高句麗壁画古墳展(9月4日まで)


電車の広告でやっていることを知り、
あわてて行って来ました。

よく調べていかなかったので、開催場所を
東京国際フォーラムと勘違いして
有楽町に行ってしまい、あやうく
大江戸骨董市につかまるところだったのは
ここだけの秘密です(笑)。

正解は赤坂にある「国際協力基金フォーラム」。
赤坂ツインタワーの1階です。

高句麗の壁画古墳群が世界遺産に指定された、
ということでの展示会ですが、なにぶん
壁画古墳が主役ですから展示してあるのも壁画(の写真)だけ。

なにか副葬品なりなんなりも展示されているかなと
期待をしていたのですがほんとに写真だけでした。
(戦前の日本の学者・美術関係者らによる
 壁画の模写もありましたが・・・)

それだけに展示する側も苦慮されたのではないかと
思いますが、羨道を模した通路は雰囲気たっぷりで
私的にはお気に入りでした。

第25代平原王の墓とされる江西大墓、江西中墓の
壁画はさすがに圧巻でした。ここの朱雀や玄武は今回の
展示の目玉だけに、写真とはいえしばし見とれてしまいました。

高句麗を生み出した地域はその後渤海、金、女真、清と続く
諸国家・諸勢力を生み出した、我が「貂主の国」的にも
重要な地域の一つです。新羅や百済の影に隠れていますが、
日本の古代史に与えた影響もまた無視できないものがあり、
興味が尽きません。
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北方世界とヴォルガ=ブルガール(4)ブルガールについて

ヴォルガ=ブルガールは北方世界に食い込んだ、草原世界由来の交易国家である。
もっとも草原世界からの進出自体は先史時代以来幾度も繰り返されたことであり、
いつの時代も北方世界は南方とは無縁ではありえなかった。

ヴォルガ=ブルガールの意義は北方世界と周辺世界とを繋ぐ核となる都市を
作り上げたことにある。下図は10世紀~13世紀のヴォルガ=ブルガールに
おける主要な都市と城址とを図示したものである。

◆10世紀~13世紀のヴォルガ=ブルガール
(赤い枠線はブルガールの中心地であり、そこから周辺に勢力を伸ばしていた)

1.ブルガール 2.オシェール(アシュルィ) 3.ドジュケタウ 4.ビリャル 5.スヴァル
(現在のヴォルガ川はダム湖のために往時の姿を失っている)

ヴォルガ=ブルガールは7世紀後半までは北カフカスから
ドン川河口付近にかけて暮らしていた、テュルク系遊牧部族連合
(オノグル。オノグル=ブルガール)の一部であった。

同盟を結んでいたビザンツ帝国から「大いなるブルガリア」の
名で呼ばれる程の強盛を誇っていたオノグルであったが、
642年に首長のクブラトが死ぬと5人の息子の間で
相続争いが起こる。内紛状態に付け入るように東から
新興勢力のハザールが攻め込んで来ると部族連合は崩壊し、
結局ハザールの支配下に組み込まれることとなってしまう。

この時、ハザールに組み込まれた長子以外の4人の兄弟は
それぞれ部族を率いて各地に分散するが、そのうちドン川を
遡り、ヴォルガ水系に移って北上、ヴォルガ川とカマ川の
合流点付近に拠点をおいたのがヴォルガ=ブルガールの始まりである。

#他にもビザンツ帝国に亡命する等して埋没する者もいる中で、
#今でもその名を伝えているのが日本でも(なぜか)
#ヨーグルトの商品名で馴染み深い「ブルガリア」である。

ヴォルガ中流域に移り住んだとはいえ、ハザールの
支配はここにも及び、10世紀に至るまで貢納国で
あることを強いられ続けていた。

ヴォルガ=ブルガールがその独立を取り戻すには、
ハザールの弱体化とその南方の大国・アッバース朝との
同盟関係が樹立されるのを待たなくてはならなかったので
ある。

10世紀後半になると、同様に「ハザールのくびき」から
開放されたキエフ=ルーシと激しい覇権争いが始まる。
キエフ=ルーシはヴォルガ=ブルガールの握る東方交易路
(ヴォルガ川水系)を欲していたが、それは結局数百年の
時を隔てた16世紀、この地に栄えていたカザン汗国を
併呑するまではかなうことはなかった。ヴォルガがロシアの
母なる川になったのは、比較的最近のことなのである。

11世紀半ばになるとキエフ=ルーシは諸侯国に分かれ、
一方でヴォルガ=ブルガールは拡大を遂げて最大の版図を
達成する。かつてハザールがそうしたように、ヴォルガ=
ブルガールは周辺諸勢力(モルドヴァ、マリ、ウドムルト、
バシキール)との間に貢納関係を築き上げ、イスラム商業
ネットワークの北のターミナルとしての地位を確立したので
あった。

北方からの資源(最も大きいものは毛皮であり、次に奴隷
であった)によって蓄積された莫大な富はこの地に
都市文化を花開かせ、銀製品をはじめとした様々な
工芸品が生み出された。

北方世界と南の商業ネットワークとを結ぶ核となった
ヴォルガ=ブルガールは、北方世界にとっても南の
ターミナルとしての機能を持ち、ヴォルガ中流域から
北方世界に向けていくつもの交易ルートが延びていた。

北方世界に広く張り巡らされた河川網沿いに延びる
交易ルートによって、ヴォルガ=ブルガールの工芸品も
またはるかな北の地へと運ばれることとなったのである。


【周辺世界への備え】
ヴォルガ=ブルガールの領域からは、数多くの城址が見つかっている。
ここではその例として、西部の強力なモルドヴァ族との境界地域に
立地しているティガシェヴォ城砦を取り上げる。

◆ティガシェヴォ城砦復元図


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イブン=ファドラーンとヴァイキング(2)

【宇宙のイブン=ファドラーン】
史実を離れるどころか、地球まで離れていってしまったファドラーンが
出てくるのが近年稀に見る良作だった「プラネテス」。

プラネテス (1)

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プラネテス 1

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どういう役回りで出てくるかってのは見ての(読んでの)お楽しみってところですが、
真に驚くべきは原作者の幸村誠氏の次の作品がヴァイキングモノであったということ。
マガジンで連載が始まった時にはあまりにうれしくて喝采しました。
よくもまぁ、こんなメジャーでもないところを描いてくれた、と。

考えられるのは3つ。
1.幸村氏は13ウォーリアーズのファン
2.幸村氏はヴァイキング好き(ビッケとかさりげなく描いてるし・・・)
3.幸村氏は北方史好き

3だとうれしい(^^)。

ヴィンランド・サガ 1 (1)

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プラネテスでイブン=ファドラーンの名前を出してきたところで
「幸村氏はタダモノではない」と思ってはいましたが、少年誌の
檜舞台でしっかりしたヴァイキングモノを始めたことで、
ますますその感を強くしました。一生ついていきます(笑)。

巻末の歴史地図にはちょっと一言あるところなので、むしろ俺に
描かせてくださいというか(^^;;
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イブン=ファドラーンとヴァイキング(1)

【映画の中のイブン=ファドラーン】

ヴォルガ=ブルガールのイスラム改宗に関わり、北方世界の知識を
後世に伝えたイブン=ファドラーン(といっても「ファドラーンの息子」って
意味なので本人の名は別。Ahmad Ibun Fadlan。)

その彼が史実を離れてヴァイキングの世界に飛び込み、北の果ての
大地で大活躍、という映画があります。「13ウォーリアーズ」というのがそれ。
アントニオ=バンデラス様が主人公のファドラーン役(え?)で、原作は
ジュラシックパークのマイケル=クライトン。

(→ギャガのサイト

原題が「13th Warrior(13番目の男)」なのに・・・、という細かい突っ込み
なんぞなんなく吹っ飛ばしてくれる痛快活劇です。「7人の侍」っぽい
筋立ても見えるので邦題の方がむしろしっくりする位。
映画館で見たとき、題字が正道会館の館長の書だったのには
何もそこまでとは思いましたが(誉め言葉です)。

一応映画の最初の部分、ファドラーンがヴァイキング達に会うシーンで
旅行記の記述が使われています(他人が口をすすいだ水を回しあって・・・
という部分。絶対、できない・・・orz)が、あとはもう自由奔放に
作られているのでツッコミ体質な歴史好きにはつらいかもしれません(笑)
後半はもっととんでもないものが出てきますし。

主人公なはずのバンデラスことファドラーンよりも、副主人公なブルヴァイの方が
熱烈にかっこいい!主役食いまくりです。
ヴァルハラへ召されていくシーンはもう涙モノですよ。
俺もヴァルハラに連れてってー、というか。

13ウォーリアーズ

東宝

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北人伝説

早川書房

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DVDだとブルヴァイの吹き替え、佐々木健介です。
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北方世界とヴォルガブルガール(3)フィン=ウゴル諸族と交易路

【バルトからヴォルガへ ~交易路とフィン系諸族~】

 10世紀のフィン系諸族の分布を図示すると、そこには明かな
傾向を読み取ることができる。

当時、バルト海から南方のイスラム帝国アッバース朝とを結ぶ交易路として、

ラドガ湖・オネガ湖~ベロ=オーゼロ(白湖)周辺~ヴォルガ川上流
          ~ヴォルガ=ブルガール~ヴォルガ川下流~カスピ海


というコースが確立されていた。

「ヴァリャーグ(バルト海沿岸)からギリシャ(ビザンツ帝国)へ」の
言葉でよく知られた西方の交易路(ラドガ湖から南下して、あるいは
西ドヴィナ川を遡ってグネツドヴォに至り、そこからドニエプル水系を
利用してキエフ、さらには黒海を経由してビザンツ帝国へと至る道)もあるが、
当時世界の中心であったアッバース朝バグダッドと結びついていた
この東方ルートをもっと重要視する必要がある。

北欧ゴトランド島から発見された約10万枚の銀貨のうち4割をアラブ銀貨が
占めており(残りはゲルマン銀貨、アングロ=サクソン銀貨)、また
北ロシア一帯での出土状況もビザンツ製コインを質量ともに圧倒している。

またスカンディナビア全体で出土したビザンツコインはわずか500枚程度であるという。
サガではミクラガルドの名で首都ビザンティウムが繰り返し出てくるために
ビザンツ帝国との関係だけに目が行きがちだが、少なくとも10世紀後半、
アッバース朝で銀が枯渇し、同時にキエフ=ルーシによってブルガール等
東方交易路が攻撃され衰退するまでは東方交易路がむしろ主であったと
考えるべきだろう。

この東方交易路上にフィン系諸族が実にきれいに並んでいるのが見て取れる。



まずフィンランド湾を囲むように後フィン族を形成するスオミやヘミ、
カレルやイジョーラ、ヴォジ、エースティ(エストニア人)、リーヴィと
いった集団が並ぶ。

さらにラドガ湖やオネガ湖からベロ=オーゼロ、ヴォルガ川源流域までの
河川地帯にはヴェシが、そこからヴォルガ川に沿ってメリャ、ムーロマ、
モルドヴァ等がブルガールに至るまで並んでいる。

このことは交易によって在地のフィン系諸族もまた繁栄していたことを
示唆していると考えてよいだろう。

北ロシア一帯の河川地帯においては海を渡ってきたスウェーデン系
ヴァイキングと並んで、河川交通において一日の長があるフィン系諸族の
果たした役割もまた大きかった可能性がある。

あるときは協調し、またあるときは敵対しながらも全体としては
一体となって交易の荷担者になっていたのではないだろうか。
さらにはロシア人の属性としてよく出される「河川水系と森林帯への
親和性」といったものはこうしたフィン系諸族の多くをとり込んで
「ロシア人」が成立したことによるものではないだろうか。

【キエフとブルガール ~森林と草原の境界勢力~】

一方、より東方のヴォルガ=ブルガールの配置を見ると、ウラル系諸族の
分布域に食い込む格好になっていることがわかる。

ブルガールの東に位置する「マグナ=フンガリア」は現在ハンガリーを
形成しているマジャール人の故地である。6世紀から9世紀頃までこの地で
暮らしていたマジャール人は8世紀頃から移動を始め、9世紀末には
パンノイアの地(現在のハンガリー)へなだれ込み、ハンガリー王国を
築くことになる。

この際、全集団が移動したわけでなくこの地に残った集団も存在した。
13世紀になってもなお、ハンガリーから派遣された宣教師によって
マジャール語が通じていたとの記録が残っている。彼らは草原の
テュルク系諸族と混交して後にバシュキール民族を構成することになる。
元を辿ればマジャールはウゴル系集団であり、ブルガールはフィン系と
ウゴル系の2系統のウラル系集団に3方を囲まれていたことになる。
実際にはブルガールが周辺の諸民族を統治下に置き続けていたのであるが。

キエフ=ルーシとヴォルガ=ブルガールの状況を比較すると、
どちらもその縁辺にフィン=ウゴル諸族を抱えていたということの他に、
どちらの首都も森林と草原の接壌地帯にあり、かつ交易路である大河の
ほとりにあったことがわかる。

領域の大きさの違いこそあれ、どちらも境界勢力として交易の仲介を
国の成立基盤とし、フィン=ウゴル系諸族の活動を取り込む事でこれを
確かなものとする構図は共通している。

フィン=ウゴル諸族は10世紀、兄弟のように共通の構造を持った
2つの勢力~ルーシとブルガール~によって西と南から蚕食されつつ
あったのである。

その状況下にあっても、両勢力の狭間に立つモルドヴァはモンゴル軍の
来襲まで強力な勢力でありつづける。ひょっとしたら両勢力の狭間で
キャスティングボードを握りつづけるという不断の政治的軍事的
駆け引きの上に成り立っていたのかも知れない。



【駁馬国とポッチェバシ文化 ~西シベリアの境界勢力~】

ウラル以西のウラル諸族がそのような状況であったなら、
ウラル東方ではどうだったのだろうか。

ここでも我々はウゴル系諸族の多くの文化が森林と草原の接壌地帯に
花開いていたことを見ることができる。中でも最も注目すべきは
イルティシ川中流域に栄えたポッチェバシュ文化である。

10世紀頃にはポッチェバシ文化は後続のウスチ=イシム文化に移行して
しまっているのだが、時期を数世紀遡らせるならこのポッチェバシュ文化は
ブルガール等と同様、接壌地帯に栄えた境界勢力である可能性がある。

中国資料(唐書)やチベット語資料に拠れば、この地には駁馬を産する
広大な国があったとされている。また、駁馬を意味するテュルク語の類型と
思われる地名や人名(Sabar、Tapar、Saber、Seber等)が西シベリア一帯に
分布し、さらにこれらは祖先の名称や敬われるべき対象としてハンティや
マンシの間で使われていたことから、往時の駁馬国の記憶が後代に残ったものと
考察されている。

一説として、これらの名称が後のイビル・シビル、シビル汗国へとつながり、
シベリアの語源となったというものがあるが、もしもそうだとするなら
往時西シベリアの接壌地帯に栄えた勢力(ポッチェバシュ文化=駁馬国)の
繁栄の記憶がシベリアの名には込められていることになり、
非常に興味深いと言える。
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サイト紹介(1)ボスニア湾西岸にサーミの跡を追う

 【The Search for a Past / The Prehistory of the
   Indigenous SAAMI in Northern Coastal Sweden】

 かつてスカンディナヴィア半島からフィンランド、
 カレリアにかけて広く分布していたサーミ(ラップ)達。

 ヴァイキング時代以降、北へ進展してきたスウェーデンによって
 いつしか内陸部へ山岳地帯へと追われた彼らの痕跡を
 ボスニア湾沿岸に探る考古学調査のサイト。

 ボスニア湾沿岸のサーミと言えば、伝承にあるクヴェン人との
 関係が気になるところですが、それについての言及はないようです。

 年代的にはヴァイキング時代以前の鉄器時代から16,17世紀まで位を
 対象としています。詳しい調査結果の公開が待たれます。
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北方世界とヴォルガブルガール(2)イブン=ファドラーンと北方世界



【ヴォルガ=ブルガール国のイスラム改宗とイブン=ファドラーン】
 10世紀初頭、ヴォルガ川とカマ川との合流地点を中心に、
森林と草原との接壌地帯に栄えていたヴォルガ=ブルガール国は、
それまで従属関係にあった草原国家ハザールから独立し、
安寧と繁栄とを確保するために遥か南方のイスラム国家アッバース朝の
政治的経済的支援を必要とした。

そのような背景の元、ブルガールからの支援要請に応えて921年6月
バグダッドから使節団が派遣された。
翌922年、使節団の訪問をうけたヴォルガ=ブルガール国はイスラムを
受容することでアッバース朝からの支援をとりつけ、以後この地は現在に
至るまで最北のイスラム教の拠点として活動しつづけることとなる。

イブン=ファドラーンはその使節団の随員であり、彼による報告書が
後世に伝えられることとなった。

 当時、彼らが旅したイスラム世界からブルガールにかけての領域は、
バグダッド政権から離反した地方政権の台頭、トルコ系諸部族
(グズ、ペチェネグ、バシュキール等)の移動、ハザールの衰退、
遥か北方フィンランド湾からヴォルガ水系・ドニエプル水系を南下
してくるヴァイキングやルーシ、といった錯綜した様相を呈していた。

 ファドラーンの報告書はそうした状況の中直接見聞した事柄を
記述したものであり、後世の研究家達にとっては重要な地理資料でもあった。
特に北方ブルガールを訪れた際の情報は、イスラム地理学の
北方地理概念形成に多大な影響を与えることとなった。


【旅行記に見る北方世界】
 彼の報告書にはブルガールよりも遥かな北の地についての記述がある。
一つはブルガールの地よりさらに北へ3ヶ月行ったウィースー達の住む地。
もう一つはウィースーの地からさらに北に3ヶ月行ったゴク・マゴクの地
(ユーラーの地)である。

どちらもウラル系諸族と考えられており、ウィースーはベロ・オーゼロ近辺の
フィン・ウゴル諸族、ゴク・マゴクはそこから北東に向けて、スホナ水系・
ウサ水系に沿って広がるユグラの地であろうと思われる。

ウィースーの地はバルト海~オネガ湖~ヴォルガ川を結ぶ交易路の要衝の
一つであり、遥か極北の「ユグラの地」も、ここを介して”世界”に
接続されていたことが窺える。


[参考資料・関連情報]

「イブン=ファドラーンのヴォルガ=ブルガール旅行記」家島彦一訳 (1969)
「チベット語史料中に現れる北方民族」森安孝夫 (1977)
「白鳥庫吉全集4」白鳥庫吉
「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」森雅夫、岡田英弘編 山川出版社 (1990)
「ФИННОУГОРСКИЕ ПЛЕМЕНА В СОСТАВЕ ДРЕВНЕЙ РУСИ」Е.А.Рябинин(1997)
「ロシヤ年代記」除村吉太郎訳 弘文堂 (1943)
「ロシア史1」田中陽兒 倉持俊一 和田春樹 編  山川出版社 (1995)
「HISTORICAL ATLAS OF THE VIKINGS」JOHN HAYWOOD 著 PENGUIN BOOKS (1995)
「HISTORICAL ATLAS OF RUSSIA」JOHN CHANNON 著 PENGUIN BOOKS (1996)
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北方世界とヴォルガブルガール(1)とりまく者たち

オビ川流域の中世を語るには、その成立に大きな影響を与えた
「ヴォルガ=ブルガール国」を避けて通ることができない。
時代を500年ほど遡り、当時の北方世界と周辺世界との
基本的な枠組みを見てみることにする。

下図は10世紀頃のウラル山脈を中心とした西方北ユーラシア世界と、
隣接諸地域の状況を示したものである。


【東スラブ諸族】
東ヨーロッパ平原では草創期のリューリク朝に代表される東スラブ諸族が
その勢力を拡大しつつあった。

もともとキエフなどドニェプル川からカルパティア山脈付近に住んでいた
スラブ諸族は、8世紀以降急激にその勢力範囲を東方、そして北方に
拡大し始める。そのうねりは9世紀には東バルト諸族を呑み込み、
10世紀にはさらに北方のフィン系諸族の世界を呑み込み始めていたのである。

東スラブ諸族の東には「ヴォルガ=ブルガール」が、そして南には
「ハザール汗国」とペチェネグ族が栄えていた。いずれも草原世界の
遊牧民族の勢力であったが、特にハザール汗国は10世紀以前には
ウラル以西世界の中心であり、この時代にあっても東スラブ諸族に
大きな影響を及ぼしていた。

キエフを中心としたリューリク朝が東スラブ諸族の中で頭角を現していくに
あたって、諸族へのハザールからの貢税要求をいかに断ち切り、自分に
収めさせるかが極めて重要な課題であった。

ハザールは敵であると同時に、リューリク朝が諸族を征服し覇権を打ち立てていく中で、
見本となる先進的なモデル国家の役も果たしていたのであった。

【ハザール汗国】
7世紀後半、西突厥崩壊後の草原諸勢力の中から出発したハザールは8世紀から
9世紀にかけて繁栄を極める。

最盛期にはウラル山脈南部からカルパティア山脈まで中央ユーラシアの西半を
その支配下に治め、南のビザンツ帝国と同盟を結んで超大国アッバース朝と
対峙した。

その同盟関係は732年、古代より連綿と続く先進地帯であるオリエント世界を
二分する一方の雄ビザンツ帝国がハザールの汗の娘を王室に迎えるに至る。
ハザールの血の入った皇帝の登場は、ハザールの力が当時いかに大きいもので
あったかを示している。

ハザールの繁栄をもたらしたものは北方世界と南方のビザンツ帝国、あるいは
アッバース朝とを結ぶ交易路の存在であった。北方バルト海からやってくる
ヴァイキング達をはじめとして様々な商人が主に東西2本の交易路を通って
活動していた。ハザールはその2本の出口(西:ドニェプル川河口、
クリミア半島、東:ヴォルガ川河口)の両方を支配下におくことに成功する。

黒海では紀元前からオリエント世界の北の玄関であったクリミア半島を押さえ、
一方のカスピ海はアラブ世界からは「ハザールの海(Bahr Al-Kazar)」と呼ばれるようになる。
また、9世紀にはユダヤ教が国教に採用されるが、これはビザンツのキリスト教、
アッバース朝のイスラム教との等距離外交を図るためだったとの説がある。
当時の西ユーラシア世界にはハザール、ビザンツ、アッバース朝の三極構造が
成立していたといっても過言ではないかもしれない。

ハザールの繁栄は9世紀後半には翳りを見せ始める。東からは遊牧民の
ペチェネグが襲来し、北ではヴォルガ=ブルガール、東スラブ諸族の離反が
相次いだためである。ビザンツはそれまでのハザールとの同盟関係を破棄して
ペチェネグと新たに同盟関係を結ぶ。ヴォルガ=ブルガールはその独立を
安定したものとするためにアッバース朝との同盟関係を結ぼうと動く。
東スラブ諸族もまたビザンツと結んでドナウのブルガリアを討つ一方で
ペチェネグと激しい争いを繰り広げる。

ウラル以西の世界において、10世紀はそれまでのハザールを軸とした
秩序が崩壊し、新たな時代へと向かう時期であったといえる。

【キメク(キマク)】
イルティシュ川からウラルにかけて存在したとされるキメクに関して
わかっていることは少ない。イルティシュ川を中心として発展した
キプチャクに先行する部族連合国家というのが間違いのないところだろう。

後のキプチャクもまたキメクを構成する部族の一つであり(モンゴル帝国の
キプチャク汗国とは別)、伸張するキメク/キプチャク勢力によって西に
押し出されたのがペチェネグやグズ、ポロヴェツである。その余波が
結局パンノイアへのマジャール侵入・ハンガリーの成立につながったことも
考えると、非常に興味深い存在である。
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西シベリアの中世(1)オビの戦国時代

広大な針葉樹林帯(タイガ)を抜けて北極海に流れ込む大河・オビ川。

その流域に育まれてきた歴史世界もまた、教科書に出てくるような
「文明世界」の歴史に負けず劣らぬ深さを持っている。
隔絶された世界のようでいて、はるか有史以前から
周辺地域との交流は途絶えたことはないのだ。

西方の、モスクワ勢力に併呑される以前のノヴゴロドや、南の草原地帯に
展開された様々な遊牧諸勢力からの遠征や交易による交流の積み重ねは、
この僻遠の地にも数多くの小王国を生み出すに至った。

ロシア帝国の進出以前の16世紀、西シベリアのオビ川中・下流域には
数多くの小王国が存在し、合従連衡を繰り広げる様はまさに
「オビの戦国時代」と呼ぶに相応しいものであったようだ。

彼らは現在同地域に住むハンティやマンシといった民族の先祖にあたるが、
民族誌の時代には狩猟・漁労民としての記述しかなされておらず、
往年の彼らに関する記憶は消し去られてしまったかのようである。

数多くの小王国のうち、史料に名を残した代表的なものを以下に挙げる。
(下図赤く縁取った12国)


1.オブドル
 オビ川河口に栄えた小王国。この地域は古くは紀元前5世紀頃には
 西シベリアの代表的な鉄器時代文化であるウスチ・ポルイ文化の
 中心であり、また近年帯状の銅板でくるまれたミイラが発掘されて
 話題になる(Zeleniy Yar墓地遺跡。7-9世紀)等、オビ下流域において
 古くからの中心地であったことをうかがわせている。

 ”戦国時代”においても諸王国の中で最有力の部類に入り、
 モスクワの文献への初出もコンダと並んで最も古い(1514年)。
 王族は後にモスクワ貴族へと転身している。後世まで貴族として全う
 できたのは、諸王国のうち2つのみ(もう一つはコダ王国)である。

 1601年にはロシア皇帝から「朝貢オスチャーク(?)」及び
 「サモイェド(現在のネネツ。ツンドラ地帯にかけて分布)」の
 統治を委任する親書を受け取っている。従来からの当該地域に
 持っていた権益の追認かと思われる。

 オブドルの跡に建てられた街がサレハルドである。
 王国が地上から消えて久しいが、その残照はオビ川の名前に受け継がれて
 現在に伝わっている。

2.リャピン
 オブドルの南、オビ川左岸からウラル山脈にかけて存在した小王国。
 18世紀初頭までは貴族を輩出していた。
 リャピンスキー=シェクシャ、リャピンスキー=マトフェイ=シェクシン、
 ソスウィンスキー=ピョートル=オスマノフ等がいる。

3.クノヴァト
 リャピンと反対のオビ川右岸に存在した小王国。リャピンに併合された。

4.カズィム
 オビ川右岸、カズィム川流域に存在した小王国。
 カズィム候ユゾル=ライドゥコフ、その子カズィム候ドミトリィの
 名が伝わっている。

5.コダ
 ロシア、コサックと手を組みその尖兵として西シベリア征服に協力を
 していた。見返りにコダは諸王国中最後まで独立を保つとともに
 1644年の皇帝直轄領編入後もコダ王家はモスクワ貴族として生き残る
 こととなる。(詳しくは別項にて)

6.ペルィム
 トボル川左岸に流れ込むタウダ川水系ペルィム川を中心とした小王国。
 ウラルを超えてストロガノフ領に反攻して町を焼き払うなどその戦闘力は
 オビ諸王国の中でも最強の部類に属する。
 後にコザックによる遠征で打ち負かされたコンダ、タバラを加えて
 最大の版図を持つようになる。
 ペルィム王家、コンダ王家は18世紀に至るまで、ツァーによる統治の
 代行者として権勢を振るっていた。

7.コンダ
 コダと並び諸王国の中でも強盛を誇った国であり、コダのライバルで
 ある。両国の抗争の歴史は1594年、コザックと手を組んだコダの
 侵攻によって終止符を打たれた。以後、コンダはペルィムの
 一部として歴史を積み重ねていくことになる。

8.タバラ
 ペルィムの南、タバラ川流域の小王国。

9.ヴェロゴル
 オビ川、イルティシ川の合流地点付近の小王国。

10.バルダク
 1593年、バルダク王国の跡にスルグトの街が建設された。
 スルグトの街はイルティシ川合流地点より200km近く遡った
 オビ川沿いにある。

11.バルス
 スルグト方面に存在したこと以上の詳細は不明。

12.デミヤン
 トボリスクから200km近く下流、イルティシ川に流れ込む
 デミヤンカ川流域を中心とする小王国。


【参考文献】
 シベリヤ年代史 シチェグロフ/著 吉村柳里/訳 1943
 月刊「言語」1987年9月号 「オビ・ウゴル」井上紘一
 「民族の世界史 中央ユーラシアの世界 第4部ウラル系民族」井上紘一 1990
 「 The Principality of Pelym: Some Considerations. 」Aado Lintrop
 「Pre History of Western Siberia」V.N.Chernetsov, W.Moszynska 1959
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史的空間としてのベーリング海峡

アメリカ大陸とユーラシア大陸との間にあるベーリング海峡は、
冷戦時のイメージもあって二つの大陸を隔て分断する障壁としての
イメージがあった。

しかしながら、歴史を遡って近代国家が進出してくる以前の
時代ともなれば、海峡は東西の大陸を分断するものではなく
むしろ二つの大陸を結びつけ、一つの史的空間を構成するための
舞台であったということができる。

現にユーラシア大陸側のロシア・チュコトカ半島にもエスキモー達が
今でも数多く暮らしており、冷戦終結後何十年ぶりかでアラスカ側に
住む同族達と交流することができるようになったというニュースも
記憶に新しい。
※全てのイヌイット、エスキモー達が「イヌイット」を民族名称と
 しているわけではなく、ロシアでは今でもエスキモーが民族名称。

西はグリーンランドに至るまで北アメリカ大陸の極北部一帯の
広大な領域に分布するイヌイット(エスキモー)達の発祥の地こそ
このベーリング海峡の東西両岸世界であり、約1000年の昔、西へ
大進出を始める以前の長い揺籃期をここで過ごしたのであった。

実際にベーリング海峡両岸世界といっても地理的にどのような
広がり、あるいは「隔たり」を持つ世界なのかイメージするために
日本の歴史でもっともなじみのある両岸世界である対馬海峡、
あるいは東シナ海と重ねてみる。


やってみると意外なほどにぴたりと重なってしまう。

チュコトカ半島の付け根にあるアナディル湾は黄海に
セントローレンス島がチェジュ(済州)島に重なるのはまだいいとしても
ベーリング海峡のもっともせまいところに位置する「ダイオミード諸島」と
対馬までぴたりと重なってしまったのには驚いた。

ダイオミード諸島はアメリカ合衆国領の小ダイオミード島とロシア領の大ダイオミード島の二つの島からできているが、対馬も南北の島の間に海が入り込んでいる。
不思議な符合としかいいようがない。

一番海峡が狭まっている辺りを拡大してみる。

拡大しても重なってよく見えないが、対馬のところにダイオミード諸島はある。
対馬の北東部辺りに重なっているのがわかるだろうか。

比較してみるとベーリング海峡は対馬海峡よりもずっと狭い部分が
あることがわかる。

同じように津軽海峡を挟んだ北海道南部から東北北部にかけての地域を
一体の史的空間とする考え方が近年出てきている。

「津軽海峡を挟んで向かい合う南北両側の地域をあわせて、一つの「世界」として見るべきではないか。北海道の道南地方と本州の津軽・糠部、さらに隣接する秋田・久慈・閉伊地方も加えた「津軽海峡周辺」地域を、「海の道」を通じて様々な人びとが日常的に行き来する「北の内海世界」として、積極的にとらえるべきである。」
(「北の内海世界」山川出版社)

ペーリング海峡両岸世界は、黄海・東シナ海東岸から対馬海峡両岸を経て
西日本海両岸に至る、日本とアジア大陸との間に形成された歴史的空間と
同じような広がりを持つ、「最北の内海世界」と呼ぶにふさわしい
史的空間だったのではないだろうか。

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