本人が迷惑だ!
不正生活保護受給者もほとんど在日韓国朝鮮悪徳人に
コメントありがとうございます。
王貞治氏も高額納税者番付上位と聞いておりますので、日本国に住民票を置いている限り納税していると思います。ただ、私のブログは思想・信条、政治的問題・社会問題には関わりませんし、私自身関心も知識もありません。ただただ前を見てひたすら歩いていますので、今後ともよろしくお願いします。
野里町歩紀
友渕町セレブタウン
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