「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

「新幹線のまち」摂津市

2018-04-28 23:27:29 | 日記
訪問日:平成30年4月28日(土)
出 発:JR「千里丘駅」
到 着:大阪モノレール「摂津駅」

 「大阪府三島郡三島町」と呼ばれたこの町は、昭和41年11月1日、市政に移行した際「三島市」を名乗るが、静岡県に同名の市があることが判明、即日名称変更をし「摂津市」が誕生した。淀川右岸に沿ったこの町の中央には「東海道新幹線鳥飼車両基地」があり「新幹線のまち」とも呼ばれる。面積14.9平方キロメートル。43市町村ある大阪府下で第34位の小さな町を「縦・横・斜め」に歩く。給水・トイレには困らない。結構、細街路を歩くので詳細地図があれば便利だ。


 JR「千里丘駅」。「大阪駅」から各駅電車で14分(220円)。「近い!」午前9時10分出発。今日は、かなり歩くのでちょっと早めに出発しよう。
 

 「千里丘駅」は、「旧吹田(すいた)操車場」の東端に位置する。改札口を出た通路からは「旧吹田操車場」の一部が望める。
 

 駅西口から出て北に進めば、すぐに府道「大阪高槻京都線」の「千里丘交差」に出るので左折する。「旧三島町」は、昭和31年9月、「味舌(ました)村」「味生(あじう)村」「鳥飼(とりかい)村」が合併してできた。まずは「旧味舌村」を歩く。
 

 300mほど歩くと左側に「エネゲート」という会社が現れる。古い会社なのだろうレトロな社屋が見える。
 

 国道にかかる歩道橋からの眺め。
 

 次の信号である「千里丘小前交差」(角に交番がある)を右折すれば、鳥居越しに神社が見える。
 

 「須佐之男命神社」。由緒の詳細は不詳であるが、社名から元「牛頭天王社」だろう。いつものように今日一日の安全を祈願する。
 

 神社裏の細い道は「亀岡街道」。西に進む。「市場橋」で「山田川」を越えれば左に「浄土真宗本願寺派安楽寺」。
 

 街道らしい眺め。
 

 次の信号を渡れば「市場池公園」。すぐ右の石段を上がれば、公園整備時に集められた石造物群が。
 

 広場や親水公園などが整備されているが、「市場池」は江戸時代初期に造られた古い溜池だという。
 

 ある資料では、国内の溜池のほとんどが江戸時代以前に造られたもので、詳しい資料がないため全国でいくつあるか分からないそうだ。当時の土木技術はすごいな。
 

 公園の南西端に「道標」。「亀岡街道」と「小野原街道」の交差点に立つ。
 

 そのまま西に進み「吹田市」との境界手前で左折。水路沿いに境界を進む。この水路は「正雀川」。かつては「正尺川」と呼ばれていたそうだ。
 

 先ほどの府道「大阪高槻京都線」に出れば左折、東に戻る。右手に「芦森工業」「コカコーラウェスト」という会社を過ぎれば右へ。
 

 この細い道は「市場街道」と呼ばれる。
 

 5分ほどで左に「高野山真言宗金剛院」。天平10(739)年、行基が開いたと伝わる。
 

 ここにも多くの石造物遺跡が集められている。
 
 
 護摩堂の本尊「不動明王立像」は、「大阪府指定有形文化財」に指定されている。「蜂塚」というものがあり「蜂の寺」とも呼ばれるが、結局、見つからなかった。
 

 「金剛院」を出れば先に進み途中からJR線に沿って行くと、やがてアンバーパスの上に出るので、左に曲がりアンダーパスをくぐろう。「旧吹田操車場」の下をくぐるので、結構長いアンダーパスだ。
 

 100mほどのアンダーパスを抜ければ右に曲がる。250mほどで駐車場の向こうに大きな木が見えてくる。
 

 次の路地を左に入る。そこには「弥栄(やさか)の樟(くす)」。小さな公園の真ん中にそびえる巨木で、樹齢1300年と言われ「大阪みどりの百選」にも選ばれている。
 

 JR沿いに戻り左(東)へ。右を見れば、貨物列車がゆっくり進んで行く。
 

 途中、左に「山田川ちびっこ広場」。ここは、弥生時代から戦国時代の遺跡が発掘された「明和池遺跡」という遺跡らしい。
 

 さらにJR線に沿って進むと「阪急電車正雀工場」が現れるので左折しよう。大阪で一番「上品」と言われる「阪急電車」の車両が並ぶ。
 

 「正雀工場」の向かいには「大阪人間科学大学庄屋学舎」。昭和6年6月創立の「薫英女子学院」を前身とする「大阪薫英女子短期大学」の4年制・共学化により平成13年に開学した新しい大学だ。南側に「庄屋公園」が接する。
 

 「阪急京都線」を渡れば左に「大阪人間科学大学」の母体である「薫英学園」。付属の女子中・高校は、こちらにあるようだ。学園角の「正雀交差」を左折して学舎に沿って進む。
 

 「薫英学園」の東には、「旧味舌村役場」と「旧味舌警察署」の跡地。今は、市の施設になっているようだ。
 

 その一角に「武功表彰碑(川村景明書)」。「川村景明」とは、日清・日露戦争時の軍人らしい。薩摩出身だが、「摂津市」とどういう関係があるのだろう。「碑」の後ろには、以前、古い木造の建物があったのだが、取り壊されたようだ。
 

 すぐ前を「山田川」が流れる。「天神橋」で「山田川」を渡り右へ。
 

 すぐ左に「味舌天満宮」。寛永12(1635)年、織田大和守尚長が創建したと伝わる。
 

 本殿と摂社の「八幡神社」本殿は、大阪府の指定有形文化財に指定されている。
 

 参拝を終え、100mほどの参道を抜けると「大阪高槻京都線」のバイパス道と交わる。振り返って「1枚」。
 

 左に曲がり次の信号を渡って、さらに左へ。「市立温水プール」の裏手に「道標」。「右いばらき(茨木)左う乃べ(宇野辺)」と刻まれているこの道標は「大岩藤八」という力士の墓と伝わる。写真を撮っていると、通りがかりのおじさんが「昔は別のとこにあってんで。」と教えてくれた。バイパスの工事で移されたのだろう。
 
 
 「道標」手前の路地を入る。「味舌小学校」に沿って進めば、フェンスの中に「木下勘兵衛碑」と五輪塔が並ぶ。本願寺軍師・馬場崎右衛門正義の身代わりになった「剛勇」という人物の功績を讃えるものだといわれる。フェンスの中には自由に入れる。
 

 すぐ前の「味舌下公園」を過ぎ「山田川」沿いに進み「渡場橋」を渡る。「味舌ポンプ場」を過ぎれば「安威川」に突き当たる。茨木の山中に源を発し、ここから3.5kmほど下流で「神崎川」と合流する。
 

 「安威川」沿いに進み、次の信号で「安威川橋」を渡ろう。
 

 橋を渡れば右手に川沿いの道と堤防下にカーブを描く路地があるので、カーブに入る。ここからは「旧味生村」だ。
 

 100mほどで小さな水路を橋で渡るが、その橋の右脇護岸に「道標」が隠れるように立っている。
 

 この道標も「大碇浅右衛門」という力士の墓と伝わる。「右すいた(吹田)左とりかい(鳥飼)」と刻まれている。町力士のお墓が町中にあるのは能勢地方でも見られたな。
 

 「浜町」という集落を抜ける。
 

 水路に突き当たり左に進む。
 

 「朧ケ橋(おぼろがはし)」という橋を渡る。
 

 橋の下を「番田井路(ばんだいじ)」と「鳥飼三箇牧水路」という水路が流れる。「井路(いじ)」とは、湿田地帯に堀巡らされた用水や排水、水運を兼ねた水路だ。
 

 橋を渡ってすぐの信号を左折すれば「伏越樋門跡」。「樋門(ひもん)」とは、水路の水流や水量を調節するための施設だが、この「伏越樋門」は、村内の溜め水を「安威川」の下をくぐらせて「神崎川」に流したという。市内には多くの樋、樋門がある。
 
 
 信号まで戻り道路を渡って、これより「別府」の集落に入る。「べふ」と詠む。
 

 すぐ右には「味府神社」。
 

 天照大神等を祀る。社殿も「神明造り」だ。
 

 立派なお屋敷が並ぶ。
 

 道なりに進めば「道標」。「大峰山上三十三度」と刻まれた「講」による「道標」だ。
 

 「道標」前の路地を右に少し進めば「表忠碑」の奥に「猿太彦神社」。
 

 「道標」の前まで戻り左の路地に入る。左に「浄土真宗本願寺派常願寺」。
 

 「旧家」と「神社」。
 

 「中真(ちゅうしん)神社」。鳥居は、昭和58年、淀川沿いにあった「三本松天神社」から移転されたそうだ。この後、神社跡を訪れる。
 

 「神様」目線で見てみよう。
 
 
 古い町並みを抜けていく。
 

 現在の「神崎川」は、淀川から西へ真っ直ぐ抜けるが、「旧神崎川」は「三国川」と呼ばれ「別府」の集落を南から北に抜けたという。村内には、明治11年に改修される以前の「堤防跡」が残るといわれるが、これがそうだろうか?
 

 「東海道新幹線」の高架をくぐる。目の前の歩道橋か左隣の「別府交差」の信号で府道「大阪高槻線」を渡り、さらに南へ進む。
 

 少し歩けば右に市営斎場が見える。かつてこの辺りに「味生村役場」があったそうだが、市の施設であるここが跡地だろうか。
 

 「腹違橋」で「井路」を渡り南に進めば「ダイキン淀川製作所」。エアコンで有名な企業だ。
 

 「ダイキン」前の植え込みの中に「道標」。慶應4年に造立されたもので「ながら(長柄)」「一つや(一津屋)」「とりかい(鳥飼)」「京、なら(奈良)」などと刻まれている。
 

 信号を渡れば「一津屋樋門」。明治11年、開削されたもので、現在の「神崎川」源流である。「神崎川」はここから西に流れ「安威川」と合流して「大阪湾」へと注ぐ。
 

 堤防に上る。そこは「神崎川緑地」。目の前には「淀川」が悠々と流れる。上流には「鳥飼大橋」。今は、大阪の大動脈「大阪中央環状線」の上下線と並んで「近畿自動車道」「大阪モノレール」が渡るが、私が小さい頃は有料橋で、真ん中に料金所があったのを覚えている。
 

 時間は、午後0時15分。付近に食堂がないので、すぐ前のローソンで買った「マヨたっぷりハムたまごサンド・チョコデニッシュブレッド・牛乳」(536円)で食事とする。私の目的は「歩紀」なので、あまり食事にはこだわらない。ピクニック気分で食べよう。
 

 堤防の下に下り道を東に進む。ここにも旧家が残る。
 

 左に「浄土真宗本願寺派阿弥陀寺」。


 さらに進めば「味生神社」。
 

 鳥居をくぐれば左に「第六集会所」。
 

 大正時代の芝居小屋で「桟敷」などが残る。
 

 「味生神社」にお参りする。桓武天皇時代の神崎川改修時に創建されたという。狛犬が新しく寄進されていたので、古い狛犬が本殿に鎮座していた。
 
 
 良い雰囲気の「路地」を抜けていく。
 

 左に「浄土真宗本願寺派誓源寺」。前に見える「袴腰付鐘楼」は、宝暦2(1752)年、松平家から寄進されたものだそうだ。
 

 境内には、松平縫殿頭乗成という人物の娘である「恵照院殿釈寿栄大童女」の墓碑が。
 

 「誓源寺」東側の「路地」脇を抜ける。
 
 

 小さな橋を渡り「井路」に沿って北に進む。
 

 右にファミレスの「ビッグボーイ」が見えれば「大阪中央環状線」と交わる。歩道橋で「近畿自動車道」の高架をくぐって向こう側に出よう。そして少し北に進めば大阪モノレール「南摂津駅」。本日のゴールではない。駅構内には、かつて「井路」を往き来した「井路舟」が展示されているのだ。改札内にあるのだが、駅員さん(女性)に声をかければ快く通してくれる。
 

 「井路舟」は、水運のほか水害時の避難や救援物資の運搬にも使われたという。
 

 南に戻る。ここからは「旧鳥飼村」を歩く。「ビッグボーイ」前を渡ったところの「摂津の湯」という日帰り温泉南側を東に進む。正面には「カネカ」。昔の「鐘淵化学」である。「摂津市」は、大企業が多いな。
 

 真っ直ぐ行けば「カネカ」の工場内に入ってしまうので手前を右に曲がる。「鳥飼大橋」北詰で淀川堤防に突き当たる。
 

 堤防の中腹には、フェンスに囲まれた「常夜灯」が2基。この後、訪れる「藤森神社」の遙拝所だ。この辺りの地名は「鳥飼和道」。「和道」とは、水防のため集落を囲んだ堤防のことをいうらしい。
 

 「常夜灯」の後ろから堤防上に上る。目の前には「淀川」。堤防の一番高い部分を歩く。
 

 「カネカ」の工場が過ぎた辺りで堤防下に信号が2つ見えるので、2つ目の信号に向かって堤防の下に下りよう。ちょっと分かりにくいが300mほどで左に、何が書いているか分からない立て看板が見える。「三本松天神社跡」。午前中に訪れた「中真神社」の鳥居があった場所だ。太宰府に左遷される菅原道真が休憩の折り、松を植えて建立したと伝わる。
 

 ここから100mほど後に戻り右へ。「鳥飼西公民館」がある。「井路」があるので「井路」沿いに歩く。
 

 まもなく左からの路地と合流する。さらに「井路」に沿って100mほど進む。「井路」の向こうには「浄土真宗本願寺派願正寺」。右の小さな橋を渡る。
 

 「願正寺」の山門前を過ぎる。
 

 東に進んでいくと「河原樋門」。大正12年に改修された現役の樋門だ。
 

 堤防の上に上がってみよう。淀川から流れが導かれているのがわかる。
 

 堤防下に戻り150mほど進む。左には「鳥飼の渡し跡」。戦国時代から昭和50年まで運行されていたという。
 

 すぐ隣の路地には「常夜灯」と「鳥居」が。「藤森神社」への入口だ。
 

 「鳥居」をくぐり信号を越えて「井路」沿いに進むと右に「常夜灯」が見えてくる。
 

 その横には「鳥飼牧跡」の碑が立つ。京に献上するため各地から集められた牛馬を飼育するための御用牧場であったという。
 

 「碑」向かいの道を西に少し戻れば右に「藤森神社」。天武天皇の皇子・舎人親王や菅原道真を祀る。
 

 これまで幾度も水害に見舞われていることから由緒の詳細は不詳であるが、古くは宇多天皇時代(8世紀後半)までさかのぼり、本殿は寛文4(1664)年建立と伝わる。
 

 参拝を終え「鳥飼牧跡碑」前まで戻る。この周辺にも素晴らしい風景が残るので巡ってみよう。一旦「碑」に向かって左に進み、次の路地を右に入る。
 

 突き当たりを左に折れ、すぐに右へ。さらに突き当たりを右へ、その先すぐ左に曲がり突き当たりを右に行けば道路の向こうに「浄土真宗大谷派善勝寺」。「善勝寺」山門前を進んで突き当たりを左に。すぐに堤防下に出るので右へ戻れば、先ほどの「鳥居」と「常夜灯」。
 

 堤防中腹に何やらこんもりとした植え込みが見える。
 
 
 「鳥居」前にある「水防倉庫」横の階段を上っていこう。このような倉庫は淀川沿いに多くみられる。
 

 そこには「千本つき歌碑」。過酷な堤防工事を歌にした歌詞を刻んでいる。昭和49年に建てられたそうだ。
 

 先ほど巡った集落の鳥瞰図。
 

 堤防上を進んで行く。
 

 下に「日蓮宗妙楽寺」が見えてくるので下りてみよう。
 

 この奥にもちょっとした風景が残る。
 

 堤防下まで戻り、さらに東へ歩く。
 

 しばらく進めば「鳥飼仁和寺大橋」。昭和62年、淀川に架けられた有料橋だ。橋脚の手前を左へ。すぐ左に「旧鳥飼村役場跡」。今は、市の「教育研究所」として使用されている。若干、改装されているが、古い木造家屋の雰囲気が残る。
 

 「旧鳥飼村役場跡」前には「実正樋石碑」。16世紀ころに築造されたこの「樋」は、昭和8年ころまで使われていたという。
 

 「旧家」を左に見ながら進む。
 

 府道「大阪高槻線」を右に曲がり「鳥飼仁和寺大橋」の高架をくぐって左へ。150mほどで「鳥飼仁和寺大橋」の高架道を背にするように「黒丸城跡」の碑。「鳥飼砦」とも呼ばれ、16世紀後半、大坂攻めの前線基地として築かれたようだが、詳細や位置は不明。
 

 道を元に戻り「淀川堤防」下へ。正面に見える階段を上る。全長688mの「鳥飼仁和寺大橋」。
 

 もう一度階段を下りて堤防下に戻り、堤防前の路地を左に。
 

 堤防に戻り、しばらく堤防上を歩く。右は「淀川河川公園」
 

 次の階段で堤防下に下りる。右に進み2つ目の路地を左に入れば、この辺りにも古い集落が残る。先には「浄土真宗本願寺派西誓寺」。
 

 その前の家屋は、水害に備えて石組みの上に建てられている。「段倉」というそうだ。
 

 堤防下に戻り東へ。目印がないので分かりにくいが左に広場が見えてくる。そこは「宗慶島跡」と呼ばれ、大正10年の淀川改修まで小さな島になっていたそうだ。案内板の横に「力石」が並ぶ。「力比べ」に使用したほか、相撲のように「興行」としても成り立っていたと言われる。また、一種の「成人儀式」としても使用されたようだ。
 

広場に沿って石組みが。これも「段倉」の名残だろうか。
 

 この集落の東には、弧を描くような道に沿って旧家が並ぶ。「囲み堤」と呼ばれ、先に述べた「和道」と呼ばれる水防用の堤に囲まれた集落である。
 

 集落の中にある「淵ケ池公園」内に「囲み堤」の碑が立つ。
 

 「囲み堤」の集落を抜けると「府立とりかい高等支援学校」だが、そこは「高槻市」だ。府道「大阪高槻線」を渡り、墓地の前を右に進んで行く。
 

 「淀川新橋」の橋脚に突き当たるので左へ。府道「茨木寝屋川線」に沿って歩き「鳥飼上4南交差」を渡って北に進めば「かえで公園」。
 

 さらに進めば「鳥飼水路」に突き当たるので左へ。花も木も草もないコンクリートの水路だ。
 

 バス折り返し場の横に何やら見える。
 

 「離宮鳥養院跡」。宇多天皇の別荘の一つだという。こんなところで「平安」の雅やかな日々を送っていたんだな。
 

 「鳥飼水路」に沿って歩き、府道「茨木寝屋川線」に出れば右折し「新幹線」の高架をくぐる。
 

 「安威川新橋」の手前で「番田井路」沿いの狭い道を歩く。こんな道だが「府道133号線」である。
 

 左の坂を下り、水田地帯に入る。
 

 水田の向こうを「新幹線」が走る。まだ、田植えには早いな。ここは「鳥飼八町」。
 

 だだっ広い農道を進む。
 

 「長屋門」のある立派な屋敷も残る。
 

 道が狭くなると「鳥飼仁和寺大橋」からの延長線上の「府道15号線」と交わる。目の前には「JR東海鳥飼車両基地」。そう「鳥飼基地」の正門だ。昭和39年の東海道新幹線開通と同時に開設された。一般公開はされていないので左に進み「新幹線」をくぐる。
 

 すぐに右に折れ「ポンプ場」を過ぎて左折。「鳥飼水路」に出れば水路に沿って進む。ここは「鳥飼緑道」と言うらしい。
 

 「緑道」が終われば目の前に「新幹線」。ここは、目と同じ高さで「新幹線」が走る。
 

 橋を渡って右へ「水路」に沿って歩く。ここから1kmほどは町工場や倉庫が並ぶ。
 

 やがて「水路」の向こうにアーチ型の「樋門」が。これは「三ツ樋」。大正11年に完成したそうだが現役だ。
 

 「樋門」の上は複雑な交差点になっているので、「水路」に沿った並木道を進む。この辺りは「鳥飼野々」という。
 

 道なりに進んで行くと「浄土真宗本願寺派光蓮寺」に突き当たる。
 

 「光蓮寺」の前にも「道標」。
 

 「光蓮寺」前をUターンするように北へ戻り、消防車庫を過ぎれば左の「路地」へ入ってみよう。
 

 古い集落内を抜ける。
 
 
 しばらくすると路上に「あっ!」の文字。行き違いやバックもできない細街路なのでインパクトのある標示にしているのだろう。
 

 そして、その突き当たりには「八幡神社」。
 

 今日最後の「神社」で参拝をする。
 

 参拝を終え、先に進むとこちらにも「あっ!」の道路標示。
 

 やがて「新幹線」に突き当たるので左へ。700mほどで「大阪中央環状線」に出る。ここでは「新幹線」をくぐるため「近畿自動車道」が「高架」から「平面」になっている。
「大阪モノレール」は、高い高架で「新幹線」を跨ぐ。
 

 右に曲がって「新幹線」をくぐれば右のフェンス越しに「700系」をはじめ様々なタイプの新幹線が並ぶ。
 

 東西(実際には北東から南西)に細長い「鳥飼基地」は、先ほど訪れた東側の正門周辺に建物が集中し、南側は「新幹線」の本線が。北側は、隣接する「JR貨物ターミナル」があるため、基地内を望めるのは、この西側部分だけだ。
 

 北側に隣接する「JR貨物ターミナル」前を過ぎると「陸橋」が見えるが、「陸橋」は渡らずに真っ直ぐ進み、突き当たりを右へ。「貨物ターミナル」沿いのこの道は、春には見事な「桜並木」となる。
 

 400mほどで「新幹線公園」。0系新幹線「夢の超特急」の実物が展示されている。
 

 第2、4日曜日の午前10時~午後12時と午後2時~午後4時は、内部も公開されているそうだ。
 

 後ろには「EF15型」という電気機関車も展示されている。
 

 すぐ隣は「JR貨物ターミナル」。しかし、摂津市は、「旧吹田操車場」や「阪急電車正雀工場」、「鳥飼基地」おまけに「大阪モノレール」が走り、「鉄ちゃん」失礼「鉄道愛好家」にとっては、たまらないだろうな。
 

 「大阪中央環状線」まで戻り、先ほどの「陸橋」に上る。「鶴野橋」で午前中に渡った「番田井路」「鳥飼三箇牧水路」「安威川」を一気に越え「旧味舌村」に戻る。
 
 

 「鶴野新橋」手前で「大正川」沿いに進み「摂津市役所」の裏を北に歩く。左に「東屋」が見えれば橋を渡ろう。
 

 大阪モノレール「摂津駅」手前に柵で囲まれた一角が見える。「鶴野神社跡碑」。明治43年、茨木市内の「井於神社」に合祀された。
 

 午後5時、本日のゴールである大阪モノレール「摂津駅」に到着。本日の歩紀「43188歩」(29.36km)。表題を「新幹線のまち」としたが、歩いて見ると京と大坂の中間に位置し、水運にも恵まれた「摂津市」には、多くの歴史的遺産が残っていることを知った。「摂津市」に「鳥飼基地」が置かれたのも「偶然」ではなく、できるべくしてできたのかも知れない。将来「新幹線」に代わる交通機関ができようとも「鳥飼基地」は「新幹線遺跡」としていつまでも残るのだろう。あと2時間、いや1時間半あれば、大阪モノレール「摂津駅」から朝出発したJR「千里丘駅」の間に広がる「三宅地区」を一巡できたんだがな。しかし、8時間近く歩いているので、今日はこれくらいにしておこう。
 
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