電気羊に旅を

「東南アジア一人旅32日」からブログタイトルを変更。東南アジア・中国・ネパール・インドの旅日記あり。南米ネタを公開中

物乞いについて思うこと

2005年04月06日 | 雑感
カンボジア国境の子供
このブログを始めた時から いつかは書くつもりだった「物乞い」についての思い。
以前、ブログ「アジアンゲストハウス」のLOOさんからトラックバックを頂いた時から、いつも引っ掛かっていた。重いテーマだけに 筆が進まなかった。上記のブログの記事は旅ブログに限らず お子さんを持っている人へもトラバを送っているようで多くのさまざまなコメントが載せられています。こういうことはとても意義のあることではないかと思います。

いろいろ思ったことを一挙に書き上げましたが、相変わらず文章力がないので まとまりがありません。文の内容が飛び飛びになっているところがありますが、完璧を目指しているといつまでたっても更新できませんので、その点はご了承ください。

今回の記事は、「物乞いにお金をあげるか?」という点についてのみ書くことにします。

旅をしていると多かれ少なかれ「物乞い」に遭うことがあると思います。僕が会った物乞いは・・・
オーストラリアシドニーで 駅の近くでメッセージを書いたダンボールを片手に座り込んでいる4,5人。
インドネシアのジャカルタ・ジョグジャカルタの屋台でご飯を食べていると、手を出してくる人達。
タイからカンボジアへの国境をくぐったすぐに 5,6人の子供に囲まれる。
タイのバンコクのカオサン通りでの数人の物乞い
アンコールワットの遺跡群(ライ王のテラス・プノンバケンなど)で、片足がない人が通路に座って手をだしている。

ちょっと特殊と思われるカオサン通りの物乞いについて・・・
一人は、盲目なのに大音量の音楽をかけ、歩きながら歌っているおばさん。目が見えない人にとって音というのは重要な要素ではないのか?疑問・・・。
コンビニの前でゴザを敷き、上半身裸で腕をあちこちに振り、身体の向きもよじったりして奇妙な動きをしている男。なんらかの重い病気で身体の自由が利かないという印象だ。しばらく観察していると、ピタっと止りそばに置いてあるペットボトルで普通に水分補給をしていた。それをそっと置き、また動く。うーん・・・。


カオサンの話は 置いといて

僕の意見は、結論から言うと 物乞いに対しては「お金はあげません」です。

僕は幸運にも「(いわゆる)豊かな国 日本」に生まれて、普通の家族の下、普通の暮らしをさせてもらってきた。もちろん、現在 自分は働いており ある程度の収入を得ることが出来ている。
だから自分の価値観というのはそういう状況下で育まれたものであるし、そうそう変わるものではない。


以前、観たTV番組「あいのり」で、訪れたアフリカの村の現状を見たメンバーの女の子が、「かわいそうだ」と発言したことをうけて、ひとりの男が「オレはかわいそうだなんて思わない。あれはアレだ。自分達の基準で判断すべきじゃない」(←セリフははっきり覚えてない)というようなことを言ったら、他のメンバーから、かなりの非難を浴びていた。
面と向かった状況で「かわいそうとはおもわない」と言うものならこのように鬼畜扱いされてしまう。

「物乞い」を見たときに「かわいそう」という感情を持つことは 一般的に言えば「正しい」ことになる。しかし、本当にそれでいいのだろうか?


『物をあげると、その子はずっとそうやって生きていく事になるかもしれない。でも、あげないとその子は死んでしまうかもしれない』
(ブログ「橙色の豚」より)


しかし、旅をする人に、「物乞いをする子供」の人生の決定権までを背負わせるのは酷なことではないだろうか?
正直 (酷い!と言われるかもしれないが)自分は、その国に旅をしに来ているのであって、ボランティアに来ているのではない。

カンボジアを例にすれば、カンボジアのビザ代で950B(約2500円 手数料込)・アンコールワットの遺跡群の為に(3日券)US40ドル・ベンメリア遺跡にUS5ドル払っている。ホテルにも泊まったり、周辺の屋台などで物を買ってお金を落としている。
子供の売り子から遺跡の写真集のようなものも買った。3日目のバイタクの対応が凄く良かったのでチップも挙げた。
しかし、無条件でお金はあげない。


(話が飛びますが・・・)
中国や韓国の現在の反日の根本原因の一つに、日本政府による戦後保障という名の「資金援助」がある。中国にはODAとして6兆円ものお金がつぎ込まれてきた。それが本当に国の発展に純粋に使われてきたんだろうか?否。歴史の捏造による有形無形のさまざまな虚構を生み出し、軍備を増強し、ミサイルがこちらに向いているという訳のわからない状況。中国はカンボジアのポルポト政権時に裏から援助を行っていたりもしていた。
日本は韓国に対しても同様に有償無償あわせて5億ドル(約1800億円)の援助をおこなっている(情報ソースはこちら)。学校やインフラなどの整備に日本の税金が使われてきた。しかしその援助が今何を生み出しているのか?
戦後保障としてお金をもらえる→日本は残虐なことをしたという反日プロパガンダ→まだ賠償してない、賠償しろ!→お金をもらえる→はじめに戻る。
中国や韓国政府は「反日」であることで得をするのである。この得をする状況がある限りゆがんだ「反日」は終わらない。
日本はこの「虚構の残像」から解き放たれない限り、いつまでたっても前進しない。

物乞いを中国と韓国と比べるのはナンセンスといわれそうだが、資金援助による「ねじれ」の例えだ。


日本は、お金持ちの国と言われているが どうだろうか?国の借金は、現在719兆円にも及ぶ。もっとも貧乏な国とは言えないか?
日本人ひとりひとりはどうか?日本人の給与は、為替も考慮すればアジアにくらべれば破格だろう。しかし、それは、あくまでもアジアの国と比べた場合であって、日本国内で裕福かといわれれば、そうでない人がほとんどではないか?

だけど、「お前は海外旅行をしているんだからお金があるじゃないか!」といわれるかもしれないが、それとこれとは話が別だ。
カンボジア トンレサップ湖の子供
実際、オーストラリアで過ごした8ヵ月半。2週間だけバイトして収入を得たが、それ以外は「消費生活」だ。日本で会社に勤務していた頃は、お金を払うのは、昨日働いて稼いだから とか明日も働いていてお金が入ってくるという深層心理が働きお金を使うことに対しての不安は薄い。
しかし、会社を退職し旅に出て、帰国した後のことも不透明なまま、長い間の消費生活をおくると、消費することに少なからず恐怖に近い不安が付きまとった。その消費することの不安というのは物価の安い東南アジアにおいてはかなり薄らいだが、旅している最中にはいっさいむだづかいはしていない。
宿もできるだけ安いところを選ぶし、移動手段(トゥクトゥクやバイタク)に対しても交渉して値段を下げる・・。もちろん詐欺には騙されない努力もする。どこに行っても、必要なこと以外に 余計なお金は使えないのである。お金の大切さということはつくづく感じた、これも長旅の収穫でもある。
だからこそ、無条件でお金をあげることに疑問を感じる。

「自分が物乞いより裕福だからお金をあげる、物乞いが貧しいと思うから お金をあげる。」
なにか腑に落ちない。


『インドではカーストの影響が強く、生まれたときからちゃんとした仕事につけない人もいます。
その中の一部の親には、生まれた子供の足は切断し、ワザと物乞いをさせるという話もあります。』
(ブログ「アジアンゲストハウス」さんの記事のコメント覧より)


働きたくても働けないという状況が問題なのは理解はできるが、その根本原因である「カースト」は、一人の旅人がどうこうできることではない。
「生まれた子供の足は切断」というのは、僕にはこれが本当かどうかを判断する材料をもっていないが、もし本当なら あまりに不幸ではないか。


ブログ「報道写真家から」(gooブログさん、たまにはこういう有益なブログが自分のサービス下にあるんだから、こういうブログも取り上げるべきなんじゃないか?)の「(10)カンボジアの地雷 余話」の記事で
『カンボジアの屋台などで食事をしていると、松葉杖をついた人や手作りのボロボロの義足をした人が近づいてくることがある。観光客へ、いくばくかの施しを求めにくるのだが、実は、カンボジアの地雷被害者への義足の供給率は、ICRC(国際赤十字協会)等の努力によって、ほぼ100%に達しているのだ。いや、だからといって、彼らが観光客を欺いているとは、思わないで欲しい。そのくらいのささやかな生きる工夫は許されたい。カンボジアでは健常者でさえ仕事がないのだから』


本来は義足をつけ歩けるようになるのに、物乞いするためにそうしない(足があるとお金をもらう率が下がる)場合があるという事実は 悲しすぎる。


『僕のタイ人の友達は、「困ってる人がいるんだからあげれば?」という感じで、いつもすぐにお金をあげます。そいつに、「親切にするのは人のためじゃなくて自分の為って考えれば?」って言われました。』
(ブログ「アジアンゲストハウス」さんの記事のコメント覧より)


こういう考え方は、僕は好きではない。本当に「困ってる」と全くの他人に判断がつくんだろうか?
「親切にするのは人のためじゃなくて」というが、純粋に相手に対しての愛がない「親切」はその人に対して失礼ではないかと思う。


『おまえが何かやるから、物乞いがはたらかない。という考えはエゴ。喜捨するよ。僕は。でも気持ちしだい。
インドなんかだと崇高な物乞いもいるし。なんとなく、あげたくない物乞いもいるし。働きたくても働けない人もいる』
(ブログ「アジアンゲストハウス」記事のコメント覧より)


と書かれている方がいますが、「何かやるから、物乞いがはたらかない」という考え方がどうしてエゴと簡単に切り捨てられるのか。「崇高な物乞い」というのがどういうものかは分かりませんが、結局は「喜捨する」対象の人をエゴにより選択していることになる。この考え方も 自分は疑問だ。

よく宗教で「信じるものは救われる」というが「信じるものしか救わない」神のエゴのようだ。道に 5匹の子猫が捨てられていたら 自分が気に入った子だけ選んで 助ける。
いや、目に映る範囲で 自分ができるだけのことをすればいいんだとも考え方があるし、正しいと思う。しかし「物乞いにお金をあげる」という行為は 自分の中では 相手にとって必ずしも良いこととは思っていない。
「働きたくても働けない人もいる」これは確かに問題であるが、この点は外国が支援することかどうか・・・。

カンボジア トンレサップ湖の子供
『一回きりの物をあげるのが支援じゃない。そんなことよりもっと大きな支援を私達はしているんだ、と顧問のインド人教授は言いました。皆もそうだと同意しました。』
(ブログ「アジアンゲストハウス」記事のコメント覧より)

物乞いに対する根本的な解決は、教育・医療などの福祉援助。いわゆる先進国とよばれている国々ができることはコレだろうが、今回の記事は「旅人が物乞いにお金をあげるか否か」についてであるし、福祉援助については僕は論じるだけの人間ではない。


そもそも豊かとは何か?アジアの貧しいといわれている国の暮らしは本当に貧しいといえるか?発展途上国という言葉はなにを示すのか?


『物乞いにあげてもあげなくてもその人の価値観でいいんじゃないかな???そう思います。ほとんどの人たちは見えないものよりも今日の空腹。なのですから・・・・』
(ブログ「アジアンゲストハウス」さんの記事のコメント覧より)


そう・・・物乞いに出会っても 何もしない。とにかく僕は無力で冷たい男なのです。


文章の中に矛盾が生じている部分もあるかと思うしエゴを言っているかもしれない。
でも 今の自分が思うことを残しておく意義はあると思い書きました。

建設的な意見や批判コメントは歓迎ですが、「バカ~」「死ね~」とかは却下です。