北東アジア交流史研究

北ユーラシアとの関係上、北東アジアとか東北アジアとかいう単語の入った書籍は
一応は手に取るようにしているのですが、往々にしてハズレが多い。
というのも「中国・朝鮮半島と日本」、といった地域を指していることの方が多いからです。
今回この書籍を手に取るときも期待はしていませんでした。が、しかし・・・

北東アジア交流史研究―古代と中世

塙書房

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これはずばり中国東北部、沿海州、サハリン、北海道・北東北、オホーツク海といった、
まさに期待通りの地域に関する論文集。時代的にも7世紀から13世紀を中心に16世紀位まで、
靺鞨や女真、金の時代を扱っています。

構成的には4つに大きく分かれていて、
1.サハリン南端近くの白主土城に関する諸問題と北海道・北東北との関係
2.8世紀から14世紀にかけて、オホーツク文化、女真系文化、鮮卑系文化の3つを設定し
  概説した臼杵氏の論文をはじめとする北東アジア地域の土器編年に向けた論文の数々
3.陶磁器や鉄鍋、土鍋等を通じて迫る北東アジア流通の諸様相
4.付録として北東アジア地域の土器編年試案や文献資料から見た女真との交流等

となっています。
ブルホトゥイ文化(後のモンゴルにつながると考えられている)とか
大興安嶺地帯の諸文化についてそれだけを取り上げた論文があるとさらにうれしいのですが
さすがにそれは別の本でやるべきことですね。
とはいえ北東アジアと外部の関係は南の中国、朝鮮、日本が中心になっているので
たまには西方、できれば北方(^^;;とのつながりについても見てみたいところではあります。

以下、目次です。2004年2月に開催されたシンポジウムの内容をベースとしていますが、
その後「新たに書き下ろした論文集」とのことで、報告に対してのコメント論文も収録されているのが
うれしいポイントです。



 本書の成果と課題      前川要
I 白主土城の諸問題
 白主土城の発掘調査     前川要
 白主土城の国際研究に見る中世サハリン研究の諸問題と展望と戦略
               アレクサンダー・ワシレフスキー
 白主土城をめぐる諸問題   中村和之
 沿海地方の中世の土城    アレクサンダー・イブリエフ
 渤海・女真の山城について  小嶋芳孝
 モンゴルの囲壁集落     ダンディンスレン・ツェヴェンドルジ
 廃墟の文明 元上都     魏堅
 北海道のチャシの様相    宇田川洋
 チャシ以前の防御的機能をもった遺跡について
               右代啓視
 道南十二館         千田嘉博
 北の交易拠点としての道南十二館 千田報告へのコメントとして
               小口雅史
 防御的機能をもつ集落と社会 井出靖夫


II 北東アジアの古代から中世の土器様相
 北東アジアの中世土器地域圏 臼杵勲
 サハリン出土オホーツク土器の編年 伊東信雄氏編年の再検討を中心に
               熊木俊朗
 「サハリンの様相」熊木俊朗氏報告に対するコメント
               小野裕子
 靺鞨陶器の地域区分・時期区分および相関する問題の研究
               喬梁
 中世前期アムール流域諸民族の民族文化史を物語る土器
               セルゲイ・ネステロフ
 擦文文化の時間軸の検討 道央、北部日本海沿岸域と東北北部の関係
               天野哲也 小野裕子
 北海道内における擦文土器の終末時期について 天野・小野報告へのコメント
               澤井玄
 遺跡から見た津軽における古代社会の変質と画期
               三浦圭介

III 北東アジアの流通の諸様相
 交易の研究における渤海、金、東夏の陶磁器の役割
               エフゲーニャ・ゲルマン
 環日本海交流史の様相    小嶋芳孝
 東日本・北海道と北方地域の鉄鍋・土鍋
               越田賢一郎
 アムール下流の十三~十五世紀仏教寺院の調査総括
               アレクサンダー・アルテミエフ
 奴児干永寧寺の研究と課題  中村和之

IV 付録
 文献資料から見た日本海交流と女真
               藤田明良
 北方方形土城をめぐる諸問題 樺太白主土城現地調査報告をかねて
               小口雅史
 考古学文化とエスニシティ  加藤博文
 北東日本海域の古代・中世土器編年
   北海道                      澤井玄
   オホーツク海北西岸、アムール河口部、サハリン   熊木俊朗
   アムール川、松花江流域、沿海地方         臼杵勲
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北東ロシアの基層 ~ウラジーミルの角~ その1

奥野さんの洞窟修道院ロシア歴史紀行アルバムカシモフ汗国の首都カシモフが、
かつてフィン系諸族の一つ、メシショーラの分布域にできた街ゴロデツ・メシショールスキーで
あったことを知り、意外な取り合わせに驚きました。

そんなこともあってしばらく北東ロシアの基層としてのフィン系諸族を追いかけているところです。

さて、北東ロシアと言えばずっと疑問だったのがタイトルにもある「ウラジーミルの角」です。
そういう用語があるわけでなく勝手に私がそう呼んでいるだけですが何を言っているかというと、これ
北東ロシアの雄、ウラジーミル=スーズダリ公国の形がベロ=オーゼロとウスチュグを角のように
北方へと伸ばしたものになっていることをそのように言ってます。
図は13世紀前半の状態ですね。

なんでそんなことが疑問だったのか。
ロシア北東部からウラル・西シベリア北部にかけての一帯は基本的にはノヴゴロド公国の
勢力下にあったわけですが、その交易ルートということでは私はずっとヴォログダからスホナ川を
下ってウスチュグを経由し、ヴィチェグダ川を遡ってペチョラ川に至るルートが主要交易ルートで
あり、ノヴゴロドもこれを使って北東部に進出していたものと単純に考えていました。

このルートをノヴゴロドが押さえていたところに、南からウラジーミル=スーズダリが進出をして
重要な拠点(ベロ=オーゼロとウスチュグ)を押さえてしまった。そのために交易ルートは
二つの勢力の間で分断されてしまった、というような過程を思い描いていたもので
「ウラジーミル=スーズダリがノヴゴロドの北東交易路をどのように寸断していったか」
すなわちウラジーミルの角がどう生えたのかが私のテーマの一つになっていたわけです。

ですが、ちろちろと調べてみる限りではフセヴォロドが11世紀にロストフ、スーズダリ、
ベロ=オーゼロを治めていて、キエフルーシの解体以前から既に一体であったことを
うかがわせます。

角は最初から生えていた。
それではどうしてノヴゴロドは北東部の広大な勢力圏を築けたのか?


異なる勢力下にあってもベロ=オーゼロを通過していたのか?関税は課されるけれど通れた、
という可能性も十分ありますが、やはり別の交易路がメインルートだったと考えるのが自然です。

一方でウラジーミル=スーズダリ勢力はなぜ最初からベロ=オーゼロを組み込んでいたのか、
なぜもう一本控えめな角=ウスチュグへの進出だけでそれ以上北東部へ進出
できなかったのか。
これらの疑問に応えるにはウラジーミル=スーズダリの地域構造を調べる必要がありそうです。
そしてそれは即ち後のモスクワ公国の発展の足跡を理解する上でも重要になる気がしています。
なにより、このウラジーミル=スーズダリの旧領域を苗床にして初期のモスクワ公国は成長したのですから。


さて、この領域の地域構造を探るために時計をスラブ系集団の進出前にまで巻き戻すと
以下の図の赤い領域、即ちフィン=ウゴル系集団のメリャの分布域が浮かんできます。

この領域はロシアの研究者レオンツェフ氏によるものですが、ごらんのようにロストフ、
ヤロスラヴリ、スーズダリ、ウラジーミルといった後の時代の中核地域に重なっています。

このメリャの分布域に最初にやってきたのはスウェーデン系の集団です。
最も早い時期に彼らが住み着くようになったのがロストフから南西、
ネロ湖に流れ込むサラ側沿いに位置するサルスコエ=ゴロディシシェでした。
既に8世紀頃には存在していたメリャの集落(もともとはメリャの中心的な集落であった
とも言われています)が9世紀初頭に交易の拠点として発展を遂げたものです。

その後9世紀後半にはヤロスラブリ周辺に3つの街(ティメリョヴォ、ペトロフスコエ、
ミハイロフスコエ)が作られます。特にティメリョヴォは930年代以降新たなスウェーデン系集団の
入植を受けて発展し、その面積は10haにも及ぶものになります(その1000基にものぼる墓蹟の
調査の結果、フィン=ウゴル系、スカンディナヴィア系、スラブ系が共存していたことが
明らかにされています)。

さらになんといってもメリャの分布域内で最も多くのスカンディナヴィア系住人が
集中していたのがプレシシェーエヴォ湖周辺(ペレスラヴリ=ザレスキー周辺)と
ネルリ川がクリャジマ川に合流する下流地域、即ちウラジーミルやスーズダリ地域です。

もっとも、同様にプレシシェーエヴォ湖周辺からウラジーミルにかけての一帯はメリャの遺跡の
密集地帯でもあるのでそれをなぞる様に入植してきたと考えられます。
この地域には8000基にも及ぶ墓蹟が見つかっています。

(今日はここまで。続きはその2で・・・(^^;;)
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