北方世界とヴォルガブルガール(1)とりまく者たち

オビ川流域の中世を語るには、その成立に大きな影響を与えた
「ヴォルガ=ブルガール国」を避けて通ることができない。
時代を500年ほど遡り、当時の北方世界と周辺世界との
基本的な枠組みを見てみることにする。

下図は10世紀頃のウラル山脈を中心とした西方北ユーラシア世界と、
隣接諸地域の状況を示したものである。


【東スラブ諸族】
東ヨーロッパ平原では草創期のリューリク朝に代表される東スラブ諸族が
その勢力を拡大しつつあった。

もともとキエフなどドニェプル川からカルパティア山脈付近に住んでいた
スラブ諸族は、8世紀以降急激にその勢力範囲を東方、そして北方に
拡大し始める。そのうねりは9世紀には東バルト諸族を呑み込み、
10世紀にはさらに北方のフィン系諸族の世界を呑み込み始めていたのである。

東スラブ諸族の東には「ヴォルガ=ブルガール」が、そして南には
「ハザール汗国」とペチェネグ族が栄えていた。いずれも草原世界の
遊牧民族の勢力であったが、特にハザール汗国は10世紀以前には
ウラル以西世界の中心であり、この時代にあっても東スラブ諸族に
大きな影響を及ぼしていた。

キエフを中心としたリューリク朝が東スラブ諸族の中で頭角を現していくに
あたって、諸族へのハザールからの貢税要求をいかに断ち切り、自分に
収めさせるかが極めて重要な課題であった。

ハザールは敵であると同時に、リューリク朝が諸族を征服し覇権を打ち立てていく中で、
見本となる先進的なモデル国家の役も果たしていたのであった。

【ハザール汗国】
7世紀後半、西突厥崩壊後の草原諸勢力の中から出発したハザールは8世紀から
9世紀にかけて繁栄を極める。

最盛期にはウラル山脈南部からカルパティア山脈まで中央ユーラシアの西半を
その支配下に治め、南のビザンツ帝国と同盟を結んで超大国アッバース朝と
対峙した。

その同盟関係は732年、古代より連綿と続く先進地帯であるオリエント世界を
二分する一方の雄ビザンツ帝国がハザールの汗の娘を王室に迎えるに至る。
ハザールの血の入った皇帝の登場は、ハザールの力が当時いかに大きいもので
あったかを示している。

ハザールの繁栄をもたらしたものは北方世界と南方のビザンツ帝国、あるいは
アッバース朝とを結ぶ交易路の存在であった。北方バルト海からやってくる
ヴァイキング達をはじめとして様々な商人が主に東西2本の交易路を通って
活動していた。ハザールはその2本の出口(西:ドニェプル川河口、
クリミア半島、東:ヴォルガ川河口)の両方を支配下におくことに成功する。

黒海では紀元前からオリエント世界の北の玄関であったクリミア半島を押さえ、
一方のカスピ海はアラブ世界からは「ハザールの海(Bahr Al-Kazar)」と呼ばれるようになる。
また、9世紀にはユダヤ教が国教に採用されるが、これはビザンツのキリスト教、
アッバース朝のイスラム教との等距離外交を図るためだったとの説がある。
当時の西ユーラシア世界にはハザール、ビザンツ、アッバース朝の三極構造が
成立していたといっても過言ではないかもしれない。

ハザールの繁栄は9世紀後半には翳りを見せ始める。東からは遊牧民の
ペチェネグが襲来し、北ではヴォルガ=ブルガール、東スラブ諸族の離反が
相次いだためである。ビザンツはそれまでのハザールとの同盟関係を破棄して
ペチェネグと新たに同盟関係を結ぶ。ヴォルガ=ブルガールはその独立を
安定したものとするためにアッバース朝との同盟関係を結ぼうと動く。
東スラブ諸族もまたビザンツと結んでドナウのブルガリアを討つ一方で
ペチェネグと激しい争いを繰り広げる。

ウラル以西の世界において、10世紀はそれまでのハザールを軸とした
秩序が崩壊し、新たな時代へと向かう時期であったといえる。

【キメク(キマク)】
イルティシュ川からウラルにかけて存在したとされるキメクに関して
わかっていることは少ない。イルティシュ川を中心として発展した
キプチャクに先行する部族連合国家というのが間違いのないところだろう。

後のキプチャクもまたキメクを構成する部族の一つであり(モンゴル帝国の
キプチャク汗国とは別)、伸張するキメク/キプチャク勢力によって西に
押し出されたのがペチェネグやグズ、ポロヴェツである。その余波が
結局パンノイアへのマジャール侵入・ハンガリーの成立につながったことも
考えると、非常に興味深い存在である。
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