![西チベット 村](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/eb/2152f448e24e3f71fb1041488034b536.jpg)
西チベットをランクルに乗り、3人の日本人と旅をしていたとき、
「幸せとは何だろう」ということを4人で語りあうことがあった。
車で数時間走った先に、ぽつんぽつんと数個の家が集まっただけの村。また数時間走った先にぽつんぽつん。
どうしてこんなところに・・・、
この人たちは何して生活しているんだろう?何が楽しいんだろう?
![西チベット 村](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/70/2333a8e7582cd7ae3e355f8e365a1df6.jpg)
日本人として生まれた僕は、ある行動をすることに何か制限を受けることは少ない。
実生活において宗教的タブーに縛られることはほとんどないし、言論・表現・職業選択の自由は当たり前。日本のパスポートを持てばほとんどの国に行くことが出来る。ネットを使えば沢山の情報を手に入れられるし、(お金さえ払えば)ほとんどのものが手に入る。
そんな日本に生まれた僕たちは、西チベットの人々のような生活をしている人と比べて、
どれだけ幸せを感じているのだろうか?
欲しいものを買うために働く。買ったらお金がなくなり働く。
美味しいものを食べるために働く。食べたらお金がなくなり働く。
いい家に住むために働く。住んでるだけでお金がなくなり働く。
旅行をするために働く。家族のために働く。
生きるために働く。幸せになるために働く・・・。
気が付けば、時間ばかりが過ぎていた・・・な~んて、そんなのが「幸せ」かな?
ある家に生まれて、当然のように小中高と学校に通って、当然のように受験勉強して、さぁどこの大学はいる?さぁどこの会社行く?さぁこの会社続ける?辞める?
正社員?派遣?フリーター?ニート?ホームレス?
何を食べる?何を買う?どこに暮らす?誰と結婚する?
![西チベット カイラス近くからみた山](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/61/7db701ac15fa91a9c314bdf0938c3af4.jpg)
数年前にやっていたテレビの特番で中国四川省のシャングリラを取りあげていた。
その山奥で暮らすある家族と中村トオルが数日時間を共有する。
その家のお母さんと山を数時間歩き、ある川のそばを通った際、中村トオルが訊ねる。
「お母さん、これはどこへ流れているんですか?」
「私はこの村から出たことないから、ここから先のことは分からないわ。」
「え、ということはお母さん出たことないの?」
「村から出たことはないし、出ようとも思わないの」
その村には都会に憧れる人はいないのだろう。それは村の暮らしに何も不満がないから。
自分の暮らしと比較するものを知らなければ、それが不満なんて思いもしないだろう。
![西チベット ある商店](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/99/44477449c6f5958a475c435b14502742.jpg)
DVDを知ってしまったら、ビデオテープなんて使ってられないし、
i-podを知ってしまったら、カセットテープなんて不便極まりない。
新製品が出ると自分が持っている旧型が陳腐に思えてくる。
知らなきゃ良かったなんてさえも思わず、新たな「幸せ」を求めてそれを手に入れるためにまた努力する。
知ることは幸せなんだろうか?
制約がないことは幸せだろうか?
テレビに映る、飢えで苦しんでいる人、戦争被害者、病気で苦しんでいる人・・・道端で寝ているホームレス・・・
「不幸な人がいる」ということを知ることで感じる感情は幸せとは思いたくない。
「井の中の蛙 大海を知らず」という言葉の後に、さらに続く言葉があるそうだ・・・
![西チベット ランクルから見た空](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/7e/0c2f9781e67e359ad260c320565313fe.jpg)
「井の中の蛙 大海を知らず されど空の深さを知る」 (※1)
選択肢が多いほど人は迷う。
僕にとって、「幸せの選択肢」は三択くらいがちょうどいい。
(※1)「空の広さ」「空の青さ」などバリエーション有り
<参考サイト>
●国民総幸福量(ウィキペディア)
●お金持ちの不思議。(ひろゆき@オープンSNS)
●選べない選択肢が増えるということ(304 Not Modified)
[写真 西チベット]
例えば選択肢が二つだったら、どうしても自分が選択しなかった方が正解かもなんてことを考えてしまうじゃないですか。
だったら百万通りくらいの選択肢があって、全部選ぶのは絶対無理だから、自分の選んだ道を精一杯楽しもうって思えた方がいいかなって思うのです。
中国や韓国人とかオウムの人たちとか、あれはあれである意味幸せなんじゃないか?とか思うことがあります。ある程度洗脳とかされるのって外部に問題点を見出すことでその人たちの弱い部分を認めずにすみますからね。
最後に三択がいいって書いたのは、それは少なすぎだろって読んだ人に思わせて、あえて突っ込みどころをつくって読んだ後にいろいろと考えてもらうためです。
でも「絶対に幸せになると決まっている選択肢」があるのなら三択だけでもいいかも、それ以外に「幸せにはならないかもしれないけど、おもしろいぞ」って選択肢があればそっちを選ぶかもしれませんねぇ。レールを外れて旅に出るってそういうことかも・・・正解なんてないし、逆に 自分で選んだならそれがどんな選択でも正解なんだともいえなくもないし・・・って話が長くなっちゃいますね。
都会に戻っても しばらく心が放心状態のままでした。
便利な生活を求めた代償に 失ったものの多さに
気付くときは、もう手遅れだったりしますね
何も知らない事が幸せ?
青い空の下で自然と共に暮らすことが幸せ?
ものに溢れた都会で便利な生活をすることが幸せ?
なんだか いろいろ考えさせられた旅でした。
いろいろ求めすぎては いけないのかもしれませんね
今までの旅の中で 私にとっては、一番の場所シャングリラ
抜ける空と強い日差しの写真をみて また行きたくなってしまったわ
シャングリラ行かれたんですね。うらやましいです。
ヨーロッパ文化圏にいくとシエスタなんてシステムがあって、それだとみんながみんな休むからそれでいいんですよね。だけど日本はみんな当然のように残業残業。過当競争でみんな働く時間の割にはリターンが少ないという・・・。もちろんそのおかげもあって経済大国にはなったわけですが、どうも幸せ感が薄いような気がします。
もちろん制限の少ない日本なのでそれから抜け出す自由もありますが、いかんせんもう価値観が日本のそれにそまってますし、しがらみがついてますしね・・・。
本当は日本で生活してても旅先での日々のように空の青さや夕日の美しさを感じられることができたらいいですね。